八月を待って?

 白猫は振り返ることもなく、山道を奥へ奥へと歩いていく。

「待って!」

 大樹は夢中であとを追った。

 もう少し。
 もう少しで追いつける。

 そう思った、その時だった。

「大樹っ!」

 山へ響き渡る祖母の声。
 振り向く間もなく腕を掴まれ、強く抱き寄せられた。

「おばあちゃん?」

 祖母は肩で息をしながら、大樹を離そうとしない。

 その視線の先には、白猫がいた。

 少し離れた場所で座り、金色と青色の瞳を静かにこちらへ向けている。

「いけん……」
 祖母が震える声で呟く。
「この子だけは、いけん……」

 白猫はしばらく二人を見つめると、何事もなかったように山の奥へ消えていった。

「……ねこ」
 大樹はその後ろ姿を目で追う。
「もう少しで追いつけたのに」
「……追いつかんでええ」
 祖母はそう言うと、大樹の手を強く握った。
「帰ろう」
 その力は少し痛いくらいだった。

 祖母に手を引かれたところまでは覚えている。
 だけどそのあとは視界がぐらりと揺れて、意識が曖昧になった――。


 ***


「大丈夫?」
 目を開けると、母親が心配そうに額へ手を当てていた。
 大樹は結局山の中で気を失い、祖母に負ぶわれて帰って来たのだ。
 一時間もしないうちに目は覚めたけれど、頭が少しぼんやりしている。
「熱はないんよね?」
「うん」
「炎天下の中、帽子も被らんで遊ぶから」

 母親に眉根を寄せられて、大樹は首を傾げる。
 熱中症になったんだと母親は言ったけれど、林道はとても涼しかった。
 熱に浮かされた感じというより、不思議な夢から覚めたような気分だった。

「ねこがね、おったんよ。きれいな白いねこ」

 その一言で祖母の表情が強張る。

「大樹」

 祖母はしゃがみ込み、大樹の両肩へ手を置いた。

「もう二度と、あの猫について行ったらいけん」

 真っ直ぐな目だった。

「山へも行ったらいけん。約束できる?」

「……うん」

 祖母の様子に押され、大樹は小さく頷いた。


 ***


 数日後。

 押し入れを片付けていた祖母の横で、大樹は古い箱を見つけた。

「おばあちゃん、これなぁに?」

 (ふた)を開けると、中には丸い厚紙が何枚も入っている。

「めんこじゃよ」
「めんこ?」

 祖母の話によると、牛乳瓶の蓋で作られたというめんこということだった。

 色はすっかり褪せ、端も擦り切れている。

 祖母は中身をひとつ手に取るなり、動きを止めた。

「……これは、わしの弟のじゃ」
「おばあちゃん、弟おったん?」
「ああ」

 祖母は一枚をそっと撫でる。

(しげる)いうてねぇ。負けず嫌いな子じゃった」
「しげる?」
「そう。茂はめんこが大好きでねぇ、いっつも持ち歩いとった。負けたら取られてしまうけん、悔しがって、何回でも勝負を挑むような子じゃった」

 その声は、どこか懐かしそうだった。

「ぼくもやりたい!」

 大樹が手を伸ばくと、祖母は静かに首を横へ振る。

「これは茂の宝物じゃけぇ」

 そう言って箱へ戻す。

「いつかちゃんと返さんといけん思うちょるんよ」
「返す?」
「……そうじゃ」

 大樹は不思議そうに首を傾げた。

「しげるくん、今どこにおるん?」

 祖母の指先が止まる。

 しばらく黙ってから、小さく答えた。

「……猫を追いかけて山へ行ったまま、帰ってこんかった」

 祖母の視線が山の方角へ向く。
 大樹は、いつも自分を見つめている白猫を思い出した。

 祖母は静かに吐息を落とした。

「さ、元ン場所へ片付けとこうかね」

 祖母はめんこの入った箱を押し入れの隅へ戻し、そっと扉を閉めた。


 ***


 その夜。
 娘と孫が眠ったあと、祖母は箱を開けた。

 一枚だけめんこを取り出し、神棚へ供える。

「茂……」

 静かな部屋へ、小さな声が溶ける。

「もう少しだけ……」

 祖母は目を閉じた。

「待っちょってな……」