八月を待って?

 母方の家には、代々男の子が長生きできないという言い伝えがある。

 もちろん、六歳の大樹(だいき)はそんなこと知らない。
 知らなかったからこそ、六月最後の雨の日、何の疑いもなく祖母の家へ行けた。

 両親が離婚したのは、その一か月ほど前のこと。

 母親は旧姓の神戸(かんべ)へ戻ったものの、大樹だけはしばらく父親の苗字のままだった。
 子どもの苗字を変えるには、家庭裁判所の許可が必要らしい。
 六歳の大樹には難しい話だったが、母親が何度も裁判所や役所へ足を運んでいることだけは分かっていた。

 そして六月の終わり。
「終わった!」
 役所を出た母親が、大きく息を吐いて笑った。
「おわった?」
「うん。大樹の名前の手続き」
 母親はしゃがみ込み、大樹の肩へそっと手を置く。
「今日からあなたは、神戸(かんべ)大樹(だいき)。ママと同じ苗字よ」

 苗字が変わったと言われてもピンとこない。今まで大樹は幼稚園でずっと「大樹くん」と呼ばれていた。苗字で呼ばれたことはない。
 持ち物に書かれる名前が変わるだけ。大樹には、そのくらいの感覚だった。

「おばあちゃん、喜ぶかな」
「きっとね」
 母親は携帯電話を取り出した。
「電話してみよう」
 数回の呼び出し音。
『もしもし』
 受話器の向こうから聞こえてきた祖母の声は、どこか疲れているようだった。
「お母さん、全部終わったよ」
『……そうかい』
「大樹も神戸になった」
 その瞬間だった。
 電話の向こうが静かになった。
 あまりにも長い沈黙に、母親は携帯を見つめる。
「お母さん?」
『……本当に?』
「うん」
『大樹は……神戸になったんだね?』
「そう。昨日、家庭裁判所の許可が出て、今日やっと戸籍の手続きまで終わったの」

 祖母は、また黙った。
 やがて小さく息を吐く。

『そうかい……』

 それから……祖母は不思議なことを言った。

『帰ってきてもいい。でも……八月になってからにおし』

 母親は困ったように笑う。

「なんで八月?」
『……その方がいいから』
「どうして?」
『お願いだから』

 それだけだった。

 母親は唇を噛む。
「でも、お母さん」
 静かな声だった。
「もう限界なの」
 大樹は何も言わず、母親を見上げる。
「この町には、もう一日だっていたくない。大樹と二人で、早くやり直したいの」

 長い沈黙。
 受話器の向こうから、小さなため息が聞こえた。

『……なら、せめて梅雨が明けてから』

 祖母はそう言ったけれど、母親はそれまで待てなかったらしい。
 六月最後の雨の日。
 母親と大樹は荷物を車へ積み込み、祖母の住む山あいの寒村へ向かった。
 車窓を流れる雨粒を眺めながら、大樹はぽつりと呟く。
「ママ」
「なあに?」
「なんでおばあちゃんは八月になったらって言ったの?」
 母親は少し笑った。
「雨が多い時期はお引越しに向いてないって思ったんじゃないかな?」
 言われてみれば、祖母は『梅雨が終わったら』とも言っていた。それを思い出した大樹は納得する。
「八月じゃ、大樹のお誕生日終わってるのにね」
「うん」
「せっかくなら、一緒にお祝いしたいよね?」
 母親に言われて、大樹も頷いた。

「そういえば――」
 そこでふと思い出したように、母親がハンドルを握る指先に力を込めながらつぶやいた。
「?」
 フロントガラスでは、ワイパーがひっきりなしに降り注ぐ雨粒を跳ね除けている。
「おばあちゃん、大樹が七歳になるのを凄く気にしてた」
「どうして?」
「昔はね」
 母親は前を向いたまま話し始める。
「七つまでは神様からお預かりした子どもだって言われてたから、って」
「おあずかり?」
「うん。七歳になると、初めて本当に親の子になるっていう昔の言い伝え。だからそれまでは気をつけなさいっていつも言われてたの」

 大樹の誕生日は例年梅雨明けする頃だ。祖母は、もしかしたら《《七歳になってから》》おいで、と言いたかったのかもしれない。
 大樹は窓の外を見る。
 雨はまだ降り続いていた。

「だからうちは七歳になったら神社へ行くの?」
「うん」
 七五三を思い出してつぶやいた大樹に、母親が頷く。
 よその家では男の子は三歳と五歳にお宮参りへ行くのが主流だ。だが、神戸家(かんべけ)では七歳になる歳の宮参りが最重要視されている。
 まだ父親と仲が良かった頃。母親が「大樹は神戸姓じゃないし、お宮参りまでしなくていいよね?」と言ったら、祖母から「それでも!」と、猛反対されたらしい。
「男の子が育ちにくい家系だったからかもね」
「ふーん」
 その時の大樹は、おばあちゃんが行けと言うなら行けばいいか、程度にしか思わなかった。


 祖母の家へ着いたのは昼過ぎだった。
 玄関が開くなり、祖母は飛び出してきた。
「大樹!」
 ぎゅっと抱きしめられる。
 少し苦しいくらい強く。
「……《《まだ来たらいけん》》かったのに」
 震えた声だった。
 大樹は祖母が泣いていることに気付かなかった。