「すぐに準備するから、ちょっと待ってて」
「う、うん」
ぱたんと静かにドアを閉めた宗介くんは、ほんとにすぐ着替えて出てきた。
体感一分くらい。
「着替えもあった方がいいよ。帰ってすぐお風呂入れるように」
「風呂……? 俺はいいよ。空の後で」
あ……。
そ、そっか、二人でお風呂セット持って行っても一緒に入るわけじゃないから……。今すごい恥ずかしいこと言った気がする……。
「でも汗はかくだろうから、タオルだけ持ってくよ」
熱くなった顔を冷まそうと手を顔に当ててみたけど指先まで真っ赤になっていて、あんま上手く冷ませなかった。
うう……今度からはもうちょっと考えて発言しよう……。
予備のランニングポーチとスポーツドリンクを渡して、冷蔵庫で少しだけ顔の表面温度を下げてと。
よし、いける。
「空はいつもこの時間に走ってるの?」
走りながら宗介くんがそう聞いてきた。
うーん。
「晴れてる日はこのくらいかな。冬はのど痛くなっちゃうから学校終わったあとに走ってたかな」
冬は暗くて怖いしね……。
「さすがに雨の日は休んでるよね?」
「うん。そこまで本気で体作ってるわけじゃないし、晴れてる日だけでいいかなって」
「よかった……」
なんで安心してるんだろう。
いくらわたしでも水たまり踏んでくつ濡らしちゃうみたいなドジはまあ、五回に一回くらいだと思うよ……?
「これからも雨の日はやっちゃダメだからね」
「……? うん」
トラックに水でもはねられたことあるのかな。
話しながらだから流れで名前呼びできるかなって思ったけど、勇気が出ず……。
宗介くんどころか、秦くんと呼ぶこともできず、あの、とかその、とかどこか他人行儀な感じに……。
もう! 名前くらい呼びなさいよ!
しびれを切らした内なるわたしがそう発破をかけるころには家に着いていた。
「空って結構体力あるね、俺も見習わないと」
「あ、あはは……」
名前呼びできないもどかしさを走ってごまかしたら、過去最高記録を叩き出してしまった。スマホのストップウォッチを止めると、普段よりも二分近く縮まってる。
もともと長距離はニガテじゃなかったし、もう少し頑張ったら二月の持久走大会でいいタイム出せるかな。この二分くらいなら縮められそう。
今の平均が大体二十五、六分だから、とりあえずの目標は二十五分切りかな。
五キロ走って平然としてる宗介くんに追いつくのは難しそうだけどね。普段バスケ部でいっぱい運動してるし。
「空の新しいとこ知れて嬉しかった。機会があったらまた一緒に走ろ」
宗介くんはそう言って笑い、わたしがドキッとしている間に階段を上がっていってしまった。
名前、呼ぶ絶好のチャンスだったのに……!
あともう駅に送っていくときくらいしかないのに……!
シャワー浴びながら名前呼ぶ練習しよう。
もうそれしかない。
三階建てのわが家には各階に洗面所があるから、朝にわざわざ下まで来る人はいない。
古文の暗記をするみたいにブツブツ宗介くんの名前を呟き続ける様は、はたから見たら引かれちゃいそうだけど……。
ここまでしたんだから、名前くらい呼べるようになるよね……?
「宗介くん、今朝は一緒に走ってくれてありがとう。すごく楽しかったよ。これ、一日目の分書いておいたから預けるね」
……はぁ……。
わたしはお風呂場でなにをやってるんだろうね……。
宗介くん待たせちゃってるし、あがろ……。
「空、送ってくれてありがとう」
お風呂場でした練習の成果はイマイチ出ず、駅に着いてしまった。
「ま、待って……!」
電光掲示板を見て改札をくぐろうとする宗介くんを勢いよく引き留めたけど、どう会話を切り出していいかわからない。
お風呂場で鏡に向かって練習したランニングのお礼はもう伝えたし、交換日記も渡した。
な、なにを言えば……! でもなにか言わなければ……!
「そ、宗介、くん……! ま、またね……」
頭が真っ白になっちゃって話題がなんにも思い浮かんでこない!
「……!」
宗介くんの目が大きく見開かれた。あきれられてないかな……。
大事なところで言葉が飛んじゃうの、どうにかしなきゃ……。
「空」
「ひゃっ」
頭がぐるぐるになっていたわたしは、気づいたら秦くんにだ、抱きしめられて……!
「は、秦く、じゃなくて宗介くん……! ここ、駅……!」
「うん。でもはしっこだから」
そ、そういう問題じゃなくて……、多分すごい目立っちゃってるから……!
「空、ありがとう。嬉しい……!」
宗介くんはわたしを閉じこめたまま、ずっ……と鼻をすすった。
え……、な、泣かせた……!?
「空に呼んでもらえるなら、こんな名前でも大好きになるよ……」
よ、喜んでくれてるみたいだけど……。
こんな名前でもって、どういう……。
でも、わたしに言えるのは一つだけ!
「だ、大好きだよ……! そ、宗介くんの名前も、声も、顔も、中身も全部……!」
宗介くんはいつでもわたしを肯定してくれた。
宗介くんが自身持てないところがあるなら、わたしがそれを肯定して、好きだって伝えたい。
「俺も、大好き。世界中の誰よりも……」
いつもとちがう、少し弱々しい声に抵抗をやめて大人しく閉じこめられていると、先に宗介くんがハッと我に返った。
「カッコ悪いとこ見せてごめんね。名前呼びすっごい嬉しかったよ。それじゃ」
「宗介くん」
今度はスッと名前が出てきた。
「宗介くんがわたしのカッコ悪いとこも好きでいてくれるのと同じように、わたしも宗介くんのカッコ悪いとこ好きだから」
なにが原因であんな弱気になっちゃったのかはわからないけど、宗介くんが苦しいなら、わたしも一緒に背負いたい。ちょっと怖いけど……。
「…………そっか。俺のことはちゃんと整理できたら話すから、そのときはそばにいてほしい。多分、空が思ってる以上にみっともないとこ見せちゃうけど、ゲンメツしないでくれると嬉しいな」
「そんなの、するわけないよ。そのときだけじゃなくて、ずっとそばにいさせてね」
「ん……。じゃあ、また」
「またね」
名前で呼んでから、宗介くんの様子が明らかに変わった。宗介くんから言い出したことだし、イヤではないと思うんだけど……。
自分の名前があんまり好きじゃないっていうのは察せたけど、それ以上はよくわからない。
だけど、今度はわたしが宗介くんの心の支えになれるように頑張ろう。

