スチール製のグレージュの扉。
開かれた先には真っ暗な部屋。
「ただいまぁ……」
カチリとスイッチを押せば、部屋に明かりが灯る。
内側は白い木目調になっている玄関扉にチェーンをかける。
「(今日は……色々あって疲れたなぁ……)」
ジャケットを掛け、手早く冷蔵庫から食材を取り出す。
「焼き鳥……食べたかったなぁ……。
でも、バーの代金もまだ犬飼君に渡せてないし……」
小分けに冷凍していた豚こまとキャベツ。
モヤシと卵。
麺つゆを少量入れて、お好み焼きもどきを作る。
「(……三人で……広報誌の担当、か……)」
フライパンに敷かれたアルミの中でジュウゥッ……と焼けるお好み焼きもどきを見詰める。
「…………わんニャン大戦争……?」
脳内に浮かんだ映像に頬を引きつらせる。
「(……私……大丈夫、かな……?)」
焼き上がったお好み焼きもどきを皿にのせ、葵はため息をつく。
「……いやいや……もう、逃げないって決めたんだから……」
1Kの間取り。
小さなローテーブルと背もたれ付きのクッション。
手早く夕食を済ませて、小さなバスタブに浸かる。
「……あったかい……」
温かさに体の力が抜けて、一日の疲れがお湯に溶けて行く。
「温泉の素、ほしいなぁ……」
バスタブの縁に頬をのせる。
「…………なんで……」
思い出すのは、彰良と二人きりになった備品室。
「(……なんで……さびしい、って……)」
重ならなかった唇に、無意識に指を這わせる。
「…………わたし、は……」
分かち合った体温。
抱き締められた腕の力。
激情を抑えた熱い眼差し。
「っ……!」
動揺する。
『葵、先輩』
欲を抑えた、掠れた低い声が蘇る。
「い、いろけが……むり……のぼせそう……!」
思い出した色気が溢れる彰良に、茹でダコのように染まる。
「きょ、今日は……長湯はむりそう……」
普段よりも早めに風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かす。
「……まだ、月曜日なんだよね……」
部屋着代わりの兄のお下がりのトレーナー。
うら若い女性の一人暮らしには、防犯目的の必須のアイテム。
「……明日から、四日間……がんばろ……!」
週末まで何とか乗り切ろうと、葵は敷布団の中で気合を入れなおす。
「……おやすみなさい」
誰ともなく呟かれた言葉。
疲れのためか、葵の意識はすぐに夢の中へと沈んでいくのだった。
※※※※※※※※※※
翌朝。
挨拶を交わしながら出勤する社員達を一望できる屋上。
小さく整えられた屋上庭園の緑。
大きな遮蔽物も無く、他者の存在にも気が付きやすい。
「…………」
手すりを背に考え込む大柄な男が一人。
「…………」
何かを考え込むように。
もしくは頭の熱を覚ますように。
彰良は一人、朝の風を感じていた。
「あれぇ……?
犬飼さん、お一人ですかぁ」
カチャリと小さなドアノブの音。
現れたのは、明るい笑顔の華乃だった。
「…………」
彰良の眉間に盛大なシワが寄る。
「…………」
「……逃げるんですかぁ……お犬様?
そのまま尻尾を巻いて、ご立派な犬小屋(じっか)に帰ってくれません?」
さっさと立ち去ろうとした彰良に、満面の笑顔な華乃の言葉が刺さる。
「……お前のような性悪女がいる場所に、大切な女性(ひと)を置いていけ、と?」
「あら、私が大切にするから問題ないわ。」
一つしかない扉の近くで、艶やかな笑みを浮かべて立つ華乃。
必然的に近くなる二人の距離。
「……引っ掻くにしてもやり方があるだろう」
きつく細まる黒縁眼鏡の奥。
「……順番を守れと言ったのは、貴様だ。」
「……それに関しては、言い訳しないわ。」
目の前に立つ、華乃よりも遥かに大きな彰良。
真っ直ぐに見上げて、華乃は決して目を逸らさない。
「先輩が何か傷を抱えていることは、お互い察していた。
何がトリガーか……までは、分からなかったけど。
時間を掛けて解き明かす前に……とんだ邪魔が入ったもの。」
「…………だからと言って……」
「あら?
全くもって危機感なく葵先輩に見とれていただけのクセに。
……しかも、あの詰まらない男を葵先輩に近付くための一歩にしたのは同じだわ。
私と同じように近付いた時点で、お犬様の危険度だって私と大差ないじゃない。」
「…………」
鼻で笑う華乃。
憮然とした表情を浮かべた彰良。
「だからこそ、葵先輩にあの詰まらない野郎の目論見をワザとバラしたのよ。
……傷付けることにはなったけど……あの野郎に奪われるよりマシでしょう。」
「……それは……否定しない。
だが、備品室に関しては……」
「私が狩りたい獲物もいない、合コン(かり)に行くように仕向けた奴が何を言ってるの?
……ねえ?
合コンをすっぽかした御曹司サマ?」
「………………姉が継ぐ。
だから、俺は御曹司では無い。」
「同じようなものでしょうが。
御曹司(エモノ)を狙って参加した女性陣(ハイエナ)からしたら。
その隙に、葵先輩と仲良くなる切っ掛けを作って?
挙句の果てには、自宅に連れ込んだじゃない。」
苛立った華乃の追求に目を逸らす。
「……葵先輩を傷つけるような真似は一切していない。」
「……しれっと名前呼びの権利を手に入れたクセに。」
「…………取れる時に駒を進めるのは定石だ。」
「私のことを危険と言うけど、番犬気取りの狼も同じようなものじゃない。」
呆れたように返す華乃に、彰良は否定しない。
「……言っておくけどね、お犬様。
私は、人の獲物を横取りする趣味はないの。
そんなことをするくらいなら、舌を噛み切って死んでやる。」
「…………」
「だから、葵先輩が私以外の誰かを選ぶ前に……"私"を選んでもらう。
そのためにも……私の気持ちを知ってもらわなきゃ……始まらないでしょ?」
「……性悪女」
「そんなこと、疾うの昔に知ってるわよ。」
「……譲ってたまるか」
「お互いさまよ、お犬様」
バチバチと火花が散る。
一触即発な二人がさらなる舌戦を繰り広げようとしたその時……
「はぁ……アイツらの処分後の担と……あっ……」
ガチャリとドアノブの音が響く。
現れたのは、何処か煤けた様子の佐山だった。
「…………あー……お邪魔しまし……」
「……おっはようございまーす、佐山先輩!」
「……おはようございます、先輩。」
「オハヨウゴザイマス……」
蛇に睨まれた蛙のように固まった佐山の額に一筋の汗が流れる。
「うふふ!
もうすぐ朝礼ですよぉ。」
「……先に失礼します」
「(……俺、なんかしたっ?!)」
二人の放つ圧に半泣きになった佐山を残し、二人は立ち去るのだった。
