美しく華やかなのに、猛毒を含んだ捕食者の笑い声。
扉の閉まる音が嫌に大きく響き、華乃の足音が遠ざかって行く。
「(わた、し……っ…………だめ…………!」
差し出してしまった心。
許してしまった……素肌に触れる感触。
強引に求められ……最後は許してしまった"過去"の自分。
「(いや……なのにっ…………!
……突き飛ばせた……はずなのにっ……)」
蘇る過去の亡霊。
忌まわしい記憶の破片。
「(……どうして……突き飛ばせなかったの……?
…………わたし、は……本当に、いや……だった……?)」
揺れる瞳。
「(いや、だった……いやだったはず、なのに……どうして、動けなかったの……?)」
浅くなる呼吸。
「(……わたし……また、くりかえすの……?)」
過去の痛みと否定の海に、沈んでいく心。
「……葵、先輩」
……だが、沈み掛けた心を掬い上げた声。
「っ……!」
押し殺した低い声で呼ばれた名前。
ビクリと跳ね上がる心と体。
「……あ、あの……!
ご、ごめんなさい……い、ぬかい、くん……!
もう……だい、じょうぶ……だから……」
「何を、考えていたんですか……?」
離して、と続けられるはずだった言葉は遮られた。
「え……な、なんでもな……」
「誤魔化さないでください……」
「あ……え……?」
抱き締める力が一瞬だけ、息苦しい程にきつく締まる。
「……彰良、です……」
「犬飼、く……」
「お願いします……葵、先輩……今だけ、今だけは……名前で、呼んで欲しい……」
苦しげに寄せられた眉。
震えて掠れた……低い声。
「…………あ、きらくん……」
「っ…………!」
逡巡しながらも呼ばれた名前。
ピクリと反応する大きな体。
「自分、は……俺は……あんな風に、見せ付けられて……黙っていられるほど、綺麗ではありません……!」
零れ落ちた本音。
「彰良、くん……お、ねがい……まっ……」
聞きたくない。
これ以上、突き付けられたくない。
……自分の、弱さを……
「……誰にも、触れさせたくない女性(ひと)を……」
狼が低く唸るように、押し殺された感情。
「……目の前で奪われかけて……何も感じないほど……余裕は、ありません……!」
彰良の隠されていた感情が滲む。
「…………っ」
喉の奥でつっかえ、出て来ない言葉。
少しでも距離を取ろうと身じろぐ。
「葵先輩……お願いです……逃げないでくれ……」
「……わ、わたし……」
耳元で囁かれた、溢れ出しそうな熱を押さえ込んだ声。
「どうか……離れないで……」
お互いの鼓動が聞こえそうな距離。
暴れる心臓。
それは……混乱や恐怖、それとも別の何かだろうか?
「……彰良、くん……」
縋るように、弱々しい声。
顔を上げれば、重なる視線。
黒縁眼鏡の無い、涼やかな目元。
「……俺が……怖い、ですか……?」
「……こわ、い……?
……わ、からない……でも……」
思い出すのは……葵を助けようと駆け付けてくれた姿。
酔って眠った葵を傷付けなかった……心を守ってくれた彰良。
「……彰良、くん……は、怖くない……気がする……」
「っ……!」
震える声と喉が鳴る音が重なる。
「すこしだけ、怖い……けど、彰良くんは……安心、する……」
怖いのに……安堵する。
安心感のある背広。
ギュッと握って、勇気をもらうように無意識に溢れた言葉。
「……やっぱり……葵先輩は、卑怯だ……!」
肺に溜まった熱い息を吐き出す。
「彰良くんに……うそは、つきたくない……から……」
過去の痛みが消えることはない。
怯えて竦む心は嘘じゃない。
……だが、側にいたい……離れたくない、と願う自分も……確かにいた。
「……葵先輩……」
吸い込まれるような深い色の瞳。
近付く二人の距離。
「……嫌なときは、言ってください。」
本当は……華乃のように有無を言わさずに奪ってしまいたかった。
「……今は……まだ、止まれます、から……」
だが、その行為が葵を傷つけるならば……。
「…………」
早まる鼓動。
出せない声と惑う心。
「(……彰良くん、から……逃げたくない……)」
揺れる瞳を閉じることも出来ず、見詰め続ける。
「…………っ」
背広を掴む指先に力が籠る。
「……葵、先輩……」
罅(ひび)が入った理性。
二人の吐息が交わり、唇が近付く。
「……っ……」
身体に力がこもり、固く目を閉じる。
そして、唇が重なる…………寸前に、彰良は動きを止めた。
「っ…………」
近付いていた顔を離し、苦しげに大きく息をつく。
「……すみませんっ……」
低く、掠れた声。
「……葵先輩に……無理を、させたくない。」
重なることなく離れた唇。
「……これは……俺の我が儘です。」
「……あ、きら……くん……?」
変わりに、二人の額が重なる。
「俺を……いや、違うな……」
微かに首を傾げる。
「葵先輩が選んだ相手が……俺だったら、嬉しい……」
愛しさを隠すことなく、細められた瞳。
「……待ってますから……」
「…………」
胸の奥が熱を持つ。
重ならなかった唇に、寂しさを覚える。
「……ただ……すみません……」
身の内に燻る熱を、理性で押し殺す。
「……もう少し、もう少しだけ……このままで……いいですか……」
抱き締める腕の力が……微かに強まる。
「…………うん……」
懇願するような声。
葵は迷いながらも……微かに頷くのだった。
