朝の大騒ぎが嘘のように会社は通常業務が流れ出す。
―――――良くも、悪くも、日常とはそんな物なのだ。
「結局……あの人は戻ってきませんでしたね。」
「ああ、黒木さんのことですか?」
会社の地下にある備品室で、定期チェックをする傍らに葵が呟く。
「……あそこまで騒ぎになって、お仲間と警察に連行されたら……すぐには戻ってこれないでしょうし……」
「好き好んで針の筵に戻りたいなど、余程の馬鹿かと。」
「犬飼くん……」
葵が躊躇った部分を、彰良が容赦なく引き継ぐ。
「……………二人っきりですが?」
「うっ……」
黒縁眼鏡の奥にある瞳が想像できる葵は、目を逸らす。
「……会社では……ムリ、です……。
これ以上……注目を浴びたくありませんし……その……」
葵は目を伏せて呟く。
「犬飼くん、に……もう、迷惑をかけたくありませんから。
(自分の意思で、アイツにやり返せたんだもの。
だから……きっと、もう……私は大丈夫……)」
朝の出来事を思い出して、かすかに震える指先。
誤魔化すようにバインダーを握る力を強め、ペンを走らせる。
「……先輩、らしいですね」
彰良はスッと目を細め、黒縁眼鏡を外す。
「葵先輩」
「犬飼君、名前呼び……は……」
「葵先輩、朝はお疲れさまでした。
少し悔しいですが……自分も見惚れるほどに、格好良かったです。」
「っ…………」
怖がらせないように。
一歩の距離を残して、ゆっくりと葵へと歩み寄る。
「ですが、敵意を向けて怒鳴る相手を怖がらない人間は少ない。
だから……次は自分も葵先輩の横に寄り添わせて欲しい……駄目、ですか?」
「っ……あ……
(……断らなきゃ……逃げなきゃなのに……なん、で……)」
切なげな熱の籠もった瞳に囚われる。
言葉が彷徨い、出て来ない。
「……葵、先輩……」
ゆっくりと……だが迷いを押し殺し、躊躇うことなく葵の頬へと伸ばされる指先。
甘い色の滲んだ、掠れた声。
彰良に囚われて動けない葵は、瞳を閉じることすらできない。
「すみません!
犬飼さん、居ますかぁ?」
空気が弾ける。
明るい華乃の声音に、二人だけの世界が現実に引き戻された。
「っ……!」
葵の肩が跳ね、胸元にバインダーを抱き締める。
「あ、立花先輩もご一緒だったんですね!
もしかして、お邪魔しちゃいましたぁ??」
「そ、そんなことはないです……!
(いっ……今っ、私……な、にを期待した……?)」
微かに染まった頬。
一歩だけ後退った葵に、一瞬だけ目を細め、すぐに華乃は華やかな笑顔を浮かべる。
「あれぇ?
犬飼さんが眼鏡を外しているの、初めて見ました!
……思ったよりも、普通の顔ですね!」
「……貴女に見せる必要は全く有りませんので。
自分は普通の顔でも問題ありませんし、貴女には関係ないかと。」
「えー……何か、犬飼さんってば、私に対して棘がありませんか?
もしかしてぇ……私ってば、犬飼さんの邪魔をしちゃいましたぁ?」
ニッコリと何処か挑発するような華乃の笑顔。
「……自分に用事があったのでは?」
黒縁眼鏡をかけ直し、剣呑な眼差しを華乃に向ける。
「(……あれ……この二人って……仲、悪かったっけ……?)」
明らかに互いに棘のある対応に葵は首を傾げる。
「あっ、忘れてましたぁ!
課長が犬飼さんに聞きたいことがあるって探してましたよぉ!」
「課長が……?」
笑顔の華乃に対して、彰良は眉を寄せる。
「…………」
「犬飼君……?」
「いえ……」
何処か歯切れの悪い彰良の反応に、葵は疑問符を浮かべた。
「あー!
もしかして、私の言葉を疑ってますか。」
「え?」
「…………」
華乃の何を疑うか分からず、葵は彰良へと視線を向ける。
「……先輩、先輩も自分と一緒に……」
「え、いや……まだ、備品のチェックが……」
「せーんぱい!
私がお手伝いします!」
「兼子さんが……?
でも、兼子さんも別の仕事が……」
「だーいじょぶです!
もう、終わらせちゃいましたから。」
「(……兼子さんって……私に対して、こんなに押しが強かったかしら……?)」
邪気のない笑顔。
たが、葵は何処か違和感を感じる。
「……犬飼さんも、子供じゃないんですから……仕事に我が儘を持ち込んじゃダメですよ。
それにぃ……だいぶ、課長を待たせちゃってますし。」
「犬飼君、此処は私と兼子さんで請け負いますから。
もし、急ぎの用事だったら大変ですよ。」
華乃に違和感は感じるものの、仕事は仕事。
葵も彰良へと課長の元へ行くように促す。
「…………っ……わかりました。
先輩……必ず、すぐに終わらせてきます……!」
迷うように視線を彷徨わせる。
だが、グッと手を握りしめ、彰良は足早に立ち去った。
「兼子さん、手伝ってもらってごめんなさい。
私はこっちの棚を確認するから、兼子さんはあちらの棚を頼んでも良いかしら?」
「わかりました、立花先輩。
……すぐに、終わらせます……。」
己へと背中を向けた葵を品定めするように見つめ、ぽってりとした唇を舐めるのだった。
