偽り咲く花神さまの後宮


 食事を終え、食器を片付けた後もしばらく、澄珠は花影と談笑していた。が、窓の外に夕日が見えたので、会話を終わらせることにした。
 澄珠は膝の上に手を置き、息を整えてから口を開く。

「今日はありがとうございました。そろそろ帰ります」

 その言葉に、向かいに座っていた花影が少し拗ねたように視線を落とした。

「もう少しいればいいのに」

 澄珠は首を横に振る。

「……あまり長く屋敷にいないと、不審に思われてしまいますので。それに」

 そこで言葉を切った。
 胸の奥に浮かんだ理由は、軽々しく口にすべきではない気がして。

 花影が、畳の上でわずかに身を乗り出す。

「それに、何?」

 促す声は優しいのに、拒めない圧があった。
 澄珠は一瞬躊躇ったが、後宮の中心部から離れた花庵なら、壁の向こうに誰の耳もないと感じ、おずおずと口を開く。

「千夜様のことを探りたくて……」

 花影の瞳がわずかに細められる。

「探る? 君は、元々彼と随分と仲が良かったと聞くけれど」
「……笑わないで聞いてくれますか?」

 荒唐無稽な話であるため、澄珠はそう前置きし、背筋を伸ばす。

「私は、あの方と親しくさせてもらっていたからこそ、今の千夜様が、偽物に見えてならないのです」

 花影の表情は動かなかったが、空気がわずかに張り詰めた。
 やはりこのようなことを言うべきではなかったように思い、澄珠は畳の上に手を付き、慌てて立ち上がる。

「……こんな話をして申し訳ございません。選ばれなかった花嫁の負け惜しみ、戯言だと思ってください」

 足早に襖へ向かおうとしたとき、不意に手首を掴まれた。

 驚いて振り返ると、花影の指が確かにそこにあり、しかしその顔は感情を読み取りづらい陰影の中にあった。
 一拍の沈黙の後、花影はぱっと手を離す。

「あまり、危険なことはしないようにね。辛くなったら、またおいで」

 外へ出ると、夕暮れの光がもう赤みを帯び、花庵の大きな屋根を染めている。
 遠くでカラスが二声鳴き、山裾へと沈む日を追うように飛んでいった。


 ◇

 花神の後宮内にある三つの屋敷は、渡殿と呼ばれる長い渡り廊下でそれぞれ繋がっている。
 琴の屋敷の方へ歩いていると、またもや千夜と琴の姿が目に入った。あの二人は、いつ見ても一緒にいるように思う。
 今日も二人は互いの仲を確かめ合うように親しく寄り添っていた。けれど、その距離はいつもより少し遠い。

(もう少し近くへ……会話が聞こえるところまで、行けないかな)

 澄珠はそっと足を向けかけた。けれど、途端に護衛の神官たちが視線を鋭くし、怪訝そうにこちらを見やる。
 その不審者を見つめるような目に、足が竦む。あの視線の中を歩いて琴たちに近付く勇気はない。澄珠はすぐに踵を返し、来た道を戻った。


 薄暗い自分の部屋に戻った澄珠は、手慰みに花冠を作った。
 編みながら考える。花神よりも、花神の周りの人――たとえばお付きの神官に、話を聞いてみる方が確実かもしれない。しかし、花神お付きの神官なんて、忙しすぎてこちらの話を聞く暇もないだろう。約束を取り付けること自体が難しい。
 思索の途中で、部屋の襖が急に開いた。
 澄珠が顔を上げると、そこに立っていたのは琴だった。薄桃色の着物はいつも通り整っているが、その視線は針のように鋭く、唇の端には冷たい微笑がある。

「お姉様、今日、わたくしたちのこと、盗み見していたでしょう」

 琴の声は柔らかいが、含まれる言葉は毒を帯びていた。

「一体何のつもり? いつもいつも、気持ちの悪い視線を向けてきて。わたくしが千夜様に愛されているのが、そんなに気に入らないの?」
「ち、違……」

 そこで、澄珠はふと考えを巡らせた。
 ――そうだ、琴なら。最近、最も千夜の傍にいるのは、他でもない琴だ。不審な様子を目にしていないか、一言尋ねてみれば何か分かるかもしれない。

「琴、ねえ、千夜様といて何か……」
「……は?」

 琴が低い声を出し、一歩踏み込んで澄珠の頬を平手で打つ。

「千夜様のお名前をその口で出さないでくださる? お姉様ごときが呼んでいい方ではないわ」

 澄珠は打たれた頬を押さえ、唇を震わせながらもしばらく黙り込む。頬の熱がじりじりと痛んだ。

「……琴……どうしてしまったの?」

 震える声で違和感を訴える。

「おかしいのは、花神様だけじゃない。琴もよ。昔はそんな子じゃなかったでしょう。多少口が悪くても、我が儘でも、遠回りな嫌がらせなんてしなかったし、家族に暴力なんて振るわなかった……」

 その言葉が火に油を注いだのか、刹那、乾いた音とともに、琴の掌が再び澄珠の頬を打ち抜く。
 ぱしんっ――と響いた音と共に、頬に痛みが広がった。
 澄珠は息を詰まらせ、わずかによろめく。
 目の前の琴の顔には、甘えたで、姉である澄珠にべったりだった幼い頃の面影など欠片もない。