偽り咲く花神さまの後宮



 驚いて目を開けると、そこには眩いほどの美男子がいた。
 白い袖に包まれた腕が、しっかりと澄珠を受け止めている。その胸元に抱き留められ、澄珠は呆気にとられていた。
 顔の造形は、千夜によく似ている。しかし、髪と目の色が全く違う。
 この男の髪は、光を含んだような淡い菖蒲色だ。長く揺れる髪の先が、陽の下で淡く艶めいている。同じく、目の色も菖蒲を閉じ込めたように美しく、吸い込まれそうな深い紫をしていた。
 まるで、千夜の輪郭だけを借りて、全く別の優美さを吹き込んだかのようだ。
 澄珠はその姿に、思わず息を呑んで見惚れてしまう。
 ぼうっと視線を向けたまま瞬きも忘れていると、彼はふっと口元を緩めた。

「……俺の顔、何か付いてる?」

 くっと喉の奥で笑うような声音。
 それが耳に届いた瞬間、澄珠はようやく我に返り、頬をほんのり紅く染めた。

「も……申し訳ございませんっ……! 受け止めていただいて、ありがとうございました」

 澄珠は慌ててその腕の中から身を離し、丁寧に立ち直ると、深々とお辞儀をした。自分の体が落ちずに済んだのは、この人のおかげだ。失礼をしてはならないと、胸の内が焦る。
 男は少し驚いたように澄珠の動作を見つめた後、すっと真顔に戻った。そして、澄珠の顔をじっと見つめる。

「君、花神の後宮にいる子だよね。こんなところで何をしているの?」

 その問いに、ぎくりとした。
 そうだ。この場所は本来、関係者以外の立ち入りを禁じられている区域。ここにいるということは、彼もおそらくは神官――それも、千夜のすぐ近くで仕えている立場の者に違いない。澄珠の顔を知っていて当然だ。
 咎められるのではと身構えつつ、澄珠はそっと視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。

「……ここは思い出の場所なんです。例の火事で燃えてしまいましたが……ここには、かつて美しい花が咲き誇る庭がありました。花神様と、昔はよく、ここで遊んでいて……」

 言葉の先が、自然と霞んでいく。
 澄珠の声がかすかに震えるのに気づいたのか、男はふっと表情を和らげた。

「と、とにかく、辛い時は自分を励ますために、こっそりここへ来るんです。あの……このことは……」

 言いかけた澄珠の声を、男が穏やかに遮った。

「内緒にしておくよ。人に知られたら困るんだろう?」

 その口調は、まるで以前から澄珠の事情を知っていたかのように自然だった。澄珠は控えめに頷いた。

「花庵は俺が片付けておく。今度来る時は、屋根の上でなく、中に入るといい」

 ぱちり、と澄珠は瞬きをした。そこまでしてもらうのは気が引けたが、彼はまるで既に決まったことのように言う。やんわりと断る隙すら与えない、柔らかな強引さがあった。
 澄珠はただ、「……ありがとうございます」と小さく頭を下げて礼を述べるしかなかった。

「またおいで」

 そう言うと、彼は澄珠の額にそっと手を伸ばし、前髪を指先で払う。そしてそのまま、ゆっくりと澄珠の額に唇を落とした。

「……!」

 澄珠が驚いて目を見開いた、その刹那。ざあっと風が吹き抜けた。思いがけず強い風だった。
 枯れかけていたはずの草花が舞い上がり、どこからか花びらがひとひら、ふたひら、風に運ばれて空を漂う。

 次に瞬きをしたときには、もうそこに彼の姿はなかった。

「……不思議な人……」

 狐につままれたような感覚だ。
 澄珠はただ、春の幻を見たかのようなその余韻の中に、一人立ち尽くしていた。


 ◇


 屋敷へ戻る頃には、空が淡い茜色に染まっていた。暮れゆく陽の光が、道の石畳に長い影を落としている。
 その帰り道、澄珠は見てしまった。
 風にそよぐ花の回廊を歩く、千夜と琴の姿。
 二人は肩を寄せ合い、小さな声で何かを囁き合っていた。千夜が微笑むと、琴もくすくすと笑い声を漏らす。その様子は、まるで恋に落ちたばかりの若い夫婦のようだった。

「うふふ、千夜様。髪に花びらがついておりますわ」
「ああ、本当だ。君のせいで花まで妬いたかな」
「また、そうやって……すぐに甘いことを仰る」
「琴がこの世で一番美しい花だからだよ。だから、どんな花も君には嫉妬してしまう」

 澄珠の胸がずきりと痛んだ。
 昔、澄珠に「かわいい」と言ったその顔で、彼は今、他の女性に美しいと言っている。
 まっすぐ顔を上げて歩こうとしても、視界の端に焼きついた千夜の横顔が、どうしても離れてくれない。

 その時、背後で神官たちの話し声が風に乗って届いた。

「千夜様も困りものだよな。新しく入ってきた巫女にすっかり首ったけらしい」
「ここ数ヶ月、政務も随分と滞っているんだろう。有名な古典に、初代花神が美貌の女に溺れて財の全てを女に捧げ、ついには国を滅ぼしたっていう話があるが、今代の神様も、そんなことにならなきゃいいけどなあ……」

 澄珠は足を止め、着物の袖をぎゅっと握った。

 ――千夜様は、そんなお方じゃない。
 幼い頃から神としての責務を背負い、誰よりもこの香霞の地の民を大切にしてきた。無理をしてでも勉強し、政務に身を投じてきた。澄珠は、誰よりもその努力を近くで見てきたのだ。
 けれど、今の千夜の背には、あの頃の気配が感じられない。

 まるでそこにいるのは、別の誰か――千夜の姿を借りた、何か別の存在であるように感じられる。

 ――あの人は、本当に千夜様なの?

 胸の中でさざ波のように広がっていく不安を抱えながら、澄珠は再び歩き出した。