偽り咲く花神さまの後宮



 澄珠が花神の後宮にやってきたのは、わずか八つの頃だった。

 数ある巫女の家系の中でも、澄珠の術の開花は群を抜いて早かった。術というのは、巫女それぞれが持つ特殊能力である。
 この国では、術の発現が早ければ早いほど、才ある巫女として扱われる。そのため澄珠は、花神の代替わりが行われるのと同時に、生まれ育った家を離れ、花神の寝殿と繋がる屋敷に通された。
 予知の術を持つ澄珠の母は、このことを事前に予言していた。――いつか澄珠は、花神様の花嫁になるんだよ、と。

 最初は不安だった。
 澄珠の暮らす、香霞の地と呼ばれる地方全体を統治する存在である花の神。その花嫁候補の一人として呼ばれるなど、身に余ることのように思えた。
 実家を離れる不安もあった。
 両親が喜び、華々しく送り出してくれた手前、本当は心細いなどとは言えなかった。当時はまだ仲が良かった妹の琴が離れたくないと大泣きしたので、それを宥めるため、姉として気をしっかり保たねばならなかった。胸の奥にある不安を隠し、後宮入りが楽しみであると強がることしかできなかった。

 しかし、そんな澄珠の不安は、花神である千夜を一目見た瞬間に、春風のように吹き飛んでしまった。

 初めて後宮の中心にある庭で会った日。
 神官に連れられてやってきたのは、一人の美しい少年だった。

 神はその神力によって成長する。花神の神位を継いだばかりの千夜は、八つの澄珠とほとんど同じような背丈をしていた。
 けれど、その姿には澄珠にはない神々しさがあった。
 長い睫毛が影を落とす琥珀の瞳、夜明け前の空を思わせる淡い髪色。白磁のような肌に、たおやかな身のこなし。
 美しい、という言葉では足りないほどに、彼の姿は澄珠を魅了した。

 また、澄珠の目を釘付けにしたのは、その美貌だけではない。
 千夜の足元。ひと足踏み出すごとに、淡い花が咲いていく。

「申し訳ありません、澄珠様。花神様はまだ安定しておらず、力を上手に制御できないのです。どうかお気になさらず」

 千夜の横にいる神官が謝ってきたが、澄珠はそちらよりも花の方を見ていた。
 白、薄紅、淡紫――春先の霞のように、透き通る花びらが、少年の足跡をなぞるようにぽつり、ぽつりと咲きひらく。季節外れの花もある。人知を超えた力だ。

「……すごい……きれい……」

 思わず澄珠が呟くと、そっぽを向いていた千夜が初めて顔を上げ、こちらを見た。

「君は、この力を不気味がらないんだね」

 千夜が、少しおかしそうに笑った。
 その時、澄珠の胸に密やかに、初めての花が咲いた。恋が宿った瞬間だった。



 神の代替わりの後の数年は結界が弱まり、神の御座所に悪霊が入り込んでくる。神域と俗世の境が緩むのだ。
 澄珠が後宮入りした年も、屋敷の廊下や御簾の奥に、おどろおどろしい形の影を見ることがよくあった。不意に灯りが消え、周囲の物が墨に変わり、誰かの呻きが耳元で囁くこともあった。
 夜になると、悪霊が澄珠の部屋に入り込んできた。襖の隙間から差し込む視線を感じた。引き戸の外を擦り歩く足音や、闇の中で微かに鳴る赤子の泣き声も聞こえた。

 そのたび澄珠は、己の術を使って悪霊から隠れていた。
 澄珠が持つのは、雲隠れの術という、自分や他人を隠す術だ。煙のように姿を消すことができる。
 澄珠は何度も、雲隠れの術で幽霊から隠れてやり過ごした。己の存在を掻き消し、部屋の隅で息をひそめた。
 夜明けまで、ずっと動けずにうずくまっていた。

(怖い……助けて……)

 心の中でいくら唱えても声にはならなかった。
 けれど、そんな澄珠を、千夜は何故かすぐに見つけてしまった。

「ここにいたんだ」

 ふと、穏やかな声がする。
 ひんやりとした澄珠の肩に、そっと誰かの手が触れた。

「大丈夫だよ。悪い霊たちは、俺が祓っておいたから」

 見上げると、そこには千夜の姿があった。

「千夜さま……どうしていつも、私の居場所が分かるのですか」

 澄珠の術は完璧だった。父も母も、里の者も、一度姿を消した澄珠を見つけたことはない。けれど千夜だけは、いつも迷わず真っ直ぐに、澄珠の元へやってきた。
 そして、まるで当たり前だとでも言うように囁くのだ。

「俺が澄珠を見つけられないわけがないだろう?」

 そう言われるたびに、澄珠は胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。

 神様は、すごい。
 必ず迎えに来てくれる。見つけてくれる。何の迷いもなく。

 震える澄珠を、千夜は優しく抱きしめた。

「大丈夫だよ。ほら、朝が来た」

 御簾の向こう、空がうっすらと朱に染まりはじめていた。闇は消え、鳥が囀り、光が差し込む。

「千夜さま、今日はいっしょに遊べますか?」
「遊ぶ?」
「私、千夜さまと、また遊びたいです。お花を見せてほしいです」

 澄珠が少し緊張しながら、ずいっと顔を近付けて申し出ると、千夜は一瞬きょとんとした。そして、ふふっとおかしげに笑う。

「澄珠は、悪霊が怖いくせに俺のことは恐ろしくないんだね」
「……どうして千夜さまを怖がる必要があるのですか?」
「神というのは、本来畏れの対象だよ」

 その言葉に、澄珠は小さく首を横に振った。

「千夜さまは、悪霊とは違います。悪さをしません。私のことを、守ってくれる、やさしくて、よい神さまです」

 千夜の睫毛がわずかに揺れた。
 夜明けの光を映した瞳が、澄珠を見つめ返す。

「……そっか」

 千夜は、少し照れたように頬を染め、俯いたままそっと手を差し伸べた。

「いいよ。澄珠はかわいいから、一緒に遊んであげる」

 差し出された手のひら。澄珠は、小さな手をそこにそっと重ねた。
 冷えた指が千夜の温かな掌に包まれる。

 夜が明ければ、澄珠たちは花の庭で、毎日のように遊んだ。
 神である千夜と、巫女とはいえ人の娘である自分。最初は不相応だと思っていた恋心が、澄珠の中でどんどんと膨らんでいった。