恭司がグラスにそっと口をつけた。赤ワインを飲み干していく。彼が嚥下するたびに、雄々しき喉ぼとけがコクリコクリと上下に動く。なんだか官能的な仕草に見えて、美桜の心臓はますます落ち着かなくなっていく。
それまで無言だったのだが、ワインを全て味わった恭司が美桜に向かって声をかけてくる。
「なあ、気になったんだが、女一人でドイツまで来て、日本で何かあったのか?」
「え?」
恭司が美桜の顔を覗き込んでくる。
「失恋旅行じゃないとは話していただろう? あんたは俺が泣いていることを指摘したわけだが、俺にはあんたの方こそ泣きそうに見えた」
ドクン。
先ほどまでの気分の高揚とは違う類の動揺が全身を駆け巡りはじめる。
ドクンドクンドクンドクン。
いつもだったら、誰かに何かを打ち明けるだとか、そういうのはすごく苦手だけど……。
今は日本を遠く離れたドイツで過ごしているし、この男性とだって二度と会うことはないだろう。だから、普段の自分だったら相談しないようなことを思い切って打ち明けることにした。
「実は、仕事を辞めて、退職金で海外旅行に来たんです」
「前の会社、辞めたのか?」
「はい」
「どうしてだ?」
「実は……会社で嫌なことがあったんです」
「ふうん、どんな内容だよ?」
「それは……」
今この場でしか喋る機会がない相手だと思うと、思い切って色々話せる。
「自分と年が近い上司がいたんですが、なぜか私はその人の愛人をしていて、楽してお金をもらっているって、おかしな噂を流されてしまったんです」
「あんた、そういう噂が流れても、上手に流したり、言い返したりはできなさそうだよな」
初対面の男性から、そんな風に指摘されてしまうなんて。
けれども、あまりにも図星だ。なんだかいたたまれなくなって、全身の筋肉がぎゅっと縮まる心地がした。
「恭司さんが同じ立場だったら?」
「ん? 俺か? 俺だったら、適当に躱すなり、その噂を利用して噂を流した相手を追い詰めるかのどっちかだな」
初対面の相手にこう思うのもおかしいかもしれないが……。
(この人だったら、そんな風に思いそう)
美桜はきゅっと唇を噛み締めた。
「貴方の仰る通りです。最初は違うって話したし、人の噂は七十五日だっていうから、黙って我慢していたんですけど、なかなか噂はなくならなくて……しかも、その上司のことが好きな女性社員から私物を隠されたりとか……」
ぽつぽつと続ける。
「自分が何かされるのは耐えられたんですけど、自分のことを庇ってくれた同期の女性社員の子まで、おかしな噂を流されはじめたりしちゃって……だんだん、その子とも疎遠になっちゃって。自分と関わったせいで、誰かが不幸になるなんて耐えられない。だから、思い切って退職することを決意したんです」
「ふうん」
虐められるような女だと思われてしまっただろうか。
なんとなく身が縮こまる気がしたのだが、返ってきたのは思いがけない返答だった。
「友達思いだと言ってやりたいが……あんたと一緒に戦って欲しかったんじゃないか、あんたの友だちはさ」
「え?」
考えたこともない可能性を示唆されて驚きを隠せない。
「あんたが悪くないって信じてくれていたんだろう?」
美桜のグラスを握る手の力が勝手に強くなっていた。
「そうだったのかな? そんな考え方は浮かんでこなかったのかも」
「連絡とか来なかったのか? あんたが勝手に、そいつのことを遠ざけて、相手は悲しんでいるかもしれない。せっかくだから、連絡をとってやれよ。自分のことを大事にしてくれる人間ってのは、すごく貴重だ」
恭司の言う通り、同僚からは連絡が入ってきていたが、自分と関わったら相手を不幸にしてしまうという思い込みが強くて、連絡を一方的に絶ってしまっていた。
すると。


