拝啓、あの夏のあなたへ。

夏が近づくにつれて、朝の風は少しずつ柔らかくなっていた。教室の窓は開け放たれ、潮の匂いを含んだ風がカーテンを揺らしている。私はいつものように窓際の席に鞄を置き、本を開いた。文字を追っていても、不意に視線が入口へ向く。しばらく経って教室の扉が開かれる。

「おはよう、真白」

聞き慣れた声だった。

「……おはよう」

そう返すと、凪は嬉しそうに笑って自分の席へ向かう。その笑顔を見ることも、最近では当たり前になりつつあった。
当たり前。
その言葉を頭の中で反芻して、自分でも少しだけ不思議に思う。一人でいることが当たり前だった私にとって、誰かの存在が日常になることなど、考えたこともなかったから。
昼休みの図書室は今日も静かだった。
相変わらず誰も来ない。開かれた窓からは校庭で遊ぶ男子達の笑い声が聞こえる。
返却された本を棚へ戻しながら、彼女は何か言いたげにこちらを見ていた。

「漆原さん、どうかしたの?」

「……ううん」

そう言って笑う。けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。

「何かあるなら言えばいいでしょう」

私がそう言うと、彼女は困ったように視線を落とした。

「……ねぇ真白」

「何?」

「私……髪、短くしたら…似合うかな」

その問いに、私は彼女の髪を見る。肩まで伸びた茶色の髪。その柔らかな毛先が風に揺れている。

「……どうしてそう思ったの?」

質問で返すと、漆原さんは少しだけ困ったように笑った。

「昔はね、短かったんだ」

「そう」

「高校に入る時に伸ばしたの」

「理由を聞いても?話したくなければ無理には聞かないわ」

彼女はすぐには答えなかった。窓の外へ視線を向ける。

「……変わってるって言われたから」

その一言だけだった。けれど、それだけで十分だった。
誰かに言われた何気ない言葉が、人を縛ることはある。私は知っている。

「だから、普通になろうと思って」

風が吹いて手の中にある本のページが一枚、ぱらりとめくれた。私は本を閉じる。

「似合うかどうかは、実際に見てみないと分からないわ」

「……そう、だよね」

「ええ」

私は少しだけ考える。言葉は、人を簡単に傷つける。だからこそ、軽々しく口にしたくはない。

「でも」

「あなたは、あなたがいたい姿でいればいいわ」

静かな図書室に、その言葉だけが落ちた。

「え……?」

「あなたの在り方なんて他の誰かが決めることではないもの」

私は本棚へ一冊、本を戻す。

「短い髪でも」

もう一冊。

「長い髪でも」

背表紙を揃える。

「あなたは、あなたでしょう。何も変わらないわ」

彼女は何も言わなかった。ただ、私を見つめている。その瞳が少しだけ潤んでいるように見えて、私は首を傾げた。

「漆原さん、どうしたの?」

「……ううん、なんでもない」

そう言って笑う。けれど今度の笑顔は、少し違っていた。どこか張りつめていた糸が、ようやく緩んだような。そんな笑顔だった。
図書室の仕事を終え、校門へ向かう。海から吹く風が、漆原さんの髪を揺らしていた。
私達はあれから都合が合えば二人で帰るようになっていた。これを人は友達と呼ぶのだろうか。

「ねぇ、真白」

「何?」

「もし私が本当に髪切ったらさ」

「ええ」

「真白は、笑わない?」

私は少しだけ足を止めた。

「どうして笑うの」

「だって……」

「私は、笑わないわ。あなたを笑う理由がないもの」

「そっか、そうだよね」

その一言だけ。たったその一言だけで彼女はまた笑う。今度は図書室で見せた笑顔とはまた少し違う、どこか安心したような顔。
夕暮れの道を二人で歩く。ドクゼリの花が今日も道端で風に揺れていた。彼女はしゃがみ込み、その花を眺める。

「綺麗な花だね」

「そうね」

「真白ってさ」

彼女は花から視線を上げる。

「私が知らないことを、たくさん知ってる」

「そんなことはないわ」

「あるよ」

夕日が海へ沈み始める。橙色に染まった光が、彼女の横顔を照らしていた。

「それにね」

彼女は少し照れくさそうに笑う。

「私…今日の真白の言葉、多分ずっと忘れない」

私は返事をしなかった。何か特別なことを言ったつもりはない。当たり前のことを話しただけだ。
それでも、彼女がそんな顔をする理由は、少しだけ知りたいと思った。その感情の名前を、私はまだ知らない。
一陣の夏の風が吹いて彼女の髪がふわりと揺らす。
その髪が長くても。短くなっても。きっと彼女は彼女のままなのだろう。そう思った。

「それにしても暑いねぇ……」

漆原さんが空を見上げる。確かに今日はいつもより日差しが強い。

「真白、アイスでも食べる?」

「そうね」

小さな商店で二人分のアイスを買う。小銭の音と、優しげな老婆の声色がどこか懐かしさを教えてくる。
海風を受けながら歩き始めると、漆原さんは嬉しそうにアイスを頬張っていた。子どもみたいな人だと思う。そう考えていると、ふと気づく。

「……漆原さん。」

「ん?」

「動かないで」

「え?」

私は立ち止まり、彼女の前へ回る。
そっと頬へ手を添えて、指先で口元を軽く拭う。
アイスが、口元についていた。本人は気づいていないらしい。彼女は偶に子供のようで微笑ましいことをする。

「付いていたわ」

そう言って指先を見せる。指先には溶けたアイスが少しだけついていた。彼女の食べていた西瓜味の赤い雫が私の指を伝う。

「……終わり」

何気なく顔を上げると、漆原さんは固まっていた。

「……漆原さん?」

返事がない。顔が赤い。今の彼女はまるで茹でたこの様で少しだけ面白かった。
いや、赤く見えるのは夕日が照らしているからなのかもしれない。どちらにせよ茹でたこの様だ。

「暑いの?」

思わず額へ手を伸ばける。

「熱でも──」

「ち、違うっ!」

珍しく大きな声だった。私は思わず目を瞬かせる。

「そう」

違うならいいのだけれど。彼女はしばらく俯いたまま歩き出した。やはり変わった人だと思う。さっきまで楽しそうに話していたのに、今は妙に静かだ。

「……漆原さん?」

「えっ?」

「どうかしたの?」

「う、ううん」

そう言って笑う。けれど、どこか落ち着かない様子だった。私は理由が分からず、小さく首を傾げる。夕日が海の向こうへ傾いていく。
潮風が二人の間を静かに吹き抜けた。
しばらく無言で歩いていると、彼女が意を決したように口を開く。

「……ねぇ、真白」

「何?」

彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。

「明日さ……」

「その、さ…海、行く?」

私は海の方へ視線を向ける。島の波は今日も穏やかだった。

「……ええ」

「行きましょうか、明日は委員会も無いもの」

その瞬間、彼女はまた嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、不思議と悪い気はしない。
明日の海が、どんな時間になるのか。
その時の私は、まだ何も知らない。