彼女と図書委員になって、一週間が経った。たった一週間。それなのに、少しだけ変わったことがある。朝、教室に入った時以前なら、誰がいるかなんて気にしたことはなかった。
けれど最近は。
「……」
無意識に、窓際の席を見るようになってしまっている。そこに彼女の姿があるかどうかを目で追ってしまう。理由は分からない。ただ、彼女を見つけると、肩に入っていた力が少しだけ抜ける様な気さえする。
「おはよう、真白」
声が聞こえた。振り向くと、漆原さんが立っている。
「……」
少しだけ、間が空いた。名前で呼ばれたことに、すぐ反応できなかった。耳に届いた響きが、思ったより近くに落ちた気がして落ち着かない。
「どうしたの?」
「……今、なんて?」
「え?」
「私のこと、なんて呼んだの?」
「あ……」
漆原さんは目を丸くして少し困ったように笑った。
「ごめん……嫌だった?」
「別に、嫌じゃないわ」
嫌ではない。むしろ、そう言い切るには、喉の奥が少しだけくすぐったかった。自分の名前が、こんなふうに呼ばれることがあるのだと、今さら知った気がした。
「じゃあ、さ…」
彼女は少しだけ躊躇してから言う。
「真白って……呼んでもいい?」
私は考える。それを断る理由はなかった。それに、断ったら何かが変わってしまう様な本能に近い予感が体中に走っていた。それが何なのかは分からないのに。
「漆原さんの呼びやすいように呼べばいいわ」
そう答えると彼女は嬉しそうに、花が咲くように笑った。
「ありがとう、真白」
なぜお礼を言われたのかは私には到底分からない。名前で呼ぶ。たったそれだけのことなのに。けれど、その笑顔を見ていると視線を逸らす理由が見つからなかった。不思議な人だと思った。
「真白はさ、朝早いんだね」
「漆原さんも早いでしょう」
「私は……なんとなく」
「そう」
「真白は?」
「習慣よ」
「そっか」
それだけの会話。これといった特別な話ではない。天気のこと。授業のこと。図書室のこと。どれも、わざわざ覚えておくような話ではない。はずだった。
「あなたが言っていた本、読んだわ」
昼休みの図書室でそう言うと、漆原さんは驚いた顔をした。
「え?」
「昨日、面白いと言っていた本……あったでしょう」
「覚えてたの?」
「ええ」
口にしてから、少しだけ自分でも意外だった。あの時の彼女の声が、なぜか耳に残っていたのだ。軽く笑うような、でも本当に楽しそうな声だったからだろうか。
「……すごいね」
「何が?」
「普通、そんなこと覚えてないよ」
「そうかしら」
人の話を覚えていることが、そんなに珍しいことなのだろうか。彼女は少し笑った。その笑い方は、からかうようでもなく、ただただ柔らかい。
「やっぱり……真白って優しいね」
「またそれを言うのね」
「だって本当だから」
「私は、当たり前のことをしているだけよ」
「それを優しいって言うんだと思う」
返す言葉がなかった。否定したいわけではないのに、胸のあたりが落ち着かなくなる。
優しい。
そんなふうに言われると、自分の輪郭を指先でなぞられたようで、少しだけ居心地が悪い。でも、彼女の言い方には、嫌味なんてなかった。だから、黙るしかなかった。彼女は時々、不思議なことを言う。でも、その言葉を嫌だとは思わなかった。むしろ、言われたあとに少しだけ考えてしまう。
どうしてそんなふうに見えるのか。
どうしてそんなふうに言えるのか。
考えても答えは出ないのに、頭の片隅に残る。
放課後の図書委員の仕事を終えると、鞄を持った彼女がこちらへ駆けてきた。
「ねえねえ、真白」
「何?」
「一緒に帰ろ?」
一瞬だけ考える。いつもなら、一人で帰っていた。それが普通で、楽だから。
誰かと帰ることを、わざわざ選ぶ理由はない。けれど彼女にそう聞かれた瞬間、返事が喉の手前で止まった。
一人で帰る道を思い浮かべる。
静かで、慣れていて、何も変わらない道。
それは嫌いではない。けれど今は、その静けさが少しだけ遠く感じた。
「……いいわよ」
自然にそう答えていた。自分でも少し驚いたけれど、口にしたあとで後悔はしなかった。
夕方の道は静かだ。島の学校だからか、帰り道で会う人は多くない。
漆原さんは隣で楽しそうに話している。今日の授業のこと。先生のこと。図書室で見つけた本のこと。私は相槌を打ちながら聞いていた。
不思議だ。
普段なら、誰かの話を聞くことに意味を感じない。けれど漆原さんの話は、なぜか耳に残る。声が届くたび、さっきまで張っていたものが少しずつほどけていくようだった。
「ねえ、真白」
「何?」
「この島の海って、綺麗だよね」
彼女が足を止める。視線の先には、遠くに広がる海があった。
「そうね」
潮の匂いが、風に混じって届く。夕方の光を受けた海は、静かで、少しだけ眩しかった。
水平線のあたりは橙から群青へとゆっくり溶けていて、水面には細かな光が砕けたみたいに揺れている。耳を澄ませば、波音の奥に、岸壁へ当たる水の低い響きまで聞こえる気がした。
「私、好きなんだ」
「漆原さんは海が好きなの?」
「うん」
「そう」
「…だから、真白にも見てもらえたらって、思ってた」
そう言って笑った。その笑顔は、教室で見るものとは少し違っていた。誰かに合わせるための笑顔ではない。ただ、そこにあるものをそのまま差し出すみたいに、まっすぐなものだった。そのことが、なぜか胸に残ってしまう。自分に向けられたものだと分かった瞬間、指先がわずかに冷えた。どうしてなのか。ただ見てほしいと言われただけなのに。
夕暮れの海は優しく、静かで穏やかで、居心地がいい。けれど静かなだけではない。波が砂を引く音、風が髪を揺らす気配、潮の匂いに混じる少し甘い夕方の空気。その全部が、彼女の言葉をやわらかく包んでいるようだった。胸の奥に落ちたその感覚は波紋の様にゆっくりと広がって、なかなか消えなかった。
「漆原さんは変わっているわね」
「え、そうかな?」
「海なんて一人でも見られるでしょう」
「まあ、そうだけど」
漆原さんは少し考える。その横顔を見ていると、言葉を探している時間さえ、急かしたくないと思った。
「でも、誰かと見るのも綺麗だと思うから」
その言葉が、少しだけ残った。誰かと見る。その意味を、私はまだ知らなかった。けれど、知らないままでも、その言葉だけは妙にやわらかく胸に落ちた。
「今度さ、一緒に行く?」
漆原さんが聞く。私はまた少し考えた。断る理由はない。それだけのはずなのに、今度はすぐに答えられなかった。
一緒に行く。
その言葉を口にしたら、何かが本当に決まってしまう気がしたからだ。けれど、その感覚は嫌ではなかった。むしろ、少しだけ楽しみだと思ってしまった自分に気づいて、まばたきが一つ遅れる。
「……ええ、そうしましょうか」
「本当?」
「嘘なんて吐かないわよ」
漆原さんは嬉しそうに笑った。その表情を見て、なぜか少しだけ良かったと思ってしまう。自分の返事で、彼女がこんな顔をする。そのことが、思っていたよりもずっと悪くなかった。胸の奥が、じんわりと温かくなる。理由はうまく言えない。けれど、その温かさを消したくないと思った。
漆原凪。
彼女は、よく笑う人だった。
私はその日初めて、「誰かと景色を見る」という行為の意味を、少しだけ知った気がした。潮の匂いはまだ風に残っていて、波音だけが静かに耳の奥へ沈んでいく。穏やかな夏の風がドクゼリの花を優しく揺らす。道端の隣にいる彼女の気配もその海の余韻も、すぐには消えそうにない。
そんな予感だけが、夕暮れの海風の中に静かに残っていた。
けれど最近は。
「……」
無意識に、窓際の席を見るようになってしまっている。そこに彼女の姿があるかどうかを目で追ってしまう。理由は分からない。ただ、彼女を見つけると、肩に入っていた力が少しだけ抜ける様な気さえする。
「おはよう、真白」
声が聞こえた。振り向くと、漆原さんが立っている。
「……」
少しだけ、間が空いた。名前で呼ばれたことに、すぐ反応できなかった。耳に届いた響きが、思ったより近くに落ちた気がして落ち着かない。
「どうしたの?」
「……今、なんて?」
「え?」
「私のこと、なんて呼んだの?」
「あ……」
漆原さんは目を丸くして少し困ったように笑った。
「ごめん……嫌だった?」
「別に、嫌じゃないわ」
嫌ではない。むしろ、そう言い切るには、喉の奥が少しだけくすぐったかった。自分の名前が、こんなふうに呼ばれることがあるのだと、今さら知った気がした。
「じゃあ、さ…」
彼女は少しだけ躊躇してから言う。
「真白って……呼んでもいい?」
私は考える。それを断る理由はなかった。それに、断ったら何かが変わってしまう様な本能に近い予感が体中に走っていた。それが何なのかは分からないのに。
「漆原さんの呼びやすいように呼べばいいわ」
そう答えると彼女は嬉しそうに、花が咲くように笑った。
「ありがとう、真白」
なぜお礼を言われたのかは私には到底分からない。名前で呼ぶ。たったそれだけのことなのに。けれど、その笑顔を見ていると視線を逸らす理由が見つからなかった。不思議な人だと思った。
「真白はさ、朝早いんだね」
「漆原さんも早いでしょう」
「私は……なんとなく」
「そう」
「真白は?」
「習慣よ」
「そっか」
それだけの会話。これといった特別な話ではない。天気のこと。授業のこと。図書室のこと。どれも、わざわざ覚えておくような話ではない。はずだった。
「あなたが言っていた本、読んだわ」
昼休みの図書室でそう言うと、漆原さんは驚いた顔をした。
「え?」
「昨日、面白いと言っていた本……あったでしょう」
「覚えてたの?」
「ええ」
口にしてから、少しだけ自分でも意外だった。あの時の彼女の声が、なぜか耳に残っていたのだ。軽く笑うような、でも本当に楽しそうな声だったからだろうか。
「……すごいね」
「何が?」
「普通、そんなこと覚えてないよ」
「そうかしら」
人の話を覚えていることが、そんなに珍しいことなのだろうか。彼女は少し笑った。その笑い方は、からかうようでもなく、ただただ柔らかい。
「やっぱり……真白って優しいね」
「またそれを言うのね」
「だって本当だから」
「私は、当たり前のことをしているだけよ」
「それを優しいって言うんだと思う」
返す言葉がなかった。否定したいわけではないのに、胸のあたりが落ち着かなくなる。
優しい。
そんなふうに言われると、自分の輪郭を指先でなぞられたようで、少しだけ居心地が悪い。でも、彼女の言い方には、嫌味なんてなかった。だから、黙るしかなかった。彼女は時々、不思議なことを言う。でも、その言葉を嫌だとは思わなかった。むしろ、言われたあとに少しだけ考えてしまう。
どうしてそんなふうに見えるのか。
どうしてそんなふうに言えるのか。
考えても答えは出ないのに、頭の片隅に残る。
放課後の図書委員の仕事を終えると、鞄を持った彼女がこちらへ駆けてきた。
「ねえねえ、真白」
「何?」
「一緒に帰ろ?」
一瞬だけ考える。いつもなら、一人で帰っていた。それが普通で、楽だから。
誰かと帰ることを、わざわざ選ぶ理由はない。けれど彼女にそう聞かれた瞬間、返事が喉の手前で止まった。
一人で帰る道を思い浮かべる。
静かで、慣れていて、何も変わらない道。
それは嫌いではない。けれど今は、その静けさが少しだけ遠く感じた。
「……いいわよ」
自然にそう答えていた。自分でも少し驚いたけれど、口にしたあとで後悔はしなかった。
夕方の道は静かだ。島の学校だからか、帰り道で会う人は多くない。
漆原さんは隣で楽しそうに話している。今日の授業のこと。先生のこと。図書室で見つけた本のこと。私は相槌を打ちながら聞いていた。
不思議だ。
普段なら、誰かの話を聞くことに意味を感じない。けれど漆原さんの話は、なぜか耳に残る。声が届くたび、さっきまで張っていたものが少しずつほどけていくようだった。
「ねえ、真白」
「何?」
「この島の海って、綺麗だよね」
彼女が足を止める。視線の先には、遠くに広がる海があった。
「そうね」
潮の匂いが、風に混じって届く。夕方の光を受けた海は、静かで、少しだけ眩しかった。
水平線のあたりは橙から群青へとゆっくり溶けていて、水面には細かな光が砕けたみたいに揺れている。耳を澄ませば、波音の奥に、岸壁へ当たる水の低い響きまで聞こえる気がした。
「私、好きなんだ」
「漆原さんは海が好きなの?」
「うん」
「そう」
「…だから、真白にも見てもらえたらって、思ってた」
そう言って笑った。その笑顔は、教室で見るものとは少し違っていた。誰かに合わせるための笑顔ではない。ただ、そこにあるものをそのまま差し出すみたいに、まっすぐなものだった。そのことが、なぜか胸に残ってしまう。自分に向けられたものだと分かった瞬間、指先がわずかに冷えた。どうしてなのか。ただ見てほしいと言われただけなのに。
夕暮れの海は優しく、静かで穏やかで、居心地がいい。けれど静かなだけではない。波が砂を引く音、風が髪を揺らす気配、潮の匂いに混じる少し甘い夕方の空気。その全部が、彼女の言葉をやわらかく包んでいるようだった。胸の奥に落ちたその感覚は波紋の様にゆっくりと広がって、なかなか消えなかった。
「漆原さんは変わっているわね」
「え、そうかな?」
「海なんて一人でも見られるでしょう」
「まあ、そうだけど」
漆原さんは少し考える。その横顔を見ていると、言葉を探している時間さえ、急かしたくないと思った。
「でも、誰かと見るのも綺麗だと思うから」
その言葉が、少しだけ残った。誰かと見る。その意味を、私はまだ知らなかった。けれど、知らないままでも、その言葉だけは妙にやわらかく胸に落ちた。
「今度さ、一緒に行く?」
漆原さんが聞く。私はまた少し考えた。断る理由はない。それだけのはずなのに、今度はすぐに答えられなかった。
一緒に行く。
その言葉を口にしたら、何かが本当に決まってしまう気がしたからだ。けれど、その感覚は嫌ではなかった。むしろ、少しだけ楽しみだと思ってしまった自分に気づいて、まばたきが一つ遅れる。
「……ええ、そうしましょうか」
「本当?」
「嘘なんて吐かないわよ」
漆原さんは嬉しそうに笑った。その表情を見て、なぜか少しだけ良かったと思ってしまう。自分の返事で、彼女がこんな顔をする。そのことが、思っていたよりもずっと悪くなかった。胸の奥が、じんわりと温かくなる。理由はうまく言えない。けれど、その温かさを消したくないと思った。
漆原凪。
彼女は、よく笑う人だった。
私はその日初めて、「誰かと景色を見る」という行為の意味を、少しだけ知った気がした。潮の匂いはまだ風に残っていて、波音だけが静かに耳の奥へ沈んでいく。穏やかな夏の風がドクゼリの花を優しく揺らす。道端の隣にいる彼女の気配もその海の余韻も、すぐには消えそうにない。
そんな予感だけが、夕暮れの海風の中に静かに残っていた。
