拝啓、あの夏のあなたへ。

私は人間が嫌いなわけじゃない。ただ、誰かに合わせてまで群れる気はなくて、一人でいる方が楽だった。
どう見られているかも、噂も視線も、私にはあまり関係ない。価値観は人それぞれで、否定も肯定もいらない。
ただ、人の視線の向きや返事の間には、昔から少し敏感だった。だから、余計なものまで見えてしまうのかもしれない。
一人で昼食を食べることも。
一人で帰ることも。
一人で本を読むことも。
私にとっては当たり前だ。けれど、周囲はよく言う。

「三浦さんって、一人でも平気なんだね。流石都会の人って感じ」

「友達作らないの?」

「なんか三浦さんって……何考えてるか分からない」

否定する気はない。そう見えるなら、それでいい。そんな私とは正反対の人がいた。
出席番号5番、漆原凪。
彼女は特別目立つ生徒ではない。
成績も。
運動神経も。
容姿も。
どこにでもいる普通の女子生徒。いつも笑っていて、誰にでも優しくて、朗らかだ。クラスの中心にいるわけではないのに、気づけば誰かの隣にいる。そんな人だった。
ただ、笑う時にほんの少しだけ間がある。相手を見ているようで、視線だけが一瞬ずれる。目は確かにこちらを向いているのに、焦点だけが少し外れているような、言葉にしづらい違和感だった。気のせいと言えばそれまでの、小さなずれ。けれど、一度気づくと妙に残った。
LHRで教卓に担任が立つ。教師というのは、いつの時代もどこか威圧的だ。後藤先生は黒板に委員決めの紙を貼り出し、低い声で言った。

「図書委員、二人決めるぞ」

教室の空気が少し変わる。図書委員は人気がない。昼休みや放課後に仕事があり、本を運ぶこともある。目立たないくせにやることは多い。そのうえ図書室に来る人はほとんどいない。働き損な委員会として有名だった。案の定誰も手を挙げない。

「誰もいないのか?」

担任の呆れた声。なら、この先生は率先してやるのだろうか。職員室の雑務係なんて、進んでする人は誰もいないのに。
結局、くじ引きになった。先生も誰もやりたがらないことは分かっているなら初めからくじを引かせれば良かっただけのことなのに。

「じゃあ今期の図書委員はこの二人だ。LHRが終わったら、すぐ図書室に行くように」

無駄に強い筆圧で黒板に書かれた二つの名前。
出席番号27番。三浦真白。私の名前。その隣に書かれた文字に目をやる。出席番号5番。漆原凪。
その名前を見た瞬間、彼女は一度だけ黒板を見上げ、それからすぐ前を向いた。ほんの一瞬のことだったが、その動きが妙に引っかかった。驚いたようにも見えたし、最初から知っていたものを確認しただけにも見えた。どちらとも取れる、曖昧な動きだった。

「じゃあ、今日のLHRはここまで」

途端、教室が騒がしくなる。

「ちょっと凪、平気なの?」

「大丈夫だよ。くじだし、仕方ないって」

「うちの図書委員って大変なんでしょ? 女バスと両立できるの?」

「……でもさ、一番ついてないのは……ねぇ?」

彼女の友人は心配して、どこか哀れんでいる。当然だろう。噂の的と委員会になったのだから、友人として心配するのは自然な反応だ。
相変わらず彼女は笑っている。けれど、その笑顔は誰に向けているのか少し曖昧で、話しかけられた相手を見ているようで見ていないようにも見えた。口元は確かに笑っているのに、目だけがほんの少し遅れてついてくる。そんな彼女を視界の端に映しながら、私は一人で図書室に向かった。

「よろしくね、三浦さん」

放課後の図書室で隣に座った彼女は、迷いなく笑った。
机に鞄を置く動きはやけに丁寧で、椅子を引く音も小さい。普通のことなのに、どこか整いすぎているように見えた。まるで誰かに見られている前提で、一つひとつの所作を確かめているみたいだった。

「……よろしく」

それだけ返す。それで終わると思っていた。けれど。

「三浦さんって、本読む?」

突然、そんなことを聞かれた。

「読むわ」

「やっぱり」

「何が?」

「なんとなく」

漆原さんは少し困ったように笑う。

「三浦さんって、本の中にいる時間が好きそう」

変わったことを言う人だと思った。普通なら「本が好きそう」で終わる。でも彼女は、少し違う言葉を選んだ。
その時、彼女は私ではなく、私の後ろにある本棚を見ていた。視線が合わないわけではないのに、どこかひとつずれている。こちらを見ているはずなのに、ほんの少しだけ焦点が外れている。その小さな違和感が、妙に耳に残った。
図書室は静かで、古い紙の匂いが漂っていて、窓から入る柔らかな光は心を穏やかにしてくれる。私はこの場所が嫌いではなかった。
彼女は丁寧に本を並べている。正直、少し意外だった。誰にでも合わせる人だと思っていたから。けれど、本を扱う手は思ったより慎重だった。背表紙の高さを揃え、少しでも傾いている本があると指先で直す。その動きは慣れているというより、確かめるようだった。まるで本の位置を覚えているのではなく、そこにあるべき形を一つずつなぞっているみたいに。

「漆原さん、本好きなの?」

聞くと、彼女は少し驚いた顔をした。

「え?」

「さっきから楽しそうだから」

「……分かる?」

「そのくらい分かるわ」

人間観察は昔から得意だった。
表情。
仕草。
声の変化。
そういう小さなものを見るのは嫌いではない。むしろ好きといったほうが正しい。

「そっか」

彼女は笑った。その笑顔は、教室で見るものとは少し違った。いつもの明るさはあるのに、どこか静かで、こちらの様子をうかがうようでもあった。笑っているのに、笑うべきところを確かめてから笑っているような、ひどく慎重な表情だった。その時は、まだ理由が分からなかった。
次の日の放課後も、同じように図書室の整理をしていた時だった。
上段の棚にある本を取ろうとした彼女が、少し背伸びをする。古い棚が小さく揺れる。
その瞬間、彼女は本を見上げたまま固まっていた。本が数冊、彼女の頭の上に落ちてきた。危ないと思った時には身体が動いていた。私は彼女の前に立ち、両手で棚を支える。自分の白い髪が視界の端で揺れた。

「…………」

「……」

数秒の沈黙。
漆原さんは落ちてきた本を見ていた。驚いたというより、何かを確かめるような目。棚を見ているのか、本を見ているのか、それとも私の手元を見ているのか、焦点が定まらない。けれど、その視線だけは妙に落ち着いていた。

「……漆原さん」

「え、あ……」

「怪我は?」

「ない」

「そう」

手を離す。それだけのこと。

「三浦さんって」

「……何?」

「……優しいね」

思わず首を傾げた。別に優しくしようと思ってした訳では無い。当たり前のことをして優しいと言われるのは少しなれなかった。

「そうかしら」

「そうだよ」

漆原さんは、少し顔を赤くしている。けれどその赤みは、さっきまでの笑顔と同じで、私にはどこか本心を隠しているようにも見えた。頬は確かに熱を帯びているのに、目だけは妙に冷静で、私の反応を静かに測っているようだった。

「漆原さん…顔、赤いわね」

「え!?」

「暑いの?」

「ち、違う!」

「そう」

彼女の顔が林檎みたいに赤い理由は分からなかった。ただ、不思議な人だと思った。
漆原凪。
出席番号5番。
その時の私は、彼女をただのクラスメイトだと思っていた。けれど、時々ふっとずれる視線と、整いすぎた仕草だけは、妙に頭に残っていた。まるで何かを隠すために、わざと少しだけずらしているみたいに。あるいは、最初からどこかが噛み合っていないみたいに。