2031年3月
レバノン東部、ベッカー高原の夜は、乾いた砂と冷気で満たされていた。
廃墟と化した旧ソ連製の防空陣地の跡地。崩れ落ちたコンクリートの壁の向こうで、数人の男たちがAK-47を抱え、不規則な間隔で煙草の火を光らせている。彼らはシーア派過激派組織『アル=ファジュル(黎明)』の戦闘員だった。
「・・・イスラエル政府からの回答はまだないのか」
見張り台代わりの水タンクの上で、男がアラビア語で吐き捨てた。 彼らの要求は明確だった。イスラエルの刑務所に収監されている幹部を含む三十二名の同胞の即時釈放。それが受け入れられなければ、捉えているイスラエル人と日本人ボランティアの女性を処刑し、その動画をネットに公開する――。
しかし、人質にしたイスラエル人女性は戦闘員の隙をついて逃げだそうとしたため射殺してしまった。大失態を犯してしまったが、その事は公開していない。イスラエルはまだ自国民が人質にされていると思っているはずだ。
ならば、まずは日本人の女を見せしめに殺して本気だと解らせる。そして生き残っていると思われているイスラエル人女性と引き替えに仲間の釈放を実現しなければならない。何としてもだ。
だが、交渉の仲介にあたっているレバノン政府の動きは鈍い。このままだと、イスラエル軍が越境して救出作戦を実行しかねないのだ。イスラエルは救出作戦を実行したという事実だけを必要とするだろう。そこには、人質の命など一顧だにする余地は無い。
しかし、仲介役を演じていたレバノン政府もイスラエルの介入は阻止したい。パワーバランスが複雑に絡み合う外交の現場において、これ以上イスラエルとの摩擦を増やしたくないレバノン政府は“解決を買い取る”決断をした。
◇
暗闇の中、三キロ離れた丘の斜面に、一台の黒い四輪駆動車が静かに停車していた。
車内には夜視ゴーグルを装着した四人の男たちが座っている。民間軍事会社(PMC)『アペックス・セキュリティ』の暗殺・電撃強襲チーム。そのリーダーの男――ジョン・ウーの肉体は、フル装備の防弾ベストを纏うことで一層の圧迫感を放っていた。
身長182センチ。鍛え抜かれた鋼のような筋肉によって、フルサイズのプレートキャリアは押し弾まんばかりに張り詰めている。アメリカ海兵隊の父親から受け継いだ鋭い鼻梁と骨太な骨格、そして日本人の母親から受け継いだ漆黒の髪と静謐な切れ長の瞳。十六歳まで日本で育ち、渡米後に海兵隊特殊部隊(フォース・リコン)で8年間の修羅場を潜り抜けてきた28歳の男には、研ぎ澄まされた肉食獣特有の冷徹な雰囲気が纏い付いていた。
「ターゲットの確認は?」
低く無機質な声でジョンが問う。日系人特有の黒い髪と鋭い眼光。28歳という若さでありながら、米陸軍第75レンジャー連隊での8年間で培われた空気は、竹林に潜んで牙を研ぐ虎そのものだった。
「内部の生体反応、五。うち一人は座り込んでいる。人質の一人だろう。もう一人の人質は確認できない」
後部座席のオペレーターが、熱源探知ドローンの映像を見ながら囁く。
「建物周囲に見張りが三。手前の見張りは五分おきに煙草を吸いに外へ出る。杜撰な警備だ」
「作戦の再確認だ」
ジョンはアサルトライフルのボルトを引き、一発の5.56mm弾をチェンバーに送り込んだ。
「生存者の引き渡しは人質のみ。生きていればいい。テロリスト側の生存者は不要」
「了解(コピー)」
「突入する」
ジョンは短く命じると、音もなくドアを開け、夜の砂漠へ溶け込んだ。
◇
風が吹き抜け、錆びた鉄くずが乾いた音を立てた。その音に紛れ、ジョンたちは地を這うような足取りで防空陣地の外壁に取り付いた。
最初の犠牲者は、水タンクの下で煙草を吸っていた男だった。男がライターの火をつけた瞬間、その光が彼の視界を奪う。その刹那、ジョンの腕が闇から伸び、男の顎を固定すると同時に首骨を素早くひねった。ゴキリ、という不快な鈍音が夜風に消える。男の身体が崩れ落ちる前に、ジョンは男の胸ポケットから煙草を素早く抜き取った。
(残りふたり)
ジョンはサプレッサー(消音器)を装着したHK416を構え、角を曲がる。二人目の見張りは、壁に背を預けてスマートフォンの画面を眺めていた。ジョンは迷うことなく、彼の眉間へ二発、胸部へ一発(ダブルタップ)を打ち込んだ。プスッ、プスッという抑え込まれた発射音とともに、男の頭部から血煙が吹き出し、崩れ落ちる。
「外周クリア。突入する」
ジョンは無線に短く囁くと、残るチームメンバー二人とともに、メインの建物へと向かう重い鉄扉の前に立った。
扉の奥からは、怒鳴り散らすアラビア語の声が聞こえていた。
「おい、あの女を起き上がらせろ! ビデオの撮影準備だ! イスラエルどもに、我々が本気だということを教えてやる!」
「待て、本部からの連絡がまだ・・・」
「知るか! カウントダウンは終わったんだ!」
ジョンはドアのヒンジ部分に小型の可塑性爆薬(C4)を貼り付けた。 カウントダウンの合図として、人差し指を三本立てる。3・2・1
パァン!
鋭い破裂音が響き、鉄扉が爆風とともに内側へ吹き飛んだ。同時に、ジョンがフラッシュバン(閃光手榴弾)を室内へ投げ込む。
グランッ!
強烈な光と、脳を揺さぶる200デシベルの爆音が室内を支配した。テロリストたちが悲鳴を上げ、目を押さえてうずくまる。
「ゴー!」
ジョンは煙が充満する室内へ踏み込んだ。 視界を覆う暗闇と煙の中、夜視ゴーグルのレンズ越しに浮かび上がるテロリストたちの緑色のシルエット。
パン、パン! 一人目。胸部と頭部。
パン、パン! 二人目。AK-47を持ち上げようとした男の腕を撃ち抜き、そのまま頭部へ追撃。
「クソッ!クソッ!クソッ!」
閃光弾の直撃を免れていた奥の男が、半狂乱になってアサルトライフルを乱射した。壁に弾丸が跳ね返し、セメントの破片がジョンの頬を掠める。だが、ジョンは眉一つ動かさない。
ジョンは滑らかな動作で遮蔽物に身を隠すと、男が連射を終えた一瞬の隙を見逃さなかった。ステップを踏み出して視界を確保し、男の首筋へ正確に弾丸を叩き込む。男は喉を押さえ、大量の血を噴き出しながら倒れ込んだ。
突入からわずか四十五秒。 室内を支配していた暴力的な怒号は消え去り、残されたのは薬品の臭いと、倒れた男たちの死体、そして激しい呼吸音だけだった。
「オールクリア」 部下が告げる。
ジョンは銃口を下げ、部屋の隅へと視線を向けた。
◇
部屋の最奥、湿ったコンクリートの壁に背を預け、震えている人影があった。手首を太い結束バンドで縛られ、足枷をはめられた女性。ボロボロになった服と、ホコリにまみれた黒髪。年齢は二十代前半に見えた。彼女は強烈な爆発音と銃声に恐怖し、両膝に顔をうずめて全身を激しく震わせている。
「中川良子(ナカガワ・リョウコ)か?」
ジョンは日本語で問いかけた。八年間のアメリカ生活とPMCでの荒んだ日々で、彼の日本語にはわずかに硬さが混ざっていたが、それでも彼にとって紛れもない母国語だった。
女性の体がピクリと跳ね上がった。 彼女はゆっくりと顔を上げた。
目に入ってきたのは、血と硝煙の匂いを纏い、漆黒の戦闘服に身を包んだ男の姿だった。顔の半分はタクティカルマスクで覆われ、夜視ゴーグルの冷たいレンズが自分を見下ろしている。一見すれば、彼女を拉致した男たちよりも凄惨な「死神」のような存在。
しかし、その男の口から出たのは、聞き覚えのある故郷の言葉だった。
「・・・は、はい。中川、良子です・・・」
声が震えていた。過呼吸を起こしかけており、唇は乾ききって紫色に変色している。
ジョンは膝をつき、ナイフを取り出した。 良子が怯えて身を引こうとするが、ジョンは静かな声で言った。
「動くな。切るぞ」
手首の結束バンドに刃を滑らせ、一気にして断ち切る。続けて足枷の鎖をバールでこじ開けた。 自由になった手足を抱え、良子は崩れ落ちるように床に伏せ、むせび泣いた。
「助けに来た。もう一人の人質は?」
「もう一人は・・・逃げようとして殺されてしまい・・・ました・・・」
その返答にジョンは舌打ちをしてしまった。レバノン政府がもっと早く依頼を出していればこんな事にならなかったはずだ。
「そうか。立てるか?」
死んでしまった者は仕方が無い。今は生きている人質の救出だけを最優先とする。ジョンは良子の手を掴んで立たせようとするが、足に全く力が入らないのかガクガクと震えて立つことが出来ない。
NGOの医療ボランティアとしてこの地に入り、突然武装勢力に連れ去られてから6日間。水も満足に与えられず、いつ首を斬られるかという恐怖に晒され続けた身体は、すでに限界を迎えていた。
ジョンは溜め息を一つ吐くと、アサルトライフルを背中に回し、良子の身体を抱き上げた。 軽かった。24歳の成人女性とは思えないほど、簡単に持ち上がってしまう。骨が浮き出た肩の感触が、彼女が経験した6日間の地獄を物語っていた。
「掴まっていろ。外にはまだ敵の増援が来る可能性がある」
「あ・・・ありがとうございます・・・あなたは、日本の、自衛隊の方ですか・・・・?」
良子はジョンの胸元にしがみつき、途切れ途切れに尋ねた。ジョンの胸からは、汗と、銃煙と、硝薬の匂いがした。それは決して正義のヒーローの匂いではなく、血に塗れた「プロの殺し屋」の匂いだった。
「違う」ジョンは冷たく言い放ち、歩き出した。「俺はただのゴミ拾いだ。金をもらって、お前という荷物を運んでいるだけだ」
良子はそれ以上、何も言わなかった。ただ、ジョンの頑強な胸板に顔をうずめ、彼の心臓の音を聞いていた。規則正しく、恐ろしいほど落ち着いた、一定のビート。無数の死を見てきた男の、冷徹で力強い鼓動。
その鼓動を感じた瞬間、良子の目から堰を切ったように涙があふれ出た。 生きている。自分は助かったのだと、初めて実感したのだった。
◇
「ウー、撤収だ。北側の道路から敵の車両が二台接近中。地元警察の無線も混乱している」
イヤホンからバックアップの叫び声が聞こえる。
「了解。今すぐ出る」
ジョンは良子を抱きかかえたまま、爆破した扉を抜けて外の冷気の中へ飛び出した。夜空には満天の星が広がっていたが、その美しさを鑑賞する余裕はなかった。遠くから、ピックアップトラックの排気音と、アラビア語の叫び声が近づいてくるのが聞こえる。
「車に乗れ!」
待機していた四輪駆動車のドアが開き、ジョンは良子を後部座席へと押し込んだ。自分も滑り込むように乗り込み、ドアを叩く。
「出せ!」
ドライバーがアクセルを踏み込むと、V8エンジンが咆哮を上げ、車体は勢いよく加速した。 直後、彼らがいた廃墟の周囲に、追手のAK-47から放たれた曳光弾(トレーサー)が赤く眩しい軌跡を描いて降り注いだ。車体のリアガラスに弾丸が命中し、強化ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入る。
良子が悲鳴を上げて身をかがめた。ジョンは咄嗟に彼女の頭を抱え込み、自分の身体で覆い隠した。
「伏せていろ! 頭を上げるな!」
頭上で重金属の衝突音が響き渡る。ジョンは片手で良子を押さえつけたまま、もう片方の手でサブマシンガンを構え、壊れたリアウィンドウから身を乗り出した。
暗闇の中、追いかけてくる二台のピックアップトラック。荷台には重機関銃(DShK)が据え付けられているのが見えた。
「ゴミどもが」
ジョンは暗視スコープ越しに、後続車のドライバーの頭部へ照準を合わせた。 車の揺れ、風速、夜間の視界不良。すべてのパラメーターが脳内で瞬時に計算される。レンジャー部隊で叩き込まれ、PMCの戦場で研ぎ澄まされた殺人スキルの真骨頂。
タタタン、タタタン!
三連射(バースト)を二回。後続のトラックのフロントガラスが砕け散り、ドライバーがハンドルに突っ伏した。制御を失ったトラックは猛スピードで横転し、激しい火花を散らしながら砂漠の渦へと消えていった。
残る一両は、仲間の惨劇を見て恐怖したのか、スピードを緩めて夜の闇の中へと後退していった。
「敵の追撃、途絶した。逃走ルートへ入る」
ドライバーの声に、車内の緊張が一気に緩和された。
◇
車は舗装された幹線道路へと抜け、ベイルート方面へと西へ向かってひた走る。追っ手の危険がなくなったことを確認すると、ジョンは身を起こし、装備をチェックし始めた。
弾倉を抜き、残弾を確認し、再び装着する。その手つきには一切の無駄がなく、機械のような正確さだった。
ふと視線を感じて横を見ると、良子がシートの隅で小さくなりながら、じっと自分を見つめていた。
「なんだ」ジョンは低く尋ねた。「どこか怪我でもしたか」
「いえ・・・」
良子は弱々しく首を振った。そして、膝の上に置かれたジョンの、血と煤で汚れた大きな手を見つめた。
「あの・・・お名前を、伺ってもいいですか?」
「名乗るほどの者じゃない。仕事は終わった」
「お願いです。命の恩人の名前も知らずに帰るなんて、できません」
良子の瞳には、先ほどまでの恐怖の影に混じり、強い意志の光が宿っていた。ただ守られるだけの弱々しい被害者ではない、彼女自身の芯の強さが垣間見えた瞬間だった。
ジョンはわずかに眉をひそめた。普段なら偽名を使ってやり過ごすところだったが、なぜかその時の彼女の真っ直ぐな視線に、嘘をつくのが憚られた。
「・・・ジョンだ。ジョン・ウー」
「ジョンさん・・・」良子は噛みしめるようにその名前を呟くと、深々と頭を下げた。「ありがとうございました。私を・・・助けてくれて」
「礼を言うなら、お前を救うために金を払ったレバノンの官僚に言え。俺はただ、契約を履行しただけだ」
ジョンは窓の外、黒々と横たわるレバノンの山々へ視線を投げた。彼にとって、これは何十回と繰り返してきた「仕事」の一つに過ぎなかった。人を殺し、人を引き取り、報酬を得る。血と硝煙に塗れた日常の、ほんの一コマのはずだった。
「これを・・・」
良子はポケットから紙と小さいペンを取り出して数字を書き込んでいく。080で始まる数字。それは良子の電話番号だった。そしてそれをジョンに差し出した。
ジョンはそのメモをひったくるように受け取り、無言のままプレートキャリアのポケットに押し込んだ。
◇
2035年 あの事件から4年後
2035年、春。東京郊外、武蔵野の面影を残す緑豊かな街並みの一角に、ジョンと良子、そして生後一歳になる娘の葵(アオイ)が暮らす低層アパートがあった。
朝の光がカーテン越しにリビングへ差し込み、柔らかな木目のフローリングを照らしている。 キッチンからは、出汁の効いた味噌汁と焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。
「ジョン、葵のおむつ替えてくれた? もうすぐご飯できるよ」
エプロン姿の良子が、蒸気の上がる鍋から顔を覗かせて微笑む。あの日、中東の湿ったコンクリートの暗闇で、死の恐怖に震えていた24歳の少女の面影は、いまや温かな母性の光の中に溶けていた。
「ああ、いま終わった」
ジョン・ウー――かつてアメリカ陸軍特殊部隊、そして民間軍事会社(PMC)の凄腕オペレーターとして血と硝煙の中に生きた男は、いまや不器用ながらも手際よく、小さな赤ちゃんのおむつを替えていた。
「アッ、バッ」
一歳の葵が、丸々とした手を伸ばしてジョンの鼻をつまむ。ジョンはその小さな手を優しく包み込み、頬を寄せた。赤ん坊特有の、ミルクと日なたを混ぜ合わせたような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
“奇跡だ”
ジョンは心の中で何度もそう呟いていた。 かつて彼の両手は、銃の握りを固く締め、敵の命を奪うためだけに存在していた。暗闇の中で敵の動脈を切り裂き、建物ごと爆破し、無機質な報酬を受け取る毎日。あの殺伐とした世界が自分のすべてであり、自分は死ぬまでその地獄から出られないのだと信じ込んでいた。
それを変えたのが、あの日、レバノンの廃墟から抱き上げた良子だった。
命を救ってくれたと言って自分を心から信頼し、恐れることなく温かな愛情を注いでくれた彼女。彼女の存在が、ジョンの凍りついた魂を少しずつ溶かした。PMCを辞め、日本に渡り、静かな生活を手に入れた。そして、ふたりの愛の結晶である葵が生まれた。
良子のメモに書かれてあった番号にメッセージを送ったのは、ほんの気まぐれだった。いや、偽名で契約したスマホからであっても、事件の当事者にメッセージを送るなどどうかしていたのだ。しかし、その理解不能な自分自身の行動が、今こうして穏やかな幸せを手に入れるきっかけになった。
「ジョン、いつもありがとうね」
食卓に朝食を並べ終えた良子が、ジョンの背中にそっと寄り添った。
「感謝するのは俺のほうだ、良子。お前と葵が、俺に人間としての人生をくれた」
「またそんな堅苦しいこと言って。はい、冷めないうちに食べて。今日は千葉で大事なセミナーでしょう?」
「ああ。10時には幕張の国際会議場に入らなければならない」
「気をつけてね。葵、パパにいってらっしゃいは?」
良子に抱っこされた葵が、小さな手をパタパタと振る。ジョンはふたりの額に優しくキスを落とし、愛用している黒のスーツに身を包んで家を出た。ドアを閉める直前、良子の笑顔と葵の無垢な瞳が、鮮明に脳裏に焼き付いた。それが、彼にとっての「世界のすべて」だった。
◇
2035年の東京は、完全な高度情報化社会へと変貌を遂げていた。街を行き交う車の九割以上は「LEVEL 5」の完全自動運転システムを搭載した電動車(EV)であり、歩行者や車同士が常時通信(V2X)を行うことで、交通事故の発生率は十年前の百分の一以下へと激減していた。
人々は移動中の車内で本を読み、眠り、会話を楽しんでいた。道路はもはや「危険な場所」ではなく、安全に管理された動線に過ぎなかった。
ジョンが所有しているスポーツセダンももちろん自動運転EVだ。運転席に座って目的地を設定すれば、あとはする事が無い。スムーズな加減速で首都高速を滑るように走り、何の問題もなく千葉の幕張メッセ国際会議場へと到着した。
現在、ジョンは大企業を対象とした「危機管理(リスクマネジメント)コンサルタント」として活躍していた。 傭兵時代に培った緻密な情勢分析、テロ対策、サイバーセキュリティの知見は、海外進出を図る日本の巨大IT企業やインフラ企業にとって喉から手が出るほど欲しいノウハウだった。血塗られた過去を隠し、実業家として成功を収めることで、彼は家族を完璧に養う力を得ていた。
「ウー先生、本日もよろしくお願いいたします」
会議場の主催者が出迎え、ジョンを控室へと案内する。広大なホールには、国内有数の大企業の役員やセキュリティ担当者、政府関係者など、数百名の参加者が詰めかけていた。
午前11時。ステージのスポットライトがジョンを照らした。
「――リスクとは、私たちが『存在しない』と油断した瞬間に、最大の破壊力を持って襲いかかってきます。システムが完璧であればあるほど、人間という『不確定要素』が最大のバグとなるのです」
壇上のジョンは、堂々とした立ち振る舞いと深みのある声でマイクに語りかけていた。 聴衆は彼の言葉に深く頷き、熱心にメモを取っている。
ジョンの心は穏やかだった。午後からのセッションを終えれば、夕方には武蔵野のアパートへ戻れる。途中のケーキ屋で良子の好きなショートケーキを買い、葵を抱っこして近所を散歩しよう。そんな慎ましい幸せのイメージが、彼の胸を温かく満たしていた。
セミナーが中盤に差し掛かった、11時40分のことだった。
講演の最中、ステージ袖の暗闇で動きがあった。
◇
「気をつけてね。葵、パパにいってらっしゃいは?」
ジョンは私が抱っこした葵の小さな手を包み、小さく振ってみせる。葵は「アッ、バッ」と声を上げながら、機嫌よく短い腕をパタパタと動かした。
ジョンはそんな私たちを愛おしそうに見つめると、私の額と葵の柔らかいおでこに、順番にそっとキスを落とした。彼の大きな手が私の髪に優しく触れる。血と銃煙の匂いしか知らなかったはずのその手は、いまや世界で一番温かく、繊細な手だった。
「いってくる。夕方には戻るよ」
スーツ姿のジョンがドアを開け、眩しい春の光の中に踏み出していく。彼が振り返り、最後にもう一度見せてくれた柔らかい笑顔。それが、私の大好きなジョンの表情だった。
ドアが閉まり、静かになった部屋で、私は葵を抱き直した。
「パパ、行っちゃったね。私たちもお散歩に行こうか」
葵が私のおでこに自分の頭をごっつんとぶつけてくる。その心地よい重みと温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
2035年のこの街は、驚くほど静かで穏やかだ。外に出れば、排気音ひとつ立てずに滑らかに走る自動運転のEV車たちが、整然と道路を行き交っている。かつて私が目にした、紛争地の爆音や黒煙、暴力に満ちた世界とはまるで違う。
「葵、今日は公園でお花を見ようね」
抱っこ紐で葵を胸に抱きかかえ、私は春の風が吹く街へと踏み出した。
徒歩で十分ほどの場所にある武蔵野の公園へ向かう道すがら、私は胸の中に広がる豊かな幸せをみしめていた。
葵の丸い頬、くりくりとした大きな瞳、ミルクの匂いがする柔らかい髪。 この子の顔を見るたびに、私は神様に感謝せずにはいられない。私のような人間が、こんなにも完璧な幸せを与えられていいのだろうか、と。
私は昔から、世界中の人たちが幸せになれるようにと本気で願っていた。大学を卒業してすぐ、NGOのボランティアとしてレバノンへ渡ったのも、その気持ちからだった。
争いや貧困に苦しむ人たちの力になりたい。傷ついた子どもたちの手を取り、少しでも笑顔を取り戻してほしい。世無知で青臭いと言われようと、私の根底には常に「世界平和」への強い祈りがあった。
けれど、現実は甘くなかった。 過激派組織に拘束され、暗く湿った廃墟に閉じ込められたあの日々。 自由を奪われ、暴言を吐かれ、いつ首を斬られるか分からない死の恐怖の中で、私は自分の無力さを知った。私の祈りも、言葉も、銃を持った男たちの前では何の役にも立たなかった。
そんな絶望のどん底から私を救い出してくれたのが、ジョンだった。
――暗闇を破る爆発音と銃声。 煙の中から現れた彼は、全身に殺気を纏った「死神」そのものだった。自分を拉致した男たちを次々と躊躇なく射殺していく姿に、私は恐怖で身体が凍りついた。
彼に抱きかかえられて廃墟を脱出したとき、私は心から感謝した。けれど同時に、激しい「忌避感」を抱いたことも事実だった。
「俺はただのゴミ拾いだ。金をもらって、お前という荷物を運んでいるだけだ」
車の中で冷たくそう言い放った彼の横顔を、今でもはっきりと覚えている。お金のために人を殺し、人を救う。そんな戦争のプロフェッショナルである彼が、どうしても怖かった。私の願う「平和」や「優しさ」とは対極に位置する、血に塗れた世界の住人なのだと。
レバノンから日本へ帰国した後も、私はトラウマと戦っていた。けれど、心のどこかでずっと、自分を救ってくれたあの黒い瞳の男のことが忘れられなかった。
彼にお礼が言いたい。そう決意して、世界中のPMCを調べてみたけど、自分の能力では手がかり一つ見つけることが出来なかった。半年が過ぎてもう諦めかけていた頃、私のもとに、彼からメッセージが届いた。
東京の小さなカフェで再会したときのジョンは、軍服ではなく静かな私服を着ていた。 相変わらず無口で、周囲を警戒するような目つきをしていたけれど、私と目を合わせると、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「・・・あんな物酷い現場を見せて、すまなかった」
それが、彼の開口一番の言葉だった。
彼は仕事で日本に来ていて、三週間ほど滞在すると言うことだった。生まれ故郷の日本で数日間の休暇もとるそうだ。その日は助けてくれたお礼を言って、私の生い立ちを少しだけ話した。そして別れ際、私は強引に翌日の約束を取りつけた。
そして何回か会って話をするうちに、私は彼の本当の姿を少しずつ知ることができた。18歳でアメリカの特殊部隊に入り、過酷な戦場を転々としてきたこと。人を信じることができなくなるような裏切りや、仲間を失う地獄を何度も潜り抜けてきたこと。彼が身につけた「冷酷さ」は、そうしなければ生き残れなかった彼の悲しい鎧(よろい)なのだと気づいた。
ある日、街角で野良猫にそっと自分のサンドイッチを分けてあげている彼の姿を見たとき、私の胸の中で何かが弾けた。彼の表情が笑顔だったのだ。
この人は、誰よりも傷ついている。 誰よりも優しくて、誰よりも温かい心を持っているのに、それを隠して生きてきたのだ。
「ジョンさん」
私は彼の大きな手をとった。血の匂いなどもうしなかった。そこにあったのは、無骨で、少し温かくて、不器用な男の手だった。
「私と、お付き合いしてくれませんか?」
ジョンは目を見開き、信じられないというように固まった。
「・・・正気か? 俺がこの手で多くの人間を殺してきたことを、知っているだろう」
「知っています。でも、私を抱き上げてくれたときの手が、どれだけ優しかったかも知っています。私は、あなたと一緒に生きたいんです」
◇
ジョンの個人事務所で雇っている秘書の女性――日頃から冷静沈着で、ジョンのスケジュールを完璧に管理している彼女が、青ざめた顔で舞台袖に立っていた。
彼女の様子がおかしい。普段なら、講演中に彼女がステージ付近に現れることなど絶対にあり得なかった。それも、足をもつれさせながら、周りのスタッフの制止を振り切るようにして歩み寄ってくる。
“何かが起きた”
プロとしての鋭敏な直感が、ジョンの脳裏でけたたましい警報を鳴らした。
ジョンはマイクを持ったまま言葉を区切った。会場に不審な沈黙が流れる。
「――失礼。少々不手際があったようだ。三分間のインターバルをいただく」
ジョンは短く告げると、マイクをスタンドに戻し、大股でステージ袖へと歩み寄った。
「どうした。何があった」
低い声で問うジョンに、秘書は唇を震わせ、手に持ったタブレットを握りしめながら息を呑んだ。彼女の顔からは血の気が完全に引いており、額には冷や汗が浮かんでいる。
「ウ・・・ウー先生・・・警察から、緊急の連絡が入りました」
「警察?」
「奥様と・・・お子様が・・・交通事故に遭われたと・・・」
瞬間、世界からすべての音が消え去った。
数百人の聴衆のざわめきも、空調の不快な低音も、すべてが遠い次元へと押し流された。ジョンの視界がぐにゃりと歪み、心臓が肋骨を突き破らんばかりの強烈な脈動を打った。
「・・・事故?」
自分の声ではないような、掠れた声が出た。
「ええ・・・都内の病院に、至急向かってほしいと。警察が・・・警察がそう言っています」
「状況は。良子と葵の容体は?」
「わ、分かりません! 警察はただ『一刻も早く病院に来てくれ』としか・・・容体については『確認中』としか教えてくれませんでした・・・!」
『確認中』 その曖昧な言葉は最悪の事態をも含有する無情な響きを帯びていた。
「先生、午後のセッションはキャンセルします! お車を準備させますから――」
「自分でいく」
ジョンは秘書の言葉を最後まで聞かず、着ていたジャケットのボタンを外し、猛然と走り出した。
幕張メッセの長い廊下を、ジョンはなりふり構わず駆け抜けた。高級な革靴が床を蹴るたび、甲高いいやな音が響く。
なぜだ? なぜ事故が起きる?
脳内で計算が高速回転する。東京の道路網は完全自動運転システム「V2X」で管理されているはずだ。歩行者センサーも、自動ブレーキも、絶対にエラーを起こさない重層的なセーフティネットが敷かれているはずだ。良子が通るはずの散歩コースは、歩道と車道がガードレールで完全に分離された安全な住宅街のはずだ。
システムのエラーか? 通信障害か? それとも――テロか?
傭兵時代の思考回路が勝手に回り始める。過去の敵が自分を特定し、妻子を狙ったのか?そんな不合理なことをするだろうか?
「クソッ!」
地下駐車場へ飛び込み、自分の車――手動切り替え機能を備えたスポーツセダン――のドアをこじ開けるように開けた。
「緊急モード・承認」
車載AIがジョンの置かれた状況を理解して緊急モードに移行する。これは、何かしらのトラブルが発生したときに、そのトラブル状況を管轄の公安システムに連絡し許可が出たときのみ承認されるモードだ。このモードが承認された場合、制限速度を30%超過した速度まで出すことが出来、さらに進路上の信号が優先的に青になる。
ジョンを乗せたスポーツセダンは湾岸高速道路へと飛び出す。制限速度は80キロなので、104キロで自動運転を実施する。周囲を走る整然とした自動運転車たちが、ジョンの緊急走行を検知して次々と車線を譲っていく。自動運転社会だからこそ見ることの出来る情景だ。
ジョンは運転席に座りながら右手の拳で何度もコンソールを叩いた。なぜこれ以上の速度を出さないのか?出せないのか?もしこれが10年前の自動車なら、手動運転でどんな速度でも出せるのに。
「良子・・・葵・・・頼む・・・」
口の中で、祈るように呟いていた。 かつて神も仏も信じず、戦場で自分の腕と銃だけを信じて生き抜いてきた男が、生まれて初めて見えない何かに必死で縋りついていた。
死ぬな。頼むから生きていてくれ
戦場で仲間が目の前で吹き飛ばされたときの光景がフラッシュバックする。腹部を撃ち抜かれ、血を吐きながら母の名を呼んでいた若い兵士。瓦礫の下で押し潰されていた名もなき子供。
あの血の匂い。硝煙の臭い。冷たくなっていく肉体の感触。
それらがすべて、良子と葵の姿にオーバーラップしてジョンの脳裏を苛む。
「うあああああっ!」
絶叫しながら、ジョンはコンソールを叩いた。フロントガラスの向こう、東京の高層ビル群が、まるで巨大な墓標のように黒く立ち塞がっていた。
◇
「葵。お花がきれいに咲いてるね」
公園へ続く遊歩道に入り、私は道端に咲く黄色いタンポポを指さした。胸の中の抱っこ紐で、葵が楽しそうに「きゃっきゃ」と声を上げて足をバタつかせる。
思い返せば、あの戦場のようなレバノンから、こんなに穏やかな東京の郊外へ辿り着くまで、本当に長い道のりだった。
ジョンはPMCを完全に辞め、日本でリスク管理のコンサルタントとして新しい人生を踏み出した。自分の過去を悔い、二度と誰かを傷つけないと誓いながら、真面目に、誠実に働く彼。そして生まれた、葵。
私は葵の頭にそっと頬を寄せた。この子の未来が、永遠に平和でありますように。戦争も、暴力も、理不尽な悲劇もない世界で、この子がたくさんの愛を受けて育ちますように。
2035年のこの世界は、完璧に見えた。街を走る車はすべてAIによって制御され、人間がミスを起こして事故を発生させることなんて、もう過去のおとぎ話になりつつあった。テクノロジーが人間を守り、誰もが安全に暮らせる世界。私たちが目指していた理想の社会が、ここにはあるはずだった。
ジョン、今日も早く帰ってくるといいな
今夜はジョンの好きなハンバーグを作ろう。葵を一緒にお風呂に入れて、三人で笑いながらご飯を食べよう。そんな当たり前の、けれど何物にも代えがたい幸福な未来が、ずっとずっと続いていくのだと疑わなかった。
公園の入口が見えてきた。 大きなケヤキの木の下で、子どもたちが楽しそうに遊んでいる声が聞こえる。
「葵、着いたよ。お友達、いるかな?」
私が歩道から公園の敷地へ足を踏み入れようとした、まさにその時だった。
ガガガガガッ!
突如として、背後から猛烈な金属の破壊音が響き渡った。
静寂に包まれていた住宅街の空気が、一瞬で引き裂かれる。 ガードレールがなぎ倒され、アスファルトを削る不快な重音。
何・・・!?
反射的に振り返ろうとした。だが、視界が追いつくよりも早く、私の全身の毛穴が激しい悪寒に総立ちになった。
耳をつんざくエンジン音。自動運転の静かな電気自動車(EV)からは絶対に聞こえるはずのない、狂暴なガソリンエンジンの爆音だ。
視界の端に映ったのは、V2Xの安全ネットワークから外れ、制御を失って暴走する、一台の白い旧型ハイブリッド車両だった。
運転席には、見開かれた落ちくぼんだ目と、固直した両手でハンドルを握りしめる老人の姿。助手席の老婆はあまりのことに目と口を大きく開けている。
あ・・・
声にならなかった。 車は歩道に乗り上げ、凄まじい速度で私と葵に向かって一直線に迫っていた。避ける時間なんてない。 コンマ一秒の猶予すらない。
葵――!!
私の身体は、思考よりも早く動いていた。考えるよりも先に、私は背中を丸め、胸の中の葵を両腕で全力で抱きしめた。 自分の背中で、この小さな命を守るために。 私がどうなってもいい、この子だけは――!
「葵っ!!」
私の叫び声は、迫り来る鉄の塊の衝撃音にかき消された。
ゴオンッ!!
背中に、世界が崩壊したかのような絶大な衝撃が走る。痛みの感覚すら訪れなかった。身体が宙に浮き、世界がぐにゃりと360度回転する。
風の音。散らばる硝子の破片。 なぎ倒されたツツジの植え込み。
地面に叩きつけられた瞬間、視界が急速に暗転していく。
・・・あ・・・
腕の中の感覚が、薄れていく。 葵の温もりが、冷たくなっていく空気の中に溶けていく。
・・・ジョン・・・
助けて。ううん、違う。来ないで。見ないで。私たちのこんな姿を、あなたに見せたくない。
せっかく血の地獄から帰ってきたのに。せっかく、優しい人間になれたのに。あなたを、また暗闇に引き戻したくない――。
ジョン・・・私を・・・葵を・・・愛してくれて、ありがとう・・・
最後に脳裏に浮かんだのは、今朝、玄関で見せてくれたジョンの優しい笑顔だった。
私の視界からすべての光が消え、深い、深い沈黙が訪れた。
◇
ジョンの車は指定された「聖マリアンナ総合病院」の緊急車両用ロータリーへと滑り込んだ。ジョンは車を飛び出し、自動ドアを押し開けて救急外来の受付へと殴り込んだ。
「中川良子! 葵!どこだ!」
受付の看護師が、ジョンの鬼気迫る形相に息を飲んだ。
「あ、ウー様ですね・・・! いま、警察の方が奥の処置室の前でお待ちです・・・」
ジョンは看護師が指さした廊下を走り抜けた。
白く無機質な病院の廊下。消毒液の不快な匂い。 その突き当たり、重い金属製ドアの前に、警察の制服を着た二人の警察官と、私服の刑事が立っていた。
ジョンは二人の警察官を確認したとたん、自分の足が思うように動かなくなってしまった。事実に近づく事への拒否感。良子と葵の状況を確認したとたん、それが現実のものとなって確定してしまうのではないかという恐怖感。とうの昔に克服していたと思っていた感情がジョンの足を重くさせていた。
「ウー・ジョンさんですね・・・警視庁のものです」
「ふたりは・・・良子と葵はどこだ! 無事なのか!?」
ジョンは刑事に詰め寄った。その眼光の凄まじさに、百戦錬磨のベテラン刑事すら一歩身を引いた。
「ウーさん・・・落ち着いて聞いてください」
私服刑事が、痛ましいものをを見る目でジョンを見つめ、静かに首を振った。
「現場で・・・お二人の死亡が確認されました。病院に搬送されたときは、すでに・・・」
――ガタン。
ジョンの膝から力が抜けかけた。壁に手をつき、かろうじて倒れるのを踏みとどまる。
「・・・死亡? なにを・・・何を言っているんだ?」
言葉の意味が脳に届かない。 今朝、自分に笑顔で味噌汁を出してくれた良子が? 自分の鼻を小さな手でつまんで笑っていた葵が?
死んだ?
「事故の状況は・・・」ジョンは血の気の失せた唇を動かした。「自動運転の不具合か? ブレーキの故障か? どこのメーカーだ・・・!」
「違います」
刑事が重い口を開いた。
「自動運転車ではありません。相手の車は・・・20年以上前のハイブリッド車です」
「何・・・?」
「82歳の男性が運転する、20年以上前の旧型ハイブリッド車です。アクセルとブレーキの踏み間違い・・・あるいは認知機能の低下による暴走と見られています。歩道に乗り上げ、お子様を抱いて歩いていた奥様を・・・背後から」
ジョンの頭の中で、何かが音を立てて断ち切れた。
自動運転社会。安全が約束された世界。新車の販売はV2X対応の自動運転EVしか存在しない。しかし、経過措置として旧型車も2039年までは乗ることが出来る。そんな状況下で、システムに乗ることを拒み、それでも「安全では無い車」を使うことを選択した一人の老人の身勝手な過失によって。
自分のすべてだった光が、一瞬で踏みにじられ、押し潰された。
「・・・その男は」
ジョンの声から、すべての感情が消え失せた。 代わりに宿ったのは、かつて中東の暗闇で無数の人間を屠ってきた、絶対的な「殺意」だった。
「その男は、今どこにいる」
「加害者の老人は、エアバッグのおかげで軽傷です。現在、別の部屋で取り調べを・・・」
刑事が言い終わる前に、ジョンは処置室のドアへと手をかけた。
扉が開く。 白布が被せられた、二つの小さな台がそこにあった。
ジョンは静かに歩み寄り、震える手で布をめくった。
そこにあったのは、冷たくなり、無残に傷ついた良子の顔と、その腕の中で静かに目を閉じている葵の小さな姿だった。
部屋の中に、ジョンの叫びとも絶望ともつかない、声にならない慟哭が低く響き渡った。
◇
2036年10月
都心の喧騒から遠く離れた東京都西端、奥多摩の山村は、朝から立ち込める深い霧と湿り気のある冷気に包まれていた。
最新の完全自動運転システム「V2X」が張り巡らされ、AIが交通網を完璧に制御する都心部とは異なり、この旧態依然とした山あいの集落には、未だに昭和や平成の匂いが色濃く残っている。電波の届きにくい不感地帯も点在し、街頭の防犯カメラの設置率も都心の十分の一にも満たない。
山肌に張り付くように建つ古い木造一軒家の前。 赤色灯を点滅させた数台のパトカーと、捜査車両が細い山道を塞いでいた。
「——現場はここか」
捜査一課の若手刑事、見州大翔(みるず・だいと)は、ぬかるんだ土を踏みしめながら捜査用スリッパへ履き替えた。シャープな目元と仕立ての良いスーツ。最新のサイバー捜査やデータ解析を得意とする、三十代前半の新鋭刑事だ。
そのすぐ後ろを、だぶついたトレンチコートを着た小柄な男が、ふぅと重い息を吐きながらついてくる。定年退職を数ヶ月後に控えたベテラン刑事、佐馬瀬(さませ)だ。白髪の交じったボサボサ頭に、長年の鑑識作業と張り込みで鍛え上げられた鋭い眼光。アナログな直感と地道な聞き込みで数々の難事件を解決してきた「昭和の生き残り」だった。
「見州、現場を荒らすなよ。ここは山だ。鑑識が足跡(アシアト)を探すのに一苦労なんだからな」
「分かってますよ、瀬戸さん。被害者は独居老人ですか」
見州がタブレット端末の画面を指で滑らせながら被害者の詳細を確認する。
「名前は相良(さがら)勝造、八十六歳。この家に一人暮らし。第一発見者は、毎朝牛乳を配達に来る近所の住民ですね」
二人は黄色の「KEEP OUT」テープをくぐり、自宅脇にあるトタン屋根の簡易駐車場へと足を踏み入れた。
◇
駐車場に停められていたのは、二十年以上前の型落ちした旧式軽自動車。V2X通信ユニットも搭載されておらず、手動運転(マニュアルドライブ)専用の、いまや骨董品のような軽自動車。
その運転席に、頭を後ろへ大きくのけ反らせた状態で、一人の老人が座っていた。
「・・・ひでぇな」
瀬戸が眉をひそめ、ポケットから取り出した煙草を咥えようとしたが、見州の視線に気づいて思いとどまり、ポケットへ戻した。
フロントガラスの中央には、直径数センチの綺麗な円形の亀裂が入っていた。そして、運転席に座る老人の額の中央——眉間のやや上には、小さな赤い穴が穿たれていた。後頭部は激しく破壊され、ヘッドレストと後部座席のシートには、血小板と脳漿が大量に吹き飛んでこびりついている。
「即死ですね」見州が視線の色を鋭くする。
「鑑識によると、射入口の形状および弾道の角度からみて、使用されたのは高威力のライフル銃・・・それも長距離からの精密射撃(スナイピング)です」
「ライフルねぇ・・・」瀬戸は腕を組み、車内の死体を覗き込んだ。
「この時代にライフルなんぞ持ち出して、老人の眉間を一発でぶち抜く殺し屋か。猟銃の誤射にしては、出来過ぎているな」
「誤射の可能性はゼロです」見州はキッパリと言い切った。
「鑑識の初期見立てでは、発射位置はここから約四百メートル離れた、向かいの山林の斜面と推測されています。早朝の霧の中、四百メートル先から移動していない車内のターゲットの眉間を打ち抜く・・・猟友会の爺さんにできる芸当じゃありません。プロの仕業です」
見州はタブレットを操作し、被害者・相良勝造のデータを呼び出した。
「相良勝造、八十六歳。元農協職員。今は無職。妻には数年前に先立たれ、子どもは都内で独立。金融トラブルなし、暴力団との接点なし。近所トラブルも・・・まあ、頑固ジジイとして有名で『自動運転なんて信じられるか』と周囲に手動運転を吹聴していたようですが、命を狙われるほどの恨みを買っている形跡はありません」
見州はタブレットから目を離し、不可解そうに首をひねった。
「解せない・・・・・んですよ、瀬戸さん」
「何がだ?」
「動機です。なぜ、この老人が殺されなければならなかったのか。プロの狙撃手を雇う、あるいはみずからライフルを調達してまで殺害する合理的な理由・・・・・が、この相良という人物には一切見当たらないんです」
◇
見州の言葉に、瀬戸は車体に近づき、潰れたフロントガラスの傷跡をじっと見つめた。
「合理的な理由、か。お前さんたち若い捜査官は、なんでもAIやデータで割り切れる『合理性』を探したがるな」
「当然でしょう。殺人は極めてリスクの高い犯罪です。特にこれほどの技術を持った犯人なら、リスクとリターンを計算しないはずがない。強盗目的でもない、個人の怨恨の線も薄い。となれば、この老人が『何か知ってはいけない重大な秘密』を握っていたか、あるいは・・・」
「あるいは?」
「誤認殺人です。ターゲットを間違えた」
見州の推理を聞いて、瀬戸はフッと鼻で笑った。
「間違えるかねぇ。四百メートル先から狙えるほどの腕客が、ターゲットの顔や行動パターンを調べ上げずに引き金を引くと思うか?」
「じゃあ、瀬戸さんはどう考えるんですか? この老人が殺された『合理的な理由』を説明できますか?」
少しトゲのある見州の問いかけに対し、瀬戸はゆっくりと振り返り、まだ霧の残る向かいの山林を見上げた。
「見州。『殺人を犯す人間』ってのを、自分と同じ知性や理屈で動いていると思っちゃいかん」
「・・・どういう意味ですか」
「普通の人間には絶対に理解できない行動原理ってのがな、連中には存在するんだよ」
瀬戸の低い声が、湿った空気に重く響いた。
「世の中には『自分なりの正義』やら『独自のルール』に狂っちまった奴がいる。傍から見れば支離滅裂で、相良個人には何の殺害動機もないように見えても、犯人の中では『絶対に殺さなければならない完璧な理由』が存在しているんだ」
瀬戸は懐から煙草の箱を取り出し、トタン屋根の影で指を弄んだ。
「この相良って爺さん、V2X通信を突っぱねて、時代遅れの手動運転車に乗り回してただろ。システムから外れて、いつ人を撥ね殺すか分からない暴走予備軍だ。・・・もし犯人が、相良個人に恨みがあるんじゃなく、『手動運転にしがみつく老人という存在そのもの』を憎悪しているとしたらどうだ?」
「存在そのものを憎悪・・・?」見州が息を呑む。「そんな狂信的な理由で、面識もない老人を狙撃したと?」
「さあな。だが、法やシステムを無視して危険を撒き散らす奴らに『害虫駆除』のつもりで天誅を下している・・・そう考えれば、相良がターゲットに選ばれたこと、そしてこの冷酷でプロフェッショナルな手口の辻褄が、ほんの少しだけ合ってきやしないか?」
「考えすぎですよ佐馬瀬さん。ちょっと発想が突拍子もないですね」
「おっ?オレの推理を馬鹿にするのか?まあ、この事件だけなら突拍子も無いんだがな、ちょっと気になる別事件があるんだよ。どうもオレには“独自のルール”でやってるように思えてしかたがねぇ」
「独自のルール・・・」
見州は呟き、もう一度軽自動車の運転席に転がる老人の死体を見た。
額に穿たれた一発の弾丸。 それは個人の恨みや感情の爆発ではなく、まるで「安全な社会を脅かす欠陥(バグ)を消去した」かのような、冷酷で機械的な処刑の跡に見えた。
もし佐馬瀬の言う通りなら、これは怨恨による単発の事件ではない。自分なりの正義とルールに基づき、手動運転ドライバーという「獲物」を狩り始めたシリアルキラー(連続殺人鬼)が、この自動運転社会の闇に解き放たれたことを意味していた。
「見州、向かいの山林へ行くぞ。銃撃に使った薬莢が見つかったらしい」
「え?本当ですか?この山から薬莢一個を?」
二人はぬかるんだ山道を歩き出し、狙撃地点と目される向かいの斜面へと向かった。
竹林の中に作られた鑑識の黄色いロープをくぐる。湿った落ち葉の上に、一発の真鍮色の薬莢が、静かに転がっていた。
7.62mm×51 NATO弾。 軍用のスナイパーライフルで使用される、強力な弾丸の抜け殻だった。
見州はその薬莢を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
犯人は痕跡をほとんど残していない。靴痕も、指紋も、DNAも。まるで幽霊(ゴースト)のように現れ、四百メートル先から見知らぬ老人の命を奪い、霧の中に消えていった。
それなのに・・・薬莢だけはこんなに見つかりやすい所に残しておく。
「瀬戸さん・・・もしこれが、犯人の勝手な正義に基づく狩り(・・)だとしたら」
見州は低く囁いた。
「この犯人は、これで満足して終わるでしょうか」
瀬戸は落ち葉を踏みしめ、深く刻まれた目尻のシワを寄せた。
「終わるわけねぇだろ。一度血の味を覚えた獣はな・・・次の獲物を探すもんさ。特に、自分が『正しい』と信じ込んでいる奴はな」
奥多摩の深い霧が、二人の刑事を呑み込むように、いっそう濃く立ち込めていった。
◇
東海地方の西端、伊勢湾から吹き付ける寒風が街を濡らしていた。
1月中旬の夕刻。日の入りは17時を回ったばかりだというのに、街はすっかり暗闇に呑み込まれている。吐く息は白く乱れ、街灯の薄明かりがアスファルトの凍てつきをぼんやりと浮かび上がらせていた。
ガタガタと悲鳴のようなエンジン音を響かせながら、1台の古い軽自動車が狭い路地へ入ってきた。車を運転しているのは、今年で85歳になる佐藤和雄だった。
和雄は、自宅敷地内にある木造の古びたガレージへ、バックで車を入れようと必死になっていた。かつては難なくこなしていた運転操作だが、近年はめっきり視力が落ち、空間の感覚も怪しくなっている。彼が乗るシルバーの軽自動車のバンパーやドアには、至る所に擦り傷や凹みが刻まれており、彼の運転技術がいかに危ういものになっているかを無言で物語っていた。
「くそっ、見えづらいな・・・」
バックミラーと死角を目視で交互に確認しながら、ジワジワとアクセルを踏み込む。 その時、ガツンという鈍い衝撃と、重苦しい破砕音が車内に響いた。
「あっ・・・!」
和雄は慌ててブレーキを踏み込み、ハザードランプを点けた。恐る恐る車を降りて後方に回り込むと、ガレージの隅に置いてあった素焼きの大きな植木鉢が、見事に粉砕されていた。大切に育てていたサボテンが、冷たいコンクリートの上に転がっている。
和雄は深く、長いため息をついた。衰え切った己の体に、情けなさがこみ上げる。
「・・・もう、そろそろ免許を返納しようかな・・・」
声に出すと、寂しさが胸に広がった。
世の中は変わった。今や新車で販売されるのは、完全自動運転機能を持ったAI搭載車だけだ。交通事故をゼロにするという政府の方針のもと、法改正が行われたからである。とはいえ、旧来のガソリン車やマニュアル車が一夜にして消えたわけではない。経過措置として、2039年までは旧型車の公道走行が認められている。だからこそ、和雄のような老人もこうして古い軽自動車に乗り続けていられるのだ。
だが、自動運転車への買い替えなど、和雄には夢のまた夢だった。いくら国や自治体から手厚い補助金が出るとはいえ、最新テクノロジーの塊である自動運転車はあまりにも高価だ。認知症を患い、足腰が立たなくなってきた82歳の妻・節子と二人、細々と年金で暮らす老夫婦に、そんな大金を捻出できる余裕などどこにもない。
ただし・・・という思いもある。地方都市とは言えバス路線はあり、車の維持にかかるお金を公共交通機関やタクシーに振り向ける事もできる。どうしても必要な外出だけにすれば、十分生活は出来るのだ。
「バス停までは300メートルもあるし、タクシーを呼んでも来るまで15分から30分はかかるからなぁ」
ほんの少しだけ不便さを受け入れたなら、自動車を手放すことはできる。しかし、自家用車の便利さに慣れてしまってはその不便さを受け入れることは困難なのだ。
諦めにも似た徒労感を抱えながら、和雄は運転席のドアを閉め、ポケットから鍵を取り出した。ガチャリ、と手動でドアを施錠しようと、車体に背を向けた、まさにその刹那――。
冷気とは明らかに異なる、粘りつくような死の気配が、和雄の背後に立ち昇った。
「――っ!?」
振り返る間すらなかった。 極細の、だが鋼鉄のように頑丈な繊維状の紐が、突然闇から伸びてきて和雄の首元へ巻き付いた。
「がっ・・・! ぐ・・・ッ!」
凄まじい力で後ろへ引き絞られる。首の動脈と気道が同時に激しく圧迫された。喉の奥で異音が鳴り、空気を取り込もうと口を大きく開けるが、酸素は1ccも入ってこない。
何が起こったのか、理解する思考すら奪われていく。脳への血流が急速に遮断され、視界の端から黒い靄が広がっていった。意識が遠のき、指先から力が抜けていく。和雄の手から落ちた車の鍵が、冷たいコンクリートにカチャンと乾いた音を立てた。
数秒後、和雄の体は完全に弛緩し、闇の中へと崩れ落ちた。 首を絞め上げていた謎の影は、静かにその手を放すと、気配もなく夜の静寂へと溶けて消えていった。
◇
その夜、自宅の居間で一人テレビを見ていた妻の節子(82)は、夫がなかなか戻ってこないことに首を傾げていた。
「お父さん、トイレ長いねぇ・・・」
だが、彼女の頭の中には霧がかかっていた。アルツハイマー型認知症が進んでいる節子は、「夫が車で出かけた」という事実を、数分後には忘れてしまう。探しに行こうという意思は長続きせず、テレビから流れる派手なバラエティ番組の音に気を取られ、やがてこたつに入ったまま眠りについてしまった。
和雄の冷たくなった遺体が発見されたのは、翌朝の午前7時半過ぎのことである。
「うわあああぁぁ!おじいちゃんが倒れてるよー!」
通学路を歩いていた近所の小学生が、ガレージの脇で奇妙な姿勢で倒れている和雄を見つけ、悲鳴を上げた。ランドセルを背負った子供たちの声に驚いた近隣住民が駆けつけ、警察と救急へ通報したのだった。
◇
それから数日後。 場所は変わり、警視庁の捜査一課。
刑事の佐馬瀬(たかやま)は、自席のデスクで冷めきった缶コーヒーをすすりながら、パソコンのモニターを見つめていた。その隣では、年下の相棒である見州(おおとも)が、カップ麺の湯切りを終えて自席に戻ってきたところだった。
「佐馬瀬さん、何見てんすか? また管外の事件ファイルですか?」 見州が麺をすすりながら尋ねる。
「・・・ああ。例の東海地方の小都市で起きた、85歳男性の首絞め殺人事件だ」
佐馬瀬が画面を指差した。 そこには、警察のデータベースから抽出された事件の概要と、現場の写真が表示されている。
「あー、ニュースでやってましたね。ガレージで老人が殺されたやつ。あれ、うちの所轄じゃないでしょ? あっちの警察署が特捜本部立ててやってるんじゃないですか」
「そうなんだがな・・・どうにも引っかかるんだよ」
佐馬瀬は眉間に深いシワを刻み、画面上の遺体写真を凝視した。
「違和感、ですか?」
「ああ。被害者の佐藤和雄さん(85)は、金品を奪われていない。財布も手付かず、家侵入の痕跡もない。妻は認知症で犯人の目撃証言は期待できない。・・・一見すると、突発的な通り魔か、あるいは怨恨のように見せかけた殺人だ」
「怨恨にしては、85歳の近所でも評判のいい老人が、首を絞め殺されるほどの激しい怨みを誰かに買っていたとは考えにくいですけどね。かといって通り魔にしては、手際が良すぎる」
「そうなんだよ」佐馬瀬は膝を叩いた。
「凶器は細い繊維状のコードのようなもの。首に一直線の吉川線(首を絞められた痕)が残っているだけで、着衣の乱れもほとんどない。爪の間にも犯人に繋がる残留物は無し。一瞬で首を絞め上げ、脳への血流を止めて即死させている。素人の突発的な犯行じゃない。プロの仕事か、あるいは・・・極めて計画的な殺戮だ」
佐馬瀬はマウスを操作し、別のファイルを立ち上げた。画面に全国の地図が表示され、幾つかの地点に赤いくさびが打ち込まれる。
「見州。過去の類似事件を全国データベースで照会してみたんだ」
「照会・・・? まさか・・・“独自のルール”ってやつですか?シリアルキラーの可能性?」
見州の手が止まる。佐馬瀬は静かに頷き、赤いくさびをひとつずつ指し示した。
「過去4ヶ月の間だ。北は北海道から、南は九州まで。殺害手法が極めて類似している事件が、佐藤さんの件を含めて11件ある」
見州の目が丸くなった。
「じゅ、11件・・・!? なんですかそれ、なんで今まで広域重要事件として指定されてないんですか!」
「被害者の属性がバラバラだからだ。地域も脈絡もない。犯行現場も、自宅の庭、夜間の公園、病院の駐車場・・・共通しているのは『夜間、人目のない場所で、細い紐のようなもので背後から一瞬で首を絞め殺されている』という点だけだ」
「・・・待ってください。共通点は本当にそれだけですか? 年齢層とかは?」
見州の鋭い指摘に、佐馬瀬は重々しく頷いた。
「そこだ。11人の被害者全員の共通点――」
佐馬瀬はモニターの画面を切り替え、11人の顔写真とプロファイルを並べた。
「被害者は全員、80歳以上の高齢者だ。そしてもうひとつ・・・全員が自分の自動車の近くで殺されている。それも、V2X非対応の古い車だ」
「な・・・ッ!?」 見州は思わず声を漏らした。
「自動運転車買換の経過措置・・・2039年問題・・・」見州が呟く。
「高齢ドライバーによる痛ましい交通事故を無くすために完全自動運転化が進められたが、買えない老人は古い車に乗り続けるしかない・・・。まさか犯人は、それを・・・?」
「『暴走するかもしれない高齢ドライバーを、事故を起こす前に“処分”している』・・・とでも言いたいのかもしれないな」
佐馬瀬の声には、氷のような怒りと、深遠な闇に対する恐怖が混ざり合っていた。
11人の老人が、誰にも気づかれぬまま、暗闇の中で人知れず狩られている。都市の死角で静かに進行する、狂気とエゴに満ちた「高齢者狩り」。
「・・・佐馬瀬さん。これ、上の連中に報告して本格的に調べましょう。次の犠牲者が出る前に」
見州の言葉に、佐馬瀬は硬い表情のまま静かに頷いた。窓の外では、寒冷前線の接近を告げる冷たい雨が、ポツリポツリとガラスを叩き始めていた。
◇
警察庁の会議室は、重苦しい熱気とパイプ椅子のキシむ音に包まれていた。
「全国広域連続指定特別捜査本部」――壁に掲げられた達筆な文字が、ことの重大さを物語っている。
東海地方の小都市で起きた事件を含め、警察庁が把握した同一犯によると思われる連続殺人事件の被害者は、ついに13人に達していた。
各地から集められた優秀な捜査官たちが一堂に会する中、最前列にはあの佐馬瀬と見州の姿もあった。ふたりは正式にこの合同捜査本部のメンバーとして出向を命じられたのだ。
スクリーンには13人の被害者の顔写真が並べられている。 いずれも80歳以上の高齢者。そして全員が、自動運転機能を備えていない「古い型の自動車」を日常的に運転していたという共通点を持っていた。
「・・・殺害手法の内訳は、11件が細い紐のようなものによる絞殺。そして残る2件が、遠距離からの狙撃による射殺です」
報告を担当する捜査官の声が響く。
「絞殺に使われた紐は、遺体に残された痕跡や首の圧迫痕(吉川線)の形状、解剖結果の比較から、全て同一の特殊な繊維コードと断定されました。一方、狙撃に使われたのは7.62mm口径の軍用ライフル。日本国内での流通は極めて稀なものです。現在、国内で正規登録されている該当銃器の所有者は全て洗いましたが、事件で使用された銃弾の線条痕と一致するものは1件もありません。密輸された違法銃器の可能性が高い」
スクリーンが切り替わり、現場に残されていた足跡の比較画像が表示された。
「現場に残された足跡ですが・・・興味深いことに、靴底のパターンは事件ごとに全て異なっています。さらに、歩幅から推定される靴のサイズも25.0cmから28.0cmまでバラつきがあります。しかし、これは単独の犯人が捜査を撹乱するために、意図的にサイズの違う靴や異なる靴底の履物を使い分けている偽装工作の可能性が極めて高いと考えられます」
「手慣れてやがるな・・・」 佐馬瀬が見州にだけ聞こえる小声で呟いた。
「絞殺に狙撃、果ては足痕の偽装まで・・・完全にプロの犯行ですよ」
「ああ」佐馬瀬は深く頷き、手帳にメモを走らせた。
「絞殺で着実に殺しながら、場合によっては遠距離から狙撃に切り替える。しかし、何で狙撃なんだ?絞殺でも十分に出来たはずだ」
会議室の空気が緊張感を増す中、何人かの地方警察から出向してきたベテラン刑事が、自身の見解や犯人像(プロファイリング)を次々と発表していった。
「犯人は過激な交通安全運動の信奉者ではないか」 「いや、高齢者福祉の予算圧迫に不満を持つ若年層によるテロだ」 「SNSで結成された闇バイトグループによる、広域シリアルキラーの可能性は?」
様々な口論や推測が飛び交い、収集がつかなくなりかけたその時――。
コンコン、とハイヒールの硬い音が静まり返った会議室に響いた。
プロジェクターの光を背にして、一人の女性が壇上に登る。今回の合同捜査本部で主幹を務めることになった、刑事部長――鳳 真央(おおとり まお)、42歳。
すっと伸びた背筋、モデルのように細く高い長身。無駄のない仕立てのパンツスーツに身を包み、鋭い目元と知性あふれる整った顔立ちをした美人だった。だが、その瞳には一切の不純物を許さない冷徹な光が宿っている。徹底した能力主義であり、とりわけ現場叩き上げの男性刑事をどこか見下すような雰囲気を隠そうともしない、絵に描いたような警察庁のエリートだ。
鳳は壇上に立つと、会議室全体を氷のような視線で見渡した。それだけで、ガヤガヤとしていた私服刑事たちの口数がピタリと止まる。
「各県のくだらない雑感はそこまでにしていただきましょうか」
鳳の声は澄んでいたが、芯まで冷え切っていた。何人かのベテラン刑事が不快そうに顔を歪める。
「13人もの高齢者がシリアルキラーの手によって処刑されている・・・これは国家に対する明白な挑戦であり、テロ行為です。これ以上の無駄な推測でリソースを浪費するのはやめなさい。本部長の許可のもと、プロファイリング班と私が策定した『犯人像』を提示します」
鳳がリモコンを操作すると、スクリーンの画面が一変した。 そこには箇条書きで、明確なターゲット像が刻まれていた。
「今回の事件、犯人のプロファイルは以下の通りです。捜査員は全員、この条件に合致する人物の洗出しに全力を注ぎなさい」
鳳は長い指で画面を指し示しながら、淡々と、しかし威圧的に言い放った。
【犯人プロファイル】
•元軍人、または海外での傭兵経験がある男性 (軍用ライフルの扱いに精通し、至近距離での無音絞殺術および足跡偽装などの過酷な軍事訓練を積んだプロフェッショナル)
•高齢者に対して強い憎悪を抱いている者 (単なる無差別殺人ではなく、特定の年齢層に固執している点から、過去に高齢者との深刻なトラブルを抱えている可能性が高い)
•高齢ドライバーが起こす交通事故に対して、激しい憤り・義憤を覚えている者 (歪んだ「私刑(リンチ)」を正義と信じ込んでいる思想的犯行)
•過去に、自身の家族や大切な人を「高齢ドライバーの暴走事故」によって奪われた遺族 (私怨が個人的な復讐を超え、社会全体への世直しという狂気へと昇華したケース)
「以上の4点です」
鳳は腕を組み、集まった刑事たちを悠然と見下ろした。
「特に4つ目の条件・・・『高齢ドライバーによる事故の遺族』は最重要ラインです。加害者の高齢者が執行猶予になったり、認知症を理由に不起訴になったことで、司法への絶望から自ら『死刑執行人』となった者がいないか。過去10年の重大事故の遺族データベースをすべて洗い直します」
「・・・ちょっと待ってください」
会議室の後方から、控えめだが力強い声が上がった。 佐馬瀬だった。
鳳の鋭い視線が佐馬瀬へ注がれる。眉をひそめ、不快感を隠そうともしない。
「なにかしら?」
佐馬瀬は立ち上がり、静かに鳳の視線を受け止めた。
「主幹のプロファイリングは非常に緻密で、筋が通っています。ですが・・・犯人は『個人』とは限らない、単一の個人による復讐劇ではない可能性も探るべきでは?」
鳳の口元に、かすかな嘲笑が浮かんだ。
「個人ではない? では何だと?老人だけを殺す秘密結社とでも言いたいの? 現場には軍用ライフルを撃ち、絞殺用の紐を使いこなす肉体を持った人間がいるのよ。刑事なら妄想ではなく、手繰り寄せるべき『線』を見なさい」
「単なる個人的な復讐にしては、スケールが広域過ぎます」佐馬瀬は引かない。「北海道から九州まで、わずか4ヶ月で13人。いくら傭兵経験者でも、一人で移動し、尾行し、足痕を偽装しながらこれほどの頻度で暗殺をこなすのは物理的に限界がある。バックに組織がいるか、あるいは・・・」
「余計なロマン主義は結構です」
鳳は佐馬瀬の言葉を冷たく遮った。
「捜査の基本は『動機』と『能力』のある人間を調べ選別すること。軍用ライフルを調達でき、人を躊躇なく殺害できる技術を持ち、老人に肉親を殺された強い動機を持つ男・・・これ以上に濃い線がどこにあるというの?」
鳳はパンと手を叩き、会議室全体に命じた。
「本日の18時までに、各班は管内の『高齢ドライバー事故被害者遺族』および『元自衛官・海外渡航歴のあるミリタリーマニア』の該当者リストを提出すること。以上! 解散!」
圧倒的な高圧感とともに、鳳はさっさと壇上を降り、ハイヒールを鳴らして会議室を去っていった。
取り残された会議室の中で、刑事たちがぞろぞろと立ち上がり始める。
「・・・嫌な女だなあ、相変わらずエリート様は上から目線だ」 見州が小さく吐き捨てるように言った。 「でも佐馬瀬さん、鳳主幹の言う『事故の遺族が私刑を行っている』って説、筋としてはかなり通ってません?」
佐馬瀬は去っていった鳳の背中が消えた扉を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
「筋が通りすぎているのが、逆に気になるんだ・・・」
「え?」
「完璧すぎるんだよ、あまりにも。まるで犯人が『そう思われたがっている』かのように・・・」
そう呟く佐馬瀬の脳裏に、あの奥多摩の山村で、頭を撃ち抜かれて冷たくなっていた老人の顔が浮かんでいた。
13人の老人が、暗闇の中で人知れず消されていく。 警察庁主幹・鳳真央の主導のもと、巨大な捜査網が動き出そうとしていたが、その網の目は、あまりにも巨大で底知れない闇を見落としているのかもしれなかった。
レバノン東部、ベッカー高原の夜は、乾いた砂と冷気で満たされていた。
廃墟と化した旧ソ連製の防空陣地の跡地。崩れ落ちたコンクリートの壁の向こうで、数人の男たちがAK-47を抱え、不規則な間隔で煙草の火を光らせている。彼らはシーア派過激派組織『アル=ファジュル(黎明)』の戦闘員だった。
「・・・イスラエル政府からの回答はまだないのか」
見張り台代わりの水タンクの上で、男がアラビア語で吐き捨てた。 彼らの要求は明確だった。イスラエルの刑務所に収監されている幹部を含む三十二名の同胞の即時釈放。それが受け入れられなければ、捉えているイスラエル人と日本人ボランティアの女性を処刑し、その動画をネットに公開する――。
しかし、人質にしたイスラエル人女性は戦闘員の隙をついて逃げだそうとしたため射殺してしまった。大失態を犯してしまったが、その事は公開していない。イスラエルはまだ自国民が人質にされていると思っているはずだ。
ならば、まずは日本人の女を見せしめに殺して本気だと解らせる。そして生き残っていると思われているイスラエル人女性と引き替えに仲間の釈放を実現しなければならない。何としてもだ。
だが、交渉の仲介にあたっているレバノン政府の動きは鈍い。このままだと、イスラエル軍が越境して救出作戦を実行しかねないのだ。イスラエルは救出作戦を実行したという事実だけを必要とするだろう。そこには、人質の命など一顧だにする余地は無い。
しかし、仲介役を演じていたレバノン政府もイスラエルの介入は阻止したい。パワーバランスが複雑に絡み合う外交の現場において、これ以上イスラエルとの摩擦を増やしたくないレバノン政府は“解決を買い取る”決断をした。
◇
暗闇の中、三キロ離れた丘の斜面に、一台の黒い四輪駆動車が静かに停車していた。
車内には夜視ゴーグルを装着した四人の男たちが座っている。民間軍事会社(PMC)『アペックス・セキュリティ』の暗殺・電撃強襲チーム。そのリーダーの男――ジョン・ウーの肉体は、フル装備の防弾ベストを纏うことで一層の圧迫感を放っていた。
身長182センチ。鍛え抜かれた鋼のような筋肉によって、フルサイズのプレートキャリアは押し弾まんばかりに張り詰めている。アメリカ海兵隊の父親から受け継いだ鋭い鼻梁と骨太な骨格、そして日本人の母親から受け継いだ漆黒の髪と静謐な切れ長の瞳。十六歳まで日本で育ち、渡米後に海兵隊特殊部隊(フォース・リコン)で8年間の修羅場を潜り抜けてきた28歳の男には、研ぎ澄まされた肉食獣特有の冷徹な雰囲気が纏い付いていた。
「ターゲットの確認は?」
低く無機質な声でジョンが問う。日系人特有の黒い髪と鋭い眼光。28歳という若さでありながら、米陸軍第75レンジャー連隊での8年間で培われた空気は、竹林に潜んで牙を研ぐ虎そのものだった。
「内部の生体反応、五。うち一人は座り込んでいる。人質の一人だろう。もう一人の人質は確認できない」
後部座席のオペレーターが、熱源探知ドローンの映像を見ながら囁く。
「建物周囲に見張りが三。手前の見張りは五分おきに煙草を吸いに外へ出る。杜撰な警備だ」
「作戦の再確認だ」
ジョンはアサルトライフルのボルトを引き、一発の5.56mm弾をチェンバーに送り込んだ。
「生存者の引き渡しは人質のみ。生きていればいい。テロリスト側の生存者は不要」
「了解(コピー)」
「突入する」
ジョンは短く命じると、音もなくドアを開け、夜の砂漠へ溶け込んだ。
◇
風が吹き抜け、錆びた鉄くずが乾いた音を立てた。その音に紛れ、ジョンたちは地を這うような足取りで防空陣地の外壁に取り付いた。
最初の犠牲者は、水タンクの下で煙草を吸っていた男だった。男がライターの火をつけた瞬間、その光が彼の視界を奪う。その刹那、ジョンの腕が闇から伸び、男の顎を固定すると同時に首骨を素早くひねった。ゴキリ、という不快な鈍音が夜風に消える。男の身体が崩れ落ちる前に、ジョンは男の胸ポケットから煙草を素早く抜き取った。
(残りふたり)
ジョンはサプレッサー(消音器)を装着したHK416を構え、角を曲がる。二人目の見張りは、壁に背を預けてスマートフォンの画面を眺めていた。ジョンは迷うことなく、彼の眉間へ二発、胸部へ一発(ダブルタップ)を打ち込んだ。プスッ、プスッという抑え込まれた発射音とともに、男の頭部から血煙が吹き出し、崩れ落ちる。
「外周クリア。突入する」
ジョンは無線に短く囁くと、残るチームメンバー二人とともに、メインの建物へと向かう重い鉄扉の前に立った。
扉の奥からは、怒鳴り散らすアラビア語の声が聞こえていた。
「おい、あの女を起き上がらせろ! ビデオの撮影準備だ! イスラエルどもに、我々が本気だということを教えてやる!」
「待て、本部からの連絡がまだ・・・」
「知るか! カウントダウンは終わったんだ!」
ジョンはドアのヒンジ部分に小型の可塑性爆薬(C4)を貼り付けた。 カウントダウンの合図として、人差し指を三本立てる。3・2・1
パァン!
鋭い破裂音が響き、鉄扉が爆風とともに内側へ吹き飛んだ。同時に、ジョンがフラッシュバン(閃光手榴弾)を室内へ投げ込む。
グランッ!
強烈な光と、脳を揺さぶる200デシベルの爆音が室内を支配した。テロリストたちが悲鳴を上げ、目を押さえてうずくまる。
「ゴー!」
ジョンは煙が充満する室内へ踏み込んだ。 視界を覆う暗闇と煙の中、夜視ゴーグルのレンズ越しに浮かび上がるテロリストたちの緑色のシルエット。
パン、パン! 一人目。胸部と頭部。
パン、パン! 二人目。AK-47を持ち上げようとした男の腕を撃ち抜き、そのまま頭部へ追撃。
「クソッ!クソッ!クソッ!」
閃光弾の直撃を免れていた奥の男が、半狂乱になってアサルトライフルを乱射した。壁に弾丸が跳ね返し、セメントの破片がジョンの頬を掠める。だが、ジョンは眉一つ動かさない。
ジョンは滑らかな動作で遮蔽物に身を隠すと、男が連射を終えた一瞬の隙を見逃さなかった。ステップを踏み出して視界を確保し、男の首筋へ正確に弾丸を叩き込む。男は喉を押さえ、大量の血を噴き出しながら倒れ込んだ。
突入からわずか四十五秒。 室内を支配していた暴力的な怒号は消え去り、残されたのは薬品の臭いと、倒れた男たちの死体、そして激しい呼吸音だけだった。
「オールクリア」 部下が告げる。
ジョンは銃口を下げ、部屋の隅へと視線を向けた。
◇
部屋の最奥、湿ったコンクリートの壁に背を預け、震えている人影があった。手首を太い結束バンドで縛られ、足枷をはめられた女性。ボロボロになった服と、ホコリにまみれた黒髪。年齢は二十代前半に見えた。彼女は強烈な爆発音と銃声に恐怖し、両膝に顔をうずめて全身を激しく震わせている。
「中川良子(ナカガワ・リョウコ)か?」
ジョンは日本語で問いかけた。八年間のアメリカ生活とPMCでの荒んだ日々で、彼の日本語にはわずかに硬さが混ざっていたが、それでも彼にとって紛れもない母国語だった。
女性の体がピクリと跳ね上がった。 彼女はゆっくりと顔を上げた。
目に入ってきたのは、血と硝煙の匂いを纏い、漆黒の戦闘服に身を包んだ男の姿だった。顔の半分はタクティカルマスクで覆われ、夜視ゴーグルの冷たいレンズが自分を見下ろしている。一見すれば、彼女を拉致した男たちよりも凄惨な「死神」のような存在。
しかし、その男の口から出たのは、聞き覚えのある故郷の言葉だった。
「・・・は、はい。中川、良子です・・・」
声が震えていた。過呼吸を起こしかけており、唇は乾ききって紫色に変色している。
ジョンは膝をつき、ナイフを取り出した。 良子が怯えて身を引こうとするが、ジョンは静かな声で言った。
「動くな。切るぞ」
手首の結束バンドに刃を滑らせ、一気にして断ち切る。続けて足枷の鎖をバールでこじ開けた。 自由になった手足を抱え、良子は崩れ落ちるように床に伏せ、むせび泣いた。
「助けに来た。もう一人の人質は?」
「もう一人は・・・逃げようとして殺されてしまい・・・ました・・・」
その返答にジョンは舌打ちをしてしまった。レバノン政府がもっと早く依頼を出していればこんな事にならなかったはずだ。
「そうか。立てるか?」
死んでしまった者は仕方が無い。今は生きている人質の救出だけを最優先とする。ジョンは良子の手を掴んで立たせようとするが、足に全く力が入らないのかガクガクと震えて立つことが出来ない。
NGOの医療ボランティアとしてこの地に入り、突然武装勢力に連れ去られてから6日間。水も満足に与えられず、いつ首を斬られるかという恐怖に晒され続けた身体は、すでに限界を迎えていた。
ジョンは溜め息を一つ吐くと、アサルトライフルを背中に回し、良子の身体を抱き上げた。 軽かった。24歳の成人女性とは思えないほど、簡単に持ち上がってしまう。骨が浮き出た肩の感触が、彼女が経験した6日間の地獄を物語っていた。
「掴まっていろ。外にはまだ敵の増援が来る可能性がある」
「あ・・・ありがとうございます・・・あなたは、日本の、自衛隊の方ですか・・・・?」
良子はジョンの胸元にしがみつき、途切れ途切れに尋ねた。ジョンの胸からは、汗と、銃煙と、硝薬の匂いがした。それは決して正義のヒーローの匂いではなく、血に塗れた「プロの殺し屋」の匂いだった。
「違う」ジョンは冷たく言い放ち、歩き出した。「俺はただのゴミ拾いだ。金をもらって、お前という荷物を運んでいるだけだ」
良子はそれ以上、何も言わなかった。ただ、ジョンの頑強な胸板に顔をうずめ、彼の心臓の音を聞いていた。規則正しく、恐ろしいほど落ち着いた、一定のビート。無数の死を見てきた男の、冷徹で力強い鼓動。
その鼓動を感じた瞬間、良子の目から堰を切ったように涙があふれ出た。 生きている。自分は助かったのだと、初めて実感したのだった。
◇
「ウー、撤収だ。北側の道路から敵の車両が二台接近中。地元警察の無線も混乱している」
イヤホンからバックアップの叫び声が聞こえる。
「了解。今すぐ出る」
ジョンは良子を抱きかかえたまま、爆破した扉を抜けて外の冷気の中へ飛び出した。夜空には満天の星が広がっていたが、その美しさを鑑賞する余裕はなかった。遠くから、ピックアップトラックの排気音と、アラビア語の叫び声が近づいてくるのが聞こえる。
「車に乗れ!」
待機していた四輪駆動車のドアが開き、ジョンは良子を後部座席へと押し込んだ。自分も滑り込むように乗り込み、ドアを叩く。
「出せ!」
ドライバーがアクセルを踏み込むと、V8エンジンが咆哮を上げ、車体は勢いよく加速した。 直後、彼らがいた廃墟の周囲に、追手のAK-47から放たれた曳光弾(トレーサー)が赤く眩しい軌跡を描いて降り注いだ。車体のリアガラスに弾丸が命中し、強化ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入る。
良子が悲鳴を上げて身をかがめた。ジョンは咄嗟に彼女の頭を抱え込み、自分の身体で覆い隠した。
「伏せていろ! 頭を上げるな!」
頭上で重金属の衝突音が響き渡る。ジョンは片手で良子を押さえつけたまま、もう片方の手でサブマシンガンを構え、壊れたリアウィンドウから身を乗り出した。
暗闇の中、追いかけてくる二台のピックアップトラック。荷台には重機関銃(DShK)が据え付けられているのが見えた。
「ゴミどもが」
ジョンは暗視スコープ越しに、後続車のドライバーの頭部へ照準を合わせた。 車の揺れ、風速、夜間の視界不良。すべてのパラメーターが脳内で瞬時に計算される。レンジャー部隊で叩き込まれ、PMCの戦場で研ぎ澄まされた殺人スキルの真骨頂。
タタタン、タタタン!
三連射(バースト)を二回。後続のトラックのフロントガラスが砕け散り、ドライバーがハンドルに突っ伏した。制御を失ったトラックは猛スピードで横転し、激しい火花を散らしながら砂漠の渦へと消えていった。
残る一両は、仲間の惨劇を見て恐怖したのか、スピードを緩めて夜の闇の中へと後退していった。
「敵の追撃、途絶した。逃走ルートへ入る」
ドライバーの声に、車内の緊張が一気に緩和された。
◇
車は舗装された幹線道路へと抜け、ベイルート方面へと西へ向かってひた走る。追っ手の危険がなくなったことを確認すると、ジョンは身を起こし、装備をチェックし始めた。
弾倉を抜き、残弾を確認し、再び装着する。その手つきには一切の無駄がなく、機械のような正確さだった。
ふと視線を感じて横を見ると、良子がシートの隅で小さくなりながら、じっと自分を見つめていた。
「なんだ」ジョンは低く尋ねた。「どこか怪我でもしたか」
「いえ・・・」
良子は弱々しく首を振った。そして、膝の上に置かれたジョンの、血と煤で汚れた大きな手を見つめた。
「あの・・・お名前を、伺ってもいいですか?」
「名乗るほどの者じゃない。仕事は終わった」
「お願いです。命の恩人の名前も知らずに帰るなんて、できません」
良子の瞳には、先ほどまでの恐怖の影に混じり、強い意志の光が宿っていた。ただ守られるだけの弱々しい被害者ではない、彼女自身の芯の強さが垣間見えた瞬間だった。
ジョンはわずかに眉をひそめた。普段なら偽名を使ってやり過ごすところだったが、なぜかその時の彼女の真っ直ぐな視線に、嘘をつくのが憚られた。
「・・・ジョンだ。ジョン・ウー」
「ジョンさん・・・」良子は噛みしめるようにその名前を呟くと、深々と頭を下げた。「ありがとうございました。私を・・・助けてくれて」
「礼を言うなら、お前を救うために金を払ったレバノンの官僚に言え。俺はただ、契約を履行しただけだ」
ジョンは窓の外、黒々と横たわるレバノンの山々へ視線を投げた。彼にとって、これは何十回と繰り返してきた「仕事」の一つに過ぎなかった。人を殺し、人を引き取り、報酬を得る。血と硝煙に塗れた日常の、ほんの一コマのはずだった。
「これを・・・」
良子はポケットから紙と小さいペンを取り出して数字を書き込んでいく。080で始まる数字。それは良子の電話番号だった。そしてそれをジョンに差し出した。
ジョンはそのメモをひったくるように受け取り、無言のままプレートキャリアのポケットに押し込んだ。
◇
2035年 あの事件から4年後
2035年、春。東京郊外、武蔵野の面影を残す緑豊かな街並みの一角に、ジョンと良子、そして生後一歳になる娘の葵(アオイ)が暮らす低層アパートがあった。
朝の光がカーテン越しにリビングへ差し込み、柔らかな木目のフローリングを照らしている。 キッチンからは、出汁の効いた味噌汁と焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。
「ジョン、葵のおむつ替えてくれた? もうすぐご飯できるよ」
エプロン姿の良子が、蒸気の上がる鍋から顔を覗かせて微笑む。あの日、中東の湿ったコンクリートの暗闇で、死の恐怖に震えていた24歳の少女の面影は、いまや温かな母性の光の中に溶けていた。
「ああ、いま終わった」
ジョン・ウー――かつてアメリカ陸軍特殊部隊、そして民間軍事会社(PMC)の凄腕オペレーターとして血と硝煙の中に生きた男は、いまや不器用ながらも手際よく、小さな赤ちゃんのおむつを替えていた。
「アッ、バッ」
一歳の葵が、丸々とした手を伸ばしてジョンの鼻をつまむ。ジョンはその小さな手を優しく包み込み、頬を寄せた。赤ん坊特有の、ミルクと日なたを混ぜ合わせたような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
“奇跡だ”
ジョンは心の中で何度もそう呟いていた。 かつて彼の両手は、銃の握りを固く締め、敵の命を奪うためだけに存在していた。暗闇の中で敵の動脈を切り裂き、建物ごと爆破し、無機質な報酬を受け取る毎日。あの殺伐とした世界が自分のすべてであり、自分は死ぬまでその地獄から出られないのだと信じ込んでいた。
それを変えたのが、あの日、レバノンの廃墟から抱き上げた良子だった。
命を救ってくれたと言って自分を心から信頼し、恐れることなく温かな愛情を注いでくれた彼女。彼女の存在が、ジョンの凍りついた魂を少しずつ溶かした。PMCを辞め、日本に渡り、静かな生活を手に入れた。そして、ふたりの愛の結晶である葵が生まれた。
良子のメモに書かれてあった番号にメッセージを送ったのは、ほんの気まぐれだった。いや、偽名で契約したスマホからであっても、事件の当事者にメッセージを送るなどどうかしていたのだ。しかし、その理解不能な自分自身の行動が、今こうして穏やかな幸せを手に入れるきっかけになった。
「ジョン、いつもありがとうね」
食卓に朝食を並べ終えた良子が、ジョンの背中にそっと寄り添った。
「感謝するのは俺のほうだ、良子。お前と葵が、俺に人間としての人生をくれた」
「またそんな堅苦しいこと言って。はい、冷めないうちに食べて。今日は千葉で大事なセミナーでしょう?」
「ああ。10時には幕張の国際会議場に入らなければならない」
「気をつけてね。葵、パパにいってらっしゃいは?」
良子に抱っこされた葵が、小さな手をパタパタと振る。ジョンはふたりの額に優しくキスを落とし、愛用している黒のスーツに身を包んで家を出た。ドアを閉める直前、良子の笑顔と葵の無垢な瞳が、鮮明に脳裏に焼き付いた。それが、彼にとっての「世界のすべて」だった。
◇
2035年の東京は、完全な高度情報化社会へと変貌を遂げていた。街を行き交う車の九割以上は「LEVEL 5」の完全自動運転システムを搭載した電動車(EV)であり、歩行者や車同士が常時通信(V2X)を行うことで、交通事故の発生率は十年前の百分の一以下へと激減していた。
人々は移動中の車内で本を読み、眠り、会話を楽しんでいた。道路はもはや「危険な場所」ではなく、安全に管理された動線に過ぎなかった。
ジョンが所有しているスポーツセダンももちろん自動運転EVだ。運転席に座って目的地を設定すれば、あとはする事が無い。スムーズな加減速で首都高速を滑るように走り、何の問題もなく千葉の幕張メッセ国際会議場へと到着した。
現在、ジョンは大企業を対象とした「危機管理(リスクマネジメント)コンサルタント」として活躍していた。 傭兵時代に培った緻密な情勢分析、テロ対策、サイバーセキュリティの知見は、海外進出を図る日本の巨大IT企業やインフラ企業にとって喉から手が出るほど欲しいノウハウだった。血塗られた過去を隠し、実業家として成功を収めることで、彼は家族を完璧に養う力を得ていた。
「ウー先生、本日もよろしくお願いいたします」
会議場の主催者が出迎え、ジョンを控室へと案内する。広大なホールには、国内有数の大企業の役員やセキュリティ担当者、政府関係者など、数百名の参加者が詰めかけていた。
午前11時。ステージのスポットライトがジョンを照らした。
「――リスクとは、私たちが『存在しない』と油断した瞬間に、最大の破壊力を持って襲いかかってきます。システムが完璧であればあるほど、人間という『不確定要素』が最大のバグとなるのです」
壇上のジョンは、堂々とした立ち振る舞いと深みのある声でマイクに語りかけていた。 聴衆は彼の言葉に深く頷き、熱心にメモを取っている。
ジョンの心は穏やかだった。午後からのセッションを終えれば、夕方には武蔵野のアパートへ戻れる。途中のケーキ屋で良子の好きなショートケーキを買い、葵を抱っこして近所を散歩しよう。そんな慎ましい幸せのイメージが、彼の胸を温かく満たしていた。
セミナーが中盤に差し掛かった、11時40分のことだった。
講演の最中、ステージ袖の暗闇で動きがあった。
◇
「気をつけてね。葵、パパにいってらっしゃいは?」
ジョンは私が抱っこした葵の小さな手を包み、小さく振ってみせる。葵は「アッ、バッ」と声を上げながら、機嫌よく短い腕をパタパタと動かした。
ジョンはそんな私たちを愛おしそうに見つめると、私の額と葵の柔らかいおでこに、順番にそっとキスを落とした。彼の大きな手が私の髪に優しく触れる。血と銃煙の匂いしか知らなかったはずのその手は、いまや世界で一番温かく、繊細な手だった。
「いってくる。夕方には戻るよ」
スーツ姿のジョンがドアを開け、眩しい春の光の中に踏み出していく。彼が振り返り、最後にもう一度見せてくれた柔らかい笑顔。それが、私の大好きなジョンの表情だった。
ドアが閉まり、静かになった部屋で、私は葵を抱き直した。
「パパ、行っちゃったね。私たちもお散歩に行こうか」
葵が私のおでこに自分の頭をごっつんとぶつけてくる。その心地よい重みと温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
2035年のこの街は、驚くほど静かで穏やかだ。外に出れば、排気音ひとつ立てずに滑らかに走る自動運転のEV車たちが、整然と道路を行き交っている。かつて私が目にした、紛争地の爆音や黒煙、暴力に満ちた世界とはまるで違う。
「葵、今日は公園でお花を見ようね」
抱っこ紐で葵を胸に抱きかかえ、私は春の風が吹く街へと踏み出した。
徒歩で十分ほどの場所にある武蔵野の公園へ向かう道すがら、私は胸の中に広がる豊かな幸せをみしめていた。
葵の丸い頬、くりくりとした大きな瞳、ミルクの匂いがする柔らかい髪。 この子の顔を見るたびに、私は神様に感謝せずにはいられない。私のような人間が、こんなにも完璧な幸せを与えられていいのだろうか、と。
私は昔から、世界中の人たちが幸せになれるようにと本気で願っていた。大学を卒業してすぐ、NGOのボランティアとしてレバノンへ渡ったのも、その気持ちからだった。
争いや貧困に苦しむ人たちの力になりたい。傷ついた子どもたちの手を取り、少しでも笑顔を取り戻してほしい。世無知で青臭いと言われようと、私の根底には常に「世界平和」への強い祈りがあった。
けれど、現実は甘くなかった。 過激派組織に拘束され、暗く湿った廃墟に閉じ込められたあの日々。 自由を奪われ、暴言を吐かれ、いつ首を斬られるか分からない死の恐怖の中で、私は自分の無力さを知った。私の祈りも、言葉も、銃を持った男たちの前では何の役にも立たなかった。
そんな絶望のどん底から私を救い出してくれたのが、ジョンだった。
――暗闇を破る爆発音と銃声。 煙の中から現れた彼は、全身に殺気を纏った「死神」そのものだった。自分を拉致した男たちを次々と躊躇なく射殺していく姿に、私は恐怖で身体が凍りついた。
彼に抱きかかえられて廃墟を脱出したとき、私は心から感謝した。けれど同時に、激しい「忌避感」を抱いたことも事実だった。
「俺はただのゴミ拾いだ。金をもらって、お前という荷物を運んでいるだけだ」
車の中で冷たくそう言い放った彼の横顔を、今でもはっきりと覚えている。お金のために人を殺し、人を救う。そんな戦争のプロフェッショナルである彼が、どうしても怖かった。私の願う「平和」や「優しさ」とは対極に位置する、血に塗れた世界の住人なのだと。
レバノンから日本へ帰国した後も、私はトラウマと戦っていた。けれど、心のどこかでずっと、自分を救ってくれたあの黒い瞳の男のことが忘れられなかった。
彼にお礼が言いたい。そう決意して、世界中のPMCを調べてみたけど、自分の能力では手がかり一つ見つけることが出来なかった。半年が過ぎてもう諦めかけていた頃、私のもとに、彼からメッセージが届いた。
東京の小さなカフェで再会したときのジョンは、軍服ではなく静かな私服を着ていた。 相変わらず無口で、周囲を警戒するような目つきをしていたけれど、私と目を合わせると、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「・・・あんな物酷い現場を見せて、すまなかった」
それが、彼の開口一番の言葉だった。
彼は仕事で日本に来ていて、三週間ほど滞在すると言うことだった。生まれ故郷の日本で数日間の休暇もとるそうだ。その日は助けてくれたお礼を言って、私の生い立ちを少しだけ話した。そして別れ際、私は強引に翌日の約束を取りつけた。
そして何回か会って話をするうちに、私は彼の本当の姿を少しずつ知ることができた。18歳でアメリカの特殊部隊に入り、過酷な戦場を転々としてきたこと。人を信じることができなくなるような裏切りや、仲間を失う地獄を何度も潜り抜けてきたこと。彼が身につけた「冷酷さ」は、そうしなければ生き残れなかった彼の悲しい鎧(よろい)なのだと気づいた。
ある日、街角で野良猫にそっと自分のサンドイッチを分けてあげている彼の姿を見たとき、私の胸の中で何かが弾けた。彼の表情が笑顔だったのだ。
この人は、誰よりも傷ついている。 誰よりも優しくて、誰よりも温かい心を持っているのに、それを隠して生きてきたのだ。
「ジョンさん」
私は彼の大きな手をとった。血の匂いなどもうしなかった。そこにあったのは、無骨で、少し温かくて、不器用な男の手だった。
「私と、お付き合いしてくれませんか?」
ジョンは目を見開き、信じられないというように固まった。
「・・・正気か? 俺がこの手で多くの人間を殺してきたことを、知っているだろう」
「知っています。でも、私を抱き上げてくれたときの手が、どれだけ優しかったかも知っています。私は、あなたと一緒に生きたいんです」
◇
ジョンの個人事務所で雇っている秘書の女性――日頃から冷静沈着で、ジョンのスケジュールを完璧に管理している彼女が、青ざめた顔で舞台袖に立っていた。
彼女の様子がおかしい。普段なら、講演中に彼女がステージ付近に現れることなど絶対にあり得なかった。それも、足をもつれさせながら、周りのスタッフの制止を振り切るようにして歩み寄ってくる。
“何かが起きた”
プロとしての鋭敏な直感が、ジョンの脳裏でけたたましい警報を鳴らした。
ジョンはマイクを持ったまま言葉を区切った。会場に不審な沈黙が流れる。
「――失礼。少々不手際があったようだ。三分間のインターバルをいただく」
ジョンは短く告げると、マイクをスタンドに戻し、大股でステージ袖へと歩み寄った。
「どうした。何があった」
低い声で問うジョンに、秘書は唇を震わせ、手に持ったタブレットを握りしめながら息を呑んだ。彼女の顔からは血の気が完全に引いており、額には冷や汗が浮かんでいる。
「ウ・・・ウー先生・・・警察から、緊急の連絡が入りました」
「警察?」
「奥様と・・・お子様が・・・交通事故に遭われたと・・・」
瞬間、世界からすべての音が消え去った。
数百人の聴衆のざわめきも、空調の不快な低音も、すべてが遠い次元へと押し流された。ジョンの視界がぐにゃりと歪み、心臓が肋骨を突き破らんばかりの強烈な脈動を打った。
「・・・事故?」
自分の声ではないような、掠れた声が出た。
「ええ・・・都内の病院に、至急向かってほしいと。警察が・・・警察がそう言っています」
「状況は。良子と葵の容体は?」
「わ、分かりません! 警察はただ『一刻も早く病院に来てくれ』としか・・・容体については『確認中』としか教えてくれませんでした・・・!」
『確認中』 その曖昧な言葉は最悪の事態をも含有する無情な響きを帯びていた。
「先生、午後のセッションはキャンセルします! お車を準備させますから――」
「自分でいく」
ジョンは秘書の言葉を最後まで聞かず、着ていたジャケットのボタンを外し、猛然と走り出した。
幕張メッセの長い廊下を、ジョンはなりふり構わず駆け抜けた。高級な革靴が床を蹴るたび、甲高いいやな音が響く。
なぜだ? なぜ事故が起きる?
脳内で計算が高速回転する。東京の道路網は完全自動運転システム「V2X」で管理されているはずだ。歩行者センサーも、自動ブレーキも、絶対にエラーを起こさない重層的なセーフティネットが敷かれているはずだ。良子が通るはずの散歩コースは、歩道と車道がガードレールで完全に分離された安全な住宅街のはずだ。
システムのエラーか? 通信障害か? それとも――テロか?
傭兵時代の思考回路が勝手に回り始める。過去の敵が自分を特定し、妻子を狙ったのか?そんな不合理なことをするだろうか?
「クソッ!」
地下駐車場へ飛び込み、自分の車――手動切り替え機能を備えたスポーツセダン――のドアをこじ開けるように開けた。
「緊急モード・承認」
車載AIがジョンの置かれた状況を理解して緊急モードに移行する。これは、何かしらのトラブルが発生したときに、そのトラブル状況を管轄の公安システムに連絡し許可が出たときのみ承認されるモードだ。このモードが承認された場合、制限速度を30%超過した速度まで出すことが出来、さらに進路上の信号が優先的に青になる。
ジョンを乗せたスポーツセダンは湾岸高速道路へと飛び出す。制限速度は80キロなので、104キロで自動運転を実施する。周囲を走る整然とした自動運転車たちが、ジョンの緊急走行を検知して次々と車線を譲っていく。自動運転社会だからこそ見ることの出来る情景だ。
ジョンは運転席に座りながら右手の拳で何度もコンソールを叩いた。なぜこれ以上の速度を出さないのか?出せないのか?もしこれが10年前の自動車なら、手動運転でどんな速度でも出せるのに。
「良子・・・葵・・・頼む・・・」
口の中で、祈るように呟いていた。 かつて神も仏も信じず、戦場で自分の腕と銃だけを信じて生き抜いてきた男が、生まれて初めて見えない何かに必死で縋りついていた。
死ぬな。頼むから生きていてくれ
戦場で仲間が目の前で吹き飛ばされたときの光景がフラッシュバックする。腹部を撃ち抜かれ、血を吐きながら母の名を呼んでいた若い兵士。瓦礫の下で押し潰されていた名もなき子供。
あの血の匂い。硝煙の臭い。冷たくなっていく肉体の感触。
それらがすべて、良子と葵の姿にオーバーラップしてジョンの脳裏を苛む。
「うあああああっ!」
絶叫しながら、ジョンはコンソールを叩いた。フロントガラスの向こう、東京の高層ビル群が、まるで巨大な墓標のように黒く立ち塞がっていた。
◇
「葵。お花がきれいに咲いてるね」
公園へ続く遊歩道に入り、私は道端に咲く黄色いタンポポを指さした。胸の中の抱っこ紐で、葵が楽しそうに「きゃっきゃ」と声を上げて足をバタつかせる。
思い返せば、あの戦場のようなレバノンから、こんなに穏やかな東京の郊外へ辿り着くまで、本当に長い道のりだった。
ジョンはPMCを完全に辞め、日本でリスク管理のコンサルタントとして新しい人生を踏み出した。自分の過去を悔い、二度と誰かを傷つけないと誓いながら、真面目に、誠実に働く彼。そして生まれた、葵。
私は葵の頭にそっと頬を寄せた。この子の未来が、永遠に平和でありますように。戦争も、暴力も、理不尽な悲劇もない世界で、この子がたくさんの愛を受けて育ちますように。
2035年のこの世界は、完璧に見えた。街を走る車はすべてAIによって制御され、人間がミスを起こして事故を発生させることなんて、もう過去のおとぎ話になりつつあった。テクノロジーが人間を守り、誰もが安全に暮らせる世界。私たちが目指していた理想の社会が、ここにはあるはずだった。
ジョン、今日も早く帰ってくるといいな
今夜はジョンの好きなハンバーグを作ろう。葵を一緒にお風呂に入れて、三人で笑いながらご飯を食べよう。そんな当たり前の、けれど何物にも代えがたい幸福な未来が、ずっとずっと続いていくのだと疑わなかった。
公園の入口が見えてきた。 大きなケヤキの木の下で、子どもたちが楽しそうに遊んでいる声が聞こえる。
「葵、着いたよ。お友達、いるかな?」
私が歩道から公園の敷地へ足を踏み入れようとした、まさにその時だった。
ガガガガガッ!
突如として、背後から猛烈な金属の破壊音が響き渡った。
静寂に包まれていた住宅街の空気が、一瞬で引き裂かれる。 ガードレールがなぎ倒され、アスファルトを削る不快な重音。
何・・・!?
反射的に振り返ろうとした。だが、視界が追いつくよりも早く、私の全身の毛穴が激しい悪寒に総立ちになった。
耳をつんざくエンジン音。自動運転の静かな電気自動車(EV)からは絶対に聞こえるはずのない、狂暴なガソリンエンジンの爆音だ。
視界の端に映ったのは、V2Xの安全ネットワークから外れ、制御を失って暴走する、一台の白い旧型ハイブリッド車両だった。
運転席には、見開かれた落ちくぼんだ目と、固直した両手でハンドルを握りしめる老人の姿。助手席の老婆はあまりのことに目と口を大きく開けている。
あ・・・
声にならなかった。 車は歩道に乗り上げ、凄まじい速度で私と葵に向かって一直線に迫っていた。避ける時間なんてない。 コンマ一秒の猶予すらない。
葵――!!
私の身体は、思考よりも早く動いていた。考えるよりも先に、私は背中を丸め、胸の中の葵を両腕で全力で抱きしめた。 自分の背中で、この小さな命を守るために。 私がどうなってもいい、この子だけは――!
「葵っ!!」
私の叫び声は、迫り来る鉄の塊の衝撃音にかき消された。
ゴオンッ!!
背中に、世界が崩壊したかのような絶大な衝撃が走る。痛みの感覚すら訪れなかった。身体が宙に浮き、世界がぐにゃりと360度回転する。
風の音。散らばる硝子の破片。 なぎ倒されたツツジの植え込み。
地面に叩きつけられた瞬間、視界が急速に暗転していく。
・・・あ・・・
腕の中の感覚が、薄れていく。 葵の温もりが、冷たくなっていく空気の中に溶けていく。
・・・ジョン・・・
助けて。ううん、違う。来ないで。見ないで。私たちのこんな姿を、あなたに見せたくない。
せっかく血の地獄から帰ってきたのに。せっかく、優しい人間になれたのに。あなたを、また暗闇に引き戻したくない――。
ジョン・・・私を・・・葵を・・・愛してくれて、ありがとう・・・
最後に脳裏に浮かんだのは、今朝、玄関で見せてくれたジョンの優しい笑顔だった。
私の視界からすべての光が消え、深い、深い沈黙が訪れた。
◇
ジョンの車は指定された「聖マリアンナ総合病院」の緊急車両用ロータリーへと滑り込んだ。ジョンは車を飛び出し、自動ドアを押し開けて救急外来の受付へと殴り込んだ。
「中川良子! 葵!どこだ!」
受付の看護師が、ジョンの鬼気迫る形相に息を飲んだ。
「あ、ウー様ですね・・・! いま、警察の方が奥の処置室の前でお待ちです・・・」
ジョンは看護師が指さした廊下を走り抜けた。
白く無機質な病院の廊下。消毒液の不快な匂い。 その突き当たり、重い金属製ドアの前に、警察の制服を着た二人の警察官と、私服の刑事が立っていた。
ジョンは二人の警察官を確認したとたん、自分の足が思うように動かなくなってしまった。事実に近づく事への拒否感。良子と葵の状況を確認したとたん、それが現実のものとなって確定してしまうのではないかという恐怖感。とうの昔に克服していたと思っていた感情がジョンの足を重くさせていた。
「ウー・ジョンさんですね・・・警視庁のものです」
「ふたりは・・・良子と葵はどこだ! 無事なのか!?」
ジョンは刑事に詰め寄った。その眼光の凄まじさに、百戦錬磨のベテラン刑事すら一歩身を引いた。
「ウーさん・・・落ち着いて聞いてください」
私服刑事が、痛ましいものをを見る目でジョンを見つめ、静かに首を振った。
「現場で・・・お二人の死亡が確認されました。病院に搬送されたときは、すでに・・・」
――ガタン。
ジョンの膝から力が抜けかけた。壁に手をつき、かろうじて倒れるのを踏みとどまる。
「・・・死亡? なにを・・・何を言っているんだ?」
言葉の意味が脳に届かない。 今朝、自分に笑顔で味噌汁を出してくれた良子が? 自分の鼻を小さな手でつまんで笑っていた葵が?
死んだ?
「事故の状況は・・・」ジョンは血の気の失せた唇を動かした。「自動運転の不具合か? ブレーキの故障か? どこのメーカーだ・・・!」
「違います」
刑事が重い口を開いた。
「自動運転車ではありません。相手の車は・・・20年以上前のハイブリッド車です」
「何・・・?」
「82歳の男性が運転する、20年以上前の旧型ハイブリッド車です。アクセルとブレーキの踏み間違い・・・あるいは認知機能の低下による暴走と見られています。歩道に乗り上げ、お子様を抱いて歩いていた奥様を・・・背後から」
ジョンの頭の中で、何かが音を立てて断ち切れた。
自動運転社会。安全が約束された世界。新車の販売はV2X対応の自動運転EVしか存在しない。しかし、経過措置として旧型車も2039年までは乗ることが出来る。そんな状況下で、システムに乗ることを拒み、それでも「安全では無い車」を使うことを選択した一人の老人の身勝手な過失によって。
自分のすべてだった光が、一瞬で踏みにじられ、押し潰された。
「・・・その男は」
ジョンの声から、すべての感情が消え失せた。 代わりに宿ったのは、かつて中東の暗闇で無数の人間を屠ってきた、絶対的な「殺意」だった。
「その男は、今どこにいる」
「加害者の老人は、エアバッグのおかげで軽傷です。現在、別の部屋で取り調べを・・・」
刑事が言い終わる前に、ジョンは処置室のドアへと手をかけた。
扉が開く。 白布が被せられた、二つの小さな台がそこにあった。
ジョンは静かに歩み寄り、震える手で布をめくった。
そこにあったのは、冷たくなり、無残に傷ついた良子の顔と、その腕の中で静かに目を閉じている葵の小さな姿だった。
部屋の中に、ジョンの叫びとも絶望ともつかない、声にならない慟哭が低く響き渡った。
◇
2036年10月
都心の喧騒から遠く離れた東京都西端、奥多摩の山村は、朝から立ち込める深い霧と湿り気のある冷気に包まれていた。
最新の完全自動運転システム「V2X」が張り巡らされ、AIが交通網を完璧に制御する都心部とは異なり、この旧態依然とした山あいの集落には、未だに昭和や平成の匂いが色濃く残っている。電波の届きにくい不感地帯も点在し、街頭の防犯カメラの設置率も都心の十分の一にも満たない。
山肌に張り付くように建つ古い木造一軒家の前。 赤色灯を点滅させた数台のパトカーと、捜査車両が細い山道を塞いでいた。
「——現場はここか」
捜査一課の若手刑事、見州大翔(みるず・だいと)は、ぬかるんだ土を踏みしめながら捜査用スリッパへ履き替えた。シャープな目元と仕立ての良いスーツ。最新のサイバー捜査やデータ解析を得意とする、三十代前半の新鋭刑事だ。
そのすぐ後ろを、だぶついたトレンチコートを着た小柄な男が、ふぅと重い息を吐きながらついてくる。定年退職を数ヶ月後に控えたベテラン刑事、佐馬瀬(さませ)だ。白髪の交じったボサボサ頭に、長年の鑑識作業と張り込みで鍛え上げられた鋭い眼光。アナログな直感と地道な聞き込みで数々の難事件を解決してきた「昭和の生き残り」だった。
「見州、現場を荒らすなよ。ここは山だ。鑑識が足跡(アシアト)を探すのに一苦労なんだからな」
「分かってますよ、瀬戸さん。被害者は独居老人ですか」
見州がタブレット端末の画面を指で滑らせながら被害者の詳細を確認する。
「名前は相良(さがら)勝造、八十六歳。この家に一人暮らし。第一発見者は、毎朝牛乳を配達に来る近所の住民ですね」
二人は黄色の「KEEP OUT」テープをくぐり、自宅脇にあるトタン屋根の簡易駐車場へと足を踏み入れた。
◇
駐車場に停められていたのは、二十年以上前の型落ちした旧式軽自動車。V2X通信ユニットも搭載されておらず、手動運転(マニュアルドライブ)専用の、いまや骨董品のような軽自動車。
その運転席に、頭を後ろへ大きくのけ反らせた状態で、一人の老人が座っていた。
「・・・ひでぇな」
瀬戸が眉をひそめ、ポケットから取り出した煙草を咥えようとしたが、見州の視線に気づいて思いとどまり、ポケットへ戻した。
フロントガラスの中央には、直径数センチの綺麗な円形の亀裂が入っていた。そして、運転席に座る老人の額の中央——眉間のやや上には、小さな赤い穴が穿たれていた。後頭部は激しく破壊され、ヘッドレストと後部座席のシートには、血小板と脳漿が大量に吹き飛んでこびりついている。
「即死ですね」見州が視線の色を鋭くする。
「鑑識によると、射入口の形状および弾道の角度からみて、使用されたのは高威力のライフル銃・・・それも長距離からの精密射撃(スナイピング)です」
「ライフルねぇ・・・」瀬戸は腕を組み、車内の死体を覗き込んだ。
「この時代にライフルなんぞ持ち出して、老人の眉間を一発でぶち抜く殺し屋か。猟銃の誤射にしては、出来過ぎているな」
「誤射の可能性はゼロです」見州はキッパリと言い切った。
「鑑識の初期見立てでは、発射位置はここから約四百メートル離れた、向かいの山林の斜面と推測されています。早朝の霧の中、四百メートル先から移動していない車内のターゲットの眉間を打ち抜く・・・猟友会の爺さんにできる芸当じゃありません。プロの仕業です」
見州はタブレットを操作し、被害者・相良勝造のデータを呼び出した。
「相良勝造、八十六歳。元農協職員。今は無職。妻には数年前に先立たれ、子どもは都内で独立。金融トラブルなし、暴力団との接点なし。近所トラブルも・・・まあ、頑固ジジイとして有名で『自動運転なんて信じられるか』と周囲に手動運転を吹聴していたようですが、命を狙われるほどの恨みを買っている形跡はありません」
見州はタブレットから目を離し、不可解そうに首をひねった。
「解せない・・・・・んですよ、瀬戸さん」
「何がだ?」
「動機です。なぜ、この老人が殺されなければならなかったのか。プロの狙撃手を雇う、あるいはみずからライフルを調達してまで殺害する合理的な理由・・・・・が、この相良という人物には一切見当たらないんです」
◇
見州の言葉に、瀬戸は車体に近づき、潰れたフロントガラスの傷跡をじっと見つめた。
「合理的な理由、か。お前さんたち若い捜査官は、なんでもAIやデータで割り切れる『合理性』を探したがるな」
「当然でしょう。殺人は極めてリスクの高い犯罪です。特にこれほどの技術を持った犯人なら、リスクとリターンを計算しないはずがない。強盗目的でもない、個人の怨恨の線も薄い。となれば、この老人が『何か知ってはいけない重大な秘密』を握っていたか、あるいは・・・」
「あるいは?」
「誤認殺人です。ターゲットを間違えた」
見州の推理を聞いて、瀬戸はフッと鼻で笑った。
「間違えるかねぇ。四百メートル先から狙えるほどの腕客が、ターゲットの顔や行動パターンを調べ上げずに引き金を引くと思うか?」
「じゃあ、瀬戸さんはどう考えるんですか? この老人が殺された『合理的な理由』を説明できますか?」
少しトゲのある見州の問いかけに対し、瀬戸はゆっくりと振り返り、まだ霧の残る向かいの山林を見上げた。
「見州。『殺人を犯す人間』ってのを、自分と同じ知性や理屈で動いていると思っちゃいかん」
「・・・どういう意味ですか」
「普通の人間には絶対に理解できない行動原理ってのがな、連中には存在するんだよ」
瀬戸の低い声が、湿った空気に重く響いた。
「世の中には『自分なりの正義』やら『独自のルール』に狂っちまった奴がいる。傍から見れば支離滅裂で、相良個人には何の殺害動機もないように見えても、犯人の中では『絶対に殺さなければならない完璧な理由』が存在しているんだ」
瀬戸は懐から煙草の箱を取り出し、トタン屋根の影で指を弄んだ。
「この相良って爺さん、V2X通信を突っぱねて、時代遅れの手動運転車に乗り回してただろ。システムから外れて、いつ人を撥ね殺すか分からない暴走予備軍だ。・・・もし犯人が、相良個人に恨みがあるんじゃなく、『手動運転にしがみつく老人という存在そのもの』を憎悪しているとしたらどうだ?」
「存在そのものを憎悪・・・?」見州が息を呑む。「そんな狂信的な理由で、面識もない老人を狙撃したと?」
「さあな。だが、法やシステムを無視して危険を撒き散らす奴らに『害虫駆除』のつもりで天誅を下している・・・そう考えれば、相良がターゲットに選ばれたこと、そしてこの冷酷でプロフェッショナルな手口の辻褄が、ほんの少しだけ合ってきやしないか?」
「考えすぎですよ佐馬瀬さん。ちょっと発想が突拍子もないですね」
「おっ?オレの推理を馬鹿にするのか?まあ、この事件だけなら突拍子も無いんだがな、ちょっと気になる別事件があるんだよ。どうもオレには“独自のルール”でやってるように思えてしかたがねぇ」
「独自のルール・・・」
見州は呟き、もう一度軽自動車の運転席に転がる老人の死体を見た。
額に穿たれた一発の弾丸。 それは個人の恨みや感情の爆発ではなく、まるで「安全な社会を脅かす欠陥(バグ)を消去した」かのような、冷酷で機械的な処刑の跡に見えた。
もし佐馬瀬の言う通りなら、これは怨恨による単発の事件ではない。自分なりの正義とルールに基づき、手動運転ドライバーという「獲物」を狩り始めたシリアルキラー(連続殺人鬼)が、この自動運転社会の闇に解き放たれたことを意味していた。
「見州、向かいの山林へ行くぞ。銃撃に使った薬莢が見つかったらしい」
「え?本当ですか?この山から薬莢一個を?」
二人はぬかるんだ山道を歩き出し、狙撃地点と目される向かいの斜面へと向かった。
竹林の中に作られた鑑識の黄色いロープをくぐる。湿った落ち葉の上に、一発の真鍮色の薬莢が、静かに転がっていた。
7.62mm×51 NATO弾。 軍用のスナイパーライフルで使用される、強力な弾丸の抜け殻だった。
見州はその薬莢を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
犯人は痕跡をほとんど残していない。靴痕も、指紋も、DNAも。まるで幽霊(ゴースト)のように現れ、四百メートル先から見知らぬ老人の命を奪い、霧の中に消えていった。
それなのに・・・薬莢だけはこんなに見つかりやすい所に残しておく。
「瀬戸さん・・・もしこれが、犯人の勝手な正義に基づく狩り(・・)だとしたら」
見州は低く囁いた。
「この犯人は、これで満足して終わるでしょうか」
瀬戸は落ち葉を踏みしめ、深く刻まれた目尻のシワを寄せた。
「終わるわけねぇだろ。一度血の味を覚えた獣はな・・・次の獲物を探すもんさ。特に、自分が『正しい』と信じ込んでいる奴はな」
奥多摩の深い霧が、二人の刑事を呑み込むように、いっそう濃く立ち込めていった。
◇
東海地方の西端、伊勢湾から吹き付ける寒風が街を濡らしていた。
1月中旬の夕刻。日の入りは17時を回ったばかりだというのに、街はすっかり暗闇に呑み込まれている。吐く息は白く乱れ、街灯の薄明かりがアスファルトの凍てつきをぼんやりと浮かび上がらせていた。
ガタガタと悲鳴のようなエンジン音を響かせながら、1台の古い軽自動車が狭い路地へ入ってきた。車を運転しているのは、今年で85歳になる佐藤和雄だった。
和雄は、自宅敷地内にある木造の古びたガレージへ、バックで車を入れようと必死になっていた。かつては難なくこなしていた運転操作だが、近年はめっきり視力が落ち、空間の感覚も怪しくなっている。彼が乗るシルバーの軽自動車のバンパーやドアには、至る所に擦り傷や凹みが刻まれており、彼の運転技術がいかに危ういものになっているかを無言で物語っていた。
「くそっ、見えづらいな・・・」
バックミラーと死角を目視で交互に確認しながら、ジワジワとアクセルを踏み込む。 その時、ガツンという鈍い衝撃と、重苦しい破砕音が車内に響いた。
「あっ・・・!」
和雄は慌ててブレーキを踏み込み、ハザードランプを点けた。恐る恐る車を降りて後方に回り込むと、ガレージの隅に置いてあった素焼きの大きな植木鉢が、見事に粉砕されていた。大切に育てていたサボテンが、冷たいコンクリートの上に転がっている。
和雄は深く、長いため息をついた。衰え切った己の体に、情けなさがこみ上げる。
「・・・もう、そろそろ免許を返納しようかな・・・」
声に出すと、寂しさが胸に広がった。
世の中は変わった。今や新車で販売されるのは、完全自動運転機能を持ったAI搭載車だけだ。交通事故をゼロにするという政府の方針のもと、法改正が行われたからである。とはいえ、旧来のガソリン車やマニュアル車が一夜にして消えたわけではない。経過措置として、2039年までは旧型車の公道走行が認められている。だからこそ、和雄のような老人もこうして古い軽自動車に乗り続けていられるのだ。
だが、自動運転車への買い替えなど、和雄には夢のまた夢だった。いくら国や自治体から手厚い補助金が出るとはいえ、最新テクノロジーの塊である自動運転車はあまりにも高価だ。認知症を患い、足腰が立たなくなってきた82歳の妻・節子と二人、細々と年金で暮らす老夫婦に、そんな大金を捻出できる余裕などどこにもない。
ただし・・・という思いもある。地方都市とは言えバス路線はあり、車の維持にかかるお金を公共交通機関やタクシーに振り向ける事もできる。どうしても必要な外出だけにすれば、十分生活は出来るのだ。
「バス停までは300メートルもあるし、タクシーを呼んでも来るまで15分から30分はかかるからなぁ」
ほんの少しだけ不便さを受け入れたなら、自動車を手放すことはできる。しかし、自家用車の便利さに慣れてしまってはその不便さを受け入れることは困難なのだ。
諦めにも似た徒労感を抱えながら、和雄は運転席のドアを閉め、ポケットから鍵を取り出した。ガチャリ、と手動でドアを施錠しようと、車体に背を向けた、まさにその刹那――。
冷気とは明らかに異なる、粘りつくような死の気配が、和雄の背後に立ち昇った。
「――っ!?」
振り返る間すらなかった。 極細の、だが鋼鉄のように頑丈な繊維状の紐が、突然闇から伸びてきて和雄の首元へ巻き付いた。
「がっ・・・! ぐ・・・ッ!」
凄まじい力で後ろへ引き絞られる。首の動脈と気道が同時に激しく圧迫された。喉の奥で異音が鳴り、空気を取り込もうと口を大きく開けるが、酸素は1ccも入ってこない。
何が起こったのか、理解する思考すら奪われていく。脳への血流が急速に遮断され、視界の端から黒い靄が広がっていった。意識が遠のき、指先から力が抜けていく。和雄の手から落ちた車の鍵が、冷たいコンクリートにカチャンと乾いた音を立てた。
数秒後、和雄の体は完全に弛緩し、闇の中へと崩れ落ちた。 首を絞め上げていた謎の影は、静かにその手を放すと、気配もなく夜の静寂へと溶けて消えていった。
◇
その夜、自宅の居間で一人テレビを見ていた妻の節子(82)は、夫がなかなか戻ってこないことに首を傾げていた。
「お父さん、トイレ長いねぇ・・・」
だが、彼女の頭の中には霧がかかっていた。アルツハイマー型認知症が進んでいる節子は、「夫が車で出かけた」という事実を、数分後には忘れてしまう。探しに行こうという意思は長続きせず、テレビから流れる派手なバラエティ番組の音に気を取られ、やがてこたつに入ったまま眠りについてしまった。
和雄の冷たくなった遺体が発見されたのは、翌朝の午前7時半過ぎのことである。
「うわあああぁぁ!おじいちゃんが倒れてるよー!」
通学路を歩いていた近所の小学生が、ガレージの脇で奇妙な姿勢で倒れている和雄を見つけ、悲鳴を上げた。ランドセルを背負った子供たちの声に驚いた近隣住民が駆けつけ、警察と救急へ通報したのだった。
◇
それから数日後。 場所は変わり、警視庁の捜査一課。
刑事の佐馬瀬(たかやま)は、自席のデスクで冷めきった缶コーヒーをすすりながら、パソコンのモニターを見つめていた。その隣では、年下の相棒である見州(おおとも)が、カップ麺の湯切りを終えて自席に戻ってきたところだった。
「佐馬瀬さん、何見てんすか? また管外の事件ファイルですか?」 見州が麺をすすりながら尋ねる。
「・・・ああ。例の東海地方の小都市で起きた、85歳男性の首絞め殺人事件だ」
佐馬瀬が画面を指差した。 そこには、警察のデータベースから抽出された事件の概要と、現場の写真が表示されている。
「あー、ニュースでやってましたね。ガレージで老人が殺されたやつ。あれ、うちの所轄じゃないでしょ? あっちの警察署が特捜本部立ててやってるんじゃないですか」
「そうなんだがな・・・どうにも引っかかるんだよ」
佐馬瀬は眉間に深いシワを刻み、画面上の遺体写真を凝視した。
「違和感、ですか?」
「ああ。被害者の佐藤和雄さん(85)は、金品を奪われていない。財布も手付かず、家侵入の痕跡もない。妻は認知症で犯人の目撃証言は期待できない。・・・一見すると、突発的な通り魔か、あるいは怨恨のように見せかけた殺人だ」
「怨恨にしては、85歳の近所でも評判のいい老人が、首を絞め殺されるほどの激しい怨みを誰かに買っていたとは考えにくいですけどね。かといって通り魔にしては、手際が良すぎる」
「そうなんだよ」佐馬瀬は膝を叩いた。
「凶器は細い繊維状のコードのようなもの。首に一直線の吉川線(首を絞められた痕)が残っているだけで、着衣の乱れもほとんどない。爪の間にも犯人に繋がる残留物は無し。一瞬で首を絞め上げ、脳への血流を止めて即死させている。素人の突発的な犯行じゃない。プロの仕事か、あるいは・・・極めて計画的な殺戮だ」
佐馬瀬はマウスを操作し、別のファイルを立ち上げた。画面に全国の地図が表示され、幾つかの地点に赤いくさびが打ち込まれる。
「見州。過去の類似事件を全国データベースで照会してみたんだ」
「照会・・・? まさか・・・“独自のルール”ってやつですか?シリアルキラーの可能性?」
見州の手が止まる。佐馬瀬は静かに頷き、赤いくさびをひとつずつ指し示した。
「過去4ヶ月の間だ。北は北海道から、南は九州まで。殺害手法が極めて類似している事件が、佐藤さんの件を含めて11件ある」
見州の目が丸くなった。
「じゅ、11件・・・!? なんですかそれ、なんで今まで広域重要事件として指定されてないんですか!」
「被害者の属性がバラバラだからだ。地域も脈絡もない。犯行現場も、自宅の庭、夜間の公園、病院の駐車場・・・共通しているのは『夜間、人目のない場所で、細い紐のようなもので背後から一瞬で首を絞め殺されている』という点だけだ」
「・・・待ってください。共通点は本当にそれだけですか? 年齢層とかは?」
見州の鋭い指摘に、佐馬瀬は重々しく頷いた。
「そこだ。11人の被害者全員の共通点――」
佐馬瀬はモニターの画面を切り替え、11人の顔写真とプロファイルを並べた。
「被害者は全員、80歳以上の高齢者だ。そしてもうひとつ・・・全員が自分の自動車の近くで殺されている。それも、V2X非対応の古い車だ」
「な・・・ッ!?」 見州は思わず声を漏らした。
「自動運転車買換の経過措置・・・2039年問題・・・」見州が呟く。
「高齢ドライバーによる痛ましい交通事故を無くすために完全自動運転化が進められたが、買えない老人は古い車に乗り続けるしかない・・・。まさか犯人は、それを・・・?」
「『暴走するかもしれない高齢ドライバーを、事故を起こす前に“処分”している』・・・とでも言いたいのかもしれないな」
佐馬瀬の声には、氷のような怒りと、深遠な闇に対する恐怖が混ざり合っていた。
11人の老人が、誰にも気づかれぬまま、暗闇の中で人知れず狩られている。都市の死角で静かに進行する、狂気とエゴに満ちた「高齢者狩り」。
「・・・佐馬瀬さん。これ、上の連中に報告して本格的に調べましょう。次の犠牲者が出る前に」
見州の言葉に、佐馬瀬は硬い表情のまま静かに頷いた。窓の外では、寒冷前線の接近を告げる冷たい雨が、ポツリポツリとガラスを叩き始めていた。
◇
警察庁の会議室は、重苦しい熱気とパイプ椅子のキシむ音に包まれていた。
「全国広域連続指定特別捜査本部」――壁に掲げられた達筆な文字が、ことの重大さを物語っている。
東海地方の小都市で起きた事件を含め、警察庁が把握した同一犯によると思われる連続殺人事件の被害者は、ついに13人に達していた。
各地から集められた優秀な捜査官たちが一堂に会する中、最前列にはあの佐馬瀬と見州の姿もあった。ふたりは正式にこの合同捜査本部のメンバーとして出向を命じられたのだ。
スクリーンには13人の被害者の顔写真が並べられている。 いずれも80歳以上の高齢者。そして全員が、自動運転機能を備えていない「古い型の自動車」を日常的に運転していたという共通点を持っていた。
「・・・殺害手法の内訳は、11件が細い紐のようなものによる絞殺。そして残る2件が、遠距離からの狙撃による射殺です」
報告を担当する捜査官の声が響く。
「絞殺に使われた紐は、遺体に残された痕跡や首の圧迫痕(吉川線)の形状、解剖結果の比較から、全て同一の特殊な繊維コードと断定されました。一方、狙撃に使われたのは7.62mm口径の軍用ライフル。日本国内での流通は極めて稀なものです。現在、国内で正規登録されている該当銃器の所有者は全て洗いましたが、事件で使用された銃弾の線条痕と一致するものは1件もありません。密輸された違法銃器の可能性が高い」
スクリーンが切り替わり、現場に残されていた足跡の比較画像が表示された。
「現場に残された足跡ですが・・・興味深いことに、靴底のパターンは事件ごとに全て異なっています。さらに、歩幅から推定される靴のサイズも25.0cmから28.0cmまでバラつきがあります。しかし、これは単独の犯人が捜査を撹乱するために、意図的にサイズの違う靴や異なる靴底の履物を使い分けている偽装工作の可能性が極めて高いと考えられます」
「手慣れてやがるな・・・」 佐馬瀬が見州にだけ聞こえる小声で呟いた。
「絞殺に狙撃、果ては足痕の偽装まで・・・完全にプロの犯行ですよ」
「ああ」佐馬瀬は深く頷き、手帳にメモを走らせた。
「絞殺で着実に殺しながら、場合によっては遠距離から狙撃に切り替える。しかし、何で狙撃なんだ?絞殺でも十分に出来たはずだ」
会議室の空気が緊張感を増す中、何人かの地方警察から出向してきたベテラン刑事が、自身の見解や犯人像(プロファイリング)を次々と発表していった。
「犯人は過激な交通安全運動の信奉者ではないか」 「いや、高齢者福祉の予算圧迫に不満を持つ若年層によるテロだ」 「SNSで結成された闇バイトグループによる、広域シリアルキラーの可能性は?」
様々な口論や推測が飛び交い、収集がつかなくなりかけたその時――。
コンコン、とハイヒールの硬い音が静まり返った会議室に響いた。
プロジェクターの光を背にして、一人の女性が壇上に登る。今回の合同捜査本部で主幹を務めることになった、刑事部長――鳳 真央(おおとり まお)、42歳。
すっと伸びた背筋、モデルのように細く高い長身。無駄のない仕立てのパンツスーツに身を包み、鋭い目元と知性あふれる整った顔立ちをした美人だった。だが、その瞳には一切の不純物を許さない冷徹な光が宿っている。徹底した能力主義であり、とりわけ現場叩き上げの男性刑事をどこか見下すような雰囲気を隠そうともしない、絵に描いたような警察庁のエリートだ。
鳳は壇上に立つと、会議室全体を氷のような視線で見渡した。それだけで、ガヤガヤとしていた私服刑事たちの口数がピタリと止まる。
「各県のくだらない雑感はそこまでにしていただきましょうか」
鳳の声は澄んでいたが、芯まで冷え切っていた。何人かのベテラン刑事が不快そうに顔を歪める。
「13人もの高齢者がシリアルキラーの手によって処刑されている・・・これは国家に対する明白な挑戦であり、テロ行為です。これ以上の無駄な推測でリソースを浪費するのはやめなさい。本部長の許可のもと、プロファイリング班と私が策定した『犯人像』を提示します」
鳳がリモコンを操作すると、スクリーンの画面が一変した。 そこには箇条書きで、明確なターゲット像が刻まれていた。
「今回の事件、犯人のプロファイルは以下の通りです。捜査員は全員、この条件に合致する人物の洗出しに全力を注ぎなさい」
鳳は長い指で画面を指し示しながら、淡々と、しかし威圧的に言い放った。
【犯人プロファイル】
•元軍人、または海外での傭兵経験がある男性 (軍用ライフルの扱いに精通し、至近距離での無音絞殺術および足跡偽装などの過酷な軍事訓練を積んだプロフェッショナル)
•高齢者に対して強い憎悪を抱いている者 (単なる無差別殺人ではなく、特定の年齢層に固執している点から、過去に高齢者との深刻なトラブルを抱えている可能性が高い)
•高齢ドライバーが起こす交通事故に対して、激しい憤り・義憤を覚えている者 (歪んだ「私刑(リンチ)」を正義と信じ込んでいる思想的犯行)
•過去に、自身の家族や大切な人を「高齢ドライバーの暴走事故」によって奪われた遺族 (私怨が個人的な復讐を超え、社会全体への世直しという狂気へと昇華したケース)
「以上の4点です」
鳳は腕を組み、集まった刑事たちを悠然と見下ろした。
「特に4つ目の条件・・・『高齢ドライバーによる事故の遺族』は最重要ラインです。加害者の高齢者が執行猶予になったり、認知症を理由に不起訴になったことで、司法への絶望から自ら『死刑執行人』となった者がいないか。過去10年の重大事故の遺族データベースをすべて洗い直します」
「・・・ちょっと待ってください」
会議室の後方から、控えめだが力強い声が上がった。 佐馬瀬だった。
鳳の鋭い視線が佐馬瀬へ注がれる。眉をひそめ、不快感を隠そうともしない。
「なにかしら?」
佐馬瀬は立ち上がり、静かに鳳の視線を受け止めた。
「主幹のプロファイリングは非常に緻密で、筋が通っています。ですが・・・犯人は『個人』とは限らない、単一の個人による復讐劇ではない可能性も探るべきでは?」
鳳の口元に、かすかな嘲笑が浮かんだ。
「個人ではない? では何だと?老人だけを殺す秘密結社とでも言いたいの? 現場には軍用ライフルを撃ち、絞殺用の紐を使いこなす肉体を持った人間がいるのよ。刑事なら妄想ではなく、手繰り寄せるべき『線』を見なさい」
「単なる個人的な復讐にしては、スケールが広域過ぎます」佐馬瀬は引かない。「北海道から九州まで、わずか4ヶ月で13人。いくら傭兵経験者でも、一人で移動し、尾行し、足痕を偽装しながらこれほどの頻度で暗殺をこなすのは物理的に限界がある。バックに組織がいるか、あるいは・・・」
「余計なロマン主義は結構です」
鳳は佐馬瀬の言葉を冷たく遮った。
「捜査の基本は『動機』と『能力』のある人間を調べ選別すること。軍用ライフルを調達でき、人を躊躇なく殺害できる技術を持ち、老人に肉親を殺された強い動機を持つ男・・・これ以上に濃い線がどこにあるというの?」
鳳はパンと手を叩き、会議室全体に命じた。
「本日の18時までに、各班は管内の『高齢ドライバー事故被害者遺族』および『元自衛官・海外渡航歴のあるミリタリーマニア』の該当者リストを提出すること。以上! 解散!」
圧倒的な高圧感とともに、鳳はさっさと壇上を降り、ハイヒールを鳴らして会議室を去っていった。
取り残された会議室の中で、刑事たちがぞろぞろと立ち上がり始める。
「・・・嫌な女だなあ、相変わらずエリート様は上から目線だ」 見州が小さく吐き捨てるように言った。 「でも佐馬瀬さん、鳳主幹の言う『事故の遺族が私刑を行っている』って説、筋としてはかなり通ってません?」
佐馬瀬は去っていった鳳の背中が消えた扉を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
「筋が通りすぎているのが、逆に気になるんだ・・・」
「え?」
「完璧すぎるんだよ、あまりにも。まるで犯人が『そう思われたがっている』かのように・・・」
そう呟く佐馬瀬の脳裏に、あの奥多摩の山村で、頭を撃ち抜かれて冷たくなっていた老人の顔が浮かんでいた。
13人の老人が、暗闇の中で人知れず消されていく。 警察庁主幹・鳳真央の主導のもと、巨大な捜査網が動き出そうとしていたが、その網の目は、あまりにも巨大で底知れない闇を見落としているのかもしれなかった。


