光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

朝、目が覚めた。

見慣れない天井。

広すぎるリビング。
窓の向こうには、朝の光に照らされた高層階の景色。

一瞬、思考が止まる。

……ここ、どこ。

次の瞬間、昨夜のことを思い出した。

病棟の飲み会。
突然の集中豪雨。
濡れた服。
藤崎理久の家。
温かいコーヒー。
ソファ。

そして――寝落ち。

美月は一気に起き上がった。

肩からブランケットが落ちる。

うわ。

最悪。

雨宿りのつもりが、普通に寝た。
しかも人の家で。
しかも藤崎先生の家で。

美月は慌てて周囲を見回した。

ローテーブルの上に、昨夜使ったカップはない。

代わりに、新しいペットボトルの水が一本置かれている。

少し離れたところには、きちんと畳まれたタオル。

スマホの横には、充電器も置かれていた。
必要なら使えるように、ということなのだろう。

自分の身体を確認する。

何もされていない。

ちゃんとソファで寝かされている。
ブランケットまでかけられている。
距離も、守られている。

……紳士か。

いや、だからこそ怖い。

その時、キッチンの方から声がした。

「起きた?」

美月が振り向くと、理久が立っていた。

もう起きている。

髪は少しだけラフで、黒の薄手の襟付きニットを着ている。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れていた。

テーブルには、すでに朝食が用意されている。

トースト。
スクランブルエッグ。
サラダ。
ヨーグルト。
温かいスープ。
水。

完璧。

美月は言葉を失った。

隙がない。

何この人。

朝まで隙がない。

理久は、いつもの調子で少し笑った。

「大丈夫? 顔、完全に事故後だけど」



美月は慌ててブランケットを畳む。

「すみません。本当にすみません。寝るつもりはなくて」

「うん。寝る気満々の顔ではなかったね」

「違います。そういう意味ではなくて」

「分かってる」

理久はカップを置いた。

「疲れてたんでしょ。昨日、飲み会も雨もあったし」

美月は申し訳なさでいっぱいになる。

「ご迷惑をおかけしました」

「迷惑ならブランケットかけない」

さらっと言われて、美月は固まった。

そういうことを、普通の顔で言うな。

理久はテーブルを指した。

「朝ごはん、食べてから帰れば」

美月は即座に警戒する。

「いえ、そこまでしていただくわけには」

「もう作った」

「……作ったんですか」

「うん。食べないと俺が困る」

「なぜですか」

「二人分あるから」

また逃げ道を塞がれた。

しかも自然に。

美月はテーブルを見る。

確かに、二人分ある。

「いつの間に……」

「綾瀬さんが爆睡してる間」

「爆睡って言わないでください」

「じゃあ、深めの仮眠」

「ほぼ同じです」

理久が少し笑う。

「大丈夫。寝顔は見てない」

「見たんですね」

「いや、寝てるか確認しただけ」

「それを見たと言います」

「じゃあ、見えてしまっただけ」

出た。

最悪。

朝から出た。

美月は小さくため息をついた。

「本当に、隙がないですね」

理久が少し首を傾げる。

「俺が?」

「はい」

「それ、褒めてる?」

「褒めてません」

「だと思った」

それでも、理久は少しだけ穏やかに笑っていた。

美月は結局、テーブルについた。

理久は向かいではなく、少し斜めの席に座る。

近すぎない。
でも遠すぎない。

その距離感がまた腹立たしい。

ちゃんと離れている。
昨夜、自分で三回言った「雨宿りだけ」を守っている。

そう思った瞬間、理久が言った。

「距離、これくらいなら安全圏?」

「……暫定的に」

「暫定なんだ」

「継続観察です」

「じゃあ、退院はまだ?」

「むしろ入院させていません」

「厳しいな」

美月は、少しだけ笑いそうになった。

危ない。

この会話のテンポに慣れてはいけない。

朝食は、普通においしかった。

それもまた腹立たしい。

トーストは焦げすぎていないし、スクランブルエッグは柔らかい。
スープは温かく、コーヒーは少し濃い。

見た目だけでなく、ちゃんと整っている。

美月はカップを持ちながら、ふと黙った。

こんなところで、何をしているんだろう。

外科の藤崎先生の家で、彼の服を借りて、朝食を食べている。

冷静に考えれば、かなり危険な状況だ。

でも、今この場には不思議な圧がない。

押しつけがましくない。

距離を詰めてくるくせに、決定的なところでは踏み込まない。

そのことが、逆に厄介だった。

理久が、少し真面目な声で言った。

「昨日のこと、気にしなくていいよ」

美月は目を伏せる。

「でも、普通に迷惑です。雨宿りのつもりで来て、寝て、朝食まで」

「綾瀬さんって、助けられるの苦手だよね」

その言葉で、美月の動きが止まった。

「……別に」

「二回言う?」

「言いません」

理久は笑わなかった。

少しだけ優しい声で続ける。

「誰かを助ける側にはすぐ回るのに、自分が助けられる側になると、すごく居心地悪そうにする」

美月は返せなくなった。

からかいではない。

ちゃんと見られている。

それが分かってしまった。

理久は、目を逸らさずに言った。

「昨日は、助けられてよかったと思っておけばいいよ」

美月は、少しだけ困った顔をした。

「……そういう言い方、ずるいです」

理久は、いつもの笑みに戻る。

「うん。知ってる」

「否定してください」

「しない方が、綾瀬さんは返しやすいでしょ」

「好きじゃありません」

「二回言う?」

「言いません」

理久が、くすっと笑った。

* * *

朝食のあと、美月は自分の服に着替えた。

乾燥機から出した服は、ちゃんと乾いていた。
まだ少しだけ温かくて、雨に濡れた匂いはほとんど消えていた。

服まで乾かされている。
コーヒーも出てきた。
朝食も出てきた。
何もされていない。

完璧すぎて、逆に腹が立つ。

リビングに戻ると、理久が何でもない顔でカップを片付けていた。

美月は改めて頭を下げる。

「本当に、昨日はすみませんでした。服まで……」

理久は少し笑った。

「乾いてよかったね」

「……お手数をおかけしました」

「うん。かなり」

美月が顔を上げる。

「そこは“大丈夫”って言うところでは?」

「言うと思った?」

「普通は言います」

「じゃあ、言わない」

朝から腹立つ。

でも、理久は楽しそうだった。

美月はバッグを持ち、玄関へ向かった。

「では、失礼します」

理久は玄関まで見送る。

そこで、ふっと言った。

「でも、綾瀬さん」

「何ですか」

「昨日のこと、病棟でバレたら大変そうだね」

美月の動きが止まった。

理久は靴箱にもたれたりせず、きちんと立っている。
ただ、表情だけが少し悪い。

「……どういう意味ですか」

「いや、藤崎先生の家に泊まった、って聞こえたら」

「泊まったんじゃありません。寝落ちです」

「うん。そこ、世間的にはあまり区別されないかも」

「します。大事な違いです」

「俺は分かってるよ」

「じゃあ問題ありません」

「でも、10Aのみんなは?」

美月は固まった。

理久がにこっと笑う。

「袋叩きに合いそうだね」

最悪。

この男、完全に分かって言っている。

美月は低い声で言った。

「言いませんよね」

「言うわけないじゃん」

「本当に?」

「綾瀬さんが困ることはしない」

少し間を置いて、理久が続ける。

「たぶん」

美月は目を細めた。

「今、“たぶん”って言いました?」

「言った」

「撤回してください」

「冗談。言わないよ」

その声は、さっきまでより少しだけ静かだった。

美月は黙った。

理久は、きちんと美月を見る。

「昨日のことは、俺と綾瀬さんだけでいい」

その言い方が、またずるかった。

秘密を守ると言っているのに、同時に。

二人だけの秘密、みたいに聞こえる。

美月は眉をひそめる。

「そういう言い方、やめてください」

「どれ?」

「“俺と綾瀬さんだけ”みたいな言い方です」

「嫌?」

「嫌というか、誤解を招きます」

「ここ、二人しかいないけど」

「私が誤解します」

理久が少しだけ目を細めた。

「するんだ」

美月は即答できなかった。

「……しません」

「二回言う?」

「言いません」

「賢明」

腹立つ。

でも、テンポがいい。

玄関で靴を履きながら、美月は自分に言い聞かせた。

これはお礼。

雨宿りと朝食と、服を乾かしてもらったお礼。

それ以上ではない。

絶対に。

理久が自然に言った。

「じゃあ、綾瀬さん」

「何ですか」

「今度、ちゃんとお礼して」

「……何を要求するつもりですか」

理久は少し笑った。

「そんな顔しないでよ。食事とか」

「それ、要求ですよね」

「お願い」

「弱みを握ったうえでのお願いに聞こえます」

「じゃあ、言い方を変える」

理久は少しだけ真面目な顔になった。

「昨日のことは言わない。これは絶対。
それとは別で、俺は綾瀬さんと食事に行きたい」

美月は黙った。

ずるい。

脅しではない形に、ちゃんと直してくる。

逃げ道を塞がれたわけではない。
でも、断る理由も薄くなってしまう。

何もしていない。

それは事実だ。

本当に、何もしていない。

だからこそ厄介だった。

助けられて、守られて、距離を保たれて。

さらに、こちらが断れる形で誘ってくる。

美月は深く息を吐いた。

「……分かりました。食事で」

「いいの?」

「お礼です。あくまで」

「うん。お礼ね」

「強調しないでください」

「してない」

「しています」

理久は楽しそうに笑った。

「じゃあ、店はこっちで取る」

美月は即座に警戒する。

「普通のお店でお願いします」

「普通って?」

「普通です。高くない、静かすぎない、変に雰囲気が良すぎないお店です」

「条件多いな」

「安全管理です」

「またそれ」

「重要です」

理久は少し笑って、言った。

「分かった。考えておく」

美月は思った。

考えておく、が一番信用できない。

その時、理久が自然にスマホを取り出した。

「連絡先、教えて」

美月は固まる。

「……院内の連絡手段でよくないですか」

「店の場所とか時間、それで送るの?」

「……」

「それ、逆に不自然じゃない?」

正論だった。

腹立つくらい正論だった。

美月は、かなり渋い顔でスマホを取り出した。

「業務外連絡は必要最低限でお願いします」

理久もスマホを出して、笑う。

「了解。必要最低限ね」

「本当に分かってます?」

「分かってる。店と時間だけ」

「それ以外は不要です」

「天気とかも?」

「不要です」

「服装は?」

「……それは必要です」

理久が、くすっと笑った。

「じゃあ、必要最低限に入れておく」

この時点で、もう負けている。

連絡先を交換してしまった。

しかも、相手は妙に楽しそうだった。

美月はスマホをしまいながら、最後にもう一度だけ言った。

「お礼ですから」

「うん」

「本当に、それだけです」

「二回言った」

「……」

「三回目、言う?」

美月は睨んだ。

「言いません」

理久は満足そうに笑った。

「じゃあ、また」

美月は玄関の外へ出る。

扉が閉まる直前、理久の声がした。

「綾瀬さん」

「何ですか」

「昨日、助けられてよかったと思っておけばいいよ」

美月は少しだけ黙った。

そして、小さく言った。

「……そこだけは、認めます」

理久の表情が、ほんの少し柔らかくなった。

「うん」

扉が閉まる。

美月は静かな廊下に立ち、スマホを握りしめたまま息を吐いた。

最悪。

本当に、なんつー男。

雨宿りだけのはずだった。

それなのに、連絡先を交換してしまった。
お礼の食事まで決まってしまった。

危険区域だと分かっている。

分かっているのに。

美月はエレベーターへ向かいながら、心の中で呟いた。

私は騙されない。

絶対に。

美月はそう言い聞かせた。

けれど、その言葉が昨日より少しだけ弱くなっていることに、
美月自身が気づいてしまっていた。