光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

駅近の普通のマンションだと思っていた。

せいぜい、病院に近い単身者向けの高めのマンション。
そういうものを想像していた。

けれど、理久が足を止めたのは、ガラス張りの高層タワーマンションの前だった。

エントランスは、ホテルのように静かだった。

明るすぎない照明。
整えられたロビー。
コンシェルジュらしき人影。

美月は思わず足を止めた。

「……近所って、ここ?」

理久は、何でもない顔でカードキーを出した。

「うん。近所」
「いや、近所の意味が違う」
「距離の話でしょ」
「そういう問題じゃないです」
「濡れてるから、早く入って」

それは正論だった。

悔しいけれど。

エントランスに入ると、外の雨音が少し遠くなった。

美月は、肩にかかったジャケットをぎゅっと握る。

この場に自分がいること自体が、妙に場違いに感じる。

濡れた髪。
濡れた服。
他人のジャケット。

そして目の前にいる、外科の藤崎先生。

何これ。

何この展開。

近所って言ったよね?
普通の近所じゃないじゃん。

タワマンって何。

医者家系、怖い。

いや、藤崎理久、怖い。

エレベーターに乗る。

階数表示がどんどん上がる。

美月は濡れた髪を押さえながら、無言で数字を見ていた。

理久が横で、少しだけ困ったように笑う。

「そんな顔しなくても」
「しますよ」
「引いた?」
「かなり」
「正直でいいね」
「褒められても困ります」
「でも、濡れたままよりはマシ」

美月は反論できなかった。

最上階近くでエレベーターが止まる。

扉が開いた。

静かな廊下。

そして、広い玄関。

中へ入ると、窓の向こうに雨で霞んだ夜景が広がっていた。

美月は呆然とした。

「……近所って、ここ?」

二回目だった。

理久が少し笑う。

「二回言うと、だいたい動揺してるよね」

美月は濡れた前髪のまま、きっぱり言った。

「では、三回言います。ここ、何ですか」

理久がくすっと笑う。

「うち」

なんつー男。

どこまで設定を盛っているの、この人。

けれど、彼は玄関に入るとすぐに距離を取った。

美月をリビングの奥まで誘導することもしない。
ただタオルを取り出し、視線を外す。

「浴室、そこ。先に温まって。服は乾燥機を使える。俺の服でよければ、置いておく」

美月は警戒したまま彼を見る。

理久は、両手を軽く上げた。

「入らない。近づかない。ドアの外に置く。距離は取る」
「そこは覚えてるんですね」
「綾瀬さんに怒られたことは、だいたい覚えてる」

こういうところ。

こういうところがずるい。

美月は、浴室の前で立ち止まった。

濡れているのは自分だけではない。
理久も髪から水が滴っているし、薄手のニットも肩や胸元に張りついている。

「でも、家主より先に入るのは……」

そう言いかけると、理久がタオルで髪を拭きながら、少し笑った。

「じゃあ、俺が先に入る? 綾瀬さん、その間ずっと濡れたままだけど」

一瞬、美月は黙った。

正論。

でも、腹立つ。

「……先に入ります」
「うん。それがいいと思う」

余裕の笑み。

腹立つ。

でも、ちゃんと引く。

そこがまた腹立たしい。

* * *

浴室は、ホテルみたいに広かった。

大きな鏡。
清潔な洗面台。
広いバスルーム。
窓の向こうには、雨に霞む夜景。

美月はしばらく立ち尽くした。

何この家。

何このお風呂。

近所って言ったよね?
雨宿りって言ったよね?

けれど、温かいシャワーを浴びると、冷えた身体が少しずつほどけていった。

緊張も、雨の冷たさも、飲み会の疲れも、少しずつ流れていく。

脱衣所には、理久が置いていった服があった。

白いTシャツ。
柔らかいグレーのスウェット。
大きめのカーディガン。

下着類はさすがにない。

でも、濡れた服を乾かすためのランドリーバッグや、髪をまとめるための未使用のゴムまで置いてある。

用意が良すぎる。

こういうところが、また腹立つ。

美月は借りた服に着替えた。

当然、大きい。

袖も裾も余る。

鏡の中の自分を見て、何とも言えない気持ちになった。

危険区域。

かなりの危険区域。

なのに、今だけは本当に助かった。

リビングへ出ると、窓の向こうに夜景が広がっていた。

ローテーブルには、温かいコーヒーとミネラルウォーター。

隣に、小さなメモがある。

『アルコール入ってるから、水も飲んで』

字がきれい。

それもまた腹立つ。

美月はコーヒーを両手で持った。

少し遅れて、理久が濡れた髪のまま戻ってきた。

まだシャワー前で、着替えを片手に持っている。

「寒くない?」
「……大丈夫です」
「三回言わなくていいよ。顔色で分かる」

美月はコーヒーを持ったまま睨んだ。

「藤崎先生こそ、早く入った方がいいです」

理久は少し笑った。

「はいはい。じゃあ、入ってくる。眠かったら寝てていいよ」
「寝ません」
「二回言う?」
「言いません」

彼はくすっと笑って、浴室へ向かった。

部屋は静かになった。

雨の音だけが、窓の外にある。

ソファは沈み込むように柔らかい。

温かいコーヒー。
乾いた服。
お酒の残り。
飲み会の疲れ。
突然の雨。

そして、知らないはずなのに妙に安心してしまう空間。

寝ない。

絶対に寝ない。

こんなところで寝たら、完全に負け。

そう思っていた。

なのに、まぶたが重くなる。

コーヒーを飲み終える頃には、身体の力が抜けていた。

雨の音が遠くなる。

視界が少しずつぼやける。

理久が戻ってきた時、美月はソファの端で眠っていた。

カップは空に近い。
髪はまだ少し湿っている。

大きめのカーディガンに包まって、さっきまで警戒していた人とは思えないほど無防備だった。

理久は少しだけ足を止めた。

いつもの余裕の笑みはなかった。

「……寝てるし」

小さく呟く。



近くに置いてあったブランケットを手に取り、起こさないように、そっと肩にかけた。

その時、頬に触れそうになった。

けれど、触れなかった。

指先を止める。

代わりに、少し離れた一人掛けのチェアに腰を下ろした。

窓の外では、雨がまだ降っている。
夜景はぼんやり霞んでいる。

理久は眠っている美月を見て、小さく息を吐いた。

「雨宿りだけ、だからね」

眠っている美月には聞こえない。

それでも、彼はその距離を選んだ。

雨宿りだけ。