飲み会がお開きになる頃、店の外は強い雨になっていた。
「え、雨?」
「うわ、結構降ってる」
「傘持ってないんだけど」
入口に集まったスタッフたちの声が、急に現実へ戻っていく。
さっきまで藤崎先生だ、聞き上手だ、彼女はいるのかと浮ついていた空気が、雨音に押し流されていく。
美月はバッグの中を確認して、小さく息を吐いた。
折りたたみ傘はない。
朝は晴れていた。
天気予報でも、こんな降り方になるとは言っていなかったはずだ。
「綾瀬さん、駅まで一緒に行く?」
後輩が声をかけてくる。
「いい。私は少し待ってから行く」
「大丈夫ですか?」
「うん」
大丈夫ではない。
けれど、誰かと一緒に駅まで走るのも、今は少し気が重かった。
飲み会の間じゅう、藤崎理久は相変わらず完璧だった。
話しかけられれば、きちんと聞く。
軽い冗談も返す。
誰かのグラスが空けば自然に気づく。
でも、誰か一人にだけ距離を詰めることはない。
あれだけ感じよくしておきながら、誰にも本当のところは渡さない。
器用な人。
そう思ったあとで、通路で聞いた声が頭に戻ってきた。
――疲れるよ。普通に。
あの一言だけは、宴席で見せていた王子の顔とは違っていた。
美月は、雨の向こうを見る。
考えない。
考えたら、たぶん負ける。
そう思っていた時だった。
「綾瀬さん」
背後から声がした。
振り向くと、理久が立っていた。
さっきまで周囲に向けていた紳士の顔ではない。
少しだけ、こちらを見ている顔。
「駅?」
「……そうです」
反射的に、仕事用の声が出た。
理久は少し笑った。
「ここ、病院じゃないって言ったよね」
「飲み会帰りなので、余計に仕事用でいたいです」
「なるほど」
理久は、外の雨を見た。
「傘は?」
「ありません」
「俺もない」
「なら、聞く意味あります?」
「一応」
美月は小さくため息をついた。
「雨が弱くなるまで待ちます」
「弱くなるかな」
「願望です」
「正直でいいね」
「褒められても困ります」
そんなやり取りをしている間に、外科の医師たちや10Aのスタッフは、タクシーに乗ったり、誰かの傘に入ったり、駅まで駆け出したりして、少しずつ散っていった。
理久は、なぜかまだ隣にいた。
美月は少しだけ警戒する。
「藤崎先生は帰らないんですか」
「帰るよ」
「では」
「方向、駅?」
「そうです」
「俺も途中まで同じ」
「……そうですか」
非常に嫌な予感がする。
けれど、ずっと店先で立っているわけにもいかない。
雨は少しも弱まらなかった。
美月は覚悟を決めた。
「走ります」
「本気?」
「駅まで数分なので」
「その靴で?」
美月は自分の足元を見る。
少しヒールのある靴。
確かに、走りやすくはない。
「走れます」
「二回言う?」
「まだ一回です」
理久は少し笑った。
「じゃあ、行こうか」
二人で店を出た。
瞬間、雨が全身を叩いた。
予想以上だった。
駅まで数分どころか、十秒で濡れる。
美月はバッグを抱え、足早に歩く。
走ると言ったが、足元が悪くて走れない。
雨は容赦なく髪に落ち、顔を濡らし、ブラウスに染み込んでいく。
最悪。
本当に最悪。
その時、理久が急に足を止めた。
美月もつられて止まる。
「何ですか」
彼は、何も言わずに自分のジャケットを脱いだ。
そして、美月の肩にかける。
「……これ着て」
美月は反射的に拒んだ。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
声が、いつもより低かった。
美月は動けなくなる。
理久は、美月を見ないようにしている。
視線を少し逸らしたまま、言った。
「その格好で電車に乗るのは、やめた方がいい」
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、気づく。
ブラウスが濡れて、肌に張りついている。
下着が透けている。
最悪。
美月は、腕で胸元を隠すようにした。

理久は見ない。
見ないようにしている。
そこが逆に、妙に紳士的で腹立たしい。
「うち、ここから近い」
彼は静かに言った。
「近所だし、雨宿りだけしていけば」
美月は即座に警戒した。
「それ、普通に危ない発言ですよ」
理久は小さく笑う。
「分かってる」
分かっているなら言わないでほしい。
彼は続けた。
「だから、嫌ならタクシーを呼ぶ。でも、そのまま乗るのもきついと思う」
美月は反論しようとして、できなかった。
雨は強い。
服は透けている。
髪も顔も濡れている。
この状態で駅にも戻れない。
理久は畳みかけない。
ただ、雨の中で少し距離を取ったまま言った。
「玄関先でもいい。タオルを貸す。服も乾かせる。何もしない」
美月は彼を睨んだ。
「“何もしない”って言う人ほど信用できません」
理久は、少しだけいつもの顔に戻った。
「じゃあ、“何かしたら病院に通報していい”でどう?」
「病院に?」
「10Aに。主任さん、怖そうだし」
美月は思わず黙った。
主任の顔が浮かんでしまった。
笑いそうになるのを、ぎりぎり堪える。
理久は、それを見て少し安心したような顔をした。
「本当に雨宿りだけ。綾瀬さんが嫌なら、俺はロビーにいる」
美月は雨の音を聞きながら、しばらく黙った。
危ない。
普通に危ない。
でも、彼は見なかった。
からかわなかった。
いつものように面白がることもできたはずなのに、しなかった。
それが少しだけ、判断を鈍らせた。
「……本当に、雨宿りだけです」
「うん」
「三回言います?」
「今日は俺が言う」
理久は、美月の肩にかかったジャケットを軽く整えた。
触れそうで、触れない距離。
「雨宿りだけ。雨宿りだけ。雨宿りだけ」
ずるい。
そう返されると、少しだけ力が抜ける。
美月は小さく頷いた。
「分かりました」
「こっち」
彼は、雨の中を歩き出した。
「え、雨?」
「うわ、結構降ってる」
「傘持ってないんだけど」
入口に集まったスタッフたちの声が、急に現実へ戻っていく。
さっきまで藤崎先生だ、聞き上手だ、彼女はいるのかと浮ついていた空気が、雨音に押し流されていく。
美月はバッグの中を確認して、小さく息を吐いた。
折りたたみ傘はない。
朝は晴れていた。
天気予報でも、こんな降り方になるとは言っていなかったはずだ。
「綾瀬さん、駅まで一緒に行く?」
後輩が声をかけてくる。
「いい。私は少し待ってから行く」
「大丈夫ですか?」
「うん」
大丈夫ではない。
けれど、誰かと一緒に駅まで走るのも、今は少し気が重かった。
飲み会の間じゅう、藤崎理久は相変わらず完璧だった。
話しかけられれば、きちんと聞く。
軽い冗談も返す。
誰かのグラスが空けば自然に気づく。
でも、誰か一人にだけ距離を詰めることはない。
あれだけ感じよくしておきながら、誰にも本当のところは渡さない。
器用な人。
そう思ったあとで、通路で聞いた声が頭に戻ってきた。
――疲れるよ。普通に。
あの一言だけは、宴席で見せていた王子の顔とは違っていた。
美月は、雨の向こうを見る。
考えない。
考えたら、たぶん負ける。
そう思っていた時だった。
「綾瀬さん」
背後から声がした。
振り向くと、理久が立っていた。
さっきまで周囲に向けていた紳士の顔ではない。
少しだけ、こちらを見ている顔。
「駅?」
「……そうです」
反射的に、仕事用の声が出た。
理久は少し笑った。
「ここ、病院じゃないって言ったよね」
「飲み会帰りなので、余計に仕事用でいたいです」
「なるほど」
理久は、外の雨を見た。
「傘は?」
「ありません」
「俺もない」
「なら、聞く意味あります?」
「一応」
美月は小さくため息をついた。
「雨が弱くなるまで待ちます」
「弱くなるかな」
「願望です」
「正直でいいね」
「褒められても困ります」
そんなやり取りをしている間に、外科の医師たちや10Aのスタッフは、タクシーに乗ったり、誰かの傘に入ったり、駅まで駆け出したりして、少しずつ散っていった。
理久は、なぜかまだ隣にいた。
美月は少しだけ警戒する。
「藤崎先生は帰らないんですか」
「帰るよ」
「では」
「方向、駅?」
「そうです」
「俺も途中まで同じ」
「……そうですか」
非常に嫌な予感がする。
けれど、ずっと店先で立っているわけにもいかない。
雨は少しも弱まらなかった。
美月は覚悟を決めた。
「走ります」
「本気?」
「駅まで数分なので」
「その靴で?」
美月は自分の足元を見る。
少しヒールのある靴。
確かに、走りやすくはない。
「走れます」
「二回言う?」
「まだ一回です」
理久は少し笑った。
「じゃあ、行こうか」
二人で店を出た。
瞬間、雨が全身を叩いた。
予想以上だった。
駅まで数分どころか、十秒で濡れる。
美月はバッグを抱え、足早に歩く。
走ると言ったが、足元が悪くて走れない。
雨は容赦なく髪に落ち、顔を濡らし、ブラウスに染み込んでいく。
最悪。
本当に最悪。
その時、理久が急に足を止めた。
美月もつられて止まる。
「何ですか」
彼は、何も言わずに自分のジャケットを脱いだ。
そして、美月の肩にかける。
「……これ着て」
美月は反射的に拒んだ。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
声が、いつもより低かった。
美月は動けなくなる。
理久は、美月を見ないようにしている。
視線を少し逸らしたまま、言った。
「その格好で電車に乗るのは、やめた方がいい」
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、気づく。
ブラウスが濡れて、肌に張りついている。
下着が透けている。
最悪。
美月は、腕で胸元を隠すようにした。

理久は見ない。
見ないようにしている。
そこが逆に、妙に紳士的で腹立たしい。
「うち、ここから近い」
彼は静かに言った。
「近所だし、雨宿りだけしていけば」
美月は即座に警戒した。
「それ、普通に危ない発言ですよ」
理久は小さく笑う。
「分かってる」
分かっているなら言わないでほしい。
彼は続けた。
「だから、嫌ならタクシーを呼ぶ。でも、そのまま乗るのもきついと思う」
美月は反論しようとして、できなかった。
雨は強い。
服は透けている。
髪も顔も濡れている。
この状態で駅にも戻れない。
理久は畳みかけない。
ただ、雨の中で少し距離を取ったまま言った。
「玄関先でもいい。タオルを貸す。服も乾かせる。何もしない」
美月は彼を睨んだ。
「“何もしない”って言う人ほど信用できません」
理久は、少しだけいつもの顔に戻った。
「じゃあ、“何かしたら病院に通報していい”でどう?」
「病院に?」
「10Aに。主任さん、怖そうだし」
美月は思わず黙った。
主任の顔が浮かんでしまった。
笑いそうになるのを、ぎりぎり堪える。
理久は、それを見て少し安心したような顔をした。
「本当に雨宿りだけ。綾瀬さんが嫌なら、俺はロビーにいる」
美月は雨の音を聞きながら、しばらく黙った。
危ない。
普通に危ない。
でも、彼は見なかった。
からかわなかった。
いつものように面白がることもできたはずなのに、しなかった。
それが少しだけ、判断を鈍らせた。
「……本当に、雨宿りだけです」
「うん」
「三回言います?」
「今日は俺が言う」
理久は、美月の肩にかかったジャケットを軽く整えた。
触れそうで、触れない距離。
「雨宿りだけ。雨宿りだけ。雨宿りだけ」
ずるい。
そう返されると、少しだけ力が抜ける。
美月は小さく頷いた。
「分かりました」
「こっち」
彼は、雨の中を歩き出した。
