光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

二次会の受付に立ちながら、及川蒼真は心の中で何度目か分からないため息をついた。

なぜ、自分がここにいるのか。

いや、理由は分かっている。

分かっているからこそ、納得できない。

そもそも、披露宴の時点でだいぶ疲れていた。

及川は医師側の席に座っていた。

周りは当然、藤崎先生の関係者ばかりだ。

外科の先生たち。

大学の先生たち。

名前だけは知っている偉い先生たち。

新郎側の若手枠として座っているだけなのに、妙に背筋が伸びた。

しかも、披露宴の間には何人もの先生方に挨拶をすることになった。

「及川先生だよね。藤崎から聞いているよ」

そう言われるたびに、及川は笑顔を作り、頭を下げた。

藤崎先生から聞いている。

その一言はありがたい。

ありがたいが、重い。

さらに、あの綾瀬教授にも挨拶をした。

自分の大学の教授ではない。

勤務先も違う。

それでも、消化器外科、とくに肝胆膵の世界では、名前を知らない者はいない人だった。

学会場で遠目に見かけるだけでも、自然と背筋が伸びるような人。

その人が今日は、新婦の父親としてそこにいた。

「君が及川先生か」

声をかけられた瞬間、及川は反射的に背筋を伸ばした。

「はい。及川蒼真です」

「肝胆膵班を選んだと、理久くんから聞いているよ」

心臓が変な音を立てた。

理久くん。

藤崎先生をそう呼ぶ人を、及川はまだうまく処理できない。

「はい」

「直属の後輩で、理久くんが随分目をかけているようだね」

「いえ、そんな」

「美月からも話は聞いている」

その一言で、及川はもう一段階緊張した。

綾瀬からも。

藤崎先生からも。

この人に、自分の名前が届いている。

それはたぶん、ものすごくありがたいことなのだ。

肝胆膵を選んだ若手外科医として、これ以上ないくらいの顔繋ぎなのだろう。

分かる。

分かるが、重い。

盤面に置かれた。

そんな気がした。

「今後、学会などで会うこともあるだろう」

「はい。よろしくお願いいたします」

「頑張りなさい」

短い言葉だった。

けれど、及川には十分すぎた。

深々と頭を下げながら、思った。

疲れる。

ものすごく疲れる。


その後、二次会から合流した中川にその話をすると、中川はあっさり言った。

「最高じゃん」

「何が」

「顔繋ぎになるだろ。偉い先生方にも挨拶できて、綾瀬教授にも覚えてもらえるかもしれない。肝胆膵に行くなら、普通にすごいことだぞ」

「お前、他人事だと思って」

「他人事だからな」

中川は悪びれなかった。

「でも実際、ありがたい席だろ」

「それ、綾瀬にも、うちの奥さんにも言われた」

「お前んとこ、奥さんかなり強いもんな」

「はは……怒られるぞ」

及川は乾いた笑いを漏らした。

その話は、また別の機会にするとして。


とにかく、披露宴の時点で及川は十分に働いた気分になっていた。

それなのに、二次会では幹事である。

新婦側は三浦と柏木。

新郎側は中川と及川。

そこまでは、まだ分かる。

同じ医局の若手として、声がかかること自体は不自然ではない。

問題は、その先だった。

「藤崎先生側も分かるし、美月側も分かるし、病院の空気も分かるじゃん」

三浦はそう言った。

「及川先生が一番ちょうどいいよね」

柏木も、あっさり頷いた。

ちょうどいい。

その言葉ほど、便利に人を働かせるものはない。

中川は中川で、笑いながら肩を叩いてきた。

「まあ、及川がいると助かるのは事実だしな」

「お前も幹事だろ」

「俺は医師側の連絡係。及川は全方位調整係」

「役職を勝手に増やすな」

そう文句を言ったところで、誰も聞いてくれなかった。

結局、及川は受付表を持ち、会費を確認し、遅れてくる参加者に連絡を入れ、景品の置き場まで確認している。


幹事ではある。

それは分かっている。

けれど、どう考えても担当範囲が広い。

受付係なのか、連絡係なのか、荷物係なのか、調整係なのか。

自分でもよく分からなくなってきた。

「及川」

受付横から中川が声をかけてくる。

「外科の先生方、何人か来たぞ」

「分かった」

及川は受付表に視線を落とした。

藤崎先生の外科同期。

今は外病院や関連病院で働いている人が多いらしい。

受付に来た彼らは、穏やかに笑いながら会費を出し、藤崎先生の名前を口にした。

「藤崎、ついに結婚か」

「留学前に全部決めたんだな」

「相変わらず隙がないな」

祝福していないわけではない。

むしろ、ちゃんと祝っている。

けれど、及川には少しだけ分かる。

その声の奥に、単純な親しさだけではないものが混じっていることが。

藤崎先生は、若いうちから名前が出ていた人だ。

大学へ呼び戻され、肝胆膵で頭角を現し、留学まで決まっている。

一目置かれている。

一目置かれている、というのは、ただ尊敬されているという意味だけではない。

比べられる、ということでもある。

先に行った人。

選ばれた人。

追いかける側から見れば、まぶしくて、少し苦い人。

藤崎先生は、そういう目にもきっと慣れている。

あの人は、平気な顔をする。

けれど、何も感じていないわけではない。

それを及川は、少しだけ知っていた。


受付をしながら会場の方へ視線を向けると、別の一角では桐谷先生を中心に会話が弾んでいた。

藤崎先生の大学時代の同期らしい。

診療科はばらばらだった。

内科。

麻酔科。

放射線科。

救急。

同じ大学で同じ時間を過ごして、それぞれ別の場所へ進んだ人たち。

その中で、桐谷先生はやけに自然に中心にいた。

笑って、相手の肩を叩いて、誰かを呼び寄せて、また輪を広げていく。

たぶん、学生時代からそういう人だったのだろう。

人を笑わせて、巻き込んで、距離を詰める。

藤崎先生みたいな人の隣に、当たり前の顔で立っていられる人。

大学時代の藤崎先生は、どんな人だったのだろう。

今ほど完成された王子ではなかったかもしれない。

けれど、きっと目立っていた。

整っていて、頭がよくて、少し尖っていて、簡単には近づけない。

それでも、飲み会に来て、くだらない話をして、たぶん笑っていた。

その輪の中心には、きっと桐谷先生がいたのだと思う。


さらにその近くには、もっと昔からの友人らしい人たちもいた。

桐谷先生とは小さい頃からの付き合いだと、誰かが披露宴で話していた気がする。

その旧友たちは、明らかに育ちが良さそうだった。

私大医学部出身の医師たち。

そんな言葉が浮かぶくらい、身につけているものも、立ち方も、話し方も自然に整っている。

しかも、そこでもやはり桐谷先生が中心にいた。

あの人、いったいどこまで人を巻き込んできたんだ。

及川は少しだけ呆れる。

その一方で、納得もしていた。

藤崎先生が一人で王子として浮かずに、ちゃんと人の輪の中にいたのだとしたら。

そこには、たぶん桐谷先生がいたのだ。

* * *

綾瀬側は、雰囲気が少し違っていた。

10Aから来ている看護師たちは、及川も知っている顔が多い。

普段はナースステーションでてきぱき動いている人たちが、今日は華やかな服で受付を通っていく。

病棟で見る顔とは違う。

けれど、笑い方や距離感は見慣れていた。

三浦と柏木も、受付の内側と会場側を行き来しながら、忙しく動いている。

三浦は場を明るくし、柏木は会計と進行表を確認しながら全体を見ている。

この二人は、本当に強い。

及川はあらためて思った。


大学時代の友人らしき人たちもいた。

綾瀬は他大出身だから、元いた大学や、そこからつながった看護師仲間なのかもしれない。


そして、もう一つ。

幼い頃からの友人らしい女性たちがいた。

言葉遣いがきれいで、笑い方が派手すぎない。

けれど、綾瀬の名前が出た時の表情は遠慮なく近い。

披露宴で初めて知ったが、綾瀬はお嬢様学校を出ているらしい。

なるほど、と思った。

綾瀬教授の一人娘。

大切に育てられてきた人。

そう言われれば、確かにそうなのだろう。


藤崎先生は、育ちのいい医師。

綾瀬は、教授の一人娘で、お嬢様学校出身。

そう並べると、最初から似た者同士だったようにも見える。

お坊ちゃんとお嬢様の結婚。

言葉にしてしまえば、きれいに収まりすぎるくらいだ。


でも、たぶん違う。

似ているのは、育ちの良さだけじゃない。

二人とも、ずっと見られてきた人なのだ。

藤崎先生は、藤崎の家の人間として。

優秀な医学生として。

若手有望株の外科医として。

綾瀬は、綾瀬教授の娘として。

失敗してはいけない人として。

誰かの期待や評価の中で、ずっと立ってきた人たち。

だからこそ、あの二人は互いを見る時だけ、少し違う顔をするのかもしれない。

そう思ったところで、及川は受付表に視線を戻した。

まだ、二次会は始まっていない。

新郎新婦が入場するまで、もう少しある。

それなのに、すでに疲れている。

本当に、今日は長い。

* * *

二次会が始まると、会場の空気は一気に華やいだ。

新郎新婦が入場し、乾杯が終わる頃には、受付周りもようやく落ち着いていた。

三浦は新婦側の友人たちと綾瀬の写真を撮り、柏木は進行表を確認しながら全体を見ている。

中川は医師側の参加者に声をかけ、及川は受付横で景品の数を確認していた。

会場の奥で、新郎新婦が並んで座っている。

藤崎先生は完璧な新郎だった。

誰が挨拶に来ても、穏やかに笑い、礼を言い、隙なく場を受け止めている。

けれど、綾瀬が隣で何か言うたびに、表情が少し変わる。

ほんの少しだけ。

周りには分からないくらい。

でも、及川には分かってしまう。

あの顔は、病院では見ない。

少なくとも、あの人が誰にでも見せる顔ではない。

綾瀬も同じだった。

披露宴の時より少し肩の力が抜けていて、藤崎先生の隣でちゃんと笑っている。

ああ。

よかったな。

そう思った。


ようやく少し落ち着いた。

そう思った、その時だった。

「及川」

背後から声をかけられ、嫌な予感しかしなかった。

振り返ると、桐谷先生がいた。

にこにこと笑っている。

つまり、ろくなことではない。

「桐谷先生」

「ちょっと来い」

「無理です。俺、幹事です」

「知ってる」

「じゃあ、なおさら無理です」

隣で、同じ医局の同期である相澤が、すっと手を上げた。

「桐谷先生。俺、幹事代行やります」

及川は相澤を見た。

「相澤。どっちの味方だよ」

相澤はにこっと笑った。

「そりゃ、藤崎先生の味方だろ」

「最悪だ」

「景品確認と残りの受付だろ。俺、できる」

「できるのが余計に腹立つ」

「任せろ」

相澤は軽い調子で受付表を受け取った。

中川も横から笑っている。

「及川、行ってこい」

「中川、お前まで」

「幹事の仕事はこっちで回しとく」

「俺を売るな」

「売ってない。送り出してる」

桐谷先生が満足そうに頷いた。

「相澤、ナイス」

「ありがとうございます」

「ほら、藤崎のところに行くぞ」

「俺、今から何されるんですか」

「事情聴取」

「絶対、面白がってるだけですよね」

「もちろん」

「認めないでください」

及川の抗議は、やはり誰にも聞いてもらえなかった。


新郎新婦の席まで連れて行かれると、藤崎先生は綾瀬の隣で穏やかに笑っていた。

完璧な新郎の顔だった。

ただし、及川を見るまでは。

桐谷先生が楽しそうに言う。

「藤崎、連れてきたぞ」

藤崎先生が及川を見る。

「ありがとう」

「いや、何の引き渡しですか」

「参考人の」

「罪人じゃないんですか」

「まだ事情聴取前だから」

「嫌な制度ですね」

綾瀬が不思議そうに首を傾げた。

「事情聴取?」

藤崎先生は静かに微笑んだ。

「新郎より先に花嫁姿を見た件について」

「だから、不可抗力ですって」

及川は即座に言った。

「三浦と柏木に連れて行かれただけです」

藤崎先生は穏やかに頷く。

「うん。そこは分かってる」

「じゃあ」

「でも、俺より先に見たことは事実だよね」

「……事実確認が厳しい」

桐谷先生が笑う。

「外科医だからな」

「そこ、外科医関係あります?」

藤崎先生は、綺麗に微笑んでいた。

「俺も一緒にドレス選びに行きたかったし」

「先生」

「どのドレスなのかも気になっていたし」

「先生、あの」

「挙式まで楽しみにしていたんだよね」

その笑顔があまりに整っていて、及川は逆に怖くなる。

「先生」

「うん」

「その笑顔で言うと怖いです」

綾瀬が小さく吹き出した。

桐谷先生も楽しそうに笑っている。

「藤崎、相当根に持ってるな」

「根に持ってないよ」

「持ってる顔だろ」

「違うよ」

「及川、今のうちに謝っとけ」

「ずっと謝ってます」

及川は必死に言った。

「本当に不可抗力です。俺は入口で止まりました」

藤崎先生は静かに頷いた。

「でも入った」

「入らされました」

「見た」

「見えました」

「つまり見たんだね」

「言い方」

何を言っても勝てない。

及川は思わず綾瀬の方を見た。

「綾瀬」

「及川」

藤崎先生の声が、静かに割り込む。

「俺の奥さんに助けを求めないでくれる?」

会場のざわめきの中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。

及川は固まった。

綾瀬も、一瞬だけ固まった。

それから、耳まで赤くなる。

「りく」

「何?」

「人前です」

「知ってる」

「知ってて言ったんですか」

「うん」

その返事があまりに自然で、及川は思わず頭を抱えたくなった。

「先生、王子キャラはどこへ」

桐谷先生が笑う。

「そもそも、王子じゃないって」

「いや、十分王子ですって」

「藤崎が王子なら、相当面倒な王子だな」

綾瀬が小さく笑った。

「面倒な王子です」

藤崎先生は否定しなかった。

ただ、綾瀬を見て、少しだけ目元を和らげた。

それを見て、及川は思った。

ああ、だめだ。

この人、綾瀬の前では本当に王子じゃない。

完璧で、隙がなくて、誰からも一目置かれていて。

それでも、綾瀬の前では少しだけ面倒で、少しだけ子どもみたいになる。

「及川くん」

綾瀬が呼んだ。

「今日はありがとう。幹事、大変だったよね」

その一言で、及川は少しだけ息を止めた。

こういうところだ。

綾瀬は、ちゃんと見ている。

自分がどれだけ慌ただしく動いていたかも。

誰がどこで支えていたかも。

きっと、全部ではないにしても、ちゃんと気づいている。

「まあ」

及川は視線を逸らした。

「大変だったけど」

「うん」

「綾瀬が楽しそうなら、いいんじゃない」

言ってから、少し照れくさくなった。

三浦と柏木が近くにいなくてよかった。

いたら絶対にからかわれていた。

藤崎先生が、少しだけ目元を細める。

「及川」

「はい」

「ありがとう」

その声は、さっきまでの静かな圧とは違っていた。

ちゃんと、礼だった。

及川は背筋を伸ばす。

「いえ」

桐谷先生がにやりと笑った。

「よし。いい話になったところで、処分を決めるか」

「何もよくないです」

「藤崎、どうする?」

藤崎先生は少し考えるような顔をした。

そして、穏やかに言った。

「景品の一番大きい袋、運んでもらおうかな」

「先生、それ地味に重いやつですよね」

「うん」

「分かってて言いましたよね」

「うん」

綾瀬が笑いを堪えきれずにいる。

桐谷先生は満足げに頷いた。

「適正な処分だな」

「適正とは」

「新郎より先に花嫁を見た罪にしては軽い」

「だから不可抗力ですって」

けれど、及川の抗議はやはり届かなかった。


結局、及川は景品の一番大きな袋を運ばされることになった。

二次会の会場には、笑い声が満ちていた。

三浦と柏木が新婦側の友人たちと写真を撮っている。

中川が相澤と受付横で何かを確認している。

外科同期たちは、どこか複雑な視線を抱えながらも笑っている。

大学時代の仲間たちは、桐谷先生を中心に楽しそうに話している。

綾瀬側の友人たちは、花嫁を囲んで嬉しそうに笑っている。

たくさんの人が、二人を見ている。

それでも今の二人は、もう見られることを怖がっているようには見えなかった。

藤崎先生は綾瀬の隣にいる。

綾瀬も、藤崎先生の隣にいる。

ちゃんと、並んで立っている。

及川は大きな景品袋を抱え直し、小さく息を吐いた。


新郎より先に花嫁姿を見た罪。

不可抗力だった。

これは絶対に譲れない。

でも、まあ。

綾瀬があんな顔で笑っているなら。

藤崎先生が、あんなふうに面倒な王子になっているなら。

今日くらいは、その罪を引き受けてもいいかもしれない。

もちろん、不可抗力だったけれど。


及川は会場の笑い声の中へ戻っていく。

その向こうで、綾瀬がまた笑っていた。

藤崎先生が、その隣で静かに目を細めている。


まあ、いいか。


及川は諦めて、景品袋を持ち直した。


今日だけは。

本当に、今日だけは。

不可抗力の罪人でいてやってもいい。