光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

音楽が、静かに流れ始めた。

チャペルの空気が、ひとつにまとまっていく。

白い花に囲まれた扉の前で、美月は父の隣に立っていた。

病院では、父は綾瀬宗一郎教授と呼ばれる人だった。

誰もがその名を知っている。

厳しく、隙がなく、近寄りがたいとさえ言われる人。

けれど今、美月の隣にいるのは、教授ではなかった。

父だった。

黒のモーニングを身につけた父は、いつもより少しだけ遠く見えた。

いや、違う。

美月が今まで、その顔をきちんと見ようとしてこなかったのかもしれない。

扉の向こうから、光が漏れている。

白い扉の隙間に差す細い光が、足元に一本の線を作っていた。

その先に、理久がいる。

まだ見えない。

けれど、いる。

「緊張しているのか」

父が前を向いたまま言った。

美月は小さく息を吸う。

「少し」

「そうか」

それだけだった。

父らしい会話だった。

余計な言葉はない。

慰めるわけでもない。

けれど、隣に立つその存在だけで、美月の背筋は自然と伸びた。

父とは、長い間、うまく話せなかった。

期待されていると思っていた。

失望されることが怖かった。

自分の名前の前に、いつも父の名前がある気がしていた。

綾瀬教授の娘。

その言葉に守られたこともある。

傷ついたこともある。

反発したこともある。

逃げたいと思ったこともある。

けれど今、この扉の前に立っていると、不思議とその全部が一つの道のように思えた。

父がいた。

父の背中があった。

その厳しさが、美月を縛ったこともあった。

けれど同時に、守ってもいたのだと、今なら少しだけ分かる。

「美月」

父が呼んだ。

「はい」

「顔を上げなさい」

美月は父を見た。

父は、前を向いたままだった。

「お前は、今日、自分で選んだ場所へ行くんだろう」

美月の胸が、静かに震えた。

「はい」

「なら、俯く必要はない」

その言葉は、父らしかった。

優しい言葉ではない。

でも、父なりの祝福だった。

美月は小さく頷いた。

「はい」

扉が、ゆっくり開いた。

光があふれた。

チャペルの奥から差し込む六月の光が、白い花とバージンロードを淡く照らしていた。

高い窓。

磨かれた床。

参列者の静かな息遣い。

そのすべてが、一瞬だけ遠くなる。

美月は父の腕にそっと手を添えた。

一歩。

父とともに歩き出す。

バージンロードは、思っていたより長かった。

左右には、これまで関わってきた人たちがいる。

10Aの師長。

主任。

共に働いた同僚たち。

玲奈と香澄。

及川くん。

桐谷先生。

父の関係者。

藤崎家の親族。

怜子さん。

佳乃さん。

たくさんの視線があった。

けれど、不思議と怖くはなかった。

光の中を歩くたびに、過去が足元からほどけていくようだった。

10Aに初めて配属された日。

先輩に注意されても泣けなかった日。

及川くんから渡された缶コーヒーを拒んだ日。

理久の声を初めて意識した日。

父に向き合った日。

藤崎家でお茶の置き方を教わった日。

婚姻届に名前を書いた日。

その全部が、ここへつながっていた。

美月は、顔を上げた。

その先に、理久がいた。

黒のタキシード姿で、まっすぐにこちらを見ている。

窓から差し込む光が、理久の横顔を淡く照らしていた。

白い花に囲まれた祭壇の前。

静かな光の中に立つ理久は、病院で見る外科医の顔とも、家で見せる穏やかな顔とも違っていた。

凛としていて、品があって、隙がない。

けれど、その目だけが、少しだけ揺れた。

美月は、思わず息を止めた。

理久もまた、動かなかった。

ほんの一瞬。

本当に、ほんの一瞬だけ。

理久の表情が、崩れた。

招待客の前で見せる、穏やかで隙のない藤崎理久でもなかった。

ただ、美月を見る人の顔だった。

驚きと、安堵と、どうしようもない愛しさが、わずかに目元へ滲んだ。

それを見た瞬間、美月の胸がいっぱいになった。

ああ。

見てくれている。

初めてドレス姿を見た理久が、今、ちゃんと自分を見ている。

照れくさくて、泣きそうで、でも嬉しかった。

理久は、すぐに表情を整えた。

けれど、遅かった。

美月には見えてしまった。

参列席の中で、佳乃さんが静かに微笑んでいる。

怜子さんは、どこか満足そうな顔をしていた。

あのドレスで正解だったでしょう。

そう言われているような気がした。

美月は父とともに、ゆっくり進む。

理久のもとへ。

歩いている間、父は何も言わなかった。

美月も、何も言わなかった。

ただ、父の腕に添えた手に、ほんの少し力が入る。

父の腕は、思ったよりしっかりしていた。

けれど、その指先が少しだけ硬いことに、美月は気づいた。

父も緊張しているのだ。

それが分かると、美月は少しだけ泣きそうになった。

父は、ずっと強い人だと思っていた。

怖い人だと思っていた。

間違えない人だと思っていた。

でも、そうではなかった。

父もまた、不器用に、ただ娘を守ろうとしていた人だった。

理久の前までたどり着く。

音楽が静かに満ちている。

父と理久が向かい合った。

その瞬間、チャペルの空気が少しだけ引き締まった気がした。

父と、理久。

どちらも、美月にとって大切な人だった。

父は、美月の手を取った。

少しだけ、指先に力が入る。

美月は父を見る。

父は、まっすぐ理久を見ていた。

「理久くん」

理久は静かに頭を下げる。

「はい」

父は一瞬、何かを言いかけたように見えた。

けれど、長い言葉にはしなかった。

父らしい。

父は、美月の手を理久の方へ差し出す。

「よろしく頼みます」

それだけだった。

けれど、その一言に、どれほどのものが込められているのか、美月には分かった。

娘としての時間。

医師として見てきた理久への信頼。

父親としての寂しさ。

不器用な祈り。

全部が、その短い言葉の中にあった。

理久は、美月の手を受け取った。

そして、父をまっすぐ見た。

「必ず大切にします」

静かな声だった。

大げさではない。

飾られてもいない。

けれど、揺らがなかった。

父は、理久をしばらく見ていた。

そして、ほんのわずかに頷いた。

「頼んだ」

美月の胸が、熱くなる。

父の手が離れる。

その瞬間、何かが終わったわけではなかった。

ただ、一つの役目が、静かに理久へ渡された。

美月は父を見た。

「お父さん」

父は、美月を見る。

美月は、言葉を探した。

ありがとう。

ごめんなさい。

分かっていなくて、ごめんなさい。

守ってくれていたんだね。

たくさんの言葉が胸に浮かんだ。

でも、今ここで全部を言うことはできなかった。

だから、美月はただ小さく言った。

「行ってきます」

父の表情が、わずかに変わった。

それは、笑顔というにはあまりに小さかった。

けれど、美月には十分だった。

「行ってきなさい」

父はそう言った。

理久の手が、美月の手を包む。

温かかった。

美月は、理久の隣に立った。

向かい合うのではなく、隣に。

これまで何度も願ってきた場所。

守られるだけではなく、並んで立ちたいと思った場所。

その場所に、今、自分はいる。

牧師の声が静かに響き始めた。

美月は、理久の手の温度を感じながら、前を向いた。

そこから先の時間は、夢のようでいて、確かに現実だった。

理久が誓いの言葉を述べる時、その声はいつもより少し低かった。

美月はその声を聞きながら、心の中で思う。

この人の隣で生きていく。

綺麗なところだけではなく。

強いところだけでもなく。

弱さも、怒りも、欲も、迷いも。

その全部を知りながら。

美月の番が来る。

声が震えないように、息を整えた。

それでも、最初の音が少しだけ揺れた。

理久が隣で、ほんの少しだけ手に力を込める。

大丈夫。

そう言われた気がした。

美月は、最後まで言い切った。

指輪の交換で、理久が美月の手を取る。

四月の夜に婚姻届を出した時とは違う。

今度は、たくさんの人の前で。

理久の指が、美月の指に指輪を通す。

ゆっくりと。

丁寧に。

その動きだけで、理久がどれほど大切に扱ってくれているのか分かった。

美月も、理久の手を取る。

大きな手。

手術をする手。

何度も自分を支えてくれた手。

その薬指に、指輪を通す。

少しだけ指先が震えた。

理久が目元を柔らかくする。

美月はそれを見て、少しだけ笑った。

誓いのキスの時、理久がそっとベールを上げた。

薄い白の向こうから、理久の顔が近づく。

窓から差し込む光が、ベールの端を淡く透かしている。

その目が、とても優しかった。

人前だということを思い出して、美月は一瞬だけ緊張した。

理久は、それに気づいたように小さく笑う。

大丈夫。

声にはならなかった。

唇の動きだけだった。

美月は小さく頷く。

そして、理久がそっと口づけた。

短く、静かで、優しいキスだった。

チャペルの奥から差す光が、二人の輪郭を柔らかく包む。

白い花が揺れ、ベールがわずかに光を含んだ。

参列席から、柔らかな拍手が広がった。

美月は、その音に包まれていた。


式が終わり、二人は参列者の方へ向き直る。

玲奈が目元を押さえているのが見えた。

香澄も、隣で小さく笑っていた。

少し離れたところで、及川くんが拍手をしている。

その隣で、桐谷先生が穏やかに笑っていた。

父は、表情をほとんど変えていなかった。

けれど、その目が少しだけ赤いことに、美月は気づいた。

理久が美月の手を取ったまま、一歩進む。

扉へ向かって歩き出す。

今度は、父の腕ではない。

理久の隣だ。

白い花の間を通り、光の方へ歩いていく。

美月は少しだけ理久を見上げた。

理久も、美月を見る。

その目には、挙式前に一瞬だけ見せた感情が、まだ少し残っていた。

言葉にしなくても、伝わるものがあった。

扉の向こうには、六月の光が待っていた。

父と歩いてきた道の先で、理久の隣に立つ。

その瞬間を、美月はきっと一生忘れない。

チャペルの扉が開く。

光が、二人を包んだ。