六月の光は、思っていたよりも柔らかかった。
式場の廊下には、白い花と淡い緑が飾られている。
磨かれた床に、窓から入る光が静かに落ちていた。
玲奈と香澄は、案内された控室へ向かっていた。
「美月、もう着替え終わってるかな」
玲奈が少し弾んだ声で言う。
「たぶんね。ドレス姿、絶対綺麗だよ」
香澄の声も、いつもより柔らかい。
「泣くかな」
「美月が?」
「うん」
香澄は少し考えた。
「泣かないようにすると思う」
「だよね」
「でも、泣いてほしい」
「分かる」
そんな話をしながら角を曲がったところで、玲奈がふと足を止めた。
「……あれ」
視線の先に、見慣れた背中があった。
黒い礼服。
式場の案内板の前で、二次会の受付表らしき紙を持っている男。
「及川」
玲奈が声をかけると、及川が振り返った。
「三浦、柏木」
「何してるの」
香澄が聞く。
「普通に参列者として来てるし、二次会の受付表を確認してる」
「迷子?」
「違う」
「迷子だね」
「違うって」
及川は軽く眉を寄せた。
病院では白衣かスクラブ姿ばかり見ていたから、礼服姿は少し新鮮だった。
ただ、本人はどこか所在なさげだった。
「挙式前から働いてる」
香澄が感心したように言った。
「なぜかね」
及川は乾いた声で答えた。
「ちょうどいいじゃん」
玲奈がにこっと笑った。
及川はその笑顔を見て、一歩下がる。
「何その顔」
「一緒に美月のところ行こう」
「は?」
及川は本気で固まった。
「いやいやいや」
「何」
「それ、俺が行っていい場所じゃないだろ」
「美月、喜ぶよ」
玲奈が悪びれずに言う。
「それはそうかもしれないけど、花嫁控室は別問題だろ」
「嫌がったらすぐ出ればいいよ」
「嫌がらなかった場合が一番まずいんだよ」
「何で?」
「藤崎先生に説明がつかないからだよ」
香澄は少し考えてから、さらりと言った。
「私たちが連れてきたことにする」
「それは事実だけど、俺が怒られるやつだろ」
玲奈と香澄は笑っている。
及川だけが笑えない。
「お前ら、俺の扱いが雑すぎる」
「今さら」
そう文句を言ったところで、二人は聞いていなかった。
結局、及川は玲奈と香澄に押し切られる形で、美月の控室の前まで連れて行かれた。
扉の前で、及川はもう一度立ち止まる。
「本当に行くの?」
「行く」
玲奈がスタッフに声をかける。
「新婦の友人です。少しだけ会えますか」
スタッフは丁寧に頷き、中へ確認してくれた。
少しして、扉が開く。
「新婦さまが、皆さまどうぞ、とおっしゃっています」
玲奈と香澄が中へ入る。
及川は、扉の外に片足を残したまま立ち止まった。
入ったら終わりだ。
そう思った。
けれど、見えてしまったものは仕方がない。
最初に目に入ったのは、白だった。
まぶしすぎず、冷たすぎず、光を含んだような白。
美月は、鏡の前に立っていた。
ドレスは、甘すぎない上品なものだった。
細い肩と首筋をきれいに見せる形で、繊細なレースが肌を柔らかく包んでいる。
スカートは大きく広がりすぎず、歩けば静かに揺れるのだろうと分かる。
ベールは薄く、髪には白い花が控えめに添えられていた。
及川は、言葉を失った。
綾瀬は、美しかった。
10Aで患者の状態を確認していた綾瀬でもない。
玲奈や香澄の前で、少しだけ気を抜いて笑う美月でもない。
藤崎先生のもとへ歩いていく、花嫁だった。
玲奈が息を呑む。
香澄も、しばらく何も言わなかった。
美月がこちらに気づく。
「玲奈、香澄」
嬉しそうに笑ったあと、視線が及川に移った。
「及川くん?」
及川は反射的に両手を上げた。
「違う。俺は連れてこられた」
玲奈が笑う。
「何が違うの」
「俺は抵抗した。ものすごく抵抗した」
「まだ何も言ってないよ」
美月は小さく笑った。
その笑顔は、少し緊張していて、でも幸せそうだった。
「来てくれてありがとう」
玲奈がすぐに近づいた。
「美月、綺麗」
香澄も隣に立つ。
「本当に綺麗」
美月は少し照れたように視線を落とした。
「ありがとう」
「泣きそう」
玲奈が言う。
「まだ早いよ」
「早いけど、もう無理」
香澄は静かに美月を見ていた。
「似合ってる。すごく」
「香澄に言われると安心する」
「美月らしいね」
「そう?」
「うん。綺麗だけど、甘すぎない。ちゃんと美月のままだと思う」
その言葉に、美月の表情が少しだけ柔らかくなった。
「お義母さまと一緒に選んだの」
玲奈が目を丸くする。
「藤崎先生のお母さまと?」
「うん」
美月は、少し照れたように頷いた。
「一緒に選んでもらった」
香澄は、その言葉の意味を少しだけ感じ取ったように頷いた。
「そっか」
及川はまだ入口付近に立っていた。
部屋の中に入り切るのもまずい気がして、半分だけ体を逃がしている。
美月がその様子を見て、少し笑った。
「及川くん、そこに立ってると不審者みたい」
「だろ? だから俺は最初から入るべきじゃないって言ったんだ」
「でも、来てくれて嬉しいよ」
美月はそう言った。
その声があまりに素直で、及川は一瞬だけ黙った。
「……おめでとう、綾瀬」
「ありがとう」
「本当に」
及川は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「綺麗だと思う」
玲奈と香澄がにやにやする。
「及川が素直」
「珍しい」
「うるさい」
美月は笑った。
その笑い方は、いつものようで、いつもとは少し違っていた。
花嫁の格好をしているから、というだけではない。
綾瀬は変わったのだ。
10Aで刺々しかった新人の頃から。
藤崎先生に出会ってから。
そして、自分で選んで、ここまで来た。
「このあと、綾瀬教授と歩くんだよな」
及川がぽつりと言った。
美月は頷く。
「うん」
「綾瀬教授にエスコートされて、綾瀬が藤崎先生のところまで歩いていくんだろ」
及川は少しだけ遠くを見る。
「絵面が強すぎる」
玲奈が吹き出した。
香澄も笑う。
美月も、思わず笑った。
「強すぎるって何」
「いや、綾瀬教授にエスコートされて、藤崎先生が待ってるんだぞ」
「及川くん」
「俺、正気で見られるかな」
「普通に見てください」
玲奈が目元を押さえながら笑った。
「分かる。参列者側も緊張するやつ」
「やめて」
香澄も笑う。
「美月、緊張ほぐれた?」
美月は少しだけ息を吐いた。
「うん。ありがとう」
玲奈が満足げに頷く。
「じゃあ、楽しみにしてるねぇ」
香澄も美月の手にそっと触れた。
「後でね」
「うん」
三人が控室を出る時、及川は最後にもう一度美月を見た。
「綾瀬」
「何?」
「転ぶなよ」
「転びません」
「緊張で早足になるなよ」
「なりません」
「藤崎先生の顔見て固まるなよ」
美月は少しだけ顔を赤くした。
「……それは分からない」
玲奈と香澄がまた笑う。
及川は肩をすくめた。
「そこは分からないのかよ」
美月は、少しだけ照れながら笑った。
「頑張る」
「うん」
及川は軽く手を上げた。
「行ってこい」
その言葉に、美月は小さく頷いた。
* * *
控室を出て、廊下を少し歩いたところで、三人は桐谷と鉢合わせた。
「お」
桐谷が及川を見る。
「及川、こんなところにいたのか」
及川は嫌な予感がした。
「桐谷先生」
「ちょうどいい。藤崎のところに行くぞ」
「え」
玲奈と香澄が顔を見合わせる。
「及川、今度は新郎側?」
「忙しいね」
及川は二人を見た。
「お前らが連れ回したんだろ」
桐谷は笑った。
「何をしてたんだ」
「……三浦と柏木に連行されてました」
「なるほど。綾瀬のところか」
及川は一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、桐谷はだいたい察したらしい。
「まあ、いい。来い」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「大丈夫だ。たぶん面白いだけだ」
「俺にとっては大丈夫じゃないです」
玲奈と香澄が笑いながら手を振る。
「及川、頑張って」
「健闘を祈る」
「お前ら、ほんと覚えてろよ」
及川の抗議を背中に受けながら、桐谷は楽しそうに歩き出した。
及川は深く息を吐く。
振り回されてる。
完全に。
しかも、今度はたぶん新郎側で。
廊下の向こうから、中川がこちらを見つけて軽く手を上げた。
「及川、二次会の受付表、あとで確認な」
「今それ言う?」
「お前、全方位調整係だろ」
「その役職、誰が決めたんだよ」
中川は笑って去っていった。
及川はもう一度、深く息を吐いた。
本当に、誰も助けてくれない。
新郎控室の扉が開く。
そこにいた藤崎先生を見て、及川は思わず言葉を失った。
深い黒のタキシード。
細身のラインが、姿勢の良さを際立たせている。
白いシャツ。
控えめな光沢のあるタイ。
胸元には、小さな白い花。
病院で見る白衣姿とも、手術室で見る無駄のない姿とも違う。
それでも、藤崎先生らしかった。
静かで、品があって、隙がない。
だけど、今日はどこか柔らかい。
挙式前の緊張なのか、幸せなのか。
たぶん、その両方だ。
藤崎先生は窓際に立っていた。
外からの光が、横顔を淡く照らしている。
桐谷が笑った。
「相変わらず絵になるな」
及川は心の中で同意した。
本当に絵になる。
悔しいくらいに。
藤崎先生が振り返る。
「桐谷」
そして、及川を見る。
「及川も」
「おめでとうございます、先生」
及川は少しだけ背筋を伸ばした。
藤崎先生は穏やかに頷く。
「ありがとう」
その声も、いつもより少し柔らかかった。
桐谷が藤崎先生の肩を軽く叩いた。
「緊張してるか」
「少し」
「少しか」
「かなり、とは言わないことにしてる」
桐谷は笑った。
「そういうところが藤崎らしい」
及川は黙ってそのやり取りを聞いていた。
藤崎先生は落ち着いている。
いつものように見える。
けれど、ほんの少しだけ違う。
指先が、わずかにカフスに触れている。
視線が時計に一瞬だけ向く。
綾瀬を待っているのだと分かった。
桐谷が、ふいに思い出したように言った。
「そういえば藤崎」
「何?」
「及川、さっき綾瀬の控室の方から来たぞ」
空気が止まった。
及川は、ゆっくり桐谷を見た。
今、言った。
完全に言った。
藤崎先生の視線が、静かに及川へ向いた。
声は穏やかなままなのに、目だけが少し冷たい。
「及川」
「不可抗力です、先生!」
及川は即座に言った。
「俺は抵抗しました。本当に抵抗しました。三浦と柏木に連れて行かれただけです」
桐谷が楽しそうに笑う。
「抵抗したんだよな?」
「もちろんです!」
「結果は?」
「負けました」
「なら仕方ないな」
「仕方なくないです。先生に言わないでほしかったです」
藤崎先生は静かに言った。
「美月のドレス、見たんだ」
「……見ました」
「俺はまだ見てない」
及川は言葉に詰まった。
この式では、挙式まで藤崎先生にドレス姿を見せないことになっていた。
怜子が「その方が絶対に面白いでしょう」と言い、佳乃も微笑んで賛成したらしい。
つまり、今日が初めてのお披露目だった。
その初めてを、及川が先に見てしまった。
最悪だ。
「先生」
「うん」
「本当に不可抗力です」
「分かってるよ」
藤崎先生はそう言った。
けれど、目がまだ少しだけ怖い。
桐谷が声を出して笑った。
「よし、これは二次会案件だな」
「桐谷先生」
及川が絶望した声を出す。
「勘弁してください」
「新郎より先に花嫁を見た罪は重い」
「だから不可抗力ですって」
藤崎先生は少しだけ笑った。
その笑いが、逆に及川には怖かった。
「二次会、楽しみだね」
「先生まで」
勘弁してくれ。
及川は心の中で本気で思った。
それでも、控室の空気は温かかった。
桐谷がいて、藤崎先生がいて、及川がいて。
病院とは違う場所で、それでもどこか病院の延長のような関係性がそこにあった。
やがて、スタッフが扉をノックした。
「そろそろお時間です」
藤崎先生の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
けれど、及川には分かった。
今まで見せていた余裕の奥に、緊張がある。
綾瀬を待つ人の顔。
藤崎先生は静かに頷いた。
「分かりました」
桐谷が藤崎先生の背中を軽く叩く。
「行ってこい」
「うん」
及川も、少しだけ真面目な声で言った。
「先生」
藤崎先生が見る。
「おめでとうございます」
藤崎先生は、少しだけ目元を和らげた。
「ありがとう」
その一言を残して、藤崎先生は控室を出ていった。
* * *
挙式が始まる。
チャペルには、すでに参列者が集まっていた。
白い花。
高い天井。
正面に伸びるバージンロード。
その先に、藤崎先生が立つ。
黒のタキシード姿の藤崎先生は、静かな光の中でまっすぐ前を見ていた。
やがて、扉の向こうに気配が生まれる。
綾瀬がいる。
綾瀬教授と並んで。
父の隣に立ち、これから藤崎先生のもとへ歩いていく。
及川は席からその扉を見つめた。
綾瀬がここまで来た道を、少しだけ知っている。
10Aで刺々しかった新人の頃。
缶コーヒーを受け取らなかった日。
藤崎先生の前でだけ、少し違う顔をしたこと。
退職を決めたこと。
噂の中でも、藤崎先生が揺らがなかったこと。
その全部が、今、この扉の向こうにつながっている。
音楽が始まった。
参列者の視線が、扉へ向かう。
藤崎先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。
扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうに、白い光をまとった綾瀬がいた。
式場の廊下には、白い花と淡い緑が飾られている。
磨かれた床に、窓から入る光が静かに落ちていた。
玲奈と香澄は、案内された控室へ向かっていた。
「美月、もう着替え終わってるかな」
玲奈が少し弾んだ声で言う。
「たぶんね。ドレス姿、絶対綺麗だよ」
香澄の声も、いつもより柔らかい。
「泣くかな」
「美月が?」
「うん」
香澄は少し考えた。
「泣かないようにすると思う」
「だよね」
「でも、泣いてほしい」
「分かる」
そんな話をしながら角を曲がったところで、玲奈がふと足を止めた。
「……あれ」
視線の先に、見慣れた背中があった。
黒い礼服。
式場の案内板の前で、二次会の受付表らしき紙を持っている男。
「及川」
玲奈が声をかけると、及川が振り返った。
「三浦、柏木」
「何してるの」
香澄が聞く。
「普通に参列者として来てるし、二次会の受付表を確認してる」
「迷子?」
「違う」
「迷子だね」
「違うって」
及川は軽く眉を寄せた。
病院では白衣かスクラブ姿ばかり見ていたから、礼服姿は少し新鮮だった。
ただ、本人はどこか所在なさげだった。
「挙式前から働いてる」
香澄が感心したように言った。
「なぜかね」
及川は乾いた声で答えた。
「ちょうどいいじゃん」
玲奈がにこっと笑った。
及川はその笑顔を見て、一歩下がる。
「何その顔」
「一緒に美月のところ行こう」
「は?」
及川は本気で固まった。
「いやいやいや」
「何」
「それ、俺が行っていい場所じゃないだろ」
「美月、喜ぶよ」
玲奈が悪びれずに言う。
「それはそうかもしれないけど、花嫁控室は別問題だろ」
「嫌がったらすぐ出ればいいよ」
「嫌がらなかった場合が一番まずいんだよ」
「何で?」
「藤崎先生に説明がつかないからだよ」
香澄は少し考えてから、さらりと言った。
「私たちが連れてきたことにする」
「それは事実だけど、俺が怒られるやつだろ」
玲奈と香澄は笑っている。
及川だけが笑えない。
「お前ら、俺の扱いが雑すぎる」
「今さら」
そう文句を言ったところで、二人は聞いていなかった。
結局、及川は玲奈と香澄に押し切られる形で、美月の控室の前まで連れて行かれた。
扉の前で、及川はもう一度立ち止まる。
「本当に行くの?」
「行く」
玲奈がスタッフに声をかける。
「新婦の友人です。少しだけ会えますか」
スタッフは丁寧に頷き、中へ確認してくれた。
少しして、扉が開く。
「新婦さまが、皆さまどうぞ、とおっしゃっています」
玲奈と香澄が中へ入る。
及川は、扉の外に片足を残したまま立ち止まった。
入ったら終わりだ。
そう思った。
けれど、見えてしまったものは仕方がない。
最初に目に入ったのは、白だった。
まぶしすぎず、冷たすぎず、光を含んだような白。
美月は、鏡の前に立っていた。
ドレスは、甘すぎない上品なものだった。
細い肩と首筋をきれいに見せる形で、繊細なレースが肌を柔らかく包んでいる。
スカートは大きく広がりすぎず、歩けば静かに揺れるのだろうと分かる。
ベールは薄く、髪には白い花が控えめに添えられていた。
及川は、言葉を失った。
綾瀬は、美しかった。
10Aで患者の状態を確認していた綾瀬でもない。
玲奈や香澄の前で、少しだけ気を抜いて笑う美月でもない。
藤崎先生のもとへ歩いていく、花嫁だった。
玲奈が息を呑む。
香澄も、しばらく何も言わなかった。
美月がこちらに気づく。
「玲奈、香澄」
嬉しそうに笑ったあと、視線が及川に移った。
「及川くん?」
及川は反射的に両手を上げた。
「違う。俺は連れてこられた」
玲奈が笑う。
「何が違うの」
「俺は抵抗した。ものすごく抵抗した」
「まだ何も言ってないよ」
美月は小さく笑った。
その笑顔は、少し緊張していて、でも幸せそうだった。
「来てくれてありがとう」
玲奈がすぐに近づいた。
「美月、綺麗」
香澄も隣に立つ。
「本当に綺麗」
美月は少し照れたように視線を落とした。
「ありがとう」
「泣きそう」
玲奈が言う。
「まだ早いよ」
「早いけど、もう無理」
香澄は静かに美月を見ていた。
「似合ってる。すごく」
「香澄に言われると安心する」
「美月らしいね」
「そう?」
「うん。綺麗だけど、甘すぎない。ちゃんと美月のままだと思う」
その言葉に、美月の表情が少しだけ柔らかくなった。
「お義母さまと一緒に選んだの」
玲奈が目を丸くする。
「藤崎先生のお母さまと?」
「うん」
美月は、少し照れたように頷いた。
「一緒に選んでもらった」
香澄は、その言葉の意味を少しだけ感じ取ったように頷いた。
「そっか」
及川はまだ入口付近に立っていた。
部屋の中に入り切るのもまずい気がして、半分だけ体を逃がしている。
美月がその様子を見て、少し笑った。
「及川くん、そこに立ってると不審者みたい」
「だろ? だから俺は最初から入るべきじゃないって言ったんだ」
「でも、来てくれて嬉しいよ」
美月はそう言った。
その声があまりに素直で、及川は一瞬だけ黙った。
「……おめでとう、綾瀬」
「ありがとう」
「本当に」
及川は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「綺麗だと思う」
玲奈と香澄がにやにやする。
「及川が素直」
「珍しい」
「うるさい」
美月は笑った。
その笑い方は、いつものようで、いつもとは少し違っていた。
花嫁の格好をしているから、というだけではない。
綾瀬は変わったのだ。
10Aで刺々しかった新人の頃から。
藤崎先生に出会ってから。
そして、自分で選んで、ここまで来た。
「このあと、綾瀬教授と歩くんだよな」
及川がぽつりと言った。
美月は頷く。
「うん」
「綾瀬教授にエスコートされて、綾瀬が藤崎先生のところまで歩いていくんだろ」
及川は少しだけ遠くを見る。
「絵面が強すぎる」
玲奈が吹き出した。
香澄も笑う。
美月も、思わず笑った。
「強すぎるって何」
「いや、綾瀬教授にエスコートされて、藤崎先生が待ってるんだぞ」
「及川くん」
「俺、正気で見られるかな」
「普通に見てください」
玲奈が目元を押さえながら笑った。
「分かる。参列者側も緊張するやつ」
「やめて」
香澄も笑う。
「美月、緊張ほぐれた?」
美月は少しだけ息を吐いた。
「うん。ありがとう」
玲奈が満足げに頷く。
「じゃあ、楽しみにしてるねぇ」
香澄も美月の手にそっと触れた。
「後でね」
「うん」
三人が控室を出る時、及川は最後にもう一度美月を見た。
「綾瀬」
「何?」
「転ぶなよ」
「転びません」
「緊張で早足になるなよ」
「なりません」
「藤崎先生の顔見て固まるなよ」
美月は少しだけ顔を赤くした。
「……それは分からない」
玲奈と香澄がまた笑う。
及川は肩をすくめた。
「そこは分からないのかよ」
美月は、少しだけ照れながら笑った。
「頑張る」
「うん」
及川は軽く手を上げた。
「行ってこい」
その言葉に、美月は小さく頷いた。
* * *
控室を出て、廊下を少し歩いたところで、三人は桐谷と鉢合わせた。
「お」
桐谷が及川を見る。
「及川、こんなところにいたのか」
及川は嫌な予感がした。
「桐谷先生」
「ちょうどいい。藤崎のところに行くぞ」
「え」
玲奈と香澄が顔を見合わせる。
「及川、今度は新郎側?」
「忙しいね」
及川は二人を見た。
「お前らが連れ回したんだろ」
桐谷は笑った。
「何をしてたんだ」
「……三浦と柏木に連行されてました」
「なるほど。綾瀬のところか」
及川は一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、桐谷はだいたい察したらしい。
「まあ、いい。来い」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「大丈夫だ。たぶん面白いだけだ」
「俺にとっては大丈夫じゃないです」
玲奈と香澄が笑いながら手を振る。
「及川、頑張って」
「健闘を祈る」
「お前ら、ほんと覚えてろよ」
及川の抗議を背中に受けながら、桐谷は楽しそうに歩き出した。
及川は深く息を吐く。
振り回されてる。
完全に。
しかも、今度はたぶん新郎側で。
廊下の向こうから、中川がこちらを見つけて軽く手を上げた。
「及川、二次会の受付表、あとで確認な」
「今それ言う?」
「お前、全方位調整係だろ」
「その役職、誰が決めたんだよ」
中川は笑って去っていった。
及川はもう一度、深く息を吐いた。
本当に、誰も助けてくれない。
新郎控室の扉が開く。
そこにいた藤崎先生を見て、及川は思わず言葉を失った。
深い黒のタキシード。
細身のラインが、姿勢の良さを際立たせている。
白いシャツ。
控えめな光沢のあるタイ。
胸元には、小さな白い花。
病院で見る白衣姿とも、手術室で見る無駄のない姿とも違う。
それでも、藤崎先生らしかった。
静かで、品があって、隙がない。
だけど、今日はどこか柔らかい。
挙式前の緊張なのか、幸せなのか。
たぶん、その両方だ。
藤崎先生は窓際に立っていた。
外からの光が、横顔を淡く照らしている。
桐谷が笑った。
「相変わらず絵になるな」
及川は心の中で同意した。
本当に絵になる。
悔しいくらいに。
藤崎先生が振り返る。
「桐谷」
そして、及川を見る。
「及川も」
「おめでとうございます、先生」
及川は少しだけ背筋を伸ばした。
藤崎先生は穏やかに頷く。
「ありがとう」
その声も、いつもより少し柔らかかった。
桐谷が藤崎先生の肩を軽く叩いた。
「緊張してるか」
「少し」
「少しか」
「かなり、とは言わないことにしてる」
桐谷は笑った。
「そういうところが藤崎らしい」
及川は黙ってそのやり取りを聞いていた。
藤崎先生は落ち着いている。
いつものように見える。
けれど、ほんの少しだけ違う。
指先が、わずかにカフスに触れている。
視線が時計に一瞬だけ向く。
綾瀬を待っているのだと分かった。
桐谷が、ふいに思い出したように言った。
「そういえば藤崎」
「何?」
「及川、さっき綾瀬の控室の方から来たぞ」
空気が止まった。
及川は、ゆっくり桐谷を見た。
今、言った。
完全に言った。
藤崎先生の視線が、静かに及川へ向いた。
声は穏やかなままなのに、目だけが少し冷たい。
「及川」
「不可抗力です、先生!」
及川は即座に言った。
「俺は抵抗しました。本当に抵抗しました。三浦と柏木に連れて行かれただけです」
桐谷が楽しそうに笑う。
「抵抗したんだよな?」
「もちろんです!」
「結果は?」
「負けました」
「なら仕方ないな」
「仕方なくないです。先生に言わないでほしかったです」
藤崎先生は静かに言った。
「美月のドレス、見たんだ」
「……見ました」
「俺はまだ見てない」
及川は言葉に詰まった。
この式では、挙式まで藤崎先生にドレス姿を見せないことになっていた。
怜子が「その方が絶対に面白いでしょう」と言い、佳乃も微笑んで賛成したらしい。
つまり、今日が初めてのお披露目だった。
その初めてを、及川が先に見てしまった。
最悪だ。
「先生」
「うん」
「本当に不可抗力です」
「分かってるよ」
藤崎先生はそう言った。
けれど、目がまだ少しだけ怖い。
桐谷が声を出して笑った。
「よし、これは二次会案件だな」
「桐谷先生」
及川が絶望した声を出す。
「勘弁してください」
「新郎より先に花嫁を見た罪は重い」
「だから不可抗力ですって」
藤崎先生は少しだけ笑った。
その笑いが、逆に及川には怖かった。
「二次会、楽しみだね」
「先生まで」
勘弁してくれ。
及川は心の中で本気で思った。
それでも、控室の空気は温かかった。
桐谷がいて、藤崎先生がいて、及川がいて。
病院とは違う場所で、それでもどこか病院の延長のような関係性がそこにあった。
やがて、スタッフが扉をノックした。
「そろそろお時間です」
藤崎先生の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
けれど、及川には分かった。
今まで見せていた余裕の奥に、緊張がある。
綾瀬を待つ人の顔。
藤崎先生は静かに頷いた。
「分かりました」
桐谷が藤崎先生の背中を軽く叩く。
「行ってこい」
「うん」
及川も、少しだけ真面目な声で言った。
「先生」
藤崎先生が見る。
「おめでとうございます」
藤崎先生は、少しだけ目元を和らげた。
「ありがとう」
その一言を残して、藤崎先生は控室を出ていった。
* * *
挙式が始まる。
チャペルには、すでに参列者が集まっていた。
白い花。
高い天井。
正面に伸びるバージンロード。
その先に、藤崎先生が立つ。
黒のタキシード姿の藤崎先生は、静かな光の中でまっすぐ前を見ていた。
やがて、扉の向こうに気配が生まれる。
綾瀬がいる。
綾瀬教授と並んで。
父の隣に立ち、これから藤崎先生のもとへ歩いていく。
及川は席からその扉を見つめた。
綾瀬がここまで来た道を、少しだけ知っている。
10Aで刺々しかった新人の頃。
缶コーヒーを受け取らなかった日。
藤崎先生の前でだけ、少し違う顔をしたこと。
退職を決めたこと。
噂の中でも、藤崎先生が揺らがなかったこと。
その全部が、今、この扉の向こうにつながっている。
音楽が始まった。
参列者の視線が、扉へ向かう。
藤崎先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。
扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうに、白い光をまとった綾瀬がいた。
