光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

六月の光は、思っていたよりも柔らかかった。

式場の廊下には、白い花と淡い緑が飾られている。

磨かれた床に、窓から入る光が静かに落ちていた。

玲奈と香澄は、案内された控室へ向かっていた。

「美月、もう着替え終わってるかな」

玲奈が少し弾んだ声で言う。

「たぶんね。ドレス姿、絶対綺麗だよ」

香澄の声も、いつもより柔らかい。

「泣くかな」

「美月が?」

「うん」

香澄は少し考えた。

「泣かないようにすると思う」

「だよね」

「でも、泣いてほしい」

「分かる」

そんな話をしながら角を曲がったところで、玲奈がふと足を止めた。

「……あれ」

視線の先に、見慣れた背中があった。

黒い礼服。

式場の案内板の前で、二次会の受付表らしき紙を持っている男。

「及川」

玲奈が声をかけると、及川が振り返った。

「三浦、柏木」

「何してるの」

香澄が聞く。

「普通に参列者として来てるし、二次会の受付表を確認してる」

「迷子?」

「違う」

「迷子だね」

「違うって」

及川は軽く眉を寄せた。

病院では白衣かスクラブ姿ばかり見ていたから、礼服姿は少し新鮮だった。

ただ、本人はどこか所在なさげだった。

「挙式前から働いてる」

香澄が感心したように言った。

「なぜかね」

及川は乾いた声で答えた。

「ちょうどいいじゃん」

玲奈がにこっと笑った。

及川はその笑顔を見て、一歩下がる。

「何その顔」

「一緒に美月のところ行こう」

「は?」

及川は本気で固まった。

「いやいやいや」

「何」

「それ、俺が行っていい場所じゃないだろ」

「美月、喜ぶよ」

玲奈が悪びれずに言う。

「それはそうかもしれないけど、花嫁控室は別問題だろ」

「嫌がったらすぐ出ればいいよ」

「嫌がらなかった場合が一番まずいんだよ」

「何で?」

「藤崎先生に説明がつかないからだよ」

香澄は少し考えてから、さらりと言った。

「私たちが連れてきたことにする」

「それは事実だけど、俺が怒られるやつだろ」

玲奈と香澄は笑っている。

及川だけが笑えない。

「お前ら、俺の扱いが雑すぎる」

「今さら」

そう文句を言ったところで、二人は聞いていなかった。

結局、及川は玲奈と香澄に押し切られる形で、美月の控室の前まで連れて行かれた。

扉の前で、及川はもう一度立ち止まる。

「本当に行くの?」

「行く」

玲奈がスタッフに声をかける。

「新婦の友人です。少しだけ会えますか」

スタッフは丁寧に頷き、中へ確認してくれた。

少しして、扉が開く。

「新婦さまが、皆さまどうぞ、とおっしゃっています」

玲奈と香澄が中へ入る。

及川は、扉の外に片足を残したまま立ち止まった。

入ったら終わりだ。

そう思った。

けれど、見えてしまったものは仕方がない。

最初に目に入ったのは、白だった。

まぶしすぎず、冷たすぎず、光を含んだような白。

美月は、鏡の前に立っていた。

ドレスは、甘すぎない上品なものだった。

細い肩と首筋をきれいに見せる形で、繊細なレースが肌を柔らかく包んでいる。

スカートは大きく広がりすぎず、歩けば静かに揺れるのだろうと分かる。

ベールは薄く、髪には白い花が控えめに添えられていた。

及川は、言葉を失った。

綾瀬は、美しかった。

10Aで患者の状態を確認していた綾瀬でもない。

玲奈や香澄の前で、少しだけ気を抜いて笑う美月でもない。

藤崎先生のもとへ歩いていく、花嫁だった。

玲奈が息を呑む。

香澄も、しばらく何も言わなかった。

美月がこちらに気づく。

「玲奈、香澄」

嬉しそうに笑ったあと、視線が及川に移った。

「及川くん?」

及川は反射的に両手を上げた。

「違う。俺は連れてこられた」

玲奈が笑う。

「何が違うの」

「俺は抵抗した。ものすごく抵抗した」

「まだ何も言ってないよ」

美月は小さく笑った。

その笑顔は、少し緊張していて、でも幸せそうだった。

「来てくれてありがとう」

玲奈がすぐに近づいた。

「美月、綺麗」

香澄も隣に立つ。

「本当に綺麗」

美月は少し照れたように視線を落とした。

「ありがとう」

「泣きそう」

玲奈が言う。

「まだ早いよ」

「早いけど、もう無理」

香澄は静かに美月を見ていた。

「似合ってる。すごく」

「香澄に言われると安心する」

「美月らしいね」

「そう?」

「うん。綺麗だけど、甘すぎない。ちゃんと美月のままだと思う」

その言葉に、美月の表情が少しだけ柔らかくなった。

「お義母さまと一緒に選んだの」

玲奈が目を丸くする。

「藤崎先生のお母さまと?」

「うん」

美月は、少し照れたように頷いた。

「一緒に選んでもらった」

香澄は、その言葉の意味を少しだけ感じ取ったように頷いた。

「そっか」

及川はまだ入口付近に立っていた。

部屋の中に入り切るのもまずい気がして、半分だけ体を逃がしている。

美月がその様子を見て、少し笑った。

「及川くん、そこに立ってると不審者みたい」

「だろ? だから俺は最初から入るべきじゃないって言ったんだ」

「でも、来てくれて嬉しいよ」

美月はそう言った。

その声があまりに素直で、及川は一瞬だけ黙った。

「……おめでとう、綾瀬」

「ありがとう」

「本当に」

及川は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。

「綺麗だと思う」

玲奈と香澄がにやにやする。

「及川が素直」

「珍しい」

「うるさい」

美月は笑った。

その笑い方は、いつものようで、いつもとは少し違っていた。

花嫁の格好をしているから、というだけではない。

綾瀬は変わったのだ。

10Aで刺々しかった新人の頃から。

藤崎先生に出会ってから。

そして、自分で選んで、ここまで来た。

「このあと、綾瀬教授と歩くんだよな」

及川がぽつりと言った。

美月は頷く。

「うん」

「綾瀬教授にエスコートされて、綾瀬が藤崎先生のところまで歩いていくんだろ」

及川は少しだけ遠くを見る。

「絵面が強すぎる」

玲奈が吹き出した。

香澄も笑う。

美月も、思わず笑った。

「強すぎるって何」

「いや、綾瀬教授にエスコートされて、藤崎先生が待ってるんだぞ」

「及川くん」

「俺、正気で見られるかな」

「普通に見てください」

玲奈が目元を押さえながら笑った。

「分かる。参列者側も緊張するやつ」

「やめて」

香澄も笑う。

「美月、緊張ほぐれた?」

美月は少しだけ息を吐いた。

「うん。ありがとう」

玲奈が満足げに頷く。

「じゃあ、楽しみにしてるねぇ」

香澄も美月の手にそっと触れた。

「後でね」

「うん」

三人が控室を出る時、及川は最後にもう一度美月を見た。

「綾瀬」

「何?」

「転ぶなよ」

「転びません」

「緊張で早足になるなよ」

「なりません」

「藤崎先生の顔見て固まるなよ」

美月は少しだけ顔を赤くした。

「……それは分からない」

玲奈と香澄がまた笑う。

及川は肩をすくめた。

「そこは分からないのかよ」

美月は、少しだけ照れながら笑った。

「頑張る」

「うん」

及川は軽く手を上げた。

「行ってこい」

その言葉に、美月は小さく頷いた。

* * *

控室を出て、廊下を少し歩いたところで、三人は桐谷と鉢合わせた。

「お」

桐谷が及川を見る。

「及川、こんなところにいたのか」

及川は嫌な予感がした。

「桐谷先生」

「ちょうどいい。藤崎のところに行くぞ」

「え」

玲奈と香澄が顔を見合わせる。

「及川、今度は新郎側?」

「忙しいね」

及川は二人を見た。

「お前らが連れ回したんだろ」

桐谷は笑った。

「何をしてたんだ」

「……三浦と柏木に連行されてました」

「なるほど。綾瀬のところか」

及川は一瞬だけ黙った。

その沈黙だけで、桐谷はだいたい察したらしい。

「まあ、いい。来い」

「嫌な予感しかしないんですけど」

「大丈夫だ。たぶん面白いだけだ」

「俺にとっては大丈夫じゃないです」

玲奈と香澄が笑いながら手を振る。

「及川、頑張って」

「健闘を祈る」

「お前ら、ほんと覚えてろよ」

及川の抗議を背中に受けながら、桐谷は楽しそうに歩き出した。

及川は深く息を吐く。

振り回されてる。

完全に。

しかも、今度はたぶん新郎側で。

廊下の向こうから、中川がこちらを見つけて軽く手を上げた。

「及川、二次会の受付表、あとで確認な」

「今それ言う?」

「お前、全方位調整係だろ」

「その役職、誰が決めたんだよ」

中川は笑って去っていった。

及川はもう一度、深く息を吐いた。

本当に、誰も助けてくれない。

新郎控室の扉が開く。

そこにいた藤崎先生を見て、及川は思わず言葉を失った。

深い黒のタキシード。

細身のラインが、姿勢の良さを際立たせている。

白いシャツ。

控えめな光沢のあるタイ。

胸元には、小さな白い花。

病院で見る白衣姿とも、手術室で見る無駄のない姿とも違う。

それでも、藤崎先生らしかった。

静かで、品があって、隙がない。

だけど、今日はどこか柔らかい。

挙式前の緊張なのか、幸せなのか。

たぶん、その両方だ。

藤崎先生は窓際に立っていた。

外からの光が、横顔を淡く照らしている。

桐谷が笑った。

「相変わらず絵になるな」

及川は心の中で同意した。

本当に絵になる。

悔しいくらいに。

藤崎先生が振り返る。

「桐谷」

そして、及川を見る。

「及川も」

「おめでとうございます、先生」

及川は少しだけ背筋を伸ばした。

藤崎先生は穏やかに頷く。

「ありがとう」

その声も、いつもより少し柔らかかった。

桐谷が藤崎先生の肩を軽く叩いた。

「緊張してるか」

「少し」

「少しか」

「かなり、とは言わないことにしてる」

桐谷は笑った。

「そういうところが藤崎らしい」

及川は黙ってそのやり取りを聞いていた。

藤崎先生は落ち着いている。

いつものように見える。

けれど、ほんの少しだけ違う。

指先が、わずかにカフスに触れている。

視線が時計に一瞬だけ向く。

綾瀬を待っているのだと分かった。

桐谷が、ふいに思い出したように言った。

「そういえば藤崎」

「何?」

「及川、さっき綾瀬の控室の方から来たぞ」

空気が止まった。

及川は、ゆっくり桐谷を見た。

今、言った。

完全に言った。

藤崎先生の視線が、静かに及川へ向いた。

声は穏やかなままなのに、目だけが少し冷たい。

「及川」

「不可抗力です、先生!」

及川は即座に言った。

「俺は抵抗しました。本当に抵抗しました。三浦と柏木に連れて行かれただけです」

桐谷が楽しそうに笑う。

「抵抗したんだよな?」

「もちろんです!」

「結果は?」

「負けました」

「なら仕方ないな」

「仕方なくないです。先生に言わないでほしかったです」

藤崎先生は静かに言った。

「美月のドレス、見たんだ」

「……見ました」

「俺はまだ見てない」

及川は言葉に詰まった。

この式では、挙式まで藤崎先生にドレス姿を見せないことになっていた。

怜子が「その方が絶対に面白いでしょう」と言い、佳乃も微笑んで賛成したらしい。

つまり、今日が初めてのお披露目だった。

その初めてを、及川が先に見てしまった。

最悪だ。

「先生」

「うん」

「本当に不可抗力です」

「分かってるよ」

藤崎先生はそう言った。

けれど、目がまだ少しだけ怖い。

桐谷が声を出して笑った。

「よし、これは二次会案件だな」

「桐谷先生」

及川が絶望した声を出す。

「勘弁してください」

「新郎より先に花嫁を見た罪は重い」

「だから不可抗力ですって」

藤崎先生は少しだけ笑った。

その笑いが、逆に及川には怖かった。

「二次会、楽しみだね」

「先生まで」

勘弁してくれ。

及川は心の中で本気で思った。

それでも、控室の空気は温かかった。

桐谷がいて、藤崎先生がいて、及川がいて。

病院とは違う場所で、それでもどこか病院の延長のような関係性がそこにあった。

やがて、スタッフが扉をノックした。

「そろそろお時間です」

藤崎先生の表情が変わった。

ほんの少しだけ。

けれど、及川には分かった。

今まで見せていた余裕の奥に、緊張がある。

綾瀬を待つ人の顔。

藤崎先生は静かに頷いた。

「分かりました」

桐谷が藤崎先生の背中を軽く叩く。

「行ってこい」

「うん」

及川も、少しだけ真面目な声で言った。

「先生」

藤崎先生が見る。

「おめでとうございます」

藤崎先生は、少しだけ目元を和らげた。

「ありがとう」

その一言を残して、藤崎先生は控室を出ていった。

* * *

挙式が始まる。

チャペルには、すでに参列者が集まっていた。

白い花。

高い天井。

正面に伸びるバージンロード。

その先に、藤崎先生が立つ。

黒のタキシード姿の藤崎先生は、静かな光の中でまっすぐ前を見ていた。

やがて、扉の向こうに気配が生まれる。

綾瀬がいる。

綾瀬教授と並んで。

父の隣に立ち、これから藤崎先生のもとへ歩いていく。

及川は席からその扉を見つめた。

綾瀬がここまで来た道を、少しだけ知っている。

10Aで刺々しかった新人の頃。

缶コーヒーを受け取らなかった日。

藤崎先生の前でだけ、少し違う顔をしたこと。

退職を決めたこと。

噂の中でも、藤崎先生が揺らがなかったこと。

その全部が、今、この扉の向こうにつながっている。

音楽が始まった。

参列者の視線が、扉へ向かう。

藤崎先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。

扉が、ゆっくりと開いていく。

その向こうに、白い光をまとった綾瀬がいた。