退職してからの美月の日々は、思っていたよりも忙しかった。
10Aを離れたら、急に時間が止まるのではないかと思っていた。
朝、病院へ行かないこと。
夜勤明けの重たい身体で眠ることがなくなったこと。
ナースコールの音を聞かないこと。
最初の数日は、身体の奥に残った緊張だけが行き場をなくしていた。
けれど、すぐに新しい予定が埋まっていった。
藤崎家へ通う日。
英会話のレッスン。
渡米後の生活に向けた料理教室。
挙式の準備。
渡米の準備。
退職前より時間はあるはずなのに、美月の手帳は、思ったより白くならなかった。
ただ、生活のリズムは整った。
朝に起きて、夜に眠る。
それだけのことが、こんなにも身体を楽にするのだと、退職してから初めて知った。
理久は相変わらず忙しかった。
朝早く出て、夜遅く帰ってくる。
手術。
外来。
カンファレンス。
留学前の調整。
二人の生活は、劇的に変わったわけではない。
部屋も、基本的には別だった。
それでも、美月の中では少しずつ何かが変わっていた。
待つだけではない。
守られるだけではない。
理久の隣に立つために、自分で学ぶ時間が始まっていた。
* * *
あの日、佳乃に「教えていただきたい」と頼んでから、美月は藤崎家へ通うようになった。
佳乃は、何かを押しつける人ではなかった。
藤崎家の嫁として、こうあるべき。
そんな響きは少しもない。
ただ、美月がこれから知らない世界へ入っていく時に、必要以上に萎縮しなくて済むように。
静かに、手を差し出してくれていた。
藤崎家のリビングには、いつも季節の花があった。
大げさではない。
けれど、花器の形、枝の向き、花の高さ、余白の取り方。
すべてが不思議なほど自然で、美しかった。
佳乃はその前に座ると、指先だけで空気を整えるように花に触れた。
「こういうものはね、正解を覚えるというより、相手を見ることに近いの」
「相手、ですか」
「ええ。花も、器も、部屋も、その日に来る方も」
佳乃の手元は静かだった。
迷いがないように見える。
そう伝えると、佳乃は少しだけ笑った。
「迷っているわよ。ただ、迷っているところを相手に見せないだけ」
美月は思わず顔を上げた。
「美しく見える所作というのは、自分を立派に見せるためだけのものではないの。相手に余計な不安を与えないためでもあるわ」
その言葉は、美月にすとんと落ちた。
型。
医療の現場にも、型があった。
確認の順番。
申し送りの方法。
急変時の動き。
型があるから、怖くても動ける。
慌てても、戻れる場所がある。
佳乃が教えてくれているものも、きっとそれに近いのだと思った。
お茶を入れる手順。
花を生ける時の余白。
食事の席での間の取り方。
相手の話を聞く時の視線。
知らない場で、必要以上に萎縮しないための呼吸。
佳乃は、それを一つずつ、静かに教えてくれた。
英会話では、何度も言葉に詰まった。
料理教室では、看護師として使ってきた手元の安定を褒められた。
10Aで積み重ねてきたものが、別の世界で小さくつながっていく。
そのことが、美月には少し嬉しかった。
* * *
ある午後、藤崎家のティールームで、美月は佳乃と向かい合っていた。
白いクロス。
薄い磁器のカップ。
焼き菓子の甘い香り。
窓の外には、よく手入れされた庭が見える。
「少し慣れてきたかしら」
佳乃が紅茶を注ぎながら言った。
「慣れた、とはまだ言えません」
美月は正直に答えた。
「でも、最初よりは緊張しなくなりました」
「それなら十分よ」
佳乃はカップを美月の前に置いた。
その手元は、やはり美しかった。
「お義母さま」
「なあに」
「私も、そんなふうに振る舞えるようになるでしょうか」
聞いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
子どものような質問だと思った。
けれど、佳乃は笑わなかった。
「なれるわ」
静かな声だった。
「でも、美月さんが私と同じになる必要はないのよ」
美月は少しだけ視線を落とした。
「……でも、藤崎家の席に立つなら、きちんとできないといけない気がして」
「きちんと、は大切よ」
佳乃は穏やかに言った。
「でも、誰かと同じになることとは違うわ。あなたには、あなたの立ち方があるでしょう」
その言葉は、温かかった。
けれど、美月の胸の奥には、まだ小さな不安が残っていた。
「でも、私は知らないことが多すぎます」
「知らないなら、知っていけばいいの」
佳乃はあっさり言った。
「大切なのは、知らないことを恥じることではなく、知ろうとすることよ」
責めない。
急かさない。
でも、甘やかしもしない。
佳乃の優しさは、いつもそうだった。
包み込むようでいて、静かに背筋を伸ばさせる。
美月はカップに視線を落とした。
紅茶の表面に、窓からの光が揺れている。
「お義母さま」
「ええ」
「ドレス選びに、一緒に来ていただけませんか」
佳乃の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚いたような。
そして、嬉しそうな。
「私でいいの?」
「はい」
美月はまっすぐに頷いた。
「藤崎家のために選ぶ、という意味ではありません」
言葉を選びながら続ける。
「私が、理久の隣に自信を持って立ちたいんです。そのために、お義母さまに見ていただきたいと思いました」
佳乃はしばらく黙っていた。
美月は少し不安になる。
言い方を間違えただろうか。
けれど、佳乃は静かに微笑んだ。
「嬉しいわ」
その一言は、とても柔らかかった。
「一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」
「美月さん」
「はい」
「理久は、幸せね」
美月は思わず顔を上げた。
「……そう思っていただけますか」
「ええ」
佳乃は少しだけ目を細めた。
「あの子の隣に立とうとしてくれる人がいる。それは、とても幸せなことよ」
美月は、何も言えなくなった。
完璧である必要はない。
けれど、知ろうとする。
近づこうとする。
自分の足で、理久の隣へ行こうとする。
そのことを、佳乃はちゃんと見てくれていた。
* * *
四月の終わり。
予定通り、二人は婚姻届を出す日を迎えた。
六月の挙式より先に入籍することは、留学準備の中で決まっていた。
父にも、佳乃にも、すでに伝えてある。
それでも、いざ封筒の中の紙を見ると、美月の胸には不思議な緊張が生まれた。
証人の欄には、理久の両親の名前が並んでいる。
佳乃が丁寧な字で署名し、理久の父も静かに名前を書いてくれた。
紙一枚。
それなのに、その紙には不思議な重みがあった。
婚姻届を提出する日は、理久の仕事が遅くまで入っていた。
だから二人は、夜間受付へ向かった。
必要な書類は、事前に確認してある。
この日に出すと決めて、二人で準備してきた。
それでも、窓口に出す瞬間のことを考えるだけで、指先が少し緊張した。
四月の夜は、少しだけ冷たかった。
区役所の建物は、昼間とは違って静かだった。
正面の明るい窓ではなく、夜間受付の入口へ回る。
美月は封筒を胸の前で持っていた。
その中に、婚姻届が入っている。
隣を歩く理久は、仕事を終えて着替えてきたのだろう。
黒いコートの下に、落ち着いた色のシャツ。
疲れているはずなのに、いつものように整っている。
「最近、母さんが美月の話をよくする」
理久がふいに言った。
美月は横を見る。
「お義母さまが、ですか」
「うん。俺より会ってるんじゃない?」
「教えていただいているので」
「知ってる」
理久は少しだけ笑った。
「嬉しいって意味」
その言葉に、美月は少しだけ胸が温かくなった。
理久は多くを言わない。
けれど、母が美月を受け入れていること。
美月が佳乃のもとへ通っていること。
その両方が、理久にはきっと嬉しいのだ。
美月は小さく笑った。
「お義母さまには、敵いません」
「母さんに勝とうとしてたの?」
「していません」
「なら大丈夫」
「どういう意味ですか」
理久は前を向いたまま、少し笑った。
美月もつられて、少しだけ笑った。
勝ち負けではない。
いつか、自分もあんなふうに、人を包み込める人になりたい。
知らないことを責めず、でも知ろうとする背中をそっと支えられる人になりたい。
美月は封筒を持つ手に、少しだけ力を込めた。
夜間受付の窓口には、数人の職員がいた。
必要な書類を出す。
婚姻届。
身分証。
戸籍関係の書類。
職員が淡々と確認していく。
「こちら、お預かりします」
その言葉を聞いた瞬間、美月は息を止めた。
婚姻届が、窓口の向こうへ渡っていく。
綾瀬美月。
その名前で書いた、最後の大きな手続きのように思えた。
もちろん、名前が変わったからといって、自分が消えるわけではない。
父の娘であったことも。
10Aで働いていたことも。
これまで自分が選び、傷つき、立ってきた時間も。
何一つ消えない。
それでも、少しだけ寂しかった。
理久は何も言わなかった。
ただ、美月の隣に立っていた。
急かさない。
慰めすぎない。
美月がその寂しさを自分で受け止める時間を、ただ隣で待ってくれていた。
職員が書類を確認する音がした。
その小さな音が、美月にはやけに大きく聞こえた。
「お預かりしました」
手続きは、驚くほどあっさり終わった。
窓口の向こうへ渡しただけ。
それなのに、美月の中では、何かが静かに切り替わった気がした。
区役所を出ると、四月の夜風が頬に触れた。
理久は、美月の方へ向き直る。
「美月」
「はい」
「よろしくお願いします」
いつもより少しだけ改まった声だった。
美月も背筋を伸ばした。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
言ってから、急に照れくさくなる。
理久はそれを見て、少しだけ笑った。
「藤崎美月さん」
胸が、小さく跳ねた。
「……まだ、慣れません」
「うん」
理久は、からかうでもなく頷いた。
「無理に慣れなくていいよ」
その声が優しかったので、美月は少しだけ視線を落とした。
「名前が変わっても、急に別の人になるわけじゃないのに」
「うん」
「でも、少しだけ、不思議です」
理久は黙って、美月の言葉を待っていた。
急かさない。
笑わない。
その違和感ごと、隣で受け止めてくれる。
少し間を置いて、理久がいつもの声で呼んだ。
「美月」
その呼び方は、何も変わらなかった。
美月はようやく、少しだけ笑えた。
二人は並んで歩き出した。
役所の灯りが、背後で少しずつ遠ざかっていく。
紙一枚で変わること。
紙一枚では変わらないこと。
そのどちらも抱えながら、美月は理久の隣を歩いた。
まだ、新しい名前には慣れない。
それでも、隣を歩く理久の歩幅が、いつもより少しだけゆっくりなことには気づいた。
美月は小さく笑った。
「りく」
「うん」
「私も、頑張ります」
「知ってる」
「また、それですか」
理久は前を向いたまま、少し笑った。
「でも、頑張りすぎたら止める」
美月は頷いた。
「はい」
四月の夜は、まだ少し冷たい。
けれど、隣にある歩幅は、もう一人分ではなかった。
10Aを離れたら、急に時間が止まるのではないかと思っていた。
朝、病院へ行かないこと。
夜勤明けの重たい身体で眠ることがなくなったこと。
ナースコールの音を聞かないこと。
最初の数日は、身体の奥に残った緊張だけが行き場をなくしていた。
けれど、すぐに新しい予定が埋まっていった。
藤崎家へ通う日。
英会話のレッスン。
渡米後の生活に向けた料理教室。
挙式の準備。
渡米の準備。
退職前より時間はあるはずなのに、美月の手帳は、思ったより白くならなかった。
ただ、生活のリズムは整った。
朝に起きて、夜に眠る。
それだけのことが、こんなにも身体を楽にするのだと、退職してから初めて知った。
理久は相変わらず忙しかった。
朝早く出て、夜遅く帰ってくる。
手術。
外来。
カンファレンス。
留学前の調整。
二人の生活は、劇的に変わったわけではない。
部屋も、基本的には別だった。
それでも、美月の中では少しずつ何かが変わっていた。
待つだけではない。
守られるだけではない。
理久の隣に立つために、自分で学ぶ時間が始まっていた。
* * *
あの日、佳乃に「教えていただきたい」と頼んでから、美月は藤崎家へ通うようになった。
佳乃は、何かを押しつける人ではなかった。
藤崎家の嫁として、こうあるべき。
そんな響きは少しもない。
ただ、美月がこれから知らない世界へ入っていく時に、必要以上に萎縮しなくて済むように。
静かに、手を差し出してくれていた。
藤崎家のリビングには、いつも季節の花があった。
大げさではない。
けれど、花器の形、枝の向き、花の高さ、余白の取り方。
すべてが不思議なほど自然で、美しかった。
佳乃はその前に座ると、指先だけで空気を整えるように花に触れた。
「こういうものはね、正解を覚えるというより、相手を見ることに近いの」
「相手、ですか」
「ええ。花も、器も、部屋も、その日に来る方も」
佳乃の手元は静かだった。
迷いがないように見える。
そう伝えると、佳乃は少しだけ笑った。
「迷っているわよ。ただ、迷っているところを相手に見せないだけ」
美月は思わず顔を上げた。
「美しく見える所作というのは、自分を立派に見せるためだけのものではないの。相手に余計な不安を与えないためでもあるわ」
その言葉は、美月にすとんと落ちた。
型。
医療の現場にも、型があった。
確認の順番。
申し送りの方法。
急変時の動き。
型があるから、怖くても動ける。
慌てても、戻れる場所がある。
佳乃が教えてくれているものも、きっとそれに近いのだと思った。
お茶を入れる手順。
花を生ける時の余白。
食事の席での間の取り方。
相手の話を聞く時の視線。
知らない場で、必要以上に萎縮しないための呼吸。
佳乃は、それを一つずつ、静かに教えてくれた。
英会話では、何度も言葉に詰まった。
料理教室では、看護師として使ってきた手元の安定を褒められた。
10Aで積み重ねてきたものが、別の世界で小さくつながっていく。
そのことが、美月には少し嬉しかった。
* * *
ある午後、藤崎家のティールームで、美月は佳乃と向かい合っていた。
白いクロス。
薄い磁器のカップ。
焼き菓子の甘い香り。
窓の外には、よく手入れされた庭が見える。
「少し慣れてきたかしら」
佳乃が紅茶を注ぎながら言った。
「慣れた、とはまだ言えません」
美月は正直に答えた。
「でも、最初よりは緊張しなくなりました」
「それなら十分よ」
佳乃はカップを美月の前に置いた。
その手元は、やはり美しかった。
「お義母さま」
「なあに」
「私も、そんなふうに振る舞えるようになるでしょうか」
聞いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
子どものような質問だと思った。
けれど、佳乃は笑わなかった。
「なれるわ」
静かな声だった。
「でも、美月さんが私と同じになる必要はないのよ」
美月は少しだけ視線を落とした。
「……でも、藤崎家の席に立つなら、きちんとできないといけない気がして」
「きちんと、は大切よ」
佳乃は穏やかに言った。
「でも、誰かと同じになることとは違うわ。あなたには、あなたの立ち方があるでしょう」
その言葉は、温かかった。
けれど、美月の胸の奥には、まだ小さな不安が残っていた。
「でも、私は知らないことが多すぎます」
「知らないなら、知っていけばいいの」
佳乃はあっさり言った。
「大切なのは、知らないことを恥じることではなく、知ろうとすることよ」
責めない。
急かさない。
でも、甘やかしもしない。
佳乃の優しさは、いつもそうだった。
包み込むようでいて、静かに背筋を伸ばさせる。
美月はカップに視線を落とした。
紅茶の表面に、窓からの光が揺れている。
「お義母さま」
「ええ」
「ドレス選びに、一緒に来ていただけませんか」
佳乃の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚いたような。
そして、嬉しそうな。
「私でいいの?」
「はい」
美月はまっすぐに頷いた。
「藤崎家のために選ぶ、という意味ではありません」
言葉を選びながら続ける。
「私が、理久の隣に自信を持って立ちたいんです。そのために、お義母さまに見ていただきたいと思いました」
佳乃はしばらく黙っていた。
美月は少し不安になる。
言い方を間違えただろうか。
けれど、佳乃は静かに微笑んだ。
「嬉しいわ」
その一言は、とても柔らかかった。
「一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」
「美月さん」
「はい」
「理久は、幸せね」
美月は思わず顔を上げた。
「……そう思っていただけますか」
「ええ」
佳乃は少しだけ目を細めた。
「あの子の隣に立とうとしてくれる人がいる。それは、とても幸せなことよ」
美月は、何も言えなくなった。
完璧である必要はない。
けれど、知ろうとする。
近づこうとする。
自分の足で、理久の隣へ行こうとする。
そのことを、佳乃はちゃんと見てくれていた。
* * *
四月の終わり。
予定通り、二人は婚姻届を出す日を迎えた。
六月の挙式より先に入籍することは、留学準備の中で決まっていた。
父にも、佳乃にも、すでに伝えてある。
それでも、いざ封筒の中の紙を見ると、美月の胸には不思議な緊張が生まれた。
証人の欄には、理久の両親の名前が並んでいる。
佳乃が丁寧な字で署名し、理久の父も静かに名前を書いてくれた。
紙一枚。
それなのに、その紙には不思議な重みがあった。
婚姻届を提出する日は、理久の仕事が遅くまで入っていた。
だから二人は、夜間受付へ向かった。
必要な書類は、事前に確認してある。
この日に出すと決めて、二人で準備してきた。
それでも、窓口に出す瞬間のことを考えるだけで、指先が少し緊張した。
四月の夜は、少しだけ冷たかった。
区役所の建物は、昼間とは違って静かだった。
正面の明るい窓ではなく、夜間受付の入口へ回る。
美月は封筒を胸の前で持っていた。
その中に、婚姻届が入っている。
隣を歩く理久は、仕事を終えて着替えてきたのだろう。
黒いコートの下に、落ち着いた色のシャツ。
疲れているはずなのに、いつものように整っている。
「最近、母さんが美月の話をよくする」
理久がふいに言った。
美月は横を見る。
「お義母さまが、ですか」
「うん。俺より会ってるんじゃない?」
「教えていただいているので」
「知ってる」
理久は少しだけ笑った。
「嬉しいって意味」
その言葉に、美月は少しだけ胸が温かくなった。
理久は多くを言わない。
けれど、母が美月を受け入れていること。
美月が佳乃のもとへ通っていること。
その両方が、理久にはきっと嬉しいのだ。
美月は小さく笑った。
「お義母さまには、敵いません」
「母さんに勝とうとしてたの?」
「していません」
「なら大丈夫」
「どういう意味ですか」
理久は前を向いたまま、少し笑った。
美月もつられて、少しだけ笑った。
勝ち負けではない。
いつか、自分もあんなふうに、人を包み込める人になりたい。
知らないことを責めず、でも知ろうとする背中をそっと支えられる人になりたい。
美月は封筒を持つ手に、少しだけ力を込めた。
夜間受付の窓口には、数人の職員がいた。
必要な書類を出す。
婚姻届。
身分証。
戸籍関係の書類。
職員が淡々と確認していく。
「こちら、お預かりします」
その言葉を聞いた瞬間、美月は息を止めた。
婚姻届が、窓口の向こうへ渡っていく。
綾瀬美月。
その名前で書いた、最後の大きな手続きのように思えた。
もちろん、名前が変わったからといって、自分が消えるわけではない。
父の娘であったことも。
10Aで働いていたことも。
これまで自分が選び、傷つき、立ってきた時間も。
何一つ消えない。
それでも、少しだけ寂しかった。
理久は何も言わなかった。
ただ、美月の隣に立っていた。
急かさない。
慰めすぎない。
美月がその寂しさを自分で受け止める時間を、ただ隣で待ってくれていた。
職員が書類を確認する音がした。
その小さな音が、美月にはやけに大きく聞こえた。
「お預かりしました」
手続きは、驚くほどあっさり終わった。
窓口の向こうへ渡しただけ。
それなのに、美月の中では、何かが静かに切り替わった気がした。
区役所を出ると、四月の夜風が頬に触れた。
理久は、美月の方へ向き直る。
「美月」
「はい」
「よろしくお願いします」
いつもより少しだけ改まった声だった。
美月も背筋を伸ばした。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
言ってから、急に照れくさくなる。
理久はそれを見て、少しだけ笑った。
「藤崎美月さん」
胸が、小さく跳ねた。
「……まだ、慣れません」
「うん」
理久は、からかうでもなく頷いた。
「無理に慣れなくていいよ」
その声が優しかったので、美月は少しだけ視線を落とした。
「名前が変わっても、急に別の人になるわけじゃないのに」
「うん」
「でも、少しだけ、不思議です」
理久は黙って、美月の言葉を待っていた。
急かさない。
笑わない。
その違和感ごと、隣で受け止めてくれる。
少し間を置いて、理久がいつもの声で呼んだ。
「美月」
その呼び方は、何も変わらなかった。
美月はようやく、少しだけ笑えた。
二人は並んで歩き出した。
役所の灯りが、背後で少しずつ遠ざかっていく。
紙一枚で変わること。
紙一枚では変わらないこと。
そのどちらも抱えながら、美月は理久の隣を歩いた。
まだ、新しい名前には慣れない。
それでも、隣を歩く理久の歩幅が、いつもより少しだけゆっくりなことには気づいた。
美月は小さく笑った。
「りく」
「うん」
「私も、頑張ります」
「知ってる」
「また、それですか」
理久は前を向いたまま、少し笑った。
「でも、頑張りすぎたら止める」
美月は頷いた。
「はい」
四月の夜は、まだ少し冷たい。
けれど、隣にある歩幅は、もう一人分ではなかった。
