光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

「覚悟はあるの?」

理久の声は、静かだった。

美月は、盤面から目を逸らさなかった。

白と黒の駒が、テーブルの上で向かい合っている。

まだ、美月の王には逃げ道がある。

けれど、目の前の理久は、もう逃がすつもりがない顔をしていた。

それでも、美月は頷いた。

「あります」

理久は、美月を見た。

「そう」

その声は、ひどく静かだった。

次の瞬間、理久の指が黒の駒に触れた。

音もなく滑った駒が、一気に盤上の空気を変える。

美月は、反応が遅れた。

「……」

「気づいた?」

理久の声は変わらない。

けれど、さっきまでの盤面とは違っていた。

防いでいたはずの駒が、もう美月の王を狙っている。

守りではない。

攻撃だった。

美月は慌てて駒を動かした。

理久がすぐに塞ぐ。

美月が逃げ道を探す。

理久が先回りする。

さっきまで自分が攻めていたはずなのに、気づけば息が浅くなっていた。

駒を置く音だけが、夜のリビングに響く。

「美月」

理久は盤面を見たまま言った。

「俺が平気な顔をしていると、本当に平気だと思う?」

美月は答えられなかった。

理久がもう一手置く。

逃げ道が一つ消える。

「俺が言わないのは、平気だからじゃない」

また、一手。

「見せたら、止まらなくなるからだよ」

美月の胸が鳴った。

理久は、駒から指を離した。

「美月を守りたい。傷つけたくない。退職したばかりの美月に、余計なものを背負わせたくなかった」

「でも」

美月は、かすかに声を出した。

「でも?」

理久が顔を上げる。

「美月は、俺が何を飲み込んでいるのか知りたいと言ったよね」

「……はい」

「じゃあ、言うよ」

その声は低かった。

怒鳴るわけではない。

責めるわけでもない。

けれど、美月は動けなかった。

「慣れてるんだよ」

理久は盤面へ視線を戻した。

「勝手に見られることには」

駒が動く。

「藤崎の家だから」

一手。

「医者だから」

もう一手。

「親族がそうだから」

また一手。

「成績を出しても、選んでも、捨てても、誰かが勝手に意味をつける」

駒の音が、やけに大きく響いた。

美月は何も言えなかった。

「だから、流せばいいと思ってた。飲み込めばいいと思ってた。今さらなんだよ」

その言葉は、怒っているようには聞こえなかった。

むしろ、あまりに静かだった。

静かすぎて、胸が痛くなる。

「でも」

理久はそこで、初めて盤面から視線を外した。

「美月が関わると、今さらじゃなくなる」

美月の胸が、強く鳴った。

理久の目は静かだった。

けれど、その奥にあるものは、もう穏やかではなかった。

「美月が勝手に切り取られるのが嫌だ」

美月は息を止めた。

「俺の隣に置かれて、都合よく意味をつけられるのが嫌だ」

理久の声は低い。

抑えているのが分かる声だった。

「美月が傷つくかもしれないと思うだけで、面倒になる。腹も立つ。冷静じゃなくなる」

「……それを、言ってほしかったんです」

美月は小さく言った。

理久は少しだけ目を伏せる。

「言ったら、美月は自分のせいだと思うでしょ」

「思うかもしれません」

「ほら」

「でも、それでも、知らないままよりいいです」

理久はしばらく黙っていた。

その間にも、盤上では美月の逃げ道が狭くなっていく。

美月は必死に駒を動かした。

まだ一つだけ、逃げられる場所がある。

そう思った。

そこへ王を逃がそうとした瞬間、理久の指が別の駒に触れた。

黒の駒が、静かに滑る。

美月の手が止まった。

「あ……」

理久は、盤面を見たまま言った。

「チェックメイト」

美月は盤面を見下ろした。

あれだけ攻めたはずだった。

守りを捨てて、駒を前に出して、逃げずにぶつかったつもりだった。

それなのに、気づけば王の逃げ道はすべて塞がれている。

盤上のどこにも、もう行ける場所がない。

理久は、ようやく美月を見た。

「本当に勝てると思ったの? 美月」

その声は静かだった。

けれど、少し意地悪だった。

美月は唇を結ぶ。

言い返せない。

悔しい。

悔しいのに、胸が鳴っている。

理久は、ふっと息を吐くように笑った。

「守りたいって言ってたよね」

美月は一瞬、言葉に詰まる。

「……言いました」

「俺を?」

「はい」

「じゃあ、守って」

理久の声は穏やかだった。

けれど、美月は嫌な予感がした。

「美月の方から、キスしてよ」

美月は完全に固まった。

「……え?」

理久は、少しだけ意地悪く笑う。

「心の中を見せてと言ったのは美月だよ」

「……!」

一気に顔が熱くなった。

理久は逃がさない。

盤上でも。

対面でも。

「俺だって、綺麗な感情だけで美月を見てるわけじゃない」

美月は動けなかった。

「守りたい。傷つけたくない。だけど、触れたいし、確かめたいし、美月の方から来てほしい時もある」

「そんなこと」

「美月から来てくれたら、明日もちゃんと立っていられる」

美月は息を呑んだ。

「……何ですか、それ」

「本音」

「そんな本音、急に出さないでください」

「見せていいって聞いたよ」

「覚悟はあるって言いましたけど」

「うん。だから」

理久は少しだけ身を乗り出した。

「美月から」

美月は、何も言えなくなった。

ずるい。

本当に、ずるい。

自分が心の中を見せてほしいと言った。

守られるだけでは嫌だと言った。

だから理久は、見せた。

怒りも。

弱さも。

甘えも。

欲も。

美月は俯いた。

「……ずるいです」

「知ってる」

「絶対、守らせる気ないですよね」

「あるよ」

「どこが」

理久の表情が、少しだけ和らいだ。

「俺を、一人で強いままにしないで」

美月は顔を上げた。

その言葉は、どの言葉よりも静かに届いた。

理久を守るというのは、噂に反論することではない。

理久の代わりに怒ることでもない。

理久が一人で飲み込もうとした時に、隣にいること。

強いままでいようとする理久を、そのまま一人にしないこと。

美月は、ゆっくり立ち上がった。

理久の隣へ回る。

理久は椅子に座ったまま、美月を見上げた。

その目は、いつものように穏やかで、少しだけ意地悪で、それでもどこか不安そうだった。

美月は、小さく息を吸った。

そして、理久に口づけた。

短くて、ぎこちないキスだった。

それでも、美月からだった。

離れると、理久はしばらく美月を見ていた。

「……もう少し、守って」

低い声だった。

美月の心臓が跳ねる。

「え」

理久は少しだけ目を細める。

「心の中を見せてと言ったのも、美月だよね」

さっきと同じ言葉。

けれど、今度は少し違って聞こえた。

責める声ではなかった。

甘えるようで、試すようで、それでも逃がさない声だった。

美月は、顔が熱くなるのを感じた。

「……りくは、ずるいです」

「知ってる」

理久は静かに答えた。

「でも、今日は美月が先に仕掛けた」

盤上でも。

言葉でも。

そして今も。

美月は、テーブルの上のチェス盤を見た。

自分の王は、もう動けない。

けれど、不思議と負けた気はしなかった。

美月はもう一度、理久に近づいた。

今度は、さっきより少しだけ長く。

理久の手が、美月の指先に触れる。

触れただけなのに、胸の奥に残っていた怒りも、悔しさも、少しずつほどけていく。

けれど、熱だけは残った。

理久の指が、美月の指先をそっと捕まえる。

離れようとした美月の手を、逃がさないみたいに。

「……これで、少しは守れていますか」

美月が小さく聞くと、理久は答えなかった。

その代わりに、美月の手を取る。

ゆっくりと引き寄せられ、距離が近づく。

「まだ」

囁くような声だった。

美月は息を呑んだ。

理久の表情は、もういつもの余裕だけではなかった。

静かで、熱があって、少しだけわがままだった。

美月は、その顔から目を逸らせなかった。

いつもの優しさも、穏やかさも、そこにはある。

けれど、それだけではない。

欲しい、と言われている。

言葉ではなく、視線で。

触れる指先で。

逃がさない距離で。

美月の胸の奥が、ゆっくり熱を持つ。

逃げたいとは思わなかった。

逃げたくなかった。

理久の手が、美月の髪に触れる。

その指先は、いつものように優しい。

けれど今夜だけは、少しだけ余裕がなかった。

「……逃げませんか」

美月は小さく聞いた。

理久は、美月の髪に触れたまま、少しだけ目を伏せる。

「逃げないよ」

その声は、さっきよりもずっと近かった。

美月は、静かに目を閉じた。

三月の夜は、静かに深まっていく。

盤上に残された駒だけが、二人の喧嘩の終わりを知っていた。