その日、美月は退職に関する書類を提出するため、病院へ向かった。
10Aでの勤務を終えてから数日。
正式な退職日まではまだ少しあったが、病棟へ行かない朝には、まだ慣れなかった。
ナースコールの音もない。
申し送りの声もない。
検査出しの時間を気にする必要もない。
それなのに、ふと時計を見るたび、今頃は清拭が終わる頃だとか、そろそろ午後の点滴更新だとか、勝手に頭が動いてしまう。
染みついたものは、簡単には抜けない。
病院の正面玄関を入った瞬間、美月は少しだけ足を止めた。
白衣ではなく、私服で病院の廊下を歩く。
それだけのことなのに、足元が少し落ち着かなかった。
ここは、何年も毎日のように歩いた場所だ。
けれど今日は、もう自分の持ち場へ向かうわけではない。
看護部に書類を提出し、必要な確認を終える。
手続き自体は、思っていたよりもあっさり終わった。
担当者に挨拶をして、廊下へ出る。
そのまま帰るつもりだった。
10Aには寄らない。
この前、ちゃんと挨拶をした。
送別会もしてもらった。
花束も受け取った。
これ以上行けば、かえって戻れなくなりそうな気がした。
美月はエレベーターホールへ向かった。
その途中だった。
「藤崎先生、綾瀬さんと結婚するんだって」
その声が、廊下の向こうから聞こえた。
美月の足が止まった。
声のした方には、数人の職員がいた。
別の病棟の看護師だろうか。
美月のことには気づいていない。
「10Aにいた綾瀬さん?」
「そう。しかも、関西にある大学病院の有名教授の娘らしいよ」
「え、そうなの?」
「だから雰囲気あったんだ」
「いや、でも藤崎先生もすごいところ行くね」
「留学も決まってるし、将来まで見えてる感じ」
言葉は、軽かった。
悪意があるとまでは言えない。
ただ、面白い話題を口にしているだけ。
けれど、その軽さが、美月の胸に静かに刺さった。
藤崎先生。
関西にある大学病院の有名教授の娘。
結婚。
留学。
将来。
その単語が、まるで計算された経歴のように並べられている。
美月は、息をするのを忘れた。
自分の名前が出ている。
けれど、そこにいる自分は、自分ではなかった。
関西にある大学病院の有名教授の娘。
藤崎先生の婚約者。
留学する外科医の相手。
そんなふうに切り取られた自分の名前が、理久の隣に置かれている。
美月は、静かに一歩下がった。
気づかれないように、廊下の角を曲がる。
心臓が、少しだけ速く打っていた。
覚悟はしていた。
招待状を渡した。
10Aでも話した。
理久の医局にも、必要な挨拶は進んでいる。
いつまでも伏せておけることではない。
それは分かっていた。
でも、実際に聞くのとは違う。
自分はもう、10Aにいない。
病棟には立っていない。
けれど、理久はまだここにいる。
この病院の中で、外科医として働いている。
自分の名前が理久の隣に置かれ、勝手な意味をつけられる。
その視線を、理久は毎日受けているのかもしれない。
そう思った瞬間、美月の胸の奥が重くなった。
帰ろう。
そう思って、エレベーターのボタンを押す。
扉が開くまでの数秒が、やけに長かった。
* * *
家に戻ってからも、美月は落ち着かなかった。
リビングのソファに座る。
テーブルの上には、佳乃から借りた本と、英語の参考書が置いてある。
渡米までにやることは多い。
語学。
式の準備。
入籍の手続き。
荷物の整理。
新しい生活のための準備。
立ち止まっている暇はないはずだった。
けれど、今日はなかなか文字が頭に入ってこなかった。
本を開いても、同じ行ばかり読んでいる。
英語の例文を見ても、意味がすぐに流れていく。
藤崎先生もすごいところ行くね。
留学も決まってるし、将来まで見えてる感じ。
その声が、頭の中で何度も繰り返された。
理久は、知っているのだろうか。
知っていて、またいつもの顔で受け流しているのだろうか。
美月はソファの背にもたれた。
視線の先には、リビングの棚に置かれたチェス盤があった。
以前、理久とチェスで対決したことがあった。
美月は負けて、理久と夕飯に行くことになった。
あの時は、理久の思惑に乗せられたような気がして、悔しかった。
けれど、それ以来、チェス盤は時々、二人の間に置かれるようになった。
小さな衝突なら、これまでにも何度かあった。
そのたびに必ずチェスをしたわけではない。
けれど、言葉がうまく出てこない夜。
どちらかが感情を持て余している夜。
理久は少し距離を取り、それから何事もなかったような顔で言うのだ。
「チェスでもやろうか」
最初は意味が分からなかった。
けれど、何度か繰り返すうちに分かった。
理久にとってチェスは、ただの遊びではない。
感情をそのままぶつける代わりに、盤上に置くための時間だった。
美月はいつもハンデをもらう。
それでも勝てない。
理久は、最初から強く攻めてくるわけではない。
むしろ、穏やかに受ける。
美月が駒を動かす。
理久が受ける。
美月が逃げ道を作ったつもりになる。
理久が静かに塞ぐ。
そして気づけば、美月の王はどこにも行けなくなっている。
盤上でも。
対面でも。
「美月は今、怒っているというより、怖がっているんじゃない?」
理久は、駒を動かしながら、そんなふうに言う。
「違います」
美月は否定する。
けれど、次の一手でまた逃げ道を塞がれる。
「じゃあ、何が嫌だった?」
「……」
「俺が決めたこと?」
「……」
「それとも、自分で選べなかった気がしたこと?」
結局、盤上で追い込まれ、対面でも追い込まれ、美月は自分の気持ちを言う羽目になる。
悔しい。
でも、最後にはいつも、少しだけ楽になっていた。
だから、今回もそうなるのだろうか。
理久は、また一度距離を取る。
そして、チェスをしようと言う。
いつものように、静かに美月の心の中を言い当てる。
美月の怒りも不安も、きっと論理的に解かれてしまう。
そう思った瞬間、美月は少しだけ唇を結んだ。
今回は、それでは嫌だった。
理久に解かれるために、話したいわけではない。
理久の中にあるものを、こちらが見たいのだ。
* * *
理久が帰ってきたのは、夜になってからだった。
玄関の開く音がして、美月は顔を上げた。
「ただいま」
いつも通りの声。
疲れているはずなのに、声は穏やかだった。
「おかえりなさい」
美月は立ち上がる。
理久はコートを脱ぎながら、美月の顔を見た。
「どうしたの」
一瞬で気づく。
そういうところが、また腹立たしい。
「何がですか」
「その顔」
「普通です」
「普通じゃない時ほど、美月は普通って言う」
美月は答えなかった。
理久はそれ以上すぐには踏み込んでこなかった。
手を洗い、ネクタイを緩め、リビングへ入ってくる。
テーブルの上に置かれた参考書に目を落とし、少しだけ笑った。
「勉強してた?」
「してました」
「過去形?」
「途中から、していません」
正直に言ってしまった。
理久は少しだけ眉を動かす。
「何かあった?」
美月は膝の上で手を握った。
「今日、病院へ行きました」
「書類?」
「はい」
「そっか」
理久は静かに頷いた。
「10Aには?」
「行っていません」
「うん」
「でも、廊下で聞きました」
理久の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「何を?」
「院内で、噂になっていることです」
理久は黙った。
驚きはしない。
困りもしない。
ただ、静かに美月を見る。
「知っていましたか」
「うん」
その返事があまりに早くて、美月の胸が少しざわついた。
「知っていたんですね」
「ある程度は」
「ある程度?」
「招待状を出せば、いずれ広がる。美月が綾瀬教授の娘だということも含めて」
理久は淡々と言った。
まるで、予定表を確認するような声だった。
「想定内ではあるよ」
「想定内?」
「うん」
そして最後に。
「美月が気にすることじゃない」
そう言った。
その一言で、美月の中で何かが切れた。
「気にすることじゃないって、どうしてりくが決めるんですか」
理久は少しだけ黙った。
「美月が傷つく必要はないよ」
「傷つくかどうかを、どうしてりくが決めるんですか」
その言葉に、理久は困ったような顔をした。
怒らない。
言い返さない。
ただ、美月を落ち着かせようとする。
それが余計に苦しかった。
「また、そうやって一人で終わらせるんですね」
「終わらせているわけじゃない」
「じゃあ、どうして何も言ってくれないんですか」
「言っても、美月が傷つくだけだから」
「それが嫌なんです」
美月は、自分の声が震えているのを感じた。
感情的になっている。
分かっている。
けれど、止められなかった。
「私のためみたいな顔をして、私を外に置かないでください」
理久は、何も言わなかった。
その沈黙で、美月は分かってしまう。
いつもなら、ここで理久は距離を取る。
自分の感情を整えるために。
美月を刺激しないために。
傷つける言葉を言わないために。
一度、自室に入る。
それから、しばらくして戻ってきて、いつものように穏やかな顔をする。
美月は、それを何度か見てきた。
優しさなのだと思っていた。
実際、優しさなのだろう。
けれど今は、その優しさが苦しかった。
理久が一人で飲み込み、自分だけを安全な場所に置こうとすることが。
たまらなく嫌だった。
理久が、わずかに息を吐く。
「少し、時間を置こうか」
やっぱり。
美月は思った。
理久は、立ち上がろうとした。
その前に、美月が言った。
「チェスをしましょう」
理久の動きが止まった。
少しだけ驚いたように顔を上げる。
「今?」
「今です」
「美月」
「逃げないでください」
その言葉に、理久の表情が少しだけ変わった。
ほんの一瞬。
静かな顔の奥に、何かが触れたのが分かった。
けれど、声は穏やかだった。
「分かった」
理久は棚からチェス盤を取り出した。
テーブルの上に置く。
駒を並べる音が、夜のリビングに小さく響いた。
白。
黒。
向かい合う王。
何度も見てきた配置なのに、今日は違って見えた。
美月はいつもの位置に座る。
理久は向かいに座った。
いつもと同じ構図。
けれど、空気は違っていた。
理久が、白の駒を美月の前に置く。
「ハンデは?」
いつものように聞かれた。
美月は盤面から目を逸らさずに答えた。
「要りません」
理久の手が、駒の上で止まった。
「勝てないよ」
「勝つためじゃありません」
理久が、美月を見る。
「じゃあ、何のため?」
美月は顔を上げた。
「逃げないためです」
理久は、しばらく美月を見ていた。
それから、少しだけ目元を緩める。
「……分かった」
静かな声だった。
「じゃあ、今日は手加減しない」
その言葉に、美月の胸が小さく鳴った。
優しくされたいわけではない。
なだめられたいわけでもない。
今は、ちゃんと向き合ってほしかった。
だから、美月は頷いた。
最初の一手から、美月は駒を前に出した。
理久はそれを見て、少しだけ眉を動かした。
「珍しいね」
「そうですか」
「いつもより、ずいぶん攻める」
「今日は攻めます」
美月は次の駒を動かした。
安全な形ではない。
守りも薄い。
それでも構わなかった。
理久は静かに盤面を見ている。
そして、駒を動かした。
美月の攻撃を受け止める一手。
あくまで防御。
まだ、理久は攻めてこない。
「美月、それは無理がある」
「分かっています」
「そこを開けたら、次に困るよ」
「困るのは慣れています」
理久は一瞬黙った。
それから、また静かに駒を動かす。
美月はさらに前へ出た。
盤面のことだけを考えているわけではなかった。
むしろ、言葉の方が先に動いていた。
「どうして、いつも自分だけで受け止めるんですか」
駒を置く。
「どうして、私には見せてくれないんですか」
もう一手。
「私は、守られるだけの存在じゃないと思います」
理久は盤上を見ていた。
「そう思っているよ」
「だったら」
美月は顔を上げた。
「りくの隣にいるなら、りくが何を見ているのか、私にも見せてください」
理久はゆっくり駒を動かした。
また、防ぐ。
「見せたくないものもある」
「それでも」
「美月が傷つく必要はないよ」
「それが嫌なんです」
美月はすぐに返した。
「私だけ安全な場所に置かれて、りくが一人で飲み込むのが嫌なんです」
「俺が受け止めれば済むことなら、それでいいよね」
「よくないです」
美月の声が、少し強くなる。
「私にも、りくの本当の気持ちを見せてください」
理久の手が、駒の上で止まった。
それまで、理久はずっと受けていた。
美月が無茶な攻撃をしても、怒らず、防ぎ、整え、逃がしていた。
けれど、その一言で空気が変わった。
理久はゆっくり顔を上げた。
「じゃあ、見せていいの?」
静かな声だった。
美月の背筋が、少しだけ冷たくなる。
いつもの理久ではない。
いや。
いつもの理久なのかもしれない。
ただ、今まで見せていなかった場所の扉に、手をかけている。
理久は美月を見た。
「覚悟はあるの?」
美月は、息を呑んだ。
盤上では、美月の王がまだ逃げ道を残している。
けれど、目の前の理久は、もう逃がすつもりがない顔をしていた。
何を見せられるのかは、分からない。
それでも。
美月は、盤面から目を逸らさなかった。
10Aでの勤務を終えてから数日。
正式な退職日まではまだ少しあったが、病棟へ行かない朝には、まだ慣れなかった。
ナースコールの音もない。
申し送りの声もない。
検査出しの時間を気にする必要もない。
それなのに、ふと時計を見るたび、今頃は清拭が終わる頃だとか、そろそろ午後の点滴更新だとか、勝手に頭が動いてしまう。
染みついたものは、簡単には抜けない。
病院の正面玄関を入った瞬間、美月は少しだけ足を止めた。
白衣ではなく、私服で病院の廊下を歩く。
それだけのことなのに、足元が少し落ち着かなかった。
ここは、何年も毎日のように歩いた場所だ。
けれど今日は、もう自分の持ち場へ向かうわけではない。
看護部に書類を提出し、必要な確認を終える。
手続き自体は、思っていたよりもあっさり終わった。
担当者に挨拶をして、廊下へ出る。
そのまま帰るつもりだった。
10Aには寄らない。
この前、ちゃんと挨拶をした。
送別会もしてもらった。
花束も受け取った。
これ以上行けば、かえって戻れなくなりそうな気がした。
美月はエレベーターホールへ向かった。
その途中だった。
「藤崎先生、綾瀬さんと結婚するんだって」
その声が、廊下の向こうから聞こえた。
美月の足が止まった。
声のした方には、数人の職員がいた。
別の病棟の看護師だろうか。
美月のことには気づいていない。
「10Aにいた綾瀬さん?」
「そう。しかも、関西にある大学病院の有名教授の娘らしいよ」
「え、そうなの?」
「だから雰囲気あったんだ」
「いや、でも藤崎先生もすごいところ行くね」
「留学も決まってるし、将来まで見えてる感じ」
言葉は、軽かった。
悪意があるとまでは言えない。
ただ、面白い話題を口にしているだけ。
けれど、その軽さが、美月の胸に静かに刺さった。
藤崎先生。
関西にある大学病院の有名教授の娘。
結婚。
留学。
将来。
その単語が、まるで計算された経歴のように並べられている。
美月は、息をするのを忘れた。
自分の名前が出ている。
けれど、そこにいる自分は、自分ではなかった。
関西にある大学病院の有名教授の娘。
藤崎先生の婚約者。
留学する外科医の相手。
そんなふうに切り取られた自分の名前が、理久の隣に置かれている。
美月は、静かに一歩下がった。
気づかれないように、廊下の角を曲がる。
心臓が、少しだけ速く打っていた。
覚悟はしていた。
招待状を渡した。
10Aでも話した。
理久の医局にも、必要な挨拶は進んでいる。
いつまでも伏せておけることではない。
それは分かっていた。
でも、実際に聞くのとは違う。
自分はもう、10Aにいない。
病棟には立っていない。
けれど、理久はまだここにいる。
この病院の中で、外科医として働いている。
自分の名前が理久の隣に置かれ、勝手な意味をつけられる。
その視線を、理久は毎日受けているのかもしれない。
そう思った瞬間、美月の胸の奥が重くなった。
帰ろう。
そう思って、エレベーターのボタンを押す。
扉が開くまでの数秒が、やけに長かった。
* * *
家に戻ってからも、美月は落ち着かなかった。
リビングのソファに座る。
テーブルの上には、佳乃から借りた本と、英語の参考書が置いてある。
渡米までにやることは多い。
語学。
式の準備。
入籍の手続き。
荷物の整理。
新しい生活のための準備。
立ち止まっている暇はないはずだった。
けれど、今日はなかなか文字が頭に入ってこなかった。
本を開いても、同じ行ばかり読んでいる。
英語の例文を見ても、意味がすぐに流れていく。
藤崎先生もすごいところ行くね。
留学も決まってるし、将来まで見えてる感じ。
その声が、頭の中で何度も繰り返された。
理久は、知っているのだろうか。
知っていて、またいつもの顔で受け流しているのだろうか。
美月はソファの背にもたれた。
視線の先には、リビングの棚に置かれたチェス盤があった。
以前、理久とチェスで対決したことがあった。
美月は負けて、理久と夕飯に行くことになった。
あの時は、理久の思惑に乗せられたような気がして、悔しかった。
けれど、それ以来、チェス盤は時々、二人の間に置かれるようになった。
小さな衝突なら、これまでにも何度かあった。
そのたびに必ずチェスをしたわけではない。
けれど、言葉がうまく出てこない夜。
どちらかが感情を持て余している夜。
理久は少し距離を取り、それから何事もなかったような顔で言うのだ。
「チェスでもやろうか」
最初は意味が分からなかった。
けれど、何度か繰り返すうちに分かった。
理久にとってチェスは、ただの遊びではない。
感情をそのままぶつける代わりに、盤上に置くための時間だった。
美月はいつもハンデをもらう。
それでも勝てない。
理久は、最初から強く攻めてくるわけではない。
むしろ、穏やかに受ける。
美月が駒を動かす。
理久が受ける。
美月が逃げ道を作ったつもりになる。
理久が静かに塞ぐ。
そして気づけば、美月の王はどこにも行けなくなっている。
盤上でも。
対面でも。
「美月は今、怒っているというより、怖がっているんじゃない?」
理久は、駒を動かしながら、そんなふうに言う。
「違います」
美月は否定する。
けれど、次の一手でまた逃げ道を塞がれる。
「じゃあ、何が嫌だった?」
「……」
「俺が決めたこと?」
「……」
「それとも、自分で選べなかった気がしたこと?」
結局、盤上で追い込まれ、対面でも追い込まれ、美月は自分の気持ちを言う羽目になる。
悔しい。
でも、最後にはいつも、少しだけ楽になっていた。
だから、今回もそうなるのだろうか。
理久は、また一度距離を取る。
そして、チェスをしようと言う。
いつものように、静かに美月の心の中を言い当てる。
美月の怒りも不安も、きっと論理的に解かれてしまう。
そう思った瞬間、美月は少しだけ唇を結んだ。
今回は、それでは嫌だった。
理久に解かれるために、話したいわけではない。
理久の中にあるものを、こちらが見たいのだ。
* * *
理久が帰ってきたのは、夜になってからだった。
玄関の開く音がして、美月は顔を上げた。
「ただいま」
いつも通りの声。
疲れているはずなのに、声は穏やかだった。
「おかえりなさい」
美月は立ち上がる。
理久はコートを脱ぎながら、美月の顔を見た。
「どうしたの」
一瞬で気づく。
そういうところが、また腹立たしい。
「何がですか」
「その顔」
「普通です」
「普通じゃない時ほど、美月は普通って言う」
美月は答えなかった。
理久はそれ以上すぐには踏み込んでこなかった。
手を洗い、ネクタイを緩め、リビングへ入ってくる。
テーブルの上に置かれた参考書に目を落とし、少しだけ笑った。
「勉強してた?」
「してました」
「過去形?」
「途中から、していません」
正直に言ってしまった。
理久は少しだけ眉を動かす。
「何かあった?」
美月は膝の上で手を握った。
「今日、病院へ行きました」
「書類?」
「はい」
「そっか」
理久は静かに頷いた。
「10Aには?」
「行っていません」
「うん」
「でも、廊下で聞きました」
理久の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「何を?」
「院内で、噂になっていることです」
理久は黙った。
驚きはしない。
困りもしない。
ただ、静かに美月を見る。
「知っていましたか」
「うん」
その返事があまりに早くて、美月の胸が少しざわついた。
「知っていたんですね」
「ある程度は」
「ある程度?」
「招待状を出せば、いずれ広がる。美月が綾瀬教授の娘だということも含めて」
理久は淡々と言った。
まるで、予定表を確認するような声だった。
「想定内ではあるよ」
「想定内?」
「うん」
そして最後に。
「美月が気にすることじゃない」
そう言った。
その一言で、美月の中で何かが切れた。
「気にすることじゃないって、どうしてりくが決めるんですか」
理久は少しだけ黙った。
「美月が傷つく必要はないよ」
「傷つくかどうかを、どうしてりくが決めるんですか」
その言葉に、理久は困ったような顔をした。
怒らない。
言い返さない。
ただ、美月を落ち着かせようとする。
それが余計に苦しかった。
「また、そうやって一人で終わらせるんですね」
「終わらせているわけじゃない」
「じゃあ、どうして何も言ってくれないんですか」
「言っても、美月が傷つくだけだから」
「それが嫌なんです」
美月は、自分の声が震えているのを感じた。
感情的になっている。
分かっている。
けれど、止められなかった。
「私のためみたいな顔をして、私を外に置かないでください」
理久は、何も言わなかった。
その沈黙で、美月は分かってしまう。
いつもなら、ここで理久は距離を取る。
自分の感情を整えるために。
美月を刺激しないために。
傷つける言葉を言わないために。
一度、自室に入る。
それから、しばらくして戻ってきて、いつものように穏やかな顔をする。
美月は、それを何度か見てきた。
優しさなのだと思っていた。
実際、優しさなのだろう。
けれど今は、その優しさが苦しかった。
理久が一人で飲み込み、自分だけを安全な場所に置こうとすることが。
たまらなく嫌だった。
理久が、わずかに息を吐く。
「少し、時間を置こうか」
やっぱり。
美月は思った。
理久は、立ち上がろうとした。
その前に、美月が言った。
「チェスをしましょう」
理久の動きが止まった。
少しだけ驚いたように顔を上げる。
「今?」
「今です」
「美月」
「逃げないでください」
その言葉に、理久の表情が少しだけ変わった。
ほんの一瞬。
静かな顔の奥に、何かが触れたのが分かった。
けれど、声は穏やかだった。
「分かった」
理久は棚からチェス盤を取り出した。
テーブルの上に置く。
駒を並べる音が、夜のリビングに小さく響いた。
白。
黒。
向かい合う王。
何度も見てきた配置なのに、今日は違って見えた。
美月はいつもの位置に座る。
理久は向かいに座った。
いつもと同じ構図。
けれど、空気は違っていた。
理久が、白の駒を美月の前に置く。
「ハンデは?」
いつものように聞かれた。
美月は盤面から目を逸らさずに答えた。
「要りません」
理久の手が、駒の上で止まった。
「勝てないよ」
「勝つためじゃありません」
理久が、美月を見る。
「じゃあ、何のため?」
美月は顔を上げた。
「逃げないためです」
理久は、しばらく美月を見ていた。
それから、少しだけ目元を緩める。
「……分かった」
静かな声だった。
「じゃあ、今日は手加減しない」
その言葉に、美月の胸が小さく鳴った。
優しくされたいわけではない。
なだめられたいわけでもない。
今は、ちゃんと向き合ってほしかった。
だから、美月は頷いた。
最初の一手から、美月は駒を前に出した。
理久はそれを見て、少しだけ眉を動かした。
「珍しいね」
「そうですか」
「いつもより、ずいぶん攻める」
「今日は攻めます」
美月は次の駒を動かした。
安全な形ではない。
守りも薄い。
それでも構わなかった。
理久は静かに盤面を見ている。
そして、駒を動かした。
美月の攻撃を受け止める一手。
あくまで防御。
まだ、理久は攻めてこない。
「美月、それは無理がある」
「分かっています」
「そこを開けたら、次に困るよ」
「困るのは慣れています」
理久は一瞬黙った。
それから、また静かに駒を動かす。
美月はさらに前へ出た。
盤面のことだけを考えているわけではなかった。
むしろ、言葉の方が先に動いていた。
「どうして、いつも自分だけで受け止めるんですか」
駒を置く。
「どうして、私には見せてくれないんですか」
もう一手。
「私は、守られるだけの存在じゃないと思います」
理久は盤上を見ていた。
「そう思っているよ」
「だったら」
美月は顔を上げた。
「りくの隣にいるなら、りくが何を見ているのか、私にも見せてください」
理久はゆっくり駒を動かした。
また、防ぐ。
「見せたくないものもある」
「それでも」
「美月が傷つく必要はないよ」
「それが嫌なんです」
美月はすぐに返した。
「私だけ安全な場所に置かれて、りくが一人で飲み込むのが嫌なんです」
「俺が受け止めれば済むことなら、それでいいよね」
「よくないです」
美月の声が、少し強くなる。
「私にも、りくの本当の気持ちを見せてください」
理久の手が、駒の上で止まった。
それまで、理久はずっと受けていた。
美月が無茶な攻撃をしても、怒らず、防ぎ、整え、逃がしていた。
けれど、その一言で空気が変わった。
理久はゆっくり顔を上げた。
「じゃあ、見せていいの?」
静かな声だった。
美月の背筋が、少しだけ冷たくなる。
いつもの理久ではない。
いや。
いつもの理久なのかもしれない。
ただ、今まで見せていなかった場所の扉に、手をかけている。
理久は美月を見た。
「覚悟はあるの?」
美月は、息を呑んだ。
盤上では、美月の王がまだ逃げ道を残している。
けれど、目の前の理久は、もう逃がすつもりがない顔をしていた。
何を見せられるのかは、分からない。
それでも。
美月は、盤面から目を逸らさなかった。
