光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

その日、美月は退職に関する書類を提出するため、病院へ向かった。

10Aでの勤務を終えてから数日。

正式な退職日まではまだ少しあったが、病棟へ行かない朝には、まだ慣れなかった。

ナースコールの音もない。

申し送りの声もない。

検査出しの時間を気にする必要もない。

それなのに、ふと時計を見るたび、今頃は清拭が終わる頃だとか、そろそろ午後の点滴更新だとか、勝手に頭が動いてしまう。

染みついたものは、簡単には抜けない。

病院の正面玄関を入った瞬間、美月は少しだけ足を止めた。

白衣ではなく、私服で病院の廊下を歩く。

それだけのことなのに、足元が少し落ち着かなかった。

ここは、何年も毎日のように歩いた場所だ。

けれど今日は、もう自分の持ち場へ向かうわけではない。

看護部に書類を提出し、必要な確認を終える。

手続き自体は、思っていたよりもあっさり終わった。

担当者に挨拶をして、廊下へ出る。

そのまま帰るつもりだった。

10Aには寄らない。

この前、ちゃんと挨拶をした。

送別会もしてもらった。

花束も受け取った。

これ以上行けば、かえって戻れなくなりそうな気がした。

美月はエレベーターホールへ向かった。

その途中だった。

「藤崎先生、綾瀬さんと結婚するんだって」

その声が、廊下の向こうから聞こえた。

美月の足が止まった。

声のした方には、数人の職員がいた。

別の病棟の看護師だろうか。

美月のことには気づいていない。

「10Aにいた綾瀬さん?」

「そう。しかも、関西にある大学病院の有名教授の娘らしいよ」

「え、そうなの?」

「だから雰囲気あったんだ」

「いや、でも藤崎先生もすごいところ行くね」

「留学も決まってるし、将来まで見えてる感じ」

言葉は、軽かった。

悪意があるとまでは言えない。

ただ、面白い話題を口にしているだけ。

けれど、その軽さが、美月の胸に静かに刺さった。

藤崎先生。

関西にある大学病院の有名教授の娘。

結婚。

留学。

将来。

その単語が、まるで計算された経歴のように並べられている。

美月は、息をするのを忘れた。

自分の名前が出ている。

けれど、そこにいる自分は、自分ではなかった。

関西にある大学病院の有名教授の娘。

藤崎先生の婚約者。

留学する外科医の相手。

そんなふうに切り取られた自分の名前が、理久の隣に置かれている。

美月は、静かに一歩下がった。

気づかれないように、廊下の角を曲がる。

心臓が、少しだけ速く打っていた。

覚悟はしていた。

招待状を渡した。

10Aでも話した。

理久の医局にも、必要な挨拶は進んでいる。

いつまでも伏せておけることではない。

それは分かっていた。

でも、実際に聞くのとは違う。

自分はもう、10Aにいない。

病棟には立っていない。

けれど、理久はまだここにいる。

この病院の中で、外科医として働いている。

自分の名前が理久の隣に置かれ、勝手な意味をつけられる。

その視線を、理久は毎日受けているのかもしれない。

そう思った瞬間、美月の胸の奥が重くなった。

帰ろう。

そう思って、エレベーターのボタンを押す。

扉が開くまでの数秒が、やけに長かった。

* * *

家に戻ってからも、美月は落ち着かなかった。

リビングのソファに座る。

テーブルの上には、佳乃から借りた本と、英語の参考書が置いてある。

渡米までにやることは多い。

語学。

式の準備。

入籍の手続き。

荷物の整理。

新しい生活のための準備。

立ち止まっている暇はないはずだった。

けれど、今日はなかなか文字が頭に入ってこなかった。

本を開いても、同じ行ばかり読んでいる。

英語の例文を見ても、意味がすぐに流れていく。

藤崎先生もすごいところ行くね。

留学も決まってるし、将来まで見えてる感じ。

その声が、頭の中で何度も繰り返された。

理久は、知っているのだろうか。

知っていて、またいつもの顔で受け流しているのだろうか。

美月はソファの背にもたれた。

視線の先には、リビングの棚に置かれたチェス盤があった。

以前、理久とチェスで対決したことがあった。

美月は負けて、理久と夕飯に行くことになった。

あの時は、理久の思惑に乗せられたような気がして、悔しかった。

けれど、それ以来、チェス盤は時々、二人の間に置かれるようになった。

小さな衝突なら、これまでにも何度かあった。

そのたびに必ずチェスをしたわけではない。

けれど、言葉がうまく出てこない夜。

どちらかが感情を持て余している夜。

理久は少し距離を取り、それから何事もなかったような顔で言うのだ。

「チェスでもやろうか」

最初は意味が分からなかった。

けれど、何度か繰り返すうちに分かった。

理久にとってチェスは、ただの遊びではない。

感情をそのままぶつける代わりに、盤上に置くための時間だった。

美月はいつもハンデをもらう。

それでも勝てない。

理久は、最初から強く攻めてくるわけではない。

むしろ、穏やかに受ける。

美月が駒を動かす。

理久が受ける。

美月が逃げ道を作ったつもりになる。

理久が静かに塞ぐ。

そして気づけば、美月の王はどこにも行けなくなっている。

盤上でも。

対面でも。

「美月は今、怒っているというより、怖がっているんじゃない?」

理久は、駒を動かしながら、そんなふうに言う。

「違います」

美月は否定する。

けれど、次の一手でまた逃げ道を塞がれる。

「じゃあ、何が嫌だった?」

「……」

「俺が決めたこと?」

「……」

「それとも、自分で選べなかった気がしたこと?」

結局、盤上で追い込まれ、対面でも追い込まれ、美月は自分の気持ちを言う羽目になる。

悔しい。

でも、最後にはいつも、少しだけ楽になっていた。

だから、今回もそうなるのだろうか。

理久は、また一度距離を取る。

そして、チェスをしようと言う。

いつものように、静かに美月の心の中を言い当てる。

美月の怒りも不安も、きっと論理的に解かれてしまう。

そう思った瞬間、美月は少しだけ唇を結んだ。

今回は、それでは嫌だった。

理久に解かれるために、話したいわけではない。

理久の中にあるものを、こちらが見たいのだ。

* * *

理久が帰ってきたのは、夜になってからだった。

玄関の開く音がして、美月は顔を上げた。

「ただいま」

いつも通りの声。

疲れているはずなのに、声は穏やかだった。

「おかえりなさい」

美月は立ち上がる。

理久はコートを脱ぎながら、美月の顔を見た。

「どうしたの」

一瞬で気づく。

そういうところが、また腹立たしい。

「何がですか」

「その顔」

「普通です」

「普通じゃない時ほど、美月は普通って言う」

美月は答えなかった。

理久はそれ以上すぐには踏み込んでこなかった。

手を洗い、ネクタイを緩め、リビングへ入ってくる。

テーブルの上に置かれた参考書に目を落とし、少しだけ笑った。

「勉強してた?」

「してました」

「過去形?」

「途中から、していません」

正直に言ってしまった。

理久は少しだけ眉を動かす。

「何かあった?」

美月は膝の上で手を握った。

「今日、病院へ行きました」

「書類?」

「はい」

「そっか」

理久は静かに頷いた。

「10Aには?」

「行っていません」

「うん」

「でも、廊下で聞きました」

理久の表情が、ほんの少しだけ変わった。

「何を?」

「院内で、噂になっていることです」

理久は黙った。

驚きはしない。

困りもしない。

ただ、静かに美月を見る。

「知っていましたか」

「うん」

その返事があまりに早くて、美月の胸が少しざわついた。

「知っていたんですね」

「ある程度は」

「ある程度?」

「招待状を出せば、いずれ広がる。美月が綾瀬教授の娘だということも含めて」

理久は淡々と言った。

まるで、予定表を確認するような声だった。

「想定内ではあるよ」

「想定内?」

「うん」

そして最後に。

「美月が気にすることじゃない」

そう言った。

その一言で、美月の中で何かが切れた。

「気にすることじゃないって、どうしてりくが決めるんですか」

理久は少しだけ黙った。

「美月が傷つく必要はないよ」

「傷つくかどうかを、どうしてりくが決めるんですか」

その言葉に、理久は困ったような顔をした。

怒らない。

言い返さない。

ただ、美月を落ち着かせようとする。

それが余計に苦しかった。

「また、そうやって一人で終わらせるんですね」

「終わらせているわけじゃない」

「じゃあ、どうして何も言ってくれないんですか」

「言っても、美月が傷つくだけだから」

「それが嫌なんです」

美月は、自分の声が震えているのを感じた。

感情的になっている。

分かっている。

けれど、止められなかった。

「私のためみたいな顔をして、私を外に置かないでください」

理久は、何も言わなかった。

その沈黙で、美月は分かってしまう。

いつもなら、ここで理久は距離を取る。

自分の感情を整えるために。

美月を刺激しないために。

傷つける言葉を言わないために。

一度、自室に入る。

それから、しばらくして戻ってきて、いつものように穏やかな顔をする。

美月は、それを何度か見てきた。

優しさなのだと思っていた。

実際、優しさなのだろう。

けれど今は、その優しさが苦しかった。

理久が一人で飲み込み、自分だけを安全な場所に置こうとすることが。

たまらなく嫌だった。

理久が、わずかに息を吐く。

「少し、時間を置こうか」

やっぱり。

美月は思った。

理久は、立ち上がろうとした。

その前に、美月が言った。

「チェスをしましょう」

理久の動きが止まった。

少しだけ驚いたように顔を上げる。

「今?」

「今です」

「美月」

「逃げないでください」

その言葉に、理久の表情が少しだけ変わった。

ほんの一瞬。

静かな顔の奥に、何かが触れたのが分かった。

けれど、声は穏やかだった。

「分かった」

理久は棚からチェス盤を取り出した。

テーブルの上に置く。

駒を並べる音が、夜のリビングに小さく響いた。

白。

黒。

向かい合う王。

何度も見てきた配置なのに、今日は違って見えた。

美月はいつもの位置に座る。

理久は向かいに座った。

いつもと同じ構図。

けれど、空気は違っていた。

理久が、白の駒を美月の前に置く。

「ハンデは?」

いつものように聞かれた。

美月は盤面から目を逸らさずに答えた。

「要りません」

理久の手が、駒の上で止まった。

「勝てないよ」

「勝つためじゃありません」

理久が、美月を見る。

「じゃあ、何のため?」

美月は顔を上げた。

「逃げないためです」

理久は、しばらく美月を見ていた。

それから、少しだけ目元を緩める。

「……分かった」

静かな声だった。

「じゃあ、今日は手加減しない」

その言葉に、美月の胸が小さく鳴った。

優しくされたいわけではない。

なだめられたいわけでもない。

今は、ちゃんと向き合ってほしかった。

だから、美月は頷いた。

最初の一手から、美月は駒を前に出した。

理久はそれを見て、少しだけ眉を動かした。

「珍しいね」

「そうですか」

「いつもより、ずいぶん攻める」

「今日は攻めます」

美月は次の駒を動かした。

安全な形ではない。

守りも薄い。

それでも構わなかった。

理久は静かに盤面を見ている。

そして、駒を動かした。

美月の攻撃を受け止める一手。

あくまで防御。

まだ、理久は攻めてこない。

「美月、それは無理がある」

「分かっています」

「そこを開けたら、次に困るよ」

「困るのは慣れています」

理久は一瞬黙った。

それから、また静かに駒を動かす。

美月はさらに前へ出た。

盤面のことだけを考えているわけではなかった。

むしろ、言葉の方が先に動いていた。

「どうして、いつも自分だけで受け止めるんですか」

駒を置く。

「どうして、私には見せてくれないんですか」

もう一手。

「私は、守られるだけの存在じゃないと思います」

理久は盤上を見ていた。

「そう思っているよ」

「だったら」

美月は顔を上げた。

「りくの隣にいるなら、りくが何を見ているのか、私にも見せてください」

理久はゆっくり駒を動かした。

また、防ぐ。

「見せたくないものもある」

「それでも」

「美月が傷つく必要はないよ」

「それが嫌なんです」

美月はすぐに返した。

「私だけ安全な場所に置かれて、りくが一人で飲み込むのが嫌なんです」

「俺が受け止めれば済むことなら、それでいいよね」

「よくないです」

美月の声が、少し強くなる。

「私にも、りくの本当の気持ちを見せてください」

理久の手が、駒の上で止まった。

それまで、理久はずっと受けていた。

美月が無茶な攻撃をしても、怒らず、防ぎ、整え、逃がしていた。

けれど、その一言で空気が変わった。

理久はゆっくり顔を上げた。

「じゃあ、見せていいの?」

静かな声だった。

美月の背筋が、少しだけ冷たくなる。

いつもの理久ではない。

いや。

いつもの理久なのかもしれない。

ただ、今まで見せていなかった場所の扉に、手をかけている。

理久は美月を見た。

「覚悟はあるの?」

美月は、息を呑んだ。

盤上では、美月の王がまだ逃げ道を残している。

けれど、目の前の理久は、もう逃がすつもりがない顔をしていた。

何を見せられるのかは、分からない。

それでも。

美月は、盤面から目を逸らさなかった。