美月が10Aを去ってから、数日が経った。
病棟の空気は、表面上はすぐに日常へ戻った。
ナースコールは鳴る。
検査は組まれる。
退院調整は進む。
医師は指示を出し、看護師はそれを確認する。
誰かがいなくなっても、病院は止まらない。
それは当たり前のことで、美月自身もよく分かっていたはずだった。
けれど、いなくなった人の名前は、しばらくそこに残る。
「綾瀬さんだったら、ここ先に確認してましたよね」
「この申し送り、綾瀬さんの引き継ぎ表に書いてあった」
「やっぱり細かいなあ」
そんな声が、10Aの中で何度か聞こえた。
そして、もう一つ。
美月の結婚相手が藤崎理久だということも、院内に少しずつ広がっていった。
10Aのスタッフが軽く話を広げたわけではない。
招待状。
挨拶。
必要な報告。
そういうものを通して、話は自然に人の耳へ届いていく。
大学病院に、完全な秘密はない。
外科。
オペ室。
医局。
関係する場所へ、話は静かに、けれど確実に流れていった。
「藤崎先生、綾瀬さんと結婚するんだって」
「10Aにいた綾瀬さん?」
「そう。しかも、関西の大学病院の有名教授の娘さんらしいよ」
「え、そうなの?」
「だからあんなに品があったのか」
「いや、でも藤崎先生もすごいところ行くね」
「留学もあるし、将来安泰じゃん」
廊下の角を曲がったところで、その声が耳に入った。
藤崎先生は足を止めなかった。
隣を歩いていた及川の方が、わずかに反応する。
視線だけが、声のした方へ動いた。
藤崎先生は前を向いたまま歩いている。
白衣の裾が静かに揺れた。
「先生」
及川が、小さく呼んだ。
「うん」
藤崎先生は普段と変わらない声で返す。
「今の」
「聞こえた」
「……ですよね」
及川は少しだけ眉を寄せた。
藤崎先生は特に表情を変えない。
「想定内だから」
「想定内って」
「招待状を出せば、いずれ広がる。美月が綾瀬教授の娘だということも含めて」
「でも、今の言い方は」
及川はそこで言葉を切った。
直接悪意があったわけではない。
けれど、軽かった。
藤崎先生。
関西の大学病院の有名教授の娘。
留学。
将来。
その単語が、まるで計算された経歴のように並べられていることが、及川には少し引っかかった。
藤崎先生はエレベーターの前で足を止めた。
ボタンを押す。
「及川」
「はい」
「今、美月がここにいなくてよかったと思ってる」
及川は藤崎先生を見た。
藤崎先生は前を向いたままだった。
「こういう視線に、美月を晒さずに済む」
その声は静かだった。
怒りも苛立ちも、表には出ていない。
けれど、及川には分かった。
何も感じていないわけではない。
ただ、表に出さないだけだ。
「先生だけが、そういう目で見られることになりますよ」
及川は思わず言った。
藤崎先生は少しだけ口元を緩めた。
「俺だけで十分」
その言い方があまりに当然で、及川は一瞬黙った。
エレベーターの扉が開く。
二人は乗り込んだ。
中には他に誰もいない。
扉が閉まり、小さな機械音が響く。
及川は、まだ納得いかない顔をしていた。
「俺は」
言いかけて、一度だけ口を閉じる。
それから、少し声を落とした。
「俺は、先生の味方なんで」
藤崎先生は前を向いたまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「ありがとう」
その一言は、短かった。
けれど、及川には十分だった。
「……はい」
及川は、少しだけ背筋を伸ばした。
エレベーターが目的階に着く。
扉が開いた。
二人は並んで歩き出す。
今までより、ほんの少しだけ近い距離で。
* * *
医局でも、話は広がっていた。
藤崎先生が部屋に入ると、いくつかの視線が向けられる。
祝福もあった。
「藤崎、おめでとう」
「式は六月だったな」
「留学前で忙しいだろうけど、身体壊すなよ」
そう声をかけてくれる先輩もいた。
藤崎先生は一つひとつ丁寧に礼を言う。
「ありがとうございます」
「はい。準備は少しずつ進めています」
「気をつけます」
その応対は、いつも通りだった。
落ち着いていて、無駄がない。
けれど、祝福だけではないことも、藤崎先生は分かっていた。
「綾瀬教授の娘さんか」
「藤崎も、すごいところに行くな」
「家同士のつながりもあるのかね」
聞こえるか聞こえないかの声。
冗談に混ぜた皮肉。
それもまた、想定内だった。
藤崎先生はデスクに資料を置いた。
白衣を脱ぐ。
淡々と、次のカンファレンスの準備を始める。
及川は少し離れた場所から、その背中を見ていた。
気にしていないように見える。
本当にそうなのかもしれない。
あるいは、気にしていても、それを仕事に持ち込まないだけなのかもしれない。
どちらにせよ、藤崎先生は揺らがなかった。
昼過ぎ、手術室へ向かう途中で、及川はもう一度、藤崎先生の隣についた。
「先生」
「うん」
「本当に、気にならないんですか」
藤崎先生は少しだけ考えた。
「気にならないわけじゃないよ」
その答えは、及川の予想より正直だった。
「でも、恥じることは何もないからね」
藤崎先生は前を向いたまま言った。
「美月を選んだことも、綾瀬教授の娘だと知った上で結婚することも」
及川は黙った。
「どう見られるかは、最初から分かってた」
「……」
「だから、仕事で返すだけ」
それだけだった。
大きなことは言わない。
言い訳もしない。
ただ、当然のようにそう言う。
及川は、何も言えなくなった。
藤崎先生は少しだけ目元を緩める。
「美月が選んだ相手として、恥をかかせるわけにはいかないし」
その一言で、及川の中にあった苛立ちの熱が、別のものに変わった。
ああ。
この人は、全部分かっている。
分かった上で、立っている。
好奇の視線も、皮肉も、噂も、最初から覚悟に入れている。
それでも、美月を選んだ。
逃げる気も、言い訳する気もない。
及川は、少しだけ息を吐いた。
悔しいくらい、格好いいと思った。
「先生」
「うん」
「さっき、味方って言いましたけど」
「うん」
及川は、一度だけ言葉を探した。
「……今の、普通に格好いいと思いました」
藤崎先生が少しだけ及川を見る。
「今の?」
「綾瀬をそういう目に晒さないために、自分で受けるってところです」
言ってから、及川はすぐに顔をしかめた。
「いや、今のなしで」
藤崎先生は小さく笑った。
「なしにはならないよ」
「恥ずかしくなったんで、忘れてください」
「無理だね」
「最悪だ」
「ありがとう。受け取っておく」
その言い方が、また困る。
軽く流すようでいて、ちゃんと受け取っている。
及川は、白衣のポケットに手を入れた。
「本当に、そういうところですよ」
「何が?」
及川は少しだけ視線を逸らした。
「……王子なところです」
藤崎先生は、少しだけ眉を上げた。
「それは、どう受け取ればいいのかな」
「一応、良い意味です」
「一応なんだ」
「面と向かって格好いいって言うの、嫌なんで」
藤崎先生は小さく笑った。
「言ってたけどね」
「だから、なしって言ったじゃないですか」
藤崎先生は答えず、手術室へ向かって歩いた。
その背中を見ながら、及川は思った。
綾瀬を守るために、この人を見ていたつもりだった。
けれど、いつの間にか。
藤崎先生という人そのものを、見ていたのかもしれない。
* * *
その日の夕方、医局の一角では、若手たちが進路の話をしていた。
消化器外科の中でも、どこに軸を置くか。
上部。
下部。
肝胆膵。
同じ消化器外科でも、見える景色は違う。
レジデントは十人ほどいる。
その中でも、及川がよくつるむのは、中川、佐伯、相澤の三人だった。
「お前、どこで希望出すの?」
中川が椅子を少し引きながら聞いた。
相澤が先に答える。
「俺は下部かな」
「下部?」
「症例も多いし。若いうちに経験積むなら、やっぱり強いだろ」
「分かる」
中川が頷く。
「数があるのは大事だよな」
佐伯は資料を見ながら、少し考えるように言った。
「俺は上部も気になる」
「上部?」
「王道って感じはある。胃も食道もあるし」
相澤が少し笑う。
「食道とか、かなり大変そうだけどな」
「だからこそじゃない?」
佐伯は静かに言った。
「難しいものをちゃんとできるようになりたいっていうのはある」
「真面目か」
中川が茶化す。
佐伯は顔を上げないまま答えた。
「真面目な話だろ」
「まあな」
三人の会話は軽い。
けれど、その奥には、それぞれの迷いや本気が少しだけ見えていた。
「最近は、手術のやり方もどんどん変わってるしな」
中川が何気なく言った。
「どこに行っても、ちゃんとできる先生の近くで経験積みたいよな」
「それはある」
相澤が頷く。
「技術だけじゃなくて、判断も見たい」
佐伯も静かに続けた。
「誰の背中を見るかは、大きいと思う」
その言葉に、及川は少しだけ黙った。
誰の背中を見るか。
その答えは、もう自分の中に出ている気がしていた。
中川が及川を見る。
「で、及川は?」
「俺?」
「そう。お前、まだふらふらしてるだろ」
「失礼だな」
相澤が笑う。
「で、どこ」
及川は、ペットボトルの水を飲んだ。
いつもの調子なら、適当に茶化して流していた。
けれど、その日は違った。
「肝胆膵」
三人が、ほとんど同時に及川を見る。
「お前、肝胆膵?」
中川が目を丸くする。
相澤がにやっとした。
「藤崎先生の影響?」
及川は一瞬だけ言葉を止めた。
否定しようと思えば、できた。
けれど、できなかった。
「まあ、ある」
「あるんだ」
「そりゃあるだろ」
佐伯が静かに言う。
及川は佐伯を見る。
「何だよ」
「最近、藤崎先生のオペ入ったあと、顔変わる」
「変わってねぇよ」
「変わるよ」
中川も頷く。
「なんか悔しそうな顔してる」
「それは元からだろ」
相澤が笑う。
及川は少しだけ眉を寄せた。
「お前ら、言いたい放題だな」
「で、実際どうなの」
中川が聞く。
及川はペットボトルを置いた。
「難しいけど、面白いんだよ。肝胆膵」
珍しく、茶化さなかった。
「症例も重いし、判断も厳しいし、簡単じゃない。でも、あの領域で勝負してみたいと思った」
三人は、少しだけ黙った。
及川が真面目な声を出すと、場の空気が少し変わる。
「藤崎先生は、八月には留学だろ?」
佐伯が言った。
「直接教わる時間、そんなに長くないんじゃないか」
「分かってる」
及川は短く答えた。
「でも、同じ領域にいれば、見るものは残るだろ。オペ記録も、論文も、カンファも、学会も」
言いながら、自分でも少し驚いた。
こんなに真面目に話すつもりはなかった。
「それに、あの人は戻ってくる」
中川が少しだけ目を丸くした。
「言い切るな」
「戻ってくるだろ。あの人は」
及川は、そう言ってから少しだけ視線を逸らした。
「その時に、同じ領域にいなかったら、追いかけることもできない」
相澤が口笛を吹く真似をした。
「及川が真面目だ」
中川も笑う。
「珍しい」
及川は顔をしかめた。
「うるさい」
佐伯が、静かに言った。
「まあ、肝胆膵なら綾瀬教授もいるしな」
その名前が出て、及川は少しだけ黙った。
綾瀬教授。
美月の父。
藤崎先生が向き合う相手でもあり、この領域で大きな名前でもある人。
「それも、ある」
及川は認めた。
「でも、それだけで選ぶわけじゃない」
中川が首を傾げる。
「じゃあ?」
及川は少しだけ笑った。
「王子とか、そういうの抜きでさ」
三人が黙る。
「あの人のオペ見てると、腹立つくらい格好いいんだよ」
三人が一瞬黙った。
それから、中川がにやっとする。
「今の、本人に言えよ」
「絶対言わない」
「言ったら喜ぶんじゃない?」
「喜ばせたくない」
相澤が笑った。
「めんどくさい後輩だな」
「うるさい」
笑いが起きた。
及川も笑った。
でも、自分の中ではもう決まっていた。
肝胆膵。
簡単な領域ではない。
忙しいし、症例は重い。
手術も複雑で、判断も厳しい。
それでも、あの領域で勝負してみたいと思った。
藤崎先生を見て、少しずつそう思うようになっていた。
悔しいけれど。
かなり腹立つけれど。
認めるしかなかった。
* * *
その夜、及川は医局を出る前に、ふと廊下の先を見た。
藤崎先生が、少し離れたところでスタッフと話している。
いつものように落ち着いた声。
無駄のない受け答え。
少しも派手ではないのに、目が離せない。
好奇の視線を受けても、揺らがない。
噂に言い訳せず、仕事で返す。
綾瀬を矢面に立たせない。
王子、なんて呼び方だけでは足りない。
及川は小さく息を吐いた。
八月になれば、藤崎先生は日本を離れる。
直接その下で学べる時間は、長くない。
けれど、同じ領域にいれば、見続けることはできる。
論文で。
カンファレンスで。
学会で。
そして、いつか藤崎先生が戻ってきた時に。
その背中を追える場所に、自分も立っていたい。
悔しいけれど。
そう思ってしまった。
廊下の向こうで、藤崎先生がこちらに気づいた。
「及川」
「はい」
「明日のカンファ、準備できてる?」
「できます」
「まだなんだ」
「今からやります」
藤崎先生は少しだけ笑った。
「じゃあ、遅れないように」
「はい」
及川は返事をして、背筋を伸ばした。
藤崎先生はそれ以上何も言わず、歩いていった。
及川はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
憧れ、という言葉を使うのは悔しい。
でも、認めるしかない。
藤崎先生の背中を見て、及川は自分の進む先を決めた。
その場所で、いつかもう一度、同じ景色を見るために。
病棟の空気は、表面上はすぐに日常へ戻った。
ナースコールは鳴る。
検査は組まれる。
退院調整は進む。
医師は指示を出し、看護師はそれを確認する。
誰かがいなくなっても、病院は止まらない。
それは当たり前のことで、美月自身もよく分かっていたはずだった。
けれど、いなくなった人の名前は、しばらくそこに残る。
「綾瀬さんだったら、ここ先に確認してましたよね」
「この申し送り、綾瀬さんの引き継ぎ表に書いてあった」
「やっぱり細かいなあ」
そんな声が、10Aの中で何度か聞こえた。
そして、もう一つ。
美月の結婚相手が藤崎理久だということも、院内に少しずつ広がっていった。
10Aのスタッフが軽く話を広げたわけではない。
招待状。
挨拶。
必要な報告。
そういうものを通して、話は自然に人の耳へ届いていく。
大学病院に、完全な秘密はない。
外科。
オペ室。
医局。
関係する場所へ、話は静かに、けれど確実に流れていった。
「藤崎先生、綾瀬さんと結婚するんだって」
「10Aにいた綾瀬さん?」
「そう。しかも、関西の大学病院の有名教授の娘さんらしいよ」
「え、そうなの?」
「だからあんなに品があったのか」
「いや、でも藤崎先生もすごいところ行くね」
「留学もあるし、将来安泰じゃん」
廊下の角を曲がったところで、その声が耳に入った。
藤崎先生は足を止めなかった。
隣を歩いていた及川の方が、わずかに反応する。
視線だけが、声のした方へ動いた。
藤崎先生は前を向いたまま歩いている。
白衣の裾が静かに揺れた。
「先生」
及川が、小さく呼んだ。
「うん」
藤崎先生は普段と変わらない声で返す。
「今の」
「聞こえた」
「……ですよね」
及川は少しだけ眉を寄せた。
藤崎先生は特に表情を変えない。
「想定内だから」
「想定内って」
「招待状を出せば、いずれ広がる。美月が綾瀬教授の娘だということも含めて」
「でも、今の言い方は」
及川はそこで言葉を切った。
直接悪意があったわけではない。
けれど、軽かった。
藤崎先生。
関西の大学病院の有名教授の娘。
留学。
将来。
その単語が、まるで計算された経歴のように並べられていることが、及川には少し引っかかった。
藤崎先生はエレベーターの前で足を止めた。
ボタンを押す。
「及川」
「はい」
「今、美月がここにいなくてよかったと思ってる」
及川は藤崎先生を見た。
藤崎先生は前を向いたままだった。
「こういう視線に、美月を晒さずに済む」
その声は静かだった。
怒りも苛立ちも、表には出ていない。
けれど、及川には分かった。
何も感じていないわけではない。
ただ、表に出さないだけだ。
「先生だけが、そういう目で見られることになりますよ」
及川は思わず言った。
藤崎先生は少しだけ口元を緩めた。
「俺だけで十分」
その言い方があまりに当然で、及川は一瞬黙った。
エレベーターの扉が開く。
二人は乗り込んだ。
中には他に誰もいない。
扉が閉まり、小さな機械音が響く。
及川は、まだ納得いかない顔をしていた。
「俺は」
言いかけて、一度だけ口を閉じる。
それから、少し声を落とした。
「俺は、先生の味方なんで」
藤崎先生は前を向いたまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「ありがとう」
その一言は、短かった。
けれど、及川には十分だった。
「……はい」
及川は、少しだけ背筋を伸ばした。
エレベーターが目的階に着く。
扉が開いた。
二人は並んで歩き出す。
今までより、ほんの少しだけ近い距離で。
* * *
医局でも、話は広がっていた。
藤崎先生が部屋に入ると、いくつかの視線が向けられる。
祝福もあった。
「藤崎、おめでとう」
「式は六月だったな」
「留学前で忙しいだろうけど、身体壊すなよ」
そう声をかけてくれる先輩もいた。
藤崎先生は一つひとつ丁寧に礼を言う。
「ありがとうございます」
「はい。準備は少しずつ進めています」
「気をつけます」
その応対は、いつも通りだった。
落ち着いていて、無駄がない。
けれど、祝福だけではないことも、藤崎先生は分かっていた。
「綾瀬教授の娘さんか」
「藤崎も、すごいところに行くな」
「家同士のつながりもあるのかね」
聞こえるか聞こえないかの声。
冗談に混ぜた皮肉。
それもまた、想定内だった。
藤崎先生はデスクに資料を置いた。
白衣を脱ぐ。
淡々と、次のカンファレンスの準備を始める。
及川は少し離れた場所から、その背中を見ていた。
気にしていないように見える。
本当にそうなのかもしれない。
あるいは、気にしていても、それを仕事に持ち込まないだけなのかもしれない。
どちらにせよ、藤崎先生は揺らがなかった。
昼過ぎ、手術室へ向かう途中で、及川はもう一度、藤崎先生の隣についた。
「先生」
「うん」
「本当に、気にならないんですか」
藤崎先生は少しだけ考えた。
「気にならないわけじゃないよ」
その答えは、及川の予想より正直だった。
「でも、恥じることは何もないからね」
藤崎先生は前を向いたまま言った。
「美月を選んだことも、綾瀬教授の娘だと知った上で結婚することも」
及川は黙った。
「どう見られるかは、最初から分かってた」
「……」
「だから、仕事で返すだけ」
それだけだった。
大きなことは言わない。
言い訳もしない。
ただ、当然のようにそう言う。
及川は、何も言えなくなった。
藤崎先生は少しだけ目元を緩める。
「美月が選んだ相手として、恥をかかせるわけにはいかないし」
その一言で、及川の中にあった苛立ちの熱が、別のものに変わった。
ああ。
この人は、全部分かっている。
分かった上で、立っている。
好奇の視線も、皮肉も、噂も、最初から覚悟に入れている。
それでも、美月を選んだ。
逃げる気も、言い訳する気もない。
及川は、少しだけ息を吐いた。
悔しいくらい、格好いいと思った。
「先生」
「うん」
「さっき、味方って言いましたけど」
「うん」
及川は、一度だけ言葉を探した。
「……今の、普通に格好いいと思いました」
藤崎先生が少しだけ及川を見る。
「今の?」
「綾瀬をそういう目に晒さないために、自分で受けるってところです」
言ってから、及川はすぐに顔をしかめた。
「いや、今のなしで」
藤崎先生は小さく笑った。
「なしにはならないよ」
「恥ずかしくなったんで、忘れてください」
「無理だね」
「最悪だ」
「ありがとう。受け取っておく」
その言い方が、また困る。
軽く流すようでいて、ちゃんと受け取っている。
及川は、白衣のポケットに手を入れた。
「本当に、そういうところですよ」
「何が?」
及川は少しだけ視線を逸らした。
「……王子なところです」
藤崎先生は、少しだけ眉を上げた。
「それは、どう受け取ればいいのかな」
「一応、良い意味です」
「一応なんだ」
「面と向かって格好いいって言うの、嫌なんで」
藤崎先生は小さく笑った。
「言ってたけどね」
「だから、なしって言ったじゃないですか」
藤崎先生は答えず、手術室へ向かって歩いた。
その背中を見ながら、及川は思った。
綾瀬を守るために、この人を見ていたつもりだった。
けれど、いつの間にか。
藤崎先生という人そのものを、見ていたのかもしれない。
* * *
その日の夕方、医局の一角では、若手たちが進路の話をしていた。
消化器外科の中でも、どこに軸を置くか。
上部。
下部。
肝胆膵。
同じ消化器外科でも、見える景色は違う。
レジデントは十人ほどいる。
その中でも、及川がよくつるむのは、中川、佐伯、相澤の三人だった。
「お前、どこで希望出すの?」
中川が椅子を少し引きながら聞いた。
相澤が先に答える。
「俺は下部かな」
「下部?」
「症例も多いし。若いうちに経験積むなら、やっぱり強いだろ」
「分かる」
中川が頷く。
「数があるのは大事だよな」
佐伯は資料を見ながら、少し考えるように言った。
「俺は上部も気になる」
「上部?」
「王道って感じはある。胃も食道もあるし」
相澤が少し笑う。
「食道とか、かなり大変そうだけどな」
「だからこそじゃない?」
佐伯は静かに言った。
「難しいものをちゃんとできるようになりたいっていうのはある」
「真面目か」
中川が茶化す。
佐伯は顔を上げないまま答えた。
「真面目な話だろ」
「まあな」
三人の会話は軽い。
けれど、その奥には、それぞれの迷いや本気が少しだけ見えていた。
「最近は、手術のやり方もどんどん変わってるしな」
中川が何気なく言った。
「どこに行っても、ちゃんとできる先生の近くで経験積みたいよな」
「それはある」
相澤が頷く。
「技術だけじゃなくて、判断も見たい」
佐伯も静かに続けた。
「誰の背中を見るかは、大きいと思う」
その言葉に、及川は少しだけ黙った。
誰の背中を見るか。
その答えは、もう自分の中に出ている気がしていた。
中川が及川を見る。
「で、及川は?」
「俺?」
「そう。お前、まだふらふらしてるだろ」
「失礼だな」
相澤が笑う。
「で、どこ」
及川は、ペットボトルの水を飲んだ。
いつもの調子なら、適当に茶化して流していた。
けれど、その日は違った。
「肝胆膵」
三人が、ほとんど同時に及川を見る。
「お前、肝胆膵?」
中川が目を丸くする。
相澤がにやっとした。
「藤崎先生の影響?」
及川は一瞬だけ言葉を止めた。
否定しようと思えば、できた。
けれど、できなかった。
「まあ、ある」
「あるんだ」
「そりゃあるだろ」
佐伯が静かに言う。
及川は佐伯を見る。
「何だよ」
「最近、藤崎先生のオペ入ったあと、顔変わる」
「変わってねぇよ」
「変わるよ」
中川も頷く。
「なんか悔しそうな顔してる」
「それは元からだろ」
相澤が笑う。
及川は少しだけ眉を寄せた。
「お前ら、言いたい放題だな」
「で、実際どうなの」
中川が聞く。
及川はペットボトルを置いた。
「難しいけど、面白いんだよ。肝胆膵」
珍しく、茶化さなかった。
「症例も重いし、判断も厳しいし、簡単じゃない。でも、あの領域で勝負してみたいと思った」
三人は、少しだけ黙った。
及川が真面目な声を出すと、場の空気が少し変わる。
「藤崎先生は、八月には留学だろ?」
佐伯が言った。
「直接教わる時間、そんなに長くないんじゃないか」
「分かってる」
及川は短く答えた。
「でも、同じ領域にいれば、見るものは残るだろ。オペ記録も、論文も、カンファも、学会も」
言いながら、自分でも少し驚いた。
こんなに真面目に話すつもりはなかった。
「それに、あの人は戻ってくる」
中川が少しだけ目を丸くした。
「言い切るな」
「戻ってくるだろ。あの人は」
及川は、そう言ってから少しだけ視線を逸らした。
「その時に、同じ領域にいなかったら、追いかけることもできない」
相澤が口笛を吹く真似をした。
「及川が真面目だ」
中川も笑う。
「珍しい」
及川は顔をしかめた。
「うるさい」
佐伯が、静かに言った。
「まあ、肝胆膵なら綾瀬教授もいるしな」
その名前が出て、及川は少しだけ黙った。
綾瀬教授。
美月の父。
藤崎先生が向き合う相手でもあり、この領域で大きな名前でもある人。
「それも、ある」
及川は認めた。
「でも、それだけで選ぶわけじゃない」
中川が首を傾げる。
「じゃあ?」
及川は少しだけ笑った。
「王子とか、そういうの抜きでさ」
三人が黙る。
「あの人のオペ見てると、腹立つくらい格好いいんだよ」
三人が一瞬黙った。
それから、中川がにやっとする。
「今の、本人に言えよ」
「絶対言わない」
「言ったら喜ぶんじゃない?」
「喜ばせたくない」
相澤が笑った。
「めんどくさい後輩だな」
「うるさい」
笑いが起きた。
及川も笑った。
でも、自分の中ではもう決まっていた。
肝胆膵。
簡単な領域ではない。
忙しいし、症例は重い。
手術も複雑で、判断も厳しい。
それでも、あの領域で勝負してみたいと思った。
藤崎先生を見て、少しずつそう思うようになっていた。
悔しいけれど。
かなり腹立つけれど。
認めるしかなかった。
* * *
その夜、及川は医局を出る前に、ふと廊下の先を見た。
藤崎先生が、少し離れたところでスタッフと話している。
いつものように落ち着いた声。
無駄のない受け答え。
少しも派手ではないのに、目が離せない。
好奇の視線を受けても、揺らがない。
噂に言い訳せず、仕事で返す。
綾瀬を矢面に立たせない。
王子、なんて呼び方だけでは足りない。
及川は小さく息を吐いた。
八月になれば、藤崎先生は日本を離れる。
直接その下で学べる時間は、長くない。
けれど、同じ領域にいれば、見続けることはできる。
論文で。
カンファレンスで。
学会で。
そして、いつか藤崎先生が戻ってきた時に。
その背中を追える場所に、自分も立っていたい。
悔しいけれど。
そう思ってしまった。
廊下の向こうで、藤崎先生がこちらに気づいた。
「及川」
「はい」
「明日のカンファ、準備できてる?」
「できます」
「まだなんだ」
「今からやります」
藤崎先生は少しだけ笑った。
「じゃあ、遅れないように」
「はい」
及川は返事をして、背筋を伸ばした。
藤崎先生はそれ以上何も言わず、歩いていった。
及川はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
憧れ、という言葉を使うのは悔しい。
でも、認めるしかない。
藤崎先生の背中を見て、及川は自分の進む先を決めた。
その場所で、いつかもう一度、同じ景色を見るために。
