光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

美月が10Aを去ってから、数日が経った。

病棟の空気は、表面上はすぐに日常へ戻った。

ナースコールは鳴る。

検査は組まれる。

退院調整は進む。

医師は指示を出し、看護師はそれを確認する。

誰かがいなくなっても、病院は止まらない。

それは当たり前のことで、美月自身もよく分かっていたはずだった。

けれど、いなくなった人の名前は、しばらくそこに残る。

「綾瀬さんだったら、ここ先に確認してましたよね」

「この申し送り、綾瀬さんの引き継ぎ表に書いてあった」

「やっぱり細かいなあ」

そんな声が、10Aの中で何度か聞こえた。

そして、もう一つ。

美月の結婚相手が藤崎理久だということも、院内に少しずつ広がっていった。

10Aのスタッフが軽く話を広げたわけではない。

招待状。

挨拶。

必要な報告。

そういうものを通して、話は自然に人の耳へ届いていく。

大学病院に、完全な秘密はない。

外科。

オペ室。

医局。

関係する場所へ、話は静かに、けれど確実に流れていった。

「藤崎先生、綾瀬さんと結婚するんだって」

「10Aにいた綾瀬さん?」

「そう。しかも、関西の大学病院の有名教授の娘さんらしいよ」

「え、そうなの?」

「だからあんなに品があったのか」

「いや、でも藤崎先生もすごいところ行くね」

「留学もあるし、将来安泰じゃん」

廊下の角を曲がったところで、その声が耳に入った。

藤崎先生は足を止めなかった。

隣を歩いていた及川の方が、わずかに反応する。

視線だけが、声のした方へ動いた。

藤崎先生は前を向いたまま歩いている。

白衣の裾が静かに揺れた。

「先生」

及川が、小さく呼んだ。

「うん」

藤崎先生は普段と変わらない声で返す。

「今の」

「聞こえた」

「……ですよね」

及川は少しだけ眉を寄せた。

藤崎先生は特に表情を変えない。

「想定内だから」

「想定内って」

「招待状を出せば、いずれ広がる。美月が綾瀬教授の娘だということも含めて」

「でも、今の言い方は」

及川はそこで言葉を切った。

直接悪意があったわけではない。

けれど、軽かった。

藤崎先生。

関西の大学病院の有名教授の娘。

留学。

将来。

その単語が、まるで計算された経歴のように並べられていることが、及川には少し引っかかった。

藤崎先生はエレベーターの前で足を止めた。

ボタンを押す。

「及川」

「はい」

「今、美月がここにいなくてよかったと思ってる」

及川は藤崎先生を見た。

藤崎先生は前を向いたままだった。

「こういう視線に、美月を晒さずに済む」

その声は静かだった。

怒りも苛立ちも、表には出ていない。

けれど、及川には分かった。

何も感じていないわけではない。

ただ、表に出さないだけだ。

「先生だけが、そういう目で見られることになりますよ」

及川は思わず言った。

藤崎先生は少しだけ口元を緩めた。

「俺だけで十分」

その言い方があまりに当然で、及川は一瞬黙った。

エレベーターの扉が開く。

二人は乗り込んだ。

中には他に誰もいない。

扉が閉まり、小さな機械音が響く。

及川は、まだ納得いかない顔をしていた。

「俺は」

言いかけて、一度だけ口を閉じる。

それから、少し声を落とした。

「俺は、先生の味方なんで」

藤崎先生は前を向いたまま、ほんの少しだけ目を細めた。

「ありがとう」

その一言は、短かった。

けれど、及川には十分だった。

「……はい」

及川は、少しだけ背筋を伸ばした。

エレベーターが目的階に着く。

扉が開いた。

二人は並んで歩き出す。

今までより、ほんの少しだけ近い距離で。

* * *

医局でも、話は広がっていた。

藤崎先生が部屋に入ると、いくつかの視線が向けられる。

祝福もあった。

「藤崎、おめでとう」

「式は六月だったな」

「留学前で忙しいだろうけど、身体壊すなよ」

そう声をかけてくれる先輩もいた。

藤崎先生は一つひとつ丁寧に礼を言う。

「ありがとうございます」

「はい。準備は少しずつ進めています」

「気をつけます」

その応対は、いつも通りだった。

落ち着いていて、無駄がない。

けれど、祝福だけではないことも、藤崎先生は分かっていた。

「綾瀬教授の娘さんか」

「藤崎も、すごいところに行くな」

「家同士のつながりもあるのかね」

聞こえるか聞こえないかの声。

冗談に混ぜた皮肉。

それもまた、想定内だった。

藤崎先生はデスクに資料を置いた。

白衣を脱ぐ。

淡々と、次のカンファレンスの準備を始める。

及川は少し離れた場所から、その背中を見ていた。

気にしていないように見える。

本当にそうなのかもしれない。

あるいは、気にしていても、それを仕事に持ち込まないだけなのかもしれない。

どちらにせよ、藤崎先生は揺らがなかった。

昼過ぎ、手術室へ向かう途中で、及川はもう一度、藤崎先生の隣についた。

「先生」

「うん」

「本当に、気にならないんですか」

藤崎先生は少しだけ考えた。

「気にならないわけじゃないよ」

その答えは、及川の予想より正直だった。

「でも、恥じることは何もないからね」

藤崎先生は前を向いたまま言った。

「美月を選んだことも、綾瀬教授の娘だと知った上で結婚することも」

及川は黙った。

「どう見られるかは、最初から分かってた」

「……」

「だから、仕事で返すだけ」

それだけだった。

大きなことは言わない。

言い訳もしない。

ただ、当然のようにそう言う。

及川は、何も言えなくなった。

藤崎先生は少しだけ目元を緩める。

「美月が選んだ相手として、恥をかかせるわけにはいかないし」

その一言で、及川の中にあった苛立ちの熱が、別のものに変わった。

ああ。

この人は、全部分かっている。

分かった上で、立っている。

好奇の視線も、皮肉も、噂も、最初から覚悟に入れている。

それでも、美月を選んだ。

逃げる気も、言い訳する気もない。

及川は、少しだけ息を吐いた。

悔しいくらい、格好いいと思った。

「先生」

「うん」

「さっき、味方って言いましたけど」

「うん」

及川は、一度だけ言葉を探した。

「……今の、普通に格好いいと思いました」

藤崎先生が少しだけ及川を見る。

「今の?」

「綾瀬をそういう目に晒さないために、自分で受けるってところです」

言ってから、及川はすぐに顔をしかめた。

「いや、今のなしで」

藤崎先生は小さく笑った。

「なしにはならないよ」

「恥ずかしくなったんで、忘れてください」

「無理だね」

「最悪だ」

「ありがとう。受け取っておく」

その言い方が、また困る。

軽く流すようでいて、ちゃんと受け取っている。

及川は、白衣のポケットに手を入れた。

「本当に、そういうところですよ」

「何が?」

及川は少しだけ視線を逸らした。

「……王子なところです」

藤崎先生は、少しだけ眉を上げた。

「それは、どう受け取ればいいのかな」

「一応、良い意味です」

「一応なんだ」

「面と向かって格好いいって言うの、嫌なんで」

藤崎先生は小さく笑った。

「言ってたけどね」

「だから、なしって言ったじゃないですか」

藤崎先生は答えず、手術室へ向かって歩いた。

その背中を見ながら、及川は思った。

綾瀬を守るために、この人を見ていたつもりだった。

けれど、いつの間にか。

藤崎先生という人そのものを、見ていたのかもしれない。

* * *

その日の夕方、医局の一角では、若手たちが進路の話をしていた。

消化器外科の中でも、どこに軸を置くか。

上部。

下部。

肝胆膵。

同じ消化器外科でも、見える景色は違う。

レジデントは十人ほどいる。

その中でも、及川がよくつるむのは、中川、佐伯、相澤の三人だった。

「お前、どこで希望出すの?」

中川が椅子を少し引きながら聞いた。

相澤が先に答える。

「俺は下部かな」

「下部?」

「症例も多いし。若いうちに経験積むなら、やっぱり強いだろ」

「分かる」

中川が頷く。

「数があるのは大事だよな」

佐伯は資料を見ながら、少し考えるように言った。

「俺は上部も気になる」

「上部?」

「王道って感じはある。胃も食道もあるし」

相澤が少し笑う。

「食道とか、かなり大変そうだけどな」

「だからこそじゃない?」

佐伯は静かに言った。

「難しいものをちゃんとできるようになりたいっていうのはある」

「真面目か」

中川が茶化す。

佐伯は顔を上げないまま答えた。

「真面目な話だろ」

「まあな」

三人の会話は軽い。

けれど、その奥には、それぞれの迷いや本気が少しだけ見えていた。

「最近は、手術のやり方もどんどん変わってるしな」

中川が何気なく言った。

「どこに行っても、ちゃんとできる先生の近くで経験積みたいよな」

「それはある」

相澤が頷く。

「技術だけじゃなくて、判断も見たい」

佐伯も静かに続けた。

「誰の背中を見るかは、大きいと思う」

その言葉に、及川は少しだけ黙った。

誰の背中を見るか。

その答えは、もう自分の中に出ている気がしていた。

中川が及川を見る。

「で、及川は?」

「俺?」

「そう。お前、まだふらふらしてるだろ」

「失礼だな」

相澤が笑う。

「で、どこ」

及川は、ペットボトルの水を飲んだ。

いつもの調子なら、適当に茶化して流していた。

けれど、その日は違った。

「肝胆膵」

三人が、ほとんど同時に及川を見る。

「お前、肝胆膵?」

中川が目を丸くする。

相澤がにやっとした。

「藤崎先生の影響?」

及川は一瞬だけ言葉を止めた。

否定しようと思えば、できた。

けれど、できなかった。

「まあ、ある」

「あるんだ」

「そりゃあるだろ」

佐伯が静かに言う。

及川は佐伯を見る。

「何だよ」

「最近、藤崎先生のオペ入ったあと、顔変わる」

「変わってねぇよ」

「変わるよ」

中川も頷く。

「なんか悔しそうな顔してる」

「それは元からだろ」

相澤が笑う。

及川は少しだけ眉を寄せた。

「お前ら、言いたい放題だな」

「で、実際どうなの」

中川が聞く。

及川はペットボトルを置いた。

「難しいけど、面白いんだよ。肝胆膵」

珍しく、茶化さなかった。

「症例も重いし、判断も厳しいし、簡単じゃない。でも、あの領域で勝負してみたいと思った」

三人は、少しだけ黙った。

及川が真面目な声を出すと、場の空気が少し変わる。

「藤崎先生は、八月には留学だろ?」

佐伯が言った。

「直接教わる時間、そんなに長くないんじゃないか」

「分かってる」

及川は短く答えた。

「でも、同じ領域にいれば、見るものは残るだろ。オペ記録も、論文も、カンファも、学会も」

言いながら、自分でも少し驚いた。

こんなに真面目に話すつもりはなかった。

「それに、あの人は戻ってくる」

中川が少しだけ目を丸くした。

「言い切るな」

「戻ってくるだろ。あの人は」

及川は、そう言ってから少しだけ視線を逸らした。

「その時に、同じ領域にいなかったら、追いかけることもできない」

相澤が口笛を吹く真似をした。

「及川が真面目だ」

中川も笑う。

「珍しい」

及川は顔をしかめた。

「うるさい」

佐伯が、静かに言った。

「まあ、肝胆膵なら綾瀬教授もいるしな」

その名前が出て、及川は少しだけ黙った。

綾瀬教授。

美月の父。

藤崎先生が向き合う相手でもあり、この領域で大きな名前でもある人。

「それも、ある」

及川は認めた。

「でも、それだけで選ぶわけじゃない」

中川が首を傾げる。

「じゃあ?」

及川は少しだけ笑った。

「王子とか、そういうの抜きでさ」

三人が黙る。

「あの人のオペ見てると、腹立つくらい格好いいんだよ」

三人が一瞬黙った。

それから、中川がにやっとする。

「今の、本人に言えよ」

「絶対言わない」

「言ったら喜ぶんじゃない?」

「喜ばせたくない」

相澤が笑った。

「めんどくさい後輩だな」

「うるさい」

笑いが起きた。

及川も笑った。

でも、自分の中ではもう決まっていた。

肝胆膵。

簡単な領域ではない。

忙しいし、症例は重い。

手術も複雑で、判断も厳しい。

それでも、あの領域で勝負してみたいと思った。

藤崎先生を見て、少しずつそう思うようになっていた。

悔しいけれど。

かなり腹立つけれど。

認めるしかなかった。

* * *

その夜、及川は医局を出る前に、ふと廊下の先を見た。

藤崎先生が、少し離れたところでスタッフと話している。

いつものように落ち着いた声。

無駄のない受け答え。

少しも派手ではないのに、目が離せない。

好奇の視線を受けても、揺らがない。

噂に言い訳せず、仕事で返す。

綾瀬を矢面に立たせない。

王子、なんて呼び方だけでは足りない。

及川は小さく息を吐いた。

八月になれば、藤崎先生は日本を離れる。

直接その下で学べる時間は、長くない。

けれど、同じ領域にいれば、見続けることはできる。

論文で。

カンファレンスで。

学会で。

そして、いつか藤崎先生が戻ってきた時に。

その背中を追える場所に、自分も立っていたい。

悔しいけれど。

そう思ってしまった。

廊下の向こうで、藤崎先生がこちらに気づいた。

「及川」

「はい」

「明日のカンファ、準備できてる?」

「できます」

「まだなんだ」

「今からやります」

藤崎先生は少しだけ笑った。

「じゃあ、遅れないように」

「はい」

及川は返事をして、背筋を伸ばした。

藤崎先生はそれ以上何も言わず、歩いていった。

及川はしばらく、その後ろ姿を見ていた。

憧れ、という言葉を使うのは悔しい。

でも、認めるしかない。

藤崎先生の背中を見て、及川は自分の進む先を決めた。

その場所で、いつかもう一度、同じ景色を見るために。