三月も下旬に入ると、10Aの窓から見える空の色が少し変わった。
冬の冷たさはまだ残っている。
けれど、昼間の光には、どこか柔らかさが混じっている。
美月はナースステーションで、いつも通り電子カルテを開いていた。
検査予定。
内服変更。
退院調整。
後輩の受け持ち患者の確認。
普段と変わらない業務が、普段と同じように流れていく。
けれど美月にとって、その一つひとつは、いつもと同じではなかった。
今日が、10Aで働く最後の日だった。
正式な退職日は三月末。
ただ、残っている有給を使うため、病棟に立つのは今日が最後になる。
退職のことは、病棟のスタッフにもすでに伝わっていた。
送別会も、このあと予定されている。
だから、誰も知らなかったわけではない。
それでも、朝の申し送りで師長が、
「今日が、綾瀬さんの病棟最終日になります」
と口にした時、ナースステーションの空気が少しだけ静かになった。
知っていることと、目の前に置かれることは違う。
美月自身も、そのことを思い知らされた。
退職を決めたのは、もっと前のことだった。
* * *
師長室で、美月は膝の上に置いた手を握りしめていた。
「三月末で、退職させていただきたいと考えています」
言った瞬間、自分の声が少しだけ遠くに聞こえた。
師長は驚いた顔をした。
けれど、すぐには何も言わなかった。
美月が続けるのを、静かに待ってくれていた。
「結婚することになりました」
「そう」
師長の声が、少し柔らかくなる。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「それで、退職?」
「はい。六月に式を挙げて、八月に渡米する予定です」
そこまで言ってから、美月は一度、息を吸った。
一番言いにくいことは、まだ残っている。
「相手は……藤崎先生です」
師長は、さすがに目を見開いた。
「藤崎先生?」
「はい」
沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は責めるものではなかった。
師長はしばらく美月を見て、それから静かに息を吐いた。
「そういうことだったのね」
美月は小さく頷いた。
「院内には、まだ必要な範囲だけでお願いしたいです。順番を間違えると、いろいろな方にご迷惑をおかけすると思うので」
「分かりました」
師長はすぐに答えた。
「主任には共有します。でも、それ以上は、あなたが話すタイミングを大事にしましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、綾瀬さん」
師長の声が、少しだけ現実に戻る。
「正直に言うと、現場としてはかなり痛いです」
美月は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいの。あなたがよく働いてくれていたという意味です」
その言葉に、美月は顔を上げられなかった。
「三月末まで、きちんと引き継ぎをしましょう。後輩にも、必要なことは残していってください」
「はい」
「それから」
師長は、少しだけ笑った。
「最後まで、綾瀬さんらしく働いてください」
その言葉が、美月の胸に残った。
綾瀬さんらしく。
昔の自分なら、その意味は分からなかったかもしれない。
けれど今は、少しだけ分かる気がした。
逃げないこと。
確認すること。
曖昧にしないこと。
そして、誰かに頼ることも、少しずつ覚えること。
美月は深く頷いた。
「はい」
* * *
それからの日々は、あっという間だった。
引き継ぎ表を整えた。
後輩に処置の流れを確認した。
受け持ち患者の情報をまとめた。
退院調整中の患者について、主任に細かく申し送った。
退職の日が近づくにつれて、周りの人たちも少しずつ寂しさを見せるようになった。
「綾瀬さん、これ最後にもう一回見てもらっていいですか」
「まだ最後じゃないよ」
「でも、もうすぐ最後です」
そんなやり取りが、何度もあった。
そして今日。
本当に最後の日が来てしまった。
「綾瀬さん」
後輩が隣に来た。
「この指示、確認してもらってもいいですか」
「うん」
美月は画面を覗き込む。
「ここ、検査前だから内服のタイミングを確認して。あと、点滴の時間もずれるかもしれないから、先生に確認しておいた方がいいよ」
「はい」
「不安なら、一緒に聞くよ」
「お願いします」
後輩は、ほっとしたように笑った。
その顔を見て、美月の胸が少し詰まった。
この言葉を言える時間も、もう少ししかない。
一緒に確認しよう。
大丈夫。
ここは見落としやすいから、気をつけて。
新人の頃、自分が欲しかった言葉を、今は後輩に渡せるようになっていた。
そんな自分になれたのは、10Aがあったからだった。
夕方の申し送り前、師長がナースステーションの空気を見て声をかけた。
「少しだけ、皆さんいいですか」
記録を書いていた看護師たちが顔を上げる。
美月は、胸の奥が少しだけ強く鳴るのを感じた。
師長が美月を見る。
「綾瀬さんから、最後のご挨拶があります」
ナースステーションが静かになった。
美月は一歩前に出た。
退職のことは、皆もう知っている。
それでも、視線が集まると、胸が苦しくなる。
美月は深く頭を下げた。
「本日で、10Aでの勤務が最後になります」
声にすると、急に現実になった。
「これまで本当にお世話になりました」
後輩たちの目が、少し赤くなっている。
先輩たちも、静かに見てくれていた。
「新人の頃は、ここでやっていけるとは思っていませんでした。迷惑もたくさんかけました。厳しく指導していただいたことも、助けていただいたことも、全部、今の自分につながっています」
誰も茶化さなかった。
「10Aで働けて、本当によかったです」
その一言で、声が少しだけ震えた。
美月は唇を結び、もう一度深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
拍手が起きた。
小さく始まった拍手は、少しずつ広がった。
美月は、すぐには顔を上げられなかった。
上げたら、泣いてしまう気がした。
その日の勤務は、最後までいつも通りだった。
いつも通り申し送りをして、いつも通り記録を見直し、いつも通り必要な確認をした。
けれど、勤務終了の時間が近づくにつれて、少しずつ何かが終わっていく感覚があった。
ロッカーから荷物をまとめる。
引き出しの中を空にする。
名前の入った小さなメモを剥がす。
それだけのことで、胸がぎゅっと縮む。
「綾瀬さん」
更衣室を出たところで、後輩たちが待っていた。
手には花束があった。
淡い色の花が束ねられている。
「これ、みんなからです」
美月は息を止めた。
「ありがとうございます」
手を伸ばして受け取る。
花束は、思ったより重かった。
その重みに、胸の奥が揺れる。
後輩の一人が言った。
「綾瀬さんに教えてもらったこと、忘れません」
美月は返事をしようとした。
でも、すぐには声が出なかった。
少しだけ唇を結ぶ。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
* * *
その夜、10Aの送別会が開かれた。
勤務の都合で全員が揃うわけではない。
それでも、日勤を終えたスタッフや、夜勤前に少しだけ顔を出してくれた先輩、休みだったのに来てくれた後輩たちが、入れ替わるように集まった。
師長も主任もいた。
そこにいるのは、10Aの人たちだった。
美月が、ここで泣きそうになった日を知っている人たち。
最初の頃、必要最低限のことしか話さなかった美月を知っている人たち。
今の美月が、後輩に「一緒に確認しよう」と言えるようになったことを知っている人たち。
送別会は、思ったより賑やかだった。
誰かが、新人時代の美月の話をした。
「最初、全然笑わなかったよね」
「話しかけても、必要最低限しか返ってこなかったし」
「でも指摘は的確だったけど」
「怖かったよね」
「怖かったです」
後輩まで頷く。
美月は少し眉を寄せた。
「そんなに怖かったですか」
全員が一瞬黙り、そして笑った。
「怖かった」
「今もたまに怖いから」
「でも、助かりました」
「分かる。綾瀬さんに確認してもらうと安心するよね」
美月は何も言えなくなった。
その言葉だけで、胸の奥がいっぱいになる。
送別会が少し落ち着いた頃、主任がふいに言った。
「そういえば、綾瀬さん」
「はい」
「結婚の話、まだ皆さんにはちゃんとしていないんじゃない?」
その一言で、場の空気が少し変わった。
美月は一瞬、主任を見た。
主任は穏やかな顔で頷く。
師長も、少しだけ笑っていた。
ここで言っていい。
そう言われた気がした。
美月は、少しだけ姿勢を正した。
「このたび、結婚することになりました」
一瞬、全員が黙る。
そして、当然のようにざわめいた。
「おめでとう!」
「え、相手は?」
「どんな人?」
「医療者?」
美月は顔が熱くなるのを感じた。
でも、もう隠す時間は終わりに近づいている。
送別会の席なら、ここで言える。
「相手は……外科の藤崎先生です」
今度こそ、場が完全に止まった。
そして。
「えええええ!?」
誰かの声が響いた。
「藤崎先生!?」
「あの藤崎先生!?」
後輩の一人が、思わず口にした。
「王子じゃん!」
言ってから、その後輩はすぐに口を押さえた。
「すみません」
けれど、別の先輩が笑った。
「大丈夫。今、みんな同じこと思ったから」
その一言で、場が一気にほどけた。
「え、いつからですか!?」
「師長、知ってたんですか!?」
師長が笑いながら手を叩いた。
「はいはい、騒ぎすぎです」
主任も苦笑する。
「でも、驚くのは分かります」
美月は顔を覆いたくなった。
けれど、その場の空気は温かかった。
好奇心はある。
驚きもある。
それでも、そこに悪意はなかった。
「綾瀬さん、すごい」
「お似合いです」
「式の写真、絶対見せてください」
「藤崎先生、綾瀬さんの前だとどんな感じなんですか」
「それは聞きたい」
「聞かないでください」
美月が小さく言うと、また笑いが起きた。
師長が、静かに声をかけた。
「綾瀬さんが順番を大事にしたかったので、今日まで必要な範囲に留めていました」
場が少しだけ落ち着く。
「藤崎先生の所属部署にも、必要な報告は済んでいます。院内ですから、色々な話になりやすいです。憶測で広げることのないように、皆さんも節度を持ってくださいね」
スタッフたちは真面目に頷いた。
「はい」
「もちろんです」
「大丈夫です」
美月は師長を見た。
師長は小さく頷くだけだった。
その優しさに、美月の胸が詰まる。
送別会の終わり頃、師長が静かに言った。
「綾瀬さん」
美月は顔を上げた。
「あなたは、よく頑張りました」
その一言で、美月の胸が震えた。
師長は続ける。
「最初は、本当に肩に力が入っていたわね」
「……はい」
「でも、最後はちゃんと人を育てる側になったわね」
美月は何も言えなかった。
「10Aを離れても、ここで学んだことは消えないから」
師長の声は、温かかった。
「胸を張って行きなさいね」
美月は唇を噛みそうになった。
けれど、まっすぐ師長を見る。
「はい」
声が少し震えた。
「ありがとうございました」
頭を下げた瞬間、涙が一粒だけ落ちた。
誰も、それを指摘しなかった。
ただ、師長が小さく微笑んだ。
「泣けるようになったのね」
美月は顔を上げられなかった。
「……すみません」
「謝ることじゃないわ」
その声が優しくて、余計に胸が詰まった。
* * *
送別会が終わり、店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。
美月は花束を抱えたまま、10Aの人たちに何度も頭を下げた。
「元気でね」
「式、楽しみにしてる」
「藤崎先生によろしく」
「写真見せてくださいね」
「アメリカ行っても、連絡ください」
言葉が次々に飛んでくる。
美月は一つひとつ頷いた。
「ありがとうございます」
「はい」
「連絡します」
やがて、迎えのタクシーが来た。
理久は送迎を申し出てくれていた。
けれど、美月はこの日だけは一人で帰ることにした。
10Aを離れる夜は、一人で帰りたかった。
花束を抱えてタクシーに乗る。
窓の外で、送別会の店の灯りがゆっくり遠ざかっていく。
さっきまで聞こえていた10Aの人たちの声が、少しずつ夜の中に溶けていった。
何年も通った10A。
何度も泣きそうになって、何度も逃げたくなった。
それでも最後には、胸を張って離れられる場所になっていた。
10Aは、美月が逃げ込んだ場所ではない。
傷つき、怒られ、支えられながら、立てるようになった場所だった。
だからこそ、ここから出ていく。
逃げるためではなく。
自分で選んだ未来へ向かうために。
美月は花束を抱きしめ、静かに目を閉じた。
三月の夜は、まだ少し冷たい。
けれど、その先に春があることを、もう美月は知っていた。
冬の冷たさはまだ残っている。
けれど、昼間の光には、どこか柔らかさが混じっている。
美月はナースステーションで、いつも通り電子カルテを開いていた。
検査予定。
内服変更。
退院調整。
後輩の受け持ち患者の確認。
普段と変わらない業務が、普段と同じように流れていく。
けれど美月にとって、その一つひとつは、いつもと同じではなかった。
今日が、10Aで働く最後の日だった。
正式な退職日は三月末。
ただ、残っている有給を使うため、病棟に立つのは今日が最後になる。
退職のことは、病棟のスタッフにもすでに伝わっていた。
送別会も、このあと予定されている。
だから、誰も知らなかったわけではない。
それでも、朝の申し送りで師長が、
「今日が、綾瀬さんの病棟最終日になります」
と口にした時、ナースステーションの空気が少しだけ静かになった。
知っていることと、目の前に置かれることは違う。
美月自身も、そのことを思い知らされた。
退職を決めたのは、もっと前のことだった。
* * *
師長室で、美月は膝の上に置いた手を握りしめていた。
「三月末で、退職させていただきたいと考えています」
言った瞬間、自分の声が少しだけ遠くに聞こえた。
師長は驚いた顔をした。
けれど、すぐには何も言わなかった。
美月が続けるのを、静かに待ってくれていた。
「結婚することになりました」
「そう」
師長の声が、少し柔らかくなる。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「それで、退職?」
「はい。六月に式を挙げて、八月に渡米する予定です」
そこまで言ってから、美月は一度、息を吸った。
一番言いにくいことは、まだ残っている。
「相手は……藤崎先生です」
師長は、さすがに目を見開いた。
「藤崎先生?」
「はい」
沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は責めるものではなかった。
師長はしばらく美月を見て、それから静かに息を吐いた。
「そういうことだったのね」
美月は小さく頷いた。
「院内には、まだ必要な範囲だけでお願いしたいです。順番を間違えると、いろいろな方にご迷惑をおかけすると思うので」
「分かりました」
師長はすぐに答えた。
「主任には共有します。でも、それ以上は、あなたが話すタイミングを大事にしましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、綾瀬さん」
師長の声が、少しだけ現実に戻る。
「正直に言うと、現場としてはかなり痛いです」
美月は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいの。あなたがよく働いてくれていたという意味です」
その言葉に、美月は顔を上げられなかった。
「三月末まで、きちんと引き継ぎをしましょう。後輩にも、必要なことは残していってください」
「はい」
「それから」
師長は、少しだけ笑った。
「最後まで、綾瀬さんらしく働いてください」
その言葉が、美月の胸に残った。
綾瀬さんらしく。
昔の自分なら、その意味は分からなかったかもしれない。
けれど今は、少しだけ分かる気がした。
逃げないこと。
確認すること。
曖昧にしないこと。
そして、誰かに頼ることも、少しずつ覚えること。
美月は深く頷いた。
「はい」
* * *
それからの日々は、あっという間だった。
引き継ぎ表を整えた。
後輩に処置の流れを確認した。
受け持ち患者の情報をまとめた。
退院調整中の患者について、主任に細かく申し送った。
退職の日が近づくにつれて、周りの人たちも少しずつ寂しさを見せるようになった。
「綾瀬さん、これ最後にもう一回見てもらっていいですか」
「まだ最後じゃないよ」
「でも、もうすぐ最後です」
そんなやり取りが、何度もあった。
そして今日。
本当に最後の日が来てしまった。
「綾瀬さん」
後輩が隣に来た。
「この指示、確認してもらってもいいですか」
「うん」
美月は画面を覗き込む。
「ここ、検査前だから内服のタイミングを確認して。あと、点滴の時間もずれるかもしれないから、先生に確認しておいた方がいいよ」
「はい」
「不安なら、一緒に聞くよ」
「お願いします」
後輩は、ほっとしたように笑った。
その顔を見て、美月の胸が少し詰まった。
この言葉を言える時間も、もう少ししかない。
一緒に確認しよう。
大丈夫。
ここは見落としやすいから、気をつけて。
新人の頃、自分が欲しかった言葉を、今は後輩に渡せるようになっていた。
そんな自分になれたのは、10Aがあったからだった。
夕方の申し送り前、師長がナースステーションの空気を見て声をかけた。
「少しだけ、皆さんいいですか」
記録を書いていた看護師たちが顔を上げる。
美月は、胸の奥が少しだけ強く鳴るのを感じた。
師長が美月を見る。
「綾瀬さんから、最後のご挨拶があります」
ナースステーションが静かになった。
美月は一歩前に出た。
退職のことは、皆もう知っている。
それでも、視線が集まると、胸が苦しくなる。
美月は深く頭を下げた。
「本日で、10Aでの勤務が最後になります」
声にすると、急に現実になった。
「これまで本当にお世話になりました」
後輩たちの目が、少し赤くなっている。
先輩たちも、静かに見てくれていた。
「新人の頃は、ここでやっていけるとは思っていませんでした。迷惑もたくさんかけました。厳しく指導していただいたことも、助けていただいたことも、全部、今の自分につながっています」
誰も茶化さなかった。
「10Aで働けて、本当によかったです」
その一言で、声が少しだけ震えた。
美月は唇を結び、もう一度深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
拍手が起きた。
小さく始まった拍手は、少しずつ広がった。
美月は、すぐには顔を上げられなかった。
上げたら、泣いてしまう気がした。
その日の勤務は、最後までいつも通りだった。
いつも通り申し送りをして、いつも通り記録を見直し、いつも通り必要な確認をした。
けれど、勤務終了の時間が近づくにつれて、少しずつ何かが終わっていく感覚があった。
ロッカーから荷物をまとめる。
引き出しの中を空にする。
名前の入った小さなメモを剥がす。
それだけのことで、胸がぎゅっと縮む。
「綾瀬さん」
更衣室を出たところで、後輩たちが待っていた。
手には花束があった。
淡い色の花が束ねられている。
「これ、みんなからです」
美月は息を止めた。
「ありがとうございます」
手を伸ばして受け取る。
花束は、思ったより重かった。
その重みに、胸の奥が揺れる。
後輩の一人が言った。
「綾瀬さんに教えてもらったこと、忘れません」
美月は返事をしようとした。
でも、すぐには声が出なかった。
少しだけ唇を結ぶ。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
* * *
その夜、10Aの送別会が開かれた。
勤務の都合で全員が揃うわけではない。
それでも、日勤を終えたスタッフや、夜勤前に少しだけ顔を出してくれた先輩、休みだったのに来てくれた後輩たちが、入れ替わるように集まった。
師長も主任もいた。
そこにいるのは、10Aの人たちだった。
美月が、ここで泣きそうになった日を知っている人たち。
最初の頃、必要最低限のことしか話さなかった美月を知っている人たち。
今の美月が、後輩に「一緒に確認しよう」と言えるようになったことを知っている人たち。
送別会は、思ったより賑やかだった。
誰かが、新人時代の美月の話をした。
「最初、全然笑わなかったよね」
「話しかけても、必要最低限しか返ってこなかったし」
「でも指摘は的確だったけど」
「怖かったよね」
「怖かったです」
後輩まで頷く。
美月は少し眉を寄せた。
「そんなに怖かったですか」
全員が一瞬黙り、そして笑った。
「怖かった」
「今もたまに怖いから」
「でも、助かりました」
「分かる。綾瀬さんに確認してもらうと安心するよね」
美月は何も言えなくなった。
その言葉だけで、胸の奥がいっぱいになる。
送別会が少し落ち着いた頃、主任がふいに言った。
「そういえば、綾瀬さん」
「はい」
「結婚の話、まだ皆さんにはちゃんとしていないんじゃない?」
その一言で、場の空気が少し変わった。
美月は一瞬、主任を見た。
主任は穏やかな顔で頷く。
師長も、少しだけ笑っていた。
ここで言っていい。
そう言われた気がした。
美月は、少しだけ姿勢を正した。
「このたび、結婚することになりました」
一瞬、全員が黙る。
そして、当然のようにざわめいた。
「おめでとう!」
「え、相手は?」
「どんな人?」
「医療者?」
美月は顔が熱くなるのを感じた。
でも、もう隠す時間は終わりに近づいている。
送別会の席なら、ここで言える。
「相手は……外科の藤崎先生です」
今度こそ、場が完全に止まった。
そして。
「えええええ!?」
誰かの声が響いた。
「藤崎先生!?」
「あの藤崎先生!?」
後輩の一人が、思わず口にした。
「王子じゃん!」
言ってから、その後輩はすぐに口を押さえた。
「すみません」
けれど、別の先輩が笑った。
「大丈夫。今、みんな同じこと思ったから」
その一言で、場が一気にほどけた。
「え、いつからですか!?」
「師長、知ってたんですか!?」
師長が笑いながら手を叩いた。
「はいはい、騒ぎすぎです」
主任も苦笑する。
「でも、驚くのは分かります」
美月は顔を覆いたくなった。
けれど、その場の空気は温かかった。
好奇心はある。
驚きもある。
それでも、そこに悪意はなかった。
「綾瀬さん、すごい」
「お似合いです」
「式の写真、絶対見せてください」
「藤崎先生、綾瀬さんの前だとどんな感じなんですか」
「それは聞きたい」
「聞かないでください」
美月が小さく言うと、また笑いが起きた。
師長が、静かに声をかけた。
「綾瀬さんが順番を大事にしたかったので、今日まで必要な範囲に留めていました」
場が少しだけ落ち着く。
「藤崎先生の所属部署にも、必要な報告は済んでいます。院内ですから、色々な話になりやすいです。憶測で広げることのないように、皆さんも節度を持ってくださいね」
スタッフたちは真面目に頷いた。
「はい」
「もちろんです」
「大丈夫です」
美月は師長を見た。
師長は小さく頷くだけだった。
その優しさに、美月の胸が詰まる。
送別会の終わり頃、師長が静かに言った。
「綾瀬さん」
美月は顔を上げた。
「あなたは、よく頑張りました」
その一言で、美月の胸が震えた。
師長は続ける。
「最初は、本当に肩に力が入っていたわね」
「……はい」
「でも、最後はちゃんと人を育てる側になったわね」
美月は何も言えなかった。
「10Aを離れても、ここで学んだことは消えないから」
師長の声は、温かかった。
「胸を張って行きなさいね」
美月は唇を噛みそうになった。
けれど、まっすぐ師長を見る。
「はい」
声が少し震えた。
「ありがとうございました」
頭を下げた瞬間、涙が一粒だけ落ちた。
誰も、それを指摘しなかった。
ただ、師長が小さく微笑んだ。
「泣けるようになったのね」
美月は顔を上げられなかった。
「……すみません」
「謝ることじゃないわ」
その声が優しくて、余計に胸が詰まった。
* * *
送別会が終わり、店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。
美月は花束を抱えたまま、10Aの人たちに何度も頭を下げた。
「元気でね」
「式、楽しみにしてる」
「藤崎先生によろしく」
「写真見せてくださいね」
「アメリカ行っても、連絡ください」
言葉が次々に飛んでくる。
美月は一つひとつ頷いた。
「ありがとうございます」
「はい」
「連絡します」
やがて、迎えのタクシーが来た。
理久は送迎を申し出てくれていた。
けれど、美月はこの日だけは一人で帰ることにした。
10Aを離れる夜は、一人で帰りたかった。
花束を抱えてタクシーに乗る。
窓の外で、送別会の店の灯りがゆっくり遠ざかっていく。
さっきまで聞こえていた10Aの人たちの声が、少しずつ夜の中に溶けていった。
何年も通った10A。
何度も泣きそうになって、何度も逃げたくなった。
それでも最後には、胸を張って離れられる場所になっていた。
10Aは、美月が逃げ込んだ場所ではない。
傷つき、怒られ、支えられながら、立てるようになった場所だった。
だからこそ、ここから出ていく。
逃げるためではなく。
自分で選んだ未来へ向かうために。
美月は花束を抱きしめ、静かに目を閉じた。
三月の夜は、まだ少し冷たい。
けれど、その先に春があることを、もう美月は知っていた。
