光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

10A病棟の飲み会は、当初は病棟スタッフだけの予定だった。

けれど、その頃10Aには外科の術後患者が入っており、病棟と外科の連携も増えていた。

「外科の先生たちにも声かけたらしいよ」

そう聞いた時点で、美月は少し嫌な予感がした。

「外科?」
「うん。術後患者さんの件で最近よく来てるし、せっかくだからって」
「せっかくだから、って何」

美月が低く呟くと、同僚が笑った。

「綾瀬さん、そういうとこ冷静だよね」

冷静ではない。

少し嫌な予感がしているだけだ。

飲み会の店は、病院から少し歩いたところにある個室居酒屋だった。廊下には別の団体の笑い声が響き、襖の向こうからは乾杯の声が何度も聞こえてくる。

10Aのスタッフが集まるだけでも十分に騒がしい。

そこに外科医が数人参加するとなると、空気は当然浮ついた。

席に着く前から、後輩たちは小声で騒いでいた。

「藤崎先生も来るんですか?」
「え、ほんとに?」
「外科の先生たちも来るなら、今日当たりじゃない?」

美月は心の中で思った。

当たりって何。
飲み会に当たり外れをつけるな。

けれど、その数十分後。

実際に藤崎理久が店に現れると、場の空気は明らかに変わった。

「お疲れ様です」

そう言って入ってきた理久は、病棟で見る時とは少し違っていた。

白衣ではない。

落ち着いた色のジャケットに、きれいに整えられたシャツ。職場ほど硬くはないのに、どこか隙がない。

それなのに、飲み会の場に馴染むのがうまかった。

隣に座った看護師が話しかければ、きちんと聞く。
グラスが空いている人がいれば、自然に気づく。
軽い冗談も言う。

でも、誰か一人に踏み込みすぎることはない。

距離が近いようで、近すぎない。
特別扱いしているようで、誰も特別にはしていない。

完璧な紳士。

美月は少し離れた席から、それを眺めていた。

あれは仮面だよなぁ。

みんな、本当に騙されている。

人の反応を見て、あんなに楽しそうに笑う男なのに。

そんなことを思いながら、グラスを持つ。

女性スタッフたちは、分かりやすく盛り上がっていた。

「藤崎先生って、ほんと聞き上手ですよね」
「やっぱりモテますよね?」
「彼女いるんですか?」

かなり踏み込んだ質問にも、理久は笑って、うまく流す。

「どうだろうね」
「いたら、こんなに呼ばれてないんじゃない?」
「いや、俺の話より、そっちの話を聞かせてよ」

うまい。

逃げ方がうますぎる。

美月は心の中で呟く。

出た。
話題そらしのプロ。

さぞや場数を踏んでいることでしょうね。

でも、面白くないわけではなかった。

むしろ、少し観察してしまう。

どの言葉にも、嫌味がない。
相手を雑に扱わない。
でも、期待も持たせない。

器用。

本当に器用な人だと思った。

それが、少しだけ気に入らなかった。

* * *

美月は途中で席を立った。

トイレに行くためだった。

店内のざわめきから離れて、個室居酒屋の細い通路へ出る。さっきまでの笑い声が、少し遠くなる。

美月は小さく息を吐いた。

疲れる。

ああいう場は、疲れる。

それにしても、藤崎先生は本当に器用だ。

あれだけ女性スタッフに囲まれて、誰にも嫌な思いをさせずに流す。
逆に怖い。

トイレの鏡の前で手を洗いながら、美月は少しぼんやりした。

まあ、私には関係ないけど。

そう思って、店内へ戻ろうとした時だった。

通路の角で、藤崎理久と鉢合わせた。

彼はスマホを片手に持っていた。

電話をしていた、という体裁。

けれど、本当に電話だったのかは少し怪しい。

美月は一瞬だけ固まった。

すぐに仕事用の声になる。

「……お疲れさまです」

理久は少し笑った。

「ここ、病院じゃないよ」
「知ってます」
「じゃあ、その声、やめたら?」
「無理です」
「徹底してるな」

彼は壁にもたれるわけでもなく、通路の邪魔にならない位置に立っている。

距離は近すぎない。

でも、完全に無関係を装えるほど遠くもない。

逃げ道を塞ぐほどではないのに、こちらが逃げようとしていることは分かっている。

そこがまた、腹立たしい。

美月は少し目を細めた。

「……追いかけてきました?」

理久は即答しなかった。

少しだけ笑う。

「トイレ」
「そっちは女子トイレです」
「じゃあ違うね」



「違うんですね」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「電話」
「本当に?」
「疑うなぁ」
「日頃の行いでは」

理久が、くすっと笑った。

「俺、そんなに信用ない?」
「あると思ってます?」
「思ってない。だから聞いた」

ずるい。

否定しない。

美月はその横を通り過ぎようとした。

その時、理久が軽く言った。

「さっき、ずっとこっち見てたよね」

美月は止まらない。

「見てません」
「出た」
「本当に見てません」
「二回言った」

美月は振り向かずに言う。

「三回目もいります?」

後ろで理久が笑う気配がした。

「今日はいい」

その言い方が、妙に柔らかかった。

美月は、少しだけ振り向いた。

理久はいつもの笑顔だった。

けれど、宴席で見せていた“紳士の顔”とは少し違う。

周囲へ向けた整った笑みではない。

少しだけ、素に近い顔。

「疲れた?」

美月は少し意外に思った。

「私がですか?」
「うん」
「別に」
「そういう言い方をする時、だいたい疲れてるよね」
「勝手に分析しないでください」
「職業病」
「外科医ですよね」
「人間観察も仕事のうち」

美月は少し眉をひそめた。

「藤崎先生こそ、疲れないんですか」
「何が?」
「ああいうの」
「どういうの?」
「誰にでも感じよくして、場を壊さないようにして、誘われても曖昧に流して、全部うまくやる感じです」

そこで、理久が少し黙った。

初めて、返しがすぐに出なかった。

美月は、言いすぎたかもしれないと思った。

けれど理久は、困ったように笑った。

「……見てるじゃん」
「見えてしまっただけです」

また、彼が笑う。

「使い方、うまくなったね」

そのあと、少しだけ声を落とした。

「疲れるよ。普通に」

襖の向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。

店内は相変わらず賑やかだった。
けれど、その一言だけ、少し別の場所から落ちてきたみたいに聞こえた。

美月はすぐに返せなかった。

いつもの軽さで言ったのではない。

今の一言だけは、たぶん本当だった。

理久は、すぐにいつもの表情へ戻す。

「でも、あれも仕事みたいなものだから」
「飲み会も?」
「飲み会も。外科が病棟に世話になってるなら、顔を出すのも仕事」
「モテるのも仕事ですか」
「それは業務外」
「でも得意そうです」
「得意じゃないよ。慣れてるだけ」

その返しは、いかにも藤崎理久らしかった。

自慢しない。
否定もしない。

でも、どこか寂しい。

美月は少しだけ彼の見方を変えた。

あれ。

いつもの余裕の顔じゃない。

この人は、女性に囲まれて楽しくやっているようで、実は全部を受け流しているだけなのかもしれない。

けれど、それを認めるのも何となく悔しい。

美月は少し冷たく返した。

「慣れてるって、十分問題です」
「厳しいな」
「事実です」
「じゃあ、綾瀬さんにはどう見えてる?」

美月は即答しそうになって、少しだけ迷った。

「……器用な人」

理久は少し目を細める。

「褒めてる?」
「褒めてません」
「だと思った」

美月は通路を戻ろうとする。

その背中に、理久の声が落ちた。

「でも、綾瀬さんの前だと、あんまり器用にできないんだよね」

美月は止まった。

振り向かない。

「……そういうことを言うから、信用されないんです」
「うん。分かってる」
「分かってて言うのが悪質です」
「そうかも」
「否定しないんですね」
「しない方が、綾瀬さんは返しやすいでしょ」

美月は振り向いた。

「そういうところです」
「どこ?」
「分かっていて、少しだけ踏み込んでくるところです」

理久は、少しだけ笑った。

いつもの余裕のある笑顔より、少し柔らかい。

「じゃあ、踏み込みすぎないようにする」
「信用できません」
「三回言う?」
「言いません」

言うと、負ける気がした。

そう言って、美月は店内へ戻った。

理久は追ってこなかった。

ただ、美月の背中を見ながら、少しだけ笑っていた。

* * *

席に戻ると、同僚がすぐに聞いてきた。

「遅かったね」
「混んでた」

嘘ではない。

心が混んでいた。

少し遅れて、理久も戻ってくる。

彼はまた、あの紳士の仮面をつけていた。

周囲に自然に笑顔を向ける。
女性スタッフたちはまた盛り上がる。

「藤崎先生、どこ行ってたんですか?」
「電話?」
「先生戻ってきたー」

美月はグラスを持ちながら思う。

ほら。

またその顔。

でも。

さっきの顔は違った。

あの通路で、自分にだけ少し見せた顔。

疲れるよ、と低く言った時の声。
慣れてるだけ、と笑った時の、どこか諦めたような余裕。

美月の中で、藤崎理久の分類が少し変わった。

女に慣れた、感じのいい医者。

そこから、モテる仮面を脱ぐ瞬間がある、厄介な男。

まだ恋ではない。
好きでもない。
信用もしていない。

むしろ、警戒している。

けれど初めて、美月は思った。

この人、ちょっと分からない。

分からないから、気になる。

その事実に気づいた瞬間、美月は少しだけ自分に腹が立った。

理久は、離れた席で相変わらず穏やかに笑っている。

美月はグラスを口元へ運びながら、心の中で呟いた。

私は騙されない。

絶対に。

そう思っている時点で、少しずつ相手のことを考えてしまっているのだと。

その時の美月は、まだ気づかないふりをしていた。