光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

相手の名前を、ようやく言えた。

その安心は、美月が思っていたよりもずっと大きかった。

玲奈と香澄が受け止めてくれた。

及川にも招待状を渡せた。

父のことも、少しだけ話せた。

全部を話したわけではない。

それでも、ずっと胸の奥で固く結んでいたものが、少しほどけた気がした。

美月はグラスを置き、ふわっと笑った。

その顔を見た瞬間、及川が眉を寄せる。

「待て待て」

「何?」

玲奈が首を傾げると、及川は美月を指さしそうになって、途中でやめた。

「この流れ、前回見たぞ」

香澄が笑う。

「大丈夫。今日はそんなに飲ませてない」

「前回よりはね」

玲奈が付け足す。

「前回よりは、って何だよ」

及川は額に手を当てた。

美月は、にこにこしている。

「綾瀬、酔ってるだろ」

「酔ってないよ」

「その返事も前回聞いた」

玲奈が楽しそうに美月を見る。

「安心すると、美月って昔からこうなるんだよね」

「ねぇ」

香澄も頷く。

「ねぇ、じゃない」

及川はため息をついた。

この二人は分かっているようで、分かっていない。

いや、分かっているからこそ、危機感がないのかもしれない。

玲奈がふと思いついたように顔を上げた。

「あ、及川先生」

「何」

「藤崎先生を見たい」

及川は一瞬で嫌な顔をした。

「正直すぎるだろ」

「だって、美月の婚約者が藤崎先生なんだよ」

香澄まで少し身を乗り出す。

「一回だけでいいから」

「二人とも、藤崎先生を何だと思ってるんだよ」

「王子」

玲奈は即答した。

「やめろ」

「院内の王子が、美月の婚約者なんだよ。見たいに決まってるじゃん」

「見世物じゃないんだぞ」

「分かってる。分かってるけど、見たい」

香澄も真顔で頷く。

及川は、もう一度ため息をついた。

その横で、美月はグラスを持ったまま、ふわっと笑っていた。

「りく、忙しいと思う」

あまりにも素直な声だった。

及川は黙った。

これは、まずい。

やっぱり前回と同じ流れになりかけている。

「……呼ぶんじゃなくて、報告だけな」

玲奈と香澄が、同時に頷いた。

「うん」

「報告だけ」

「絶対、来いとか書かないからな」

「分かってるって」

「分かってなさそうなんだよ」

及川はスマートフォンを取り出し、理久のトーク画面を開いた。

少し考えてから、短く打つ。

『招待状いただきました。
ありがとうございます。

三人でかなり楽しそうです。
ただ、綾瀬は少し酔っています。

一応報告です。』

送信。

しばらくして、既読がついた。

続けて、短い返信が来る。

『場所は?』

及川は店の名前を送った。

返事は、すぐだった。

『行く。』

及川は画面を見つめた。

「……来るって」

玲奈と香澄の顔色が、一瞬で変わった。

「え、本当に?」

「来るの?」

「二人が見たいって言ったんだろ」

及川が言うと、玲奈は慌ててグラスを置いた。

「いや、見たいとは言ったけど、本当に来ると緊張するでしょ」

香澄も急に髪を整え始める。

「待って。私、普通に飲んでる」

「今さら?」

「だって、まさか本当に来るとは思わないでしょ」

「呼んだくせに」

「呼べるなら見たい、って話だったの」

玲奈が真顔で言う。

及川は呆れたように二人を見た。

「勝手だな」

「だって藤崎先生だよ」

「さっきまで王子って言ってただろ」

「本人を前にして言えるわけないでしょ」

「俺には散々言わせたくせに」

「及川先生は及川先生だから」

「どういう意味だよ」

そんなやり取りをしている横で、美月はふわっと笑っていた。

「りく、来るの?」

「来る」

「よかった」

その顔があまりにも幸せそうで、及川は少しだけ視線を逸らした。

これは、たぶん来た方がいい。

この顔を見せていい相手は、あの人だけだ。

しばらくして、店の入口に長身の男が現れた。

落ち着いた色のコート。

白いシャツ。

仕事帰りのはずなのに、少しも乱れていない。

藤崎理久。

店内のざわめきの中でも、その姿はすぐに分かった。

玲奈が小さく息を呑む。

香澄も、いつものサバサバした表情を少しだけ改めた。

「……本当に来た」

及川は立ち上がった。

「先生、お疲れ様です」

玲奈と香澄も慌てて姿勢を正す。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

さっきまで好き勝手に言っていた二人が、急にきちんとした声を出す。

及川は呆れた。

「おい、態度違くない?」

「当たり前」

玲奈が小声で即答する。

香澄も小さく言う。

「職場で必要なことしか話さない先生だよ」

「俺には散々好き勝手言ってたくせに」

「及川先生は及川先生だから」

「またそれかよ」

理久は、そのやり取りを聞いて少しだけ笑った。

「こんばんは。遅くに失礼します」

声は穏やかだった。

職場で聞く、必要事項だけを伝える冷静な声とは少し違う。

けれど、砕けすぎてもいない。

理久は、まず玲奈と香澄へ丁寧に頭を下げた。

「藤崎理久です。今日はありがとうございます」

玲奈と香澄も慌てて頭を下げる。

「三浦玲奈です。オペ室でお世話になっています」

「柏木香澄です。救急部でお世話になっています」

「こちらこそ。仕事では私の方がお世話になっています」

理久は静かにそう言ってから、二人を見た。

「招待状を受け取ってくださって、ありがとうございます」

玲奈は少し慌てたように首を振った。

「いえ、こちらこそ。本当におめでとうございます」

「今日、美月から聞きました」

香澄が続ける。

理久は軽く頭を下げた。

「ここまで名前を伏せる形になってしまって、すみません」

「それは分かります」

香澄はすぐに言った。

「院内だと、たぶん一気に広がるので」

玲奈も頷いた。

「むしろ、美月が慎重にしていた理由が分かりました」

「ありがとうございます」

そこで、美月が少しだけ顔を上げた。

「りく」

声が柔らかい。

理久の目元が、ほんの少しだけ緩む。

「うん」

「来た」

「来たよ」

「お仕事は?」

「終わらせてきた」

「お疲れ様」

「ありがとう」

そのやり取りを聞いて、及川は顔を覆いそうになった。

玲奈と香澄は、完全に目を輝かせている。

職場では絶対に見られない光景だった。

玲奈が、少し迷ってから空いている席を示した。

「あの、よろしければ少しだけ……」

言ってから、自分で慌てたように首を振る。

「すみません。呼び出したみたいになってしまって」

理久は美月の様子を一度見た。

美月は、理久を見上げてふわっと笑っている。

それだけで、理久の表情が少し和らいだ。

「では、一杯だけ失礼します」

その言い方が自然すぎて、玲奈と香澄は一瞬固まった。

及川は心の中で呟いた。

出た。

こういうところだ。

呼び出された形になっても、相手にそれを感じさせない。

困らせない。

美月の大切な人たちの前で、ちゃんと婚約者としてそこに座る。

それがまた、腹立つくらい藤崎先生だった。

店員が椅子を一つ足してくれた。

理久は、美月の隣に腰を下ろす。

店員に飲み物を尋ねられ、静かに生ビールを頼んだ。

玲奈と香澄は、まだ少し緊張している。

さっきまで見たいと言っていた相手が、本当に目の前に座っている。

しかも、美月の隣に。

その現実に、二人ともまだ追いついていないようだった。

ビールが運ばれてくると、玲奈がグラスを持ち上げた。

「では、改めて」

香澄が続ける。

「美月と藤崎先生のご結婚に」

及川もグラスを持つ。

「あと、俺が正式に招待状を受け取った記念に」

「そこは小さめで」

玲奈がすぐに言う。

「入れてくれるだけありがたいけどさ」

理久が小さく笑った。

美月も笑う。

四つだったグラスに、理久のグラスが加わる。

軽く触れた音が、静かに重なった。

「おめでとうございます」

玲奈と香澄が、少し照れたように言った。

理久は穏やかに頷く。

「ありがとうございます」

理久はビールを一口飲んだ。

何も特別なことではないはずなのに、妙に絵になる。

玲奈が、小さく呟いた。

「王子だ……」

香澄が即座に玲奈の腕をつつく。

「聞こえる」

理久は聞こえていたのかいないのか、穏やかな顔のままだった。

及川は小さく肩を震わせる。

「今の、アウトじゃない?」

「心の声が漏れただけ」

「漏らすな」

美月は顔を赤くして俯いた。

理久はその顔を見て、少しだけ笑う。

「どのくらい飲んだ?」

「少し」

及川がすかさず言う。

「本人申告は少しですけど、表情はかなり仕上がってます」

「及川くん」

美月が少し不満そうに見る。

「ここは正直に報告するところ」

玲奈が笑った。

「量はそこまでじゃないです」

香澄も頷く。

「でも、安心して気が緩んでます」

理久は小さく笑った。

「分かりました。ありがとうございます」

その一言に、及川は少しだけ黙った。

また、そういうことをさらっと言う。

藤崎先生は、本当にずるい。

理久はそれ以上、場を改めすぎなかった。

ただ、玲奈と香澄へ向き直る。

「六月の式、ぜひ来てください」

「もちろんです」

玲奈の表情が明るくなる。

香澄も頷いた。

「行きます。美月のドレス、絶対見たいので」

「香澄」

美月は顔を赤くする。

玲奈が笑った。

「私も絶対行きます」

「ありがとうございます」

その短いやり取りだけで、十分だった。

理久は、ただ迎えに来たのではなかった。

「藤崎先生」

玲奈が、少しだけ真面目な顔になった。

「美月のこと、よろしくお願いします」

香澄も続ける。

「美月、頑張りすぎるところがあるので」

理久は静かに頷いた。

「分かっています」

香澄が、少しだけ笑う。

「本当に分かってそうですね」

「努力します」

その返しに、玲奈と香澄はまた顔を見合わせた。

どこまでも丁寧で。

どこまでも穏やかで。

それでいて、美月を見る時だけ、少しだけ目元が違う。

玲奈が小声で言った。

「美月、すごい人捕まえたね」

美月はふわっと笑う。

「うん」

その素直な返事に、全員が一瞬黙った。

それから、笑った。

「認めた」

「美月、酔ってる」

及川が即座に言う。

「酔ってる」

「酔ってません」

美月が言うと、理久も少し笑った。

そのあとも、時間は静かに流れた。

理久は多くを話さない。

けれど、美月が笑うたびに、ほんの少し目元が柔らかくなる。

そのたびに、玲奈と香澄が目を合わせる。

美月は、それに気づいて少し俯いた。

ビールのグラスが半分ほど空いた頃、理久が美月の顔を見た。

表情は柔らかい。

けれど、もう十分に気が緩んでいる。

「今日はもう帰ろうか」

「うん」

美月は素直に頷いた。

理久が美月のバッグを持つ。

その動作があまりに自然で、玲奈と香澄はまた少し目を丸くした。

「及川」

理久が声をかける。

「はい」

「連絡、ありがとう」

「報告しただけです」

「それでも助かった」

及川は少しだけ口元を緩めた。

それ以上、何も言わなかった。

理久は、玲奈と香澄に向き直る。

「では、先に失礼します」

美月も少し照れながら二人を見る。

「玲奈、香澄、今日はありがとう」

「こちらこそ」

「招待状、ありがとう」

「絶対行くからね」

「ドレス楽しみにしてる」

美月は頷いた。

「うん」

理久は美月の背にそっと手を添え、店の出口へ向かった。

三人は席を立ち、入口近くまで見送った。

ガラス扉の向こうは、夜風が少し冷たそうだった。

理久が美月のコートの前を整える。

美月は素直に頷き、理久の袖を少しだけ掴んだ。

その様子を、玲奈と香澄は扉の内側から見ていた。

「……あれ、明日の朝には見られないね」

玲奈が小さく言った。

香澄も頷く。

「今だけだね」

及川は、二人の横で深く息を吐いた。

「だから、外で見せちゃ駄目なやつなんだよ」

タクシーが到着すると、理久は美月を先に乗せた。

窓越しに、美月が小さく手を振る。

玲奈と香澄も手を振り返した。

及川も軽く手を上げる。

ドアが閉まり、タクシーはゆっくり走り出した。

車内で、美月が理久の肩に少し寄りかかる。

理久は当然のように、その重みを受け止めていた。

二人の姿は、夜の灯りの中へ静かに遠ざかっていく。

三人は、しばらくその場に立っていた。

やがて玲奈が、小さく息を吐く。

「……王子だったね」

香澄も、まだ扉の向こうを見ている。

「王子だった」

及川は少しだけ笑った。

「まあな」

玲奈が及川を見る。

「何、その分かってる感」

「分かってるから」

「腹立つ」

「またかよ」

及川は、タクシーが消えていった方へ一度だけ視線を向けた。

「でも、ただの王子じゃないんだよ」

香澄が首を傾げる。

「何、それ」

及川は少しだけ誇らしげに言う。

「綾瀬のこと、ちゃんと分かってる王子」

玲奈と香澄は、少し黙った。

それから、静かに笑う。

「それなら安心だね」

「うん」

及川は頷いた。

藤崎理久。

その名前はもう、美月だけが抱える秘密ではない。

玲奈と香澄が笑い、及川が少し誇らしげに頷く夜。

祝福の中で、その名前はようやく外へ出ていく。

扉の向こうから入る夜風に、少しだけ春の匂いが混じっていた。