相手の名前を、ようやく言えた。
その安心は、美月が思っていたよりもずっと大きかった。
玲奈と香澄が受け止めてくれた。
及川にも招待状を渡せた。
父のことも、少しだけ話せた。
全部を話したわけではない。
それでも、ずっと胸の奥で固く結んでいたものが、少しほどけた気がした。
美月はグラスを置き、ふわっと笑った。
その顔を見た瞬間、及川が眉を寄せる。
「待て待て」
「何?」
玲奈が首を傾げると、及川は美月を指さしそうになって、途中でやめた。
「この流れ、前回見たぞ」
香澄が笑う。
「大丈夫。今日はそんなに飲ませてない」
「前回よりはね」
玲奈が付け足す。
「前回よりは、って何だよ」
及川は額に手を当てた。
美月は、にこにこしている。
「綾瀬、酔ってるだろ」
「酔ってないよ」
「その返事も前回聞いた」
玲奈が楽しそうに美月を見る。
「安心すると、美月って昔からこうなるんだよね」
「ねぇ」
香澄も頷く。
「ねぇ、じゃない」
及川はため息をついた。
この二人は分かっているようで、分かっていない。
いや、分かっているからこそ、危機感がないのかもしれない。
玲奈がふと思いついたように顔を上げた。
「あ、及川先生」
「何」
「藤崎先生を見たい」
及川は一瞬で嫌な顔をした。
「正直すぎるだろ」
「だって、美月の婚約者が藤崎先生なんだよ」
香澄まで少し身を乗り出す。
「一回だけでいいから」
「二人とも、藤崎先生を何だと思ってるんだよ」
「王子」
玲奈は即答した。
「やめろ」
「院内の王子が、美月の婚約者なんだよ。見たいに決まってるじゃん」
「見世物じゃないんだぞ」
「分かってる。分かってるけど、見たい」
香澄も真顔で頷く。
及川は、もう一度ため息をついた。
その横で、美月はグラスを持ったまま、ふわっと笑っていた。
「りく、忙しいと思う」
あまりにも素直な声だった。
及川は黙った。
これは、まずい。
やっぱり前回と同じ流れになりかけている。
「……呼ぶんじゃなくて、報告だけな」
玲奈と香澄が、同時に頷いた。
「うん」
「報告だけ」
「絶対、来いとか書かないからな」
「分かってるって」
「分かってなさそうなんだよ」
及川はスマートフォンを取り出し、理久のトーク画面を開いた。
少し考えてから、短く打つ。
『招待状いただきました。
ありがとうございます。
三人でかなり楽しそうです。
ただ、綾瀬は少し酔っています。
一応報告です。』
送信。
しばらくして、既読がついた。
続けて、短い返信が来る。
『場所は?』
及川は店の名前を送った。
返事は、すぐだった。
『行く。』
及川は画面を見つめた。
「……来るって」
玲奈と香澄の顔色が、一瞬で変わった。
「え、本当に?」
「来るの?」
「二人が見たいって言ったんだろ」
及川が言うと、玲奈は慌ててグラスを置いた。
「いや、見たいとは言ったけど、本当に来ると緊張するでしょ」
香澄も急に髪を整え始める。
「待って。私、普通に飲んでる」
「今さら?」
「だって、まさか本当に来るとは思わないでしょ」
「呼んだくせに」
「呼べるなら見たい、って話だったの」
玲奈が真顔で言う。
及川は呆れたように二人を見た。
「勝手だな」
「だって藤崎先生だよ」
「さっきまで王子って言ってただろ」
「本人を前にして言えるわけないでしょ」
「俺には散々言わせたくせに」
「及川先生は及川先生だから」
「どういう意味だよ」
そんなやり取りをしている横で、美月はふわっと笑っていた。
「りく、来るの?」
「来る」
「よかった」
その顔があまりにも幸せそうで、及川は少しだけ視線を逸らした。
これは、たぶん来た方がいい。
この顔を見せていい相手は、あの人だけだ。
しばらくして、店の入口に長身の男が現れた。
落ち着いた色のコート。
白いシャツ。
仕事帰りのはずなのに、少しも乱れていない。
藤崎理久。
店内のざわめきの中でも、その姿はすぐに分かった。
玲奈が小さく息を呑む。
香澄も、いつものサバサバした表情を少しだけ改めた。
「……本当に来た」
及川は立ち上がった。
「先生、お疲れ様です」
玲奈と香澄も慌てて姿勢を正す。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
さっきまで好き勝手に言っていた二人が、急にきちんとした声を出す。
及川は呆れた。
「おい、態度違くない?」
「当たり前」
玲奈が小声で即答する。
香澄も小さく言う。
「職場で必要なことしか話さない先生だよ」
「俺には散々好き勝手言ってたくせに」
「及川先生は及川先生だから」
「またそれかよ」
理久は、そのやり取りを聞いて少しだけ笑った。
「こんばんは。遅くに失礼します」
声は穏やかだった。
職場で聞く、必要事項だけを伝える冷静な声とは少し違う。
けれど、砕けすぎてもいない。
理久は、まず玲奈と香澄へ丁寧に頭を下げた。
「藤崎理久です。今日はありがとうございます」
玲奈と香澄も慌てて頭を下げる。
「三浦玲奈です。オペ室でお世話になっています」
「柏木香澄です。救急部でお世話になっています」
「こちらこそ。仕事では私の方がお世話になっています」
理久は静かにそう言ってから、二人を見た。
「招待状を受け取ってくださって、ありがとうございます」
玲奈は少し慌てたように首を振った。
「いえ、こちらこそ。本当におめでとうございます」
「今日、美月から聞きました」
香澄が続ける。
理久は軽く頭を下げた。
「ここまで名前を伏せる形になってしまって、すみません」
「それは分かります」
香澄はすぐに言った。
「院内だと、たぶん一気に広がるので」
玲奈も頷いた。
「むしろ、美月が慎重にしていた理由が分かりました」
「ありがとうございます」
そこで、美月が少しだけ顔を上げた。
「りく」
声が柔らかい。
理久の目元が、ほんの少しだけ緩む。
「うん」
「来た」
「来たよ」
「お仕事は?」
「終わらせてきた」
「お疲れ様」
「ありがとう」
そのやり取りを聞いて、及川は顔を覆いそうになった。
玲奈と香澄は、完全に目を輝かせている。
職場では絶対に見られない光景だった。
玲奈が、少し迷ってから空いている席を示した。
「あの、よろしければ少しだけ……」
言ってから、自分で慌てたように首を振る。
「すみません。呼び出したみたいになってしまって」
理久は美月の様子を一度見た。
美月は、理久を見上げてふわっと笑っている。
それだけで、理久の表情が少し和らいだ。
「では、一杯だけ失礼します」
その言い方が自然すぎて、玲奈と香澄は一瞬固まった。
及川は心の中で呟いた。
出た。
こういうところだ。
呼び出された形になっても、相手にそれを感じさせない。
困らせない。
美月の大切な人たちの前で、ちゃんと婚約者としてそこに座る。
それがまた、腹立つくらい藤崎先生だった。
店員が椅子を一つ足してくれた。
理久は、美月の隣に腰を下ろす。
店員に飲み物を尋ねられ、静かに生ビールを頼んだ。
玲奈と香澄は、まだ少し緊張している。
さっきまで見たいと言っていた相手が、本当に目の前に座っている。
しかも、美月の隣に。
その現実に、二人ともまだ追いついていないようだった。
ビールが運ばれてくると、玲奈がグラスを持ち上げた。
「では、改めて」
香澄が続ける。
「美月と藤崎先生のご結婚に」
及川もグラスを持つ。
「あと、俺が正式に招待状を受け取った記念に」
「そこは小さめで」
玲奈がすぐに言う。
「入れてくれるだけありがたいけどさ」
理久が小さく笑った。
美月も笑う。
四つだったグラスに、理久のグラスが加わる。
軽く触れた音が、静かに重なった。
「おめでとうございます」
玲奈と香澄が、少し照れたように言った。
理久は穏やかに頷く。
「ありがとうございます」
理久はビールを一口飲んだ。
何も特別なことではないはずなのに、妙に絵になる。
玲奈が、小さく呟いた。
「王子だ……」
香澄が即座に玲奈の腕をつつく。
「聞こえる」
理久は聞こえていたのかいないのか、穏やかな顔のままだった。
及川は小さく肩を震わせる。
「今の、アウトじゃない?」
「心の声が漏れただけ」
「漏らすな」
美月は顔を赤くして俯いた。
理久はその顔を見て、少しだけ笑う。
「どのくらい飲んだ?」
「少し」
及川がすかさず言う。
「本人申告は少しですけど、表情はかなり仕上がってます」
「及川くん」
美月が少し不満そうに見る。
「ここは正直に報告するところ」
玲奈が笑った。
「量はそこまでじゃないです」
香澄も頷く。
「でも、安心して気が緩んでます」
理久は小さく笑った。
「分かりました。ありがとうございます」
その一言に、及川は少しだけ黙った。
また、そういうことをさらっと言う。
藤崎先生は、本当にずるい。
理久はそれ以上、場を改めすぎなかった。
ただ、玲奈と香澄へ向き直る。
「六月の式、ぜひ来てください」
「もちろんです」
玲奈の表情が明るくなる。
香澄も頷いた。
「行きます。美月のドレス、絶対見たいので」
「香澄」
美月は顔を赤くする。
玲奈が笑った。
「私も絶対行きます」
「ありがとうございます」
その短いやり取りだけで、十分だった。
理久は、ただ迎えに来たのではなかった。
「藤崎先生」
玲奈が、少しだけ真面目な顔になった。
「美月のこと、よろしくお願いします」
香澄も続ける。
「美月、頑張りすぎるところがあるので」
理久は静かに頷いた。
「分かっています」
香澄が、少しだけ笑う。
「本当に分かってそうですね」
「努力します」
その返しに、玲奈と香澄はまた顔を見合わせた。
どこまでも丁寧で。
どこまでも穏やかで。
それでいて、美月を見る時だけ、少しだけ目元が違う。
玲奈が小声で言った。
「美月、すごい人捕まえたね」
美月はふわっと笑う。
「うん」
その素直な返事に、全員が一瞬黙った。
それから、笑った。
「認めた」
「美月、酔ってる」
及川が即座に言う。
「酔ってる」
「酔ってません」
美月が言うと、理久も少し笑った。
そのあとも、時間は静かに流れた。
理久は多くを話さない。
けれど、美月が笑うたびに、ほんの少し目元が柔らかくなる。
そのたびに、玲奈と香澄が目を合わせる。
美月は、それに気づいて少し俯いた。
ビールのグラスが半分ほど空いた頃、理久が美月の顔を見た。
表情は柔らかい。
けれど、もう十分に気が緩んでいる。
「今日はもう帰ろうか」
「うん」
美月は素直に頷いた。
理久が美月のバッグを持つ。
その動作があまりに自然で、玲奈と香澄はまた少し目を丸くした。
「及川」
理久が声をかける。
「はい」
「連絡、ありがとう」
「報告しただけです」
「それでも助かった」
及川は少しだけ口元を緩めた。
それ以上、何も言わなかった。
理久は、玲奈と香澄に向き直る。
「では、先に失礼します」
美月も少し照れながら二人を見る。
「玲奈、香澄、今日はありがとう」
「こちらこそ」
「招待状、ありがとう」
「絶対行くからね」
「ドレス楽しみにしてる」
美月は頷いた。
「うん」
理久は美月の背にそっと手を添え、店の出口へ向かった。
三人は席を立ち、入口近くまで見送った。
ガラス扉の向こうは、夜風が少し冷たそうだった。
理久が美月のコートの前を整える。
美月は素直に頷き、理久の袖を少しだけ掴んだ。
その様子を、玲奈と香澄は扉の内側から見ていた。
「……あれ、明日の朝には見られないね」
玲奈が小さく言った。
香澄も頷く。
「今だけだね」
及川は、二人の横で深く息を吐いた。
「だから、外で見せちゃ駄目なやつなんだよ」
タクシーが到着すると、理久は美月を先に乗せた。
窓越しに、美月が小さく手を振る。
玲奈と香澄も手を振り返した。
及川も軽く手を上げる。
ドアが閉まり、タクシーはゆっくり走り出した。
車内で、美月が理久の肩に少し寄りかかる。
理久は当然のように、その重みを受け止めていた。
二人の姿は、夜の灯りの中へ静かに遠ざかっていく。
三人は、しばらくその場に立っていた。
やがて玲奈が、小さく息を吐く。
「……王子だったね」
香澄も、まだ扉の向こうを見ている。
「王子だった」
及川は少しだけ笑った。
「まあな」
玲奈が及川を見る。
「何、その分かってる感」
「分かってるから」
「腹立つ」
「またかよ」
及川は、タクシーが消えていった方へ一度だけ視線を向けた。
「でも、ただの王子じゃないんだよ」
香澄が首を傾げる。
「何、それ」
及川は少しだけ誇らしげに言う。
「綾瀬のこと、ちゃんと分かってる王子」
玲奈と香澄は、少し黙った。
それから、静かに笑う。
「それなら安心だね」
「うん」
及川は頷いた。
藤崎理久。
その名前はもう、美月だけが抱える秘密ではない。
玲奈と香澄が笑い、及川が少し誇らしげに頷く夜。
祝福の中で、その名前はようやく外へ出ていく。
扉の向こうから入る夜風に、少しだけ春の匂いが混じっていた。
その安心は、美月が思っていたよりもずっと大きかった。
玲奈と香澄が受け止めてくれた。
及川にも招待状を渡せた。
父のことも、少しだけ話せた。
全部を話したわけではない。
それでも、ずっと胸の奥で固く結んでいたものが、少しほどけた気がした。
美月はグラスを置き、ふわっと笑った。
その顔を見た瞬間、及川が眉を寄せる。
「待て待て」
「何?」
玲奈が首を傾げると、及川は美月を指さしそうになって、途中でやめた。
「この流れ、前回見たぞ」
香澄が笑う。
「大丈夫。今日はそんなに飲ませてない」
「前回よりはね」
玲奈が付け足す。
「前回よりは、って何だよ」
及川は額に手を当てた。
美月は、にこにこしている。
「綾瀬、酔ってるだろ」
「酔ってないよ」
「その返事も前回聞いた」
玲奈が楽しそうに美月を見る。
「安心すると、美月って昔からこうなるんだよね」
「ねぇ」
香澄も頷く。
「ねぇ、じゃない」
及川はため息をついた。
この二人は分かっているようで、分かっていない。
いや、分かっているからこそ、危機感がないのかもしれない。
玲奈がふと思いついたように顔を上げた。
「あ、及川先生」
「何」
「藤崎先生を見たい」
及川は一瞬で嫌な顔をした。
「正直すぎるだろ」
「だって、美月の婚約者が藤崎先生なんだよ」
香澄まで少し身を乗り出す。
「一回だけでいいから」
「二人とも、藤崎先生を何だと思ってるんだよ」
「王子」
玲奈は即答した。
「やめろ」
「院内の王子が、美月の婚約者なんだよ。見たいに決まってるじゃん」
「見世物じゃないんだぞ」
「分かってる。分かってるけど、見たい」
香澄も真顔で頷く。
及川は、もう一度ため息をついた。
その横で、美月はグラスを持ったまま、ふわっと笑っていた。
「りく、忙しいと思う」
あまりにも素直な声だった。
及川は黙った。
これは、まずい。
やっぱり前回と同じ流れになりかけている。
「……呼ぶんじゃなくて、報告だけな」
玲奈と香澄が、同時に頷いた。
「うん」
「報告だけ」
「絶対、来いとか書かないからな」
「分かってるって」
「分かってなさそうなんだよ」
及川はスマートフォンを取り出し、理久のトーク画面を開いた。
少し考えてから、短く打つ。
『招待状いただきました。
ありがとうございます。
三人でかなり楽しそうです。
ただ、綾瀬は少し酔っています。
一応報告です。』
送信。
しばらくして、既読がついた。
続けて、短い返信が来る。
『場所は?』
及川は店の名前を送った。
返事は、すぐだった。
『行く。』
及川は画面を見つめた。
「……来るって」
玲奈と香澄の顔色が、一瞬で変わった。
「え、本当に?」
「来るの?」
「二人が見たいって言ったんだろ」
及川が言うと、玲奈は慌ててグラスを置いた。
「いや、見たいとは言ったけど、本当に来ると緊張するでしょ」
香澄も急に髪を整え始める。
「待って。私、普通に飲んでる」
「今さら?」
「だって、まさか本当に来るとは思わないでしょ」
「呼んだくせに」
「呼べるなら見たい、って話だったの」
玲奈が真顔で言う。
及川は呆れたように二人を見た。
「勝手だな」
「だって藤崎先生だよ」
「さっきまで王子って言ってただろ」
「本人を前にして言えるわけないでしょ」
「俺には散々言わせたくせに」
「及川先生は及川先生だから」
「どういう意味だよ」
そんなやり取りをしている横で、美月はふわっと笑っていた。
「りく、来るの?」
「来る」
「よかった」
その顔があまりにも幸せそうで、及川は少しだけ視線を逸らした。
これは、たぶん来た方がいい。
この顔を見せていい相手は、あの人だけだ。
しばらくして、店の入口に長身の男が現れた。
落ち着いた色のコート。
白いシャツ。
仕事帰りのはずなのに、少しも乱れていない。
藤崎理久。
店内のざわめきの中でも、その姿はすぐに分かった。
玲奈が小さく息を呑む。
香澄も、いつものサバサバした表情を少しだけ改めた。
「……本当に来た」
及川は立ち上がった。
「先生、お疲れ様です」
玲奈と香澄も慌てて姿勢を正す。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
さっきまで好き勝手に言っていた二人が、急にきちんとした声を出す。
及川は呆れた。
「おい、態度違くない?」
「当たり前」
玲奈が小声で即答する。
香澄も小さく言う。
「職場で必要なことしか話さない先生だよ」
「俺には散々好き勝手言ってたくせに」
「及川先生は及川先生だから」
「またそれかよ」
理久は、そのやり取りを聞いて少しだけ笑った。
「こんばんは。遅くに失礼します」
声は穏やかだった。
職場で聞く、必要事項だけを伝える冷静な声とは少し違う。
けれど、砕けすぎてもいない。
理久は、まず玲奈と香澄へ丁寧に頭を下げた。
「藤崎理久です。今日はありがとうございます」
玲奈と香澄も慌てて頭を下げる。
「三浦玲奈です。オペ室でお世話になっています」
「柏木香澄です。救急部でお世話になっています」
「こちらこそ。仕事では私の方がお世話になっています」
理久は静かにそう言ってから、二人を見た。
「招待状を受け取ってくださって、ありがとうございます」
玲奈は少し慌てたように首を振った。
「いえ、こちらこそ。本当におめでとうございます」
「今日、美月から聞きました」
香澄が続ける。
理久は軽く頭を下げた。
「ここまで名前を伏せる形になってしまって、すみません」
「それは分かります」
香澄はすぐに言った。
「院内だと、たぶん一気に広がるので」
玲奈も頷いた。
「むしろ、美月が慎重にしていた理由が分かりました」
「ありがとうございます」
そこで、美月が少しだけ顔を上げた。
「りく」
声が柔らかい。
理久の目元が、ほんの少しだけ緩む。
「うん」
「来た」
「来たよ」
「お仕事は?」
「終わらせてきた」
「お疲れ様」
「ありがとう」
そのやり取りを聞いて、及川は顔を覆いそうになった。
玲奈と香澄は、完全に目を輝かせている。
職場では絶対に見られない光景だった。
玲奈が、少し迷ってから空いている席を示した。
「あの、よろしければ少しだけ……」
言ってから、自分で慌てたように首を振る。
「すみません。呼び出したみたいになってしまって」
理久は美月の様子を一度見た。
美月は、理久を見上げてふわっと笑っている。
それだけで、理久の表情が少し和らいだ。
「では、一杯だけ失礼します」
その言い方が自然すぎて、玲奈と香澄は一瞬固まった。
及川は心の中で呟いた。
出た。
こういうところだ。
呼び出された形になっても、相手にそれを感じさせない。
困らせない。
美月の大切な人たちの前で、ちゃんと婚約者としてそこに座る。
それがまた、腹立つくらい藤崎先生だった。
店員が椅子を一つ足してくれた。
理久は、美月の隣に腰を下ろす。
店員に飲み物を尋ねられ、静かに生ビールを頼んだ。
玲奈と香澄は、まだ少し緊張している。
さっきまで見たいと言っていた相手が、本当に目の前に座っている。
しかも、美月の隣に。
その現実に、二人ともまだ追いついていないようだった。
ビールが運ばれてくると、玲奈がグラスを持ち上げた。
「では、改めて」
香澄が続ける。
「美月と藤崎先生のご結婚に」
及川もグラスを持つ。
「あと、俺が正式に招待状を受け取った記念に」
「そこは小さめで」
玲奈がすぐに言う。
「入れてくれるだけありがたいけどさ」
理久が小さく笑った。
美月も笑う。
四つだったグラスに、理久のグラスが加わる。
軽く触れた音が、静かに重なった。
「おめでとうございます」
玲奈と香澄が、少し照れたように言った。
理久は穏やかに頷く。
「ありがとうございます」
理久はビールを一口飲んだ。
何も特別なことではないはずなのに、妙に絵になる。
玲奈が、小さく呟いた。
「王子だ……」
香澄が即座に玲奈の腕をつつく。
「聞こえる」
理久は聞こえていたのかいないのか、穏やかな顔のままだった。
及川は小さく肩を震わせる。
「今の、アウトじゃない?」
「心の声が漏れただけ」
「漏らすな」
美月は顔を赤くして俯いた。
理久はその顔を見て、少しだけ笑う。
「どのくらい飲んだ?」
「少し」
及川がすかさず言う。
「本人申告は少しですけど、表情はかなり仕上がってます」
「及川くん」
美月が少し不満そうに見る。
「ここは正直に報告するところ」
玲奈が笑った。
「量はそこまでじゃないです」
香澄も頷く。
「でも、安心して気が緩んでます」
理久は小さく笑った。
「分かりました。ありがとうございます」
その一言に、及川は少しだけ黙った。
また、そういうことをさらっと言う。
藤崎先生は、本当にずるい。
理久はそれ以上、場を改めすぎなかった。
ただ、玲奈と香澄へ向き直る。
「六月の式、ぜひ来てください」
「もちろんです」
玲奈の表情が明るくなる。
香澄も頷いた。
「行きます。美月のドレス、絶対見たいので」
「香澄」
美月は顔を赤くする。
玲奈が笑った。
「私も絶対行きます」
「ありがとうございます」
その短いやり取りだけで、十分だった。
理久は、ただ迎えに来たのではなかった。
「藤崎先生」
玲奈が、少しだけ真面目な顔になった。
「美月のこと、よろしくお願いします」
香澄も続ける。
「美月、頑張りすぎるところがあるので」
理久は静かに頷いた。
「分かっています」
香澄が、少しだけ笑う。
「本当に分かってそうですね」
「努力します」
その返しに、玲奈と香澄はまた顔を見合わせた。
どこまでも丁寧で。
どこまでも穏やかで。
それでいて、美月を見る時だけ、少しだけ目元が違う。
玲奈が小声で言った。
「美月、すごい人捕まえたね」
美月はふわっと笑う。
「うん」
その素直な返事に、全員が一瞬黙った。
それから、笑った。
「認めた」
「美月、酔ってる」
及川が即座に言う。
「酔ってる」
「酔ってません」
美月が言うと、理久も少し笑った。
そのあとも、時間は静かに流れた。
理久は多くを話さない。
けれど、美月が笑うたびに、ほんの少し目元が柔らかくなる。
そのたびに、玲奈と香澄が目を合わせる。
美月は、それに気づいて少し俯いた。
ビールのグラスが半分ほど空いた頃、理久が美月の顔を見た。
表情は柔らかい。
けれど、もう十分に気が緩んでいる。
「今日はもう帰ろうか」
「うん」
美月は素直に頷いた。
理久が美月のバッグを持つ。
その動作があまりに自然で、玲奈と香澄はまた少し目を丸くした。
「及川」
理久が声をかける。
「はい」
「連絡、ありがとう」
「報告しただけです」
「それでも助かった」
及川は少しだけ口元を緩めた。
それ以上、何も言わなかった。
理久は、玲奈と香澄に向き直る。
「では、先に失礼します」
美月も少し照れながら二人を見る。
「玲奈、香澄、今日はありがとう」
「こちらこそ」
「招待状、ありがとう」
「絶対行くからね」
「ドレス楽しみにしてる」
美月は頷いた。
「うん」
理久は美月の背にそっと手を添え、店の出口へ向かった。
三人は席を立ち、入口近くまで見送った。
ガラス扉の向こうは、夜風が少し冷たそうだった。
理久が美月のコートの前を整える。
美月は素直に頷き、理久の袖を少しだけ掴んだ。
その様子を、玲奈と香澄は扉の内側から見ていた。
「……あれ、明日の朝には見られないね」
玲奈が小さく言った。
香澄も頷く。
「今だけだね」
及川は、二人の横で深く息を吐いた。
「だから、外で見せちゃ駄目なやつなんだよ」
タクシーが到着すると、理久は美月を先に乗せた。
窓越しに、美月が小さく手を振る。
玲奈と香澄も手を振り返した。
及川も軽く手を上げる。
ドアが閉まり、タクシーはゆっくり走り出した。
車内で、美月が理久の肩に少し寄りかかる。
理久は当然のように、その重みを受け止めていた。
二人の姿は、夜の灯りの中へ静かに遠ざかっていく。
三人は、しばらくその場に立っていた。
やがて玲奈が、小さく息を吐く。
「……王子だったね」
香澄も、まだ扉の向こうを見ている。
「王子だった」
及川は少しだけ笑った。
「まあな」
玲奈が及川を見る。
「何、その分かってる感」
「分かってるから」
「腹立つ」
「またかよ」
及川は、タクシーが消えていった方へ一度だけ視線を向けた。
「でも、ただの王子じゃないんだよ」
香澄が首を傾げる。
「何、それ」
及川は少しだけ誇らしげに言う。
「綾瀬のこと、ちゃんと分かってる王子」
玲奈と香澄は、少し黙った。
それから、静かに笑う。
「それなら安心だね」
「うん」
及川は頷いた。
藤崎理久。
その名前はもう、美月だけが抱える秘密ではない。
玲奈と香澄が笑い、及川が少し誇らしげに頷く夜。
祝福の中で、その名前はようやく外へ出ていく。
扉の向こうから入る夜風に、少しだけ春の匂いが混じっていた。
