病院から少し離れたカジュアルレストランで、美月は白い封筒を膝の上に置いたまま、なかなか差し出せずにいた。
香澄と玲奈は、もう気づいている。
テーブルの上には、三人分のグラス。
小さな前菜の皿。
そして、美月が膝の上で両手を添えている、白い封筒。
「美月」
玲奈が、少しだけ声を落とした。
「それ、もしかして」
美月は小さく頷いた。
「うん」
香澄が、まっすぐ美月を見る。
「招待状?」
「うん」
二人の表情が、少し変わった。
前に、結婚することは伝えた。
10Aを離れるかもしれないことも話した。
けれど、招待状は違う。
紙になった瞬間、それはもう、ただの報告ではなくなる。
「……本当に、結婚するんだね」
玲奈が、ぽつりと言った。
美月は小さく頷いた。
「うん」
香澄が静かに息を吐く。
「招待状って、すごいね。急に現実になる」
「うん」
美月は、封筒の端を指でなぞった。
中には、もう名前が印刷されている。
その名前を見る前に、自分の口で伝えたかった。
美月は、一度息を吸った。
「香澄、玲奈」
二人が顔を上げる。
「相手の名前、今日言おうと思って」
空気が、少しだけ変わった。
玲奈は真面目な顔で頷いた。
「うん」
香澄も、すぐに言った。
「聞く」
「院内には、まだ広めないでほしい」
「もちろん」
「言わないよ」
返事は早かった。
その早さに、美月の胸が少しだけ温かくなる。
美月は、逃げずに顔を上げた。
「相手は、外科の藤崎先生です」
一瞬、時間が止まった。
香澄も玲奈も、動かなかった。
数秒後。
玲奈が、ゆっくり口を開いた。
「……外科の藤崎先生?」
香澄も、同じように呟く。
「あの、藤崎先生?」
美月は小さく頷いた。
「うん」
沈黙。
次の瞬間、玲奈が両手で口元を押さえた。
「待って」
香澄も目を見開いている。
「え、待って。美月」
「うん」
「王子?」
美月は顔を赤くした。
「その呼び方、やめて」
玲奈が椅子にもたれた。
「いや、でも、藤崎先生でしょ。院内の王子でしょ」
「院内の王子って何」
香澄が真顔で頷く。
「否定はできない」
「してほしいんだけど」
玲奈がにやっとした。
「じゃあ、りくさん?」
美月は一瞬で顔を赤くした。
香澄がすぐに指さす。
「今の反応」
玲奈も笑う。
「美月、分かりやすすぎ」
「やめて」
美月は、封筒を二人の前に差し出した。
「これ、受け取ってほしい」
香澄と玲奈は、少しだけ表情を改めた。
それぞれ封筒を手に取る。
封を開け、中の招待状を取り出した。
二人の視線が、紙の上で止まる。
藤崎理久。
綾瀬美月。
名前が、並んでいる。
その瞬間、玲奈の目元が少しだけ緩んだ。
「……本当に、並んでる」
香澄も、指先で文字をなぞるように見つめた。
「すごい。美月、本当に結婚するんだね」
「うん」
「前に聞いた時より、今の方が実感ある」
「うん」
美月は、少しだけ笑った。
「私も」
玲奈は招待状を大事そうに封筒へ戻した。
「絶対行く」
香澄も頷く。
「美月のドレス、絶対見る」
「そこなの?」
「そこも大事」
玲奈がグラスを持ち上げた。
「じゃあ、改めて乾杯しよう」
香澄もグラスを持つ。
「美月がちゃんと名前を言えたことに」
玲奈が続ける。
「それから、藤崎先生と美月の結婚に」
「まだちょっと恥ずかしい」
「恥ずかしがるところも込みで、乾杯」
三人のグラスが軽く触れた。
美月は少しだけ飲んだ。
喉を通った冷たいお酒に、胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。
「言えて、ほっとした」
美月がそう言うと、香澄と玲奈は柔らかく笑った。
「言ってくれて嬉しい」
香澄も頷く。
「ちゃんと聞けてよかった」
その言葉に、美月は泣きそうになった。
けれど、泣く前に、玲奈が明るく言った。
「ほら、美月、今日は飲もう」
「飲ませすぎないでよ」
香澄がすぐに釘を刺す。
「分かってる。前回の反省はある」
「本当に?」
「少しは」
「少しなんだ」
美月は思わず笑った。
及川は、仕事が終わり次第合流することになっていた。
その時、店の入口の方から声がした。
「何の反省?」
及川だった。
「お疲れ」
「及川くん」
美月が顔を上げる。
玲奈が手を振った。
「来た来た」
香澄も当然のように席を詰める。
「遅い」
「呼ばれて来たのに、歓迎ムード薄くない?」
及川は呆れながら席についた。
「で、俺にも招待状くれるって話だったけど」
美月はバッグからもう一通、白い封筒を取り出した。
「うん。及川くんにも、渡したくて」
美月が封筒を差し出す。
及川はそれを見て、一瞬だけ軽口を止めた。
「……本当にくれるんだ」
「うん」
及川は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
玲奈がすぐに言う。
「丁寧」
香澄も続く。
「珍しい」
「招待状くらい丁寧に受け取るわ」
及川は封筒を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
「俺、綾瀬枠で呼ばれてるんだよね?」
美月は頷いた。
「気持ちとしては」
「気持ちとしては?」
「席は、たぶん外科の先生たちと一緒になると思う」
及川は眉を上げた。
「心は新婦側なのに、席は新郎側?」
「肩書きが医師だから」
「肩書き、強いな」
玲奈が笑った。
「席次表に、外科の先生として書かれるんじゃない?」
香澄も乗る。
「新郎職場関係者、及川蒼真様」
及川は封筒を見つめたまま、遠い目をした。
「立ち位置、複雑すぎる」
美月は少し考えてから言った。
「肩書きが医師だからね。むしろ、繋がりをつくる絶好の機会になるのでは……と父なら言うと思う」
及川が吹き出した。
「……だな」
「何?」
「父ネタ、何年ぶり?」
美月は少しだけ封筒に目を落とした。
玲奈が身を乗り出す。
「え、どういうこと?」
香澄も美月を見る。
「美月のお父さんって医者なの?」
結婚式に来てもらう以上、いつかは分かることだった。
それでも、自分の口で話すには、まだ少しだけ勇気がいる。
「うん」
玲奈が目を丸くする。
「待って。情報が多い。相手が外科の藤崎先生で、お父さんも医者?」
「うん」
「なんで今まで言わなかったの」
美月は少しだけ困ったように笑った。
「言いたくなかったから」
その一言で、香澄と玲奈は少し黙った。
美月は続ける。
「父のことを知られると、私を見る目が変わる気がしてた。だから、あまり話してこなかった」
玲奈はゆっくり頷いた。
「そっか」
香澄も静かに言う。
「それも、今度ちゃんと聞く」
「うん」
少しだけ真面目になりかけた空気を、及川が小さく咳払いして戻した。
「ちなみに、俺はだいぶ前に聞いたけど」
玲奈が冷たい目で及川を見る。
「今それ言う?」
香澄も頷いた。
「やっぱり腹立つ」
「理不尽だな」
「それとこれとは別」
「招待状もらった直後なのに」
「招待状は大事。及川は腹立つ」
「扱いの差がすごいな」
美月は思わず笑った。
場が、また軽く戻っていく。
その軽さに、美月は救われた。
重く受け止めすぎない。
でも、流しすぎもしない。
香澄と玲奈は、いつもそうだった。
だからきっと、言えたのだと思う。
「ほら、及川も来たし、もう一回乾杯」
玲奈がグラスを持ち上げた。
及川が眉を上げる。
「俺の歓迎?」
「違う」
香澄が即答する。
「美月がちゃんと名前を言えた記念」
玲奈も続けた。
「あと、及川が正式に招待状を受け取った記念」
「そこは入れてくれるんだ」
「一応ね」
「扱いが雑」
美月は笑った。
「ありがとう」
四つのグラスが重なった。
美月は少しずつ飲んだ。
前回ほどではない。
自分でも、ちゃんと抑えているつもりだった。
けれど、名前を言えた安心は、思っていたより大きかった。
香澄と玲奈が受け止めてくれた。
及川にも招待状を渡せた。
藤崎理久という名前が、もう自分だけの秘密ではなくなった。
祝ってくれる人たちの前に、ようやく出せた名前だった。
香澄と玲奈は、もう気づいている。
テーブルの上には、三人分のグラス。
小さな前菜の皿。
そして、美月が膝の上で両手を添えている、白い封筒。
「美月」
玲奈が、少しだけ声を落とした。
「それ、もしかして」
美月は小さく頷いた。
「うん」
香澄が、まっすぐ美月を見る。
「招待状?」
「うん」
二人の表情が、少し変わった。
前に、結婚することは伝えた。
10Aを離れるかもしれないことも話した。
けれど、招待状は違う。
紙になった瞬間、それはもう、ただの報告ではなくなる。
「……本当に、結婚するんだね」
玲奈が、ぽつりと言った。
美月は小さく頷いた。
「うん」
香澄が静かに息を吐く。
「招待状って、すごいね。急に現実になる」
「うん」
美月は、封筒の端を指でなぞった。
中には、もう名前が印刷されている。
その名前を見る前に、自分の口で伝えたかった。
美月は、一度息を吸った。
「香澄、玲奈」
二人が顔を上げる。
「相手の名前、今日言おうと思って」
空気が、少しだけ変わった。
玲奈は真面目な顔で頷いた。
「うん」
香澄も、すぐに言った。
「聞く」
「院内には、まだ広めないでほしい」
「もちろん」
「言わないよ」
返事は早かった。
その早さに、美月の胸が少しだけ温かくなる。
美月は、逃げずに顔を上げた。
「相手は、外科の藤崎先生です」
一瞬、時間が止まった。
香澄も玲奈も、動かなかった。
数秒後。
玲奈が、ゆっくり口を開いた。
「……外科の藤崎先生?」
香澄も、同じように呟く。
「あの、藤崎先生?」
美月は小さく頷いた。
「うん」
沈黙。
次の瞬間、玲奈が両手で口元を押さえた。
「待って」
香澄も目を見開いている。
「え、待って。美月」
「うん」
「王子?」
美月は顔を赤くした。
「その呼び方、やめて」
玲奈が椅子にもたれた。
「いや、でも、藤崎先生でしょ。院内の王子でしょ」
「院内の王子って何」
香澄が真顔で頷く。
「否定はできない」
「してほしいんだけど」
玲奈がにやっとした。
「じゃあ、りくさん?」
美月は一瞬で顔を赤くした。
香澄がすぐに指さす。
「今の反応」
玲奈も笑う。
「美月、分かりやすすぎ」
「やめて」
美月は、封筒を二人の前に差し出した。
「これ、受け取ってほしい」
香澄と玲奈は、少しだけ表情を改めた。
それぞれ封筒を手に取る。
封を開け、中の招待状を取り出した。
二人の視線が、紙の上で止まる。
藤崎理久。
綾瀬美月。
名前が、並んでいる。
その瞬間、玲奈の目元が少しだけ緩んだ。
「……本当に、並んでる」
香澄も、指先で文字をなぞるように見つめた。
「すごい。美月、本当に結婚するんだね」
「うん」
「前に聞いた時より、今の方が実感ある」
「うん」
美月は、少しだけ笑った。
「私も」
玲奈は招待状を大事そうに封筒へ戻した。
「絶対行く」
香澄も頷く。
「美月のドレス、絶対見る」
「そこなの?」
「そこも大事」
玲奈がグラスを持ち上げた。
「じゃあ、改めて乾杯しよう」
香澄もグラスを持つ。
「美月がちゃんと名前を言えたことに」
玲奈が続ける。
「それから、藤崎先生と美月の結婚に」
「まだちょっと恥ずかしい」
「恥ずかしがるところも込みで、乾杯」
三人のグラスが軽く触れた。
美月は少しだけ飲んだ。
喉を通った冷たいお酒に、胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。
「言えて、ほっとした」
美月がそう言うと、香澄と玲奈は柔らかく笑った。
「言ってくれて嬉しい」
香澄も頷く。
「ちゃんと聞けてよかった」
その言葉に、美月は泣きそうになった。
けれど、泣く前に、玲奈が明るく言った。
「ほら、美月、今日は飲もう」
「飲ませすぎないでよ」
香澄がすぐに釘を刺す。
「分かってる。前回の反省はある」
「本当に?」
「少しは」
「少しなんだ」
美月は思わず笑った。
及川は、仕事が終わり次第合流することになっていた。
その時、店の入口の方から声がした。
「何の反省?」
及川だった。
「お疲れ」
「及川くん」
美月が顔を上げる。
玲奈が手を振った。
「来た来た」
香澄も当然のように席を詰める。
「遅い」
「呼ばれて来たのに、歓迎ムード薄くない?」
及川は呆れながら席についた。
「で、俺にも招待状くれるって話だったけど」
美月はバッグからもう一通、白い封筒を取り出した。
「うん。及川くんにも、渡したくて」
美月が封筒を差し出す。
及川はそれを見て、一瞬だけ軽口を止めた。
「……本当にくれるんだ」
「うん」
及川は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
玲奈がすぐに言う。
「丁寧」
香澄も続く。
「珍しい」
「招待状くらい丁寧に受け取るわ」
及川は封筒を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
「俺、綾瀬枠で呼ばれてるんだよね?」
美月は頷いた。
「気持ちとしては」
「気持ちとしては?」
「席は、たぶん外科の先生たちと一緒になると思う」
及川は眉を上げた。
「心は新婦側なのに、席は新郎側?」
「肩書きが医師だから」
「肩書き、強いな」
玲奈が笑った。
「席次表に、外科の先生として書かれるんじゃない?」
香澄も乗る。
「新郎職場関係者、及川蒼真様」
及川は封筒を見つめたまま、遠い目をした。
「立ち位置、複雑すぎる」
美月は少し考えてから言った。
「肩書きが医師だからね。むしろ、繋がりをつくる絶好の機会になるのでは……と父なら言うと思う」
及川が吹き出した。
「……だな」
「何?」
「父ネタ、何年ぶり?」
美月は少しだけ封筒に目を落とした。
玲奈が身を乗り出す。
「え、どういうこと?」
香澄も美月を見る。
「美月のお父さんって医者なの?」
結婚式に来てもらう以上、いつかは分かることだった。
それでも、自分の口で話すには、まだ少しだけ勇気がいる。
「うん」
玲奈が目を丸くする。
「待って。情報が多い。相手が外科の藤崎先生で、お父さんも医者?」
「うん」
「なんで今まで言わなかったの」
美月は少しだけ困ったように笑った。
「言いたくなかったから」
その一言で、香澄と玲奈は少し黙った。
美月は続ける。
「父のことを知られると、私を見る目が変わる気がしてた。だから、あまり話してこなかった」
玲奈はゆっくり頷いた。
「そっか」
香澄も静かに言う。
「それも、今度ちゃんと聞く」
「うん」
少しだけ真面目になりかけた空気を、及川が小さく咳払いして戻した。
「ちなみに、俺はだいぶ前に聞いたけど」
玲奈が冷たい目で及川を見る。
「今それ言う?」
香澄も頷いた。
「やっぱり腹立つ」
「理不尽だな」
「それとこれとは別」
「招待状もらった直後なのに」
「招待状は大事。及川は腹立つ」
「扱いの差がすごいな」
美月は思わず笑った。
場が、また軽く戻っていく。
その軽さに、美月は救われた。
重く受け止めすぎない。
でも、流しすぎもしない。
香澄と玲奈は、いつもそうだった。
だからきっと、言えたのだと思う。
「ほら、及川も来たし、もう一回乾杯」
玲奈がグラスを持ち上げた。
及川が眉を上げる。
「俺の歓迎?」
「違う」
香澄が即答する。
「美月がちゃんと名前を言えた記念」
玲奈も続けた。
「あと、及川が正式に招待状を受け取った記念」
「そこは入れてくれるんだ」
「一応ね」
「扱いが雑」
美月は笑った。
「ありがとう」
四つのグラスが重なった。
美月は少しずつ飲んだ。
前回ほどではない。
自分でも、ちゃんと抑えているつもりだった。
けれど、名前を言えた安心は、思っていたより大きかった。
香澄と玲奈が受け止めてくれた。
及川にも招待状を渡せた。
藤崎理久という名前が、もう自分だけの秘密ではなくなった。
祝ってくれる人たちの前に、ようやく出せた名前だった。
