光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

理久の留学の話が、正式に動き出した。

行き先。

時期。

受け入れ先との手続き。

それまで「まだ決まっていない」と言っていたものが、少しずつ現実の形を持ちはじめていた。

ひとつ決まれば、次に動くものがある。

入籍。

式。

渡航の準備。

仕事。

住む場所。

生活。

理久と結婚することは、自分で選んだ。

理久の隣に立ちたいと思った。

それでも、理久の世界へ足を踏み入れることは、やはり不安でもあった。

藤崎家。

格式のある家。

きちんとした場。

親戚付き合い。

節目ごとの挨拶。

理久の家に初めて行った日、佳乃は温かく迎えてくれた。

玲子も、美月を試すようなことはしなかった。

それでも、美月は感じていた。

育ってきた場所が違う。

当たり前に身についているものが違う。

理久が自然に立っている場所に、自分は本当に立てるのだろうか。

それを理久に話せば、きっと受け止めてくれる。

でも、それだけでは足りない気がした。

理久の隣に立ちたいのなら。

理久の世界に入ることを選ぶのなら。

自分から、そこへ向かって歩かなければいけない。

美月は、以前佳乃が言ってくれた言葉を思い出した。

いつでもいらしてね。

その言葉に背中を押されるように、美月はスマートフォンを手に取った。

お時間のある時に、一度お会いできませんか。

理久さんには、まだ話していません。

ご相談したいことがあります。

送信してから、胸が少し早く鳴った。

数分後、返信が来た。

もちろんです。

一人でいらっしゃい。

お昼をご一緒しましょう。

その短い文面を見た瞬間、美月は少しだけ泣きそうになった。

* * *

佳乃は、美月を温かく迎えてくれた。

藤崎家の玄関に立つと、やはり背筋が伸びる。

整えられた花。

余計なもののない廊下。

静かな空気。

けれど、佳乃の表情は柔らかかった。

「来てくださって嬉しいわ」

「お時間をいただいて、すみません」

「いいのよ。理久には?」

「話していません」

佳乃は少しだけ目を細めた。

「そう」

責めるような響きはなかった。

庭に面した部屋に通され、美月は用意されたお茶の前で、少しだけ背筋を伸ばした。

佳乃は急かさなかった。

美月が話し始めるまで、静かに待ってくれていた。

「理久さんの留学の話が、正式に進むことになりました」

「聞いています」

「入籍も、式も、思っていたより早く進めることになりそうです」

「忙しくなるわね」

「はい」

美月は膝の上の手を握った。

「私、怖いんです」

言葉にした瞬間、胸の奥にあったものが形を持った。

「理久さんと結婚することも、留学についていくことも、自分で決めました。後悔はしていません」

佳乃は静かに頷いた。

「でも、理久さんの家のことや、親戚付き合いのこと、改まった場での振る舞いのことを考えると……知らないことばかりで」

美月は一度、言葉を止めた。

「理久さんに恥をかかせたくない、という気持ちもあります。でも、それ以上に、何も分からないまま小さくなりたくないんです」

佳乃は湯呑みに手を添えたまま、美月を見ていた。

「だから、会いに来てくれたのね」

美月は小さく頷いた。

「教えていただきたいんです」

佳乃の表情が、ほんの少し和らいだ。

「ええ」

その一言だけで、美月の肩から少し力が抜けた。

「一度で全部覚えようとしなくていいのよ」

「はい」

「必要なことは、その時々で一緒に確認しましょう。着物のことも、席での振る舞いも、親戚へのご挨拶も」

佳乃は静かに笑った。

「知らないことは、恥ずかしいことではないわ」

美月は顔を上げた。

「知らないまま怖がるより、知ろうとする方がずっといい」

その言葉が、胸に落ちた。

美月は深く頭を下げた。

「よろしくお願いいたします」

「こちらこそ」

佳乃の声は温かかった。

「理久の隣に立つ人を、私も少しずつ知っていきたいもの」

その言葉で、美月の胸の奥にあった緊張が、静かにほどけていった。

* * *

そして、今。

美月は再び、父の前に座っていた。

母は来ていない。

父と二人だけで会うのは、久しぶりだった。

場所は、ホテルの静かなラウンジだった。

父は相変わらず、圧が強い。

隙のないスーツ姿。

鋭い目。

無駄のない所作。

ただ座っているだけなのに、周囲の空気が少し引き締まる。

昔の美月なら、この空気だけで息が詰まった。

でも、今日は違う。

怖くないわけではない。

けれど、逃げずに前に進もうと思っていた。

父が先に口を開いた。

「留学の話が決まったそうだな」

「うん」

「藤崎先生から、簡単には聞いている。詳しい話は、明日の学会のあとに本人から聞くことになっている」

「うん」

「今日は、お前の話を聞く」

その言い方に、美月は少しだけ背筋を伸ばした。

「理久の留学手続きの関係もあって、早めに入籍することにした」

父は黙って聞いている。

「入籍は四月。式は六月に挙げる予定」

「急だな」

「うん」

「だが、手続き上はその方がいいということか」

「うん。理久とも話して、そうすることにした」

父は少しだけ頷いた。

「仕事はどうする」

来ると思っていた質問だった。

美月は一度、息を吸う。

「師長には相談している。休職も含めて確認したけど、今は退職する方向で考えている」

父の表情は変わらなかった。

「病院を離れるのか」

「うん」

口にすると、胸の奥が少し痛んだ。

でも、その痛みから逃げたくはなかった。

「逃げたわけじゃないよ」

父は何も言わない。

美月は続けた。

「今いる10A病棟は、大事な場所。新人の時から、ずっと育ててもらった場所だから。辞めるって決めるのは、簡単じゃない」

「そうだろうな」

「でも、せっかく海外に行く機会があるなら、語学を身につけたいと思ってる」

父の目が、少しだけ動いた。

「語学か」

「うん。それと、教養も身につけたい」

「教養」

「理久の隣にいても、自分らしくいられるようになりたい」

父は黙っていた。

美月は膝の上の手を握る。

「理久の家に合わせるためだけじゃない。知らない場所で、小さくならないようにしたいの。分からないことを分からないまま怖がるんじゃなくて、知って、覚えて、自分で立てるようになりたい」

父は静かに美月を見ている。

「だから、海外に行く前に、理久のお母様に、いろいろ教えていただこうと思ってる」

「藤崎先生のお母様に?」

「うん。もうお願いした」

父の眉が、わずかに上がった。

「何を教わる」

「着付け。改まった席での所作。食事の場での振る舞い。親戚付き合いのことも、節目の挨拶のことも」

父は、しばらく黙っていた。

怒っているのか。

呆れているのか。

試しているのか。

美月には分からなかった。

けれど、父はやがて静かに頷いた。

「そうか」

それだけだった。

でも、その声に否定はなかった。

「お前がそう考えたなら、それでいい」

美月は少しだけ目を見開いた。

父は水をひと口飲み、窓の外へ視線を向けた。

「懐かしいな」

「何が?」

「小さかったお前を連れて、アメリカで過ごしたことを思い出す」

美月は瞬きをした。

父の口から、そんな言葉が出ると思わなかった。

「覚えてるの?」

「お前はあまり覚えていないだろう」

「少しだけ」

「そうか」

父は静かに言った。

「向こうでの生活は、楽なことばかりではなかった。言葉も違う。文化も違う。日本で当たり前だったことが、当たり前ではなくなる」

「うん」

「だが、悪いことばかりでもなかった」

美月は黙って父を見た。

「お前は、向こうの公園でよく走っていた」

「私が?」

「ああ。怖がりのくせに、知らない子どもの輪に入っていこうとしていた。言葉は通じていなかったがな」

美月は思わず小さく笑った。

「それ、覚えてない」

「そうだろうな」

父の声が、少しだけ柔らかくなる。

「でも、そういうところは昔からあった」

「そういうところ?」

「怖がるくせに、結局は行くところだ」

美月は何も言えなかった。

父の言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

「お父さん」

「何だ」

「私、ちゃんと行ってくる」

父は美月を見た。

「理久についていくだけじゃなくて、自分で行く。自分で見て、自分で学んでくる」

父はしばらく黙っていた。

そして、静かに頷いた。

「ああ」

それ以上、踏み込まなかった。

認めてくれたのか、許してくれたのかは、分からない。

でも、少なくとも、拒まれてはいなかった。

父と向き合う時間が、昔ほど息苦しいものではなくなっていた。

* * *

帰宅すると、理久がいた。

リビングの明かりがついている。

理久はソファに座り、書類に目を通していた。

美月がドアを開けると、すぐに顔を上げる。

「おかえり」

「ただいま」

理久は書類を閉じた。

「お父さんとの食事、どうだった?」

「相変わらず圧は強かった」

理久が少し笑う。

「想像できる」

「でも、前みたいに怖いだけじゃなかった」

「そっか」

美月は理久の隣に座った。

「自分の思いは、伝えられたと思う」

「よかったね」

「うん」

理久は、それ以上すぐには聞かなかった。

美月が話すのを待ってくれている。

その距離が、ありがたかった。

「明日は、お父さんと食事するんでしょ?」

「うん」

「かなり細かく聞かれると思う」

「だろうね」

「緊張する?」

「するよ」

美月は少し笑った。

「医者として話すのに?」

理久は少し考えた。

「医者として話す方が、まだ楽かもしれない」

「そうなの?」

「うん」

理久は小さく笑った。

「美月の婚約者として会う方が、緊張する」

その言い方が少し可笑しくて、美月も笑った。

「そうかもね」

「笑うところ?」

「うん。少し」

理久は苦笑した。

きっと、明日の食事は留学の話だけでは終わらない。

披露宴の招待客。

席の配置。

親戚への挨拶。

留学前の段取り。

父はきっと、必要なことを全部確認する。

細かく。

抜かりなく。

けれど、それはもう、美月がひとりで抱えるものではなかった。

父には父の役割がある。

理久には理久の役割がある。

なら、自分にも、するべきことがある。

知らないことを知ること。

分からないことから、逃げないこと。

「お母様に、会いに行ったの」

理久の目が少し動いた。

「母さんに?」

「うん。理久には言ってなかったけど」

「そう」

責める声ではなかった。

「不安だったの。理久の世界に入っていくことが」

「うん」

「でも、それを理久に言って、大丈夫って言ってもらうだけじゃ、足りない気がした」

理久は黙って聞いている。

「だから、お母様に会いに行った」

理久は少しだけ笑った。

「母さん、喜んだでしょ」

「そうかな」

「うん。たぶん、すごく」

理久は、美月の手にそっと自分の手を重ねた。

「美月」

「うん」

「ありがとう」

「何が?」

「俺の世界を、知ろうとしてくれて」

美月は胸の奥が少し熱くなった。

「理久のためだけじゃないよ」

「うん」

「私のため」

理久は、その答えを少し嬉しそうに受け止めた。

「それでいいと思う」

テーブルの上には、式場から届いた資料が置かれている。

六月の式。

四月の入籍。

留学。

渡航。

どれもまだ少し遠いようで、もう近い。

招待状の校正は、もう終わっていた。

あとは印刷され、白い封筒に入って届くのを待つだけだった。

美月は、その資料の端に指先で触れた。

「招待状が届いたら」

「うん」

「香澄と玲奈にも、渡そうと思う」

理久は静かに頷いた。

「うん」

「その時には、もう名前も言う」

藤崎理久。

自分が選んだ人の名前を。

ずっと伏せてきた名前を。

今度は、祝ってくれた二人にちゃんと伝える。

理久は、美月の手を少しだけ握った。

「怖い?」

美月は少し考えた。

怖い。

でも、それだけではない。

「怖いけど」

「うん」

「言いたい」

理久は頷いた。

「じゃあ、言おう」

その言葉は、いつも通り静かだった。

でも、美月には十分だった。

知らないなら、知ればいい。

分からないなら、少しずつ分かればいい。

その言葉を、もう一度思い出す。

白い封筒が手元に届いたら、香澄と玲奈にも渡そう。

その時には、もう隠さない。

美月は理久の隣で、静かに息を吐いた。

前に進む支度は、少しずつ整いはじめていた。