一本先の角に、タクシーが停まっていた。
その横に、藤崎先生が立っている。
医局帰りなのだろう。
シャツにジャケット。
夜の街灯の下でも、相変わらず整っている。
及川は、思わず言いそうになった。
王子、回収お願いします。
もちろん、言わなかった。
「先生」
藤崎先生は綾瀬を見た。
その瞬間、ほんの少しだけ表情が変わった。
外から見れば、ほとんど分からない程度。
けれど、及川には分かった。
心配と、安堵と、少しの驚き。
「美月」
藤崎先生が静かに呼ぶ。
綾瀬は顔を上げた。
「りく」
及川は反射的に周囲を見た。
誰もいない。
よかった。
本当に、よかった。
藤崎先生は落ち着いた声で言った。
「迎えに来たよ」
「うん」
綾瀬はふわっと笑った。
及川は心の中で叫んだ。
先生、見ました?
これです。
これが今夜の綾瀬です。
藤崎先生は綾瀬の様子を見て、少しだけ目を細めた。
「結構飲んだね」
「飲んでない」
及川が即座に言う。
「飲んでます」
綾瀬が及川を見る。
「飲んでないよね?」
「飲んでます」
「及川くん、冷たい」
「冷静なだけです」
藤崎先生が小さく笑った。
「及川、ありがとう」
「いや、ほんと、大変でした」
及川は、綾瀬のバッグを差し出した。
「足元は大丈夫です。でも、気が緩んでます」
「うん」
藤崎先生はバッグを受け取り、綾瀬の肩にかかったストールを直した。
その手つきが自然すぎて、及川は少しだけ目を逸らした。
見てはいけないものを見ている気がした。
「美月、乗れる?」
藤崎先生が聞く。
「乗れる」
「足元、気をつけて」
「うん」
藤崎先生は綾瀬の背にそっと手を添え、タクシーへ促した。
綾瀬は素直に乗り込む。
藤崎先生がその後に続こうとした時、及川が小声で言った。
「先生」
「うん」
「店には戻ります。俺が急に消えると、逆に変なので」
藤崎先生はすぐに意味を察したように頷いた。
「分かった」
「中のことは、適当にごまかしておきます」
「任せる」
その一言で、及川は少しだけ肩の力を抜いた。
「あと」
「うん」
「高いやつ、覚えてます?」
藤崎先生がふっと笑った。
「覚えてる」
「かなり頑張りました」
「分かってる。今度ちゃんとご馳走する」
「本当にお願いします」
「ありがとう、及川」
その声があまりに素直で、及川は少しだけ困った。
真正面から礼を言われると、どうにも調子が狂う。
「綾瀬をお願いします」
「分かった」
藤崎先生はタクシーに乗り込んだ。
ドアが閉まる。
タクシーがゆっくり走り出す。
及川はその後ろ姿を見送って、しばらくその場に立っていた。
そして、どっと疲れた。
「……何だったんだ」
思わず呟く。
綾瀬の知られざる一面を見てしまった。
ふわっと笑う。
素直に頷く。
「優しい」なんて言う。
しかも、藤崎先生には自然に「りく」と呼ぶ。
及川は夜空を見上げた。
「いや、きついって……」
色々な意味で。
とにかく任務は完了した。
あとは戻るだけだ。
自分のグラスは、まだほとんど減っていない。
それなのに、もう一仕事終えたような疲労感だけがある。
及川は店へ向かって歩き出した。
* * *
タクシーの中で、美月は理久の隣に座っていた。
車内は静かだった。
窓の外を、夜の街の灯りが流れていく。
理久は、美月の肩にかかるストールをもう一度整えた。
「寒くない?」
「うん」
「気持ち悪くない?」
「うん」
「水、飲む?」
「あとで」
美月は、少しだけ理久の方へ身体を寄せた。
理久はそのまま受け止める。
及川の言っていた通りだった。
足取りはしっかりしている。
声も、ちゃんとしている。
けれど、普段の美月とは違う。
表情が柔らかい。
返事が素直すぎる。
普段なら必ず残している距離が、今だけ少しほどけている。
これは、確かに危ない。
理久は小さく息を吐いた。
及川には、ちゃんと礼をしなければいけない。
「りく」
「うん」
「今日ね」
「うん」
「香澄と玲奈に、結婚のこと話した」
「そっか」
「10Aを離れるかもしれないことも、話した」
「うん」
「言えた」
「うん」
「相手の名前は、まだ言ってない」
「うん」
「でも、祝ってくれた」
美月は少し嬉しそうに笑った。
その顔を見て、理久の胸が静かに温かくなる。
「よかったね」
「うん」
「怖かった?」
「うん」
「でも、言えた?」
「言えた」
理久は、美月の手にそっと触れた。
「美月」
「うん」
「頑張ったね」
美月は少しだけ目を開いた。
「頑張った?」
「うん。柏木さんと三浦さんに話すの、怖かったでしょ」
「怖かった」
「でも、ちゃんと話した」
「うん」
美月はぼんやり理久を見る。
それから、ふわっと笑った。
「りく、優しい」
理久は一瞬、動きを止めた。
これは。
本当に、危ない。
理久がこれを見てそう思うのだから、及川があの場で焦ったのも当然だった。
美月は、隣で小さく息を吐く。
「みんな、優しかった」
「うん」
「香澄も、玲奈も」
「うん」
「及川くんも、なんか、守ってくれた」
理久は少し笑った。
「そうみたいだね」
「高いやつって言ってた」
理久は目を細める。
「聞いてたんだ」
「聞いてた」
「じゃあ、そうする」
美月は満足そうに、小さく頷いた。
それから、目を閉じる。
完全に眠ったわけではない。
けれど、理久の肩に少しだけ頭を預けた。
理久は、美月の頭がずれないようにそっと支えながら、窓の外を見た。
香澄と玲奈に話せたこと。
10Aを離れるかもしれないこと。
結婚のこと。
留学のこと。
その全部が、少しずつ現実になっていく。
美月は、その一つ一つを自分の足で進もうとしている。
怖さも、寂しさも抱えながら。
それでも、ちゃんと前へ。
理久は、美月の手を包んだ。
「お疲れ様」
小さく呟く。
美月は目を閉じたまま、かすかに頷いた。
「高いやつ」
理久は思わず笑った。
「うん。高いやつにしよう」
車は、夜の街を静かに進んでいった。
その横に、藤崎先生が立っている。
医局帰りなのだろう。
シャツにジャケット。
夜の街灯の下でも、相変わらず整っている。
及川は、思わず言いそうになった。
王子、回収お願いします。
もちろん、言わなかった。
「先生」
藤崎先生は綾瀬を見た。
その瞬間、ほんの少しだけ表情が変わった。
外から見れば、ほとんど分からない程度。
けれど、及川には分かった。
心配と、安堵と、少しの驚き。
「美月」
藤崎先生が静かに呼ぶ。
綾瀬は顔を上げた。
「りく」
及川は反射的に周囲を見た。
誰もいない。
よかった。
本当に、よかった。
藤崎先生は落ち着いた声で言った。
「迎えに来たよ」
「うん」
綾瀬はふわっと笑った。
及川は心の中で叫んだ。
先生、見ました?
これです。
これが今夜の綾瀬です。
藤崎先生は綾瀬の様子を見て、少しだけ目を細めた。
「結構飲んだね」
「飲んでない」
及川が即座に言う。
「飲んでます」
綾瀬が及川を見る。
「飲んでないよね?」
「飲んでます」
「及川くん、冷たい」
「冷静なだけです」
藤崎先生が小さく笑った。
「及川、ありがとう」
「いや、ほんと、大変でした」
及川は、綾瀬のバッグを差し出した。
「足元は大丈夫です。でも、気が緩んでます」
「うん」
藤崎先生はバッグを受け取り、綾瀬の肩にかかったストールを直した。
その手つきが自然すぎて、及川は少しだけ目を逸らした。
見てはいけないものを見ている気がした。
「美月、乗れる?」
藤崎先生が聞く。
「乗れる」
「足元、気をつけて」
「うん」
藤崎先生は綾瀬の背にそっと手を添え、タクシーへ促した。
綾瀬は素直に乗り込む。
藤崎先生がその後に続こうとした時、及川が小声で言った。
「先生」
「うん」
「店には戻ります。俺が急に消えると、逆に変なので」
藤崎先生はすぐに意味を察したように頷いた。
「分かった」
「中のことは、適当にごまかしておきます」
「任せる」
その一言で、及川は少しだけ肩の力を抜いた。
「あと」
「うん」
「高いやつ、覚えてます?」
藤崎先生がふっと笑った。
「覚えてる」
「かなり頑張りました」
「分かってる。今度ちゃんとご馳走する」
「本当にお願いします」
「ありがとう、及川」
その声があまりに素直で、及川は少しだけ困った。
真正面から礼を言われると、どうにも調子が狂う。
「綾瀬をお願いします」
「分かった」
藤崎先生はタクシーに乗り込んだ。
ドアが閉まる。
タクシーがゆっくり走り出す。
及川はその後ろ姿を見送って、しばらくその場に立っていた。
そして、どっと疲れた。
「……何だったんだ」
思わず呟く。
綾瀬の知られざる一面を見てしまった。
ふわっと笑う。
素直に頷く。
「優しい」なんて言う。
しかも、藤崎先生には自然に「りく」と呼ぶ。
及川は夜空を見上げた。
「いや、きついって……」
色々な意味で。
とにかく任務は完了した。
あとは戻るだけだ。
自分のグラスは、まだほとんど減っていない。
それなのに、もう一仕事終えたような疲労感だけがある。
及川は店へ向かって歩き出した。
* * *
タクシーの中で、美月は理久の隣に座っていた。
車内は静かだった。
窓の外を、夜の街の灯りが流れていく。
理久は、美月の肩にかかるストールをもう一度整えた。
「寒くない?」
「うん」
「気持ち悪くない?」
「うん」
「水、飲む?」
「あとで」
美月は、少しだけ理久の方へ身体を寄せた。
理久はそのまま受け止める。
及川の言っていた通りだった。
足取りはしっかりしている。
声も、ちゃんとしている。
けれど、普段の美月とは違う。
表情が柔らかい。
返事が素直すぎる。
普段なら必ず残している距離が、今だけ少しほどけている。
これは、確かに危ない。
理久は小さく息を吐いた。
及川には、ちゃんと礼をしなければいけない。
「りく」
「うん」
「今日ね」
「うん」
「香澄と玲奈に、結婚のこと話した」
「そっか」
「10Aを離れるかもしれないことも、話した」
「うん」
「言えた」
「うん」
「相手の名前は、まだ言ってない」
「うん」
「でも、祝ってくれた」
美月は少し嬉しそうに笑った。
その顔を見て、理久の胸が静かに温かくなる。
「よかったね」
「うん」
「怖かった?」
「うん」
「でも、言えた?」
「言えた」
理久は、美月の手にそっと触れた。
「美月」
「うん」
「頑張ったね」
美月は少しだけ目を開いた。
「頑張った?」
「うん。柏木さんと三浦さんに話すの、怖かったでしょ」
「怖かった」
「でも、ちゃんと話した」
「うん」
美月はぼんやり理久を見る。
それから、ふわっと笑った。
「りく、優しい」
理久は一瞬、動きを止めた。
これは。
本当に、危ない。
理久がこれを見てそう思うのだから、及川があの場で焦ったのも当然だった。
美月は、隣で小さく息を吐く。
「みんな、優しかった」
「うん」
「香澄も、玲奈も」
「うん」
「及川くんも、なんか、守ってくれた」
理久は少し笑った。
「そうみたいだね」
「高いやつって言ってた」
理久は目を細める。
「聞いてたんだ」
「聞いてた」
「じゃあ、そうする」
美月は満足そうに、小さく頷いた。
それから、目を閉じる。
完全に眠ったわけではない。
けれど、理久の肩に少しだけ頭を預けた。
理久は、美月の頭がずれないようにそっと支えながら、窓の外を見た。
香澄と玲奈に話せたこと。
10Aを離れるかもしれないこと。
結婚のこと。
留学のこと。
その全部が、少しずつ現実になっていく。
美月は、その一つ一つを自分の足で進もうとしている。
怖さも、寂しさも抱えながら。
それでも、ちゃんと前へ。
理久は、美月の手を包んだ。
「お疲れ様」
小さく呟く。
美月は目を閉じたまま、かすかに頷いた。
「高いやつ」
理久は思わず笑った。
「うん。高いやつにしよう」
車は、夜の街を静かに進んでいった。
