光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

及川は、水のグラスを両手で持っている綾瀬を見ながら、スマートフォンを握りしめた。

倒れそうなほど酔っているわけではない。

会話は成立している。

顔色も悪くない。

声を荒げるわけでも、眠そうにしているわけでもない。

だから、柏木も三浦も笑っている。

外科レジデントたちも、珍しいものを見たように盛り上がっている。

けれど、及川には分かる。

問題は、そこではない。

普段の綾瀬美月なら、医師との距離をこんなに詰めない。

日本酒を勧められて、ふわっと笑ったりしない。

水を渡されて、素直に両手で受け取ったりしない。

酔うと、綾瀬はこうなるのか。

騒ぐわけではない。

泣くわけでもない。

ただ、普段なら必ず残している距離が、少しだけ消える。

それが、いちばん危ない。

「綾瀬」

及川が声をかけると、綾瀬は素直に顔を上げた。

「はい」

その返事だけで、及川は少し頭を抱えたくなった。

素直すぎる。

「一回、お手洗い行ってこい」

「うん。行ってくる」

綾瀬はこくんと頷いた。

普段なら、絶対にこんな返事はしない。

それが、今は素直に立ち上がる。

柏木も少し腰を浮かせた。

「美月、一緒に行こうか?」

綾瀬は首を振る。

「大丈夫」

そのまま通路へ出た。

足取りは、思ったよりしっかりしていた。

少なくとも、誰かに支えられなければ歩けない状態ではない。

だから柏木も三浦も、それ以上は止めなかった。

及川はすぐに席を立つ。

「俺も電話あるから、廊下出るわ」

柏木が目を細める。

「及川先生が?」

「何だよ、その顔」

「珍しくちゃんとしてるなと思って」

「俺はいつもちゃんとしてる」

三浦が笑った。

「どうでしょう」

「三浦まで評価厳しいな」

場が笑う。

及川は、その笑いに紛れるように店の奥へ向かった。

綾瀬は通路を歩いていく。

背筋は伸びている。

歩幅も乱れていない。

酔っていると断言するには、あまりにもちゃんとしている。

けれど、振り返った時の表情が柔らかい。

「及川くん、電話?」

「そう」

「仕事?」

「仕事じゃない」

「そっか」

綾瀬はそれだけ言って、また前を向いた。

その素直さが怖い。

本当に怖い。

綾瀬がお手洗いの方へ曲がったのを確認してから、及川は廊下の隅へ移動した。

スマートフォンを開く。

藤崎先生。

名前を見つけて、一瞬だけためらう。

いや。

ためらっている場合ではない。

及川は発信ボタンを押した。

数コールでつながる。

『及川?』

低く落ち着いた声だった。

及川は声を落とした。

「先生、すみません。緊急です」

『患者?』

即座に声が変わった。

医師の声だった。

及川は慌てて否定する。

「違います。患者じゃないです。綾瀬です」

電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。

『美月?』

その呼び方に、及川は妙に現実を感じた。

そうだよな。

先生にとっては、綾瀬じゃなくて美月なんだよな。

『どうして及川が?』

「中川たちが偶然居合わせたらしくて、合流したみたいです。俺が来た時には、もう一緒に飲んでました」

『中川たち?』

「外科レジデントです。中川、相澤、佐伯」

電話の向こうで、ほんの少しだけ間が空いた。

『……なるほど』

藤崎先生の声は落ち着いていた。

けれど、少しだけ低くなった気がした。

『美月は酔っているの?』

「歩けます。会話もできます。顔色も悪くないです」

『なら、何が緊急なの?』

責めるでもなく、急かすでもない。

だからこそ、及川も要点だけを言った。

「普段の綾瀬じゃないです」

『具体的に』

「笑います」

短い沈黙が落ちた。

「ふわっと笑います。トゲがないです。中川に日本酒を勧められて、普通に笑って返してました」

『……』

「中川たちが、“綾瀬さん可愛い”って盛り上がってます」

また、短い沈黙。

それから藤崎先生が言った。

『場所は』

即答だった。

及川は店の名前と場所を伝える。

「ただ、先生が店に来たらまずいです。相手が先生だとは、柏木さんたちにもまだ言ってないかもしれません。中川たちもいます」

『分かってる。店には入らないよ』

「少し離れたところまで、綾瀬を連れていきます。店には、タクシーに乗せてくるって言って出ます」

『分かった。タクシーで向かう』

「助かります」

『美月は、自分で歩けるんだね』

「歩けます。そこは大丈夫です。でも、気が緩んでます」

『帰り先とか、相手のことを聞かれたら危ない?』

「言うかもしれません。言わないかもしれません。でも、今日の綾瀬は止めにくいです」

『分かった』

藤崎先生の声が少し低くなる。

『及川』

「はい」

『ありがとう』

及川は一瞬、言葉に詰まった。

真正面から礼を言われると、どうにも調子が狂う。

「いや、まだ何もしてないです」

『十分してる』

「じゃあ、あとで高いやつ奢ってください」

『分かった』

即答だった。

及川は思わず目を丸くする。

「え、本当に?」

『本当に』

「限度、確認しません?」

『しなくていいよ』

「先生、そういうところが本当に」

『何?』

「いえ。じゃあ、頑張ります」

『頼む』

電話を切る。

及川は深く息を吐いた。

藤崎先生は来る。

あとは、どうやって自然に綾瀬を店から出すか。

* * *

及川が席に戻ると、綾瀬はすでに戻っていた。

なぜか、柏木と手を取り合って笑っている。

「香澄、救急すごいよね」

「急に褒めてくれるじゃん」

「すごいと思ってる」

「美月、酔うと褒めるタイプだったっけ?」

「違う」

「今めちゃくちゃ褒めてるよ」

三浦が笑っている。

外科レジデントたちも完全に楽しんでいた。

中川はまだ、綾瀬の近くにいる。

危ない。

すぐ回収。

及川は、わざと明るく言った。

「はいはい、綾瀬。今日はもうタクシー乗れ」

綾瀬が顔を上げる。

「……まだ大丈夫」

その声が、いつもより柔らかい。

及川は眉間を押さえたくなった。

「大丈夫かどうかは俺が決める」

「及川くんが決めるの?」

「今だけな」

柏木が笑う。

「及川先生、完全に保護者じゃん」

「保護者だから」

及川は即答した。

「タクシー乗せてくる」

三浦が聞く。

「戻ってくる?」

「戻る。店の前で乗せるだけ」

そこは大事だった。

及川が綾瀬を家まで送るように見えるのは、それはそれでまずい。

あくまで、タクシーに乗せて戻る。

そういう形にしておく必要があった。

中川が手を上げた。

「え、俺、送りますよ」

及川は即座に遮る。

「お前は座ってろ」

「何でだよ」

「危険だから」

「また俺が危険認定されてる」

「今日は特に危険」

相澤が笑う。

「中川、振られてる」

「振られてないだろ」

佐伯が静かに言った。

「たぶん、及川に任せた方がいい」

「佐伯まで?」

「お前、さっきから顔に出すぎ」

中川が黙る。

柏木が綾瀬を見る。

「美月、今日はもう帰ろうか」

三浦も頷く。

「そうだね。明日休みでも、今日はここまで」

「でも、楽しい」

綾瀬が言った。

その声が柔らかくて、場が少しだけ和む。

柏木が困ったように笑った。

「楽しいなら、また飲もう」

「うん」

「今日は帰る」

「うん」

及川は、綾瀬のバッグを持ち上げた。

「綾瀬、立てる?」

「立てる」

綾瀬は普通に立ち上がった。

ふらつかない。

足元はしっかりしている。

けれど、いつもより動きが柔らかい。

「及川くん、私のバッグ」

「持ってやってるんだよ」

「優しい」

及川は固まった。

やめろ。

その顔で言うな。

俺じゃなくて藤崎先生に言え。

外科レジデントたちがまたざわつく。

「及川、照れてる」

「照れてねぇ」

「綾瀬さん、今のは可愛い」

「中川、黙れ」

「何で俺だけ」

「お前が一番危険だから」

柏木と三浦が笑う。

三浦が綾瀬の肩に軽く手を置いた。

「美月、ちゃんと帰ったら連絡して」

「うん」

柏木も言う。

「水飲んで寝るんだよ」

「うん」

「返事だけいいね」

「うん」

及川はもう一度思った。

返事だけが良すぎる。

本当に危ない。

「じゃあ、タクシー乗せてくる」

及川はそう言って、綾瀬を店の外へ促した。

「及川、戻ってこいよ」

相澤が言う。

「戻るって」

及川は振り返らずに返した。

「俺の酒、飲むなよ」

「そこ?」

「そこ大事」

場に笑いが起きる。

その笑いを背中に受けながら、及川は綾瀬を連れて店を出た。

外の空気は、少し冷たかった。

綾瀬が小さく息を吸う。

「寒い」

及川は一瞬、自分の上着に手をかけかけた。

けれど、すぐにやめる。

それは違う。

「羽織るもの、持ってる?」

「バッグにある」

「出していい?」

「うん」

及川は綾瀬のバッグを開け、薄いストールを取り出した。

肩にかける手つきは、少しぎこちない。

「これでいい?」

「うん。ありがとう」

「そういうの、酔ってない時に言え」

「うん」

「返事だけいいな」

「うん」

及川は空を見上げた。

本当に、どうしたんだ。

綾瀬はふらつかない。

段差も自分で越える。

歩道の端にも寄りすぎない。

でも、返事が素直すぎる。

声が柔らかすぎる。

気が緩みすぎている。

「綾瀬、段差」

「うん」

「そこ、右」

「うん」

「バッグ、俺が持ってるから探すな」

「うん」

「返事だけは完璧だな」

「うん」

及川は深く息を吐いた。

一本先の角に、タクシーが停まっていた。

その横に、藤崎先生が立っている。

医局帰りなのだろう。

シャツにジャケット。

夜の街灯の下でも、相変わらず整っている。