及川は席に着いた瞬間、違和感に気づいた。
まず、中川が綾瀬の近くにいる。
近すぎる、というほどではない。
けれど、普段の綾瀬美月なら、自然に一席分は離れる距離だった。
その綾瀬が、逃げていない。
むしろ、冷酒のグラスを持って、中川に笑っている。
「綾瀬さん、日本酒いけるんですね」
中川が言う。
「うん。美味しいですよ」
綾瀬は、ふわっと笑って答えた。
柔らかい。
口調も、表情も柔らかい。
棘がない。
及川は、思わず固まった。
誰だ。
これは誰だ。
曖昧な指示には静かに圧をかけ、医師のミスを淡々と拾い、余計な距離を詰めてくる相手を一刀両断する綾瀬美月ではない。
笑っている。
しかも、ふわっと。
「なあ、及川」
隣に座った相澤が、小声で話しかけてきた。
「綾瀬さんって、普段こんな感じなの? 可愛いんだけど」
及川は、目の前の光景から視線を外せなかった。
「いや……俺もこんな綾瀬は知らない」
本音だった。
綾瀬が安心した相手の前で少し柔らかくなることは知っている。
けれど、ここまでではない。
しかも、相手は柏木と三浦だけではない。
外科レジデントが三人いる。
中川が、綾瀬のグラスを見て言った。
「綾瀬さん、次何飲みます?」
及川の中で、警報が鳴った。
中川が店員を呼ぼうとしている。
しかも、綾瀬は止めない。
小さく首を傾げている。
「次……」
待て。
待て待て待て。
及川は反射的に声を出した。
「中川、席チェンジ」
「え?」
中川が目を丸くする。
「何で?」
「いいから、席チェンジ」
「いや、俺ここがいいんだけど」
「じゃなくて、綾瀬に呑ませるな」
「何でお前が」
中川が不満そうに言う。
及川は答えられない。
言えるわけがない。
綾瀬は、藤崎先生の婚約者だ。
お前らの上司の婚約者だ。
だから近づくな。
酒を勧めるな。
可愛いとか言うな。
そう言いたい。
けれど、言えるわけがない。
それが、歯がゆい。
柏木が、面白そうに及川を見る。
「及川先生、美月の保護者なの?」
及川は即答した。
「ああ、そうだよ。保護者だよ」
綾瀬がこちらを見る。
頬が赤い。
目元が柔らかい。
「及川くん、保護者なの?」
そう言って、笑った。
及川は一瞬、言葉を失った。
やめろ。
その顔で呼ぶな。
本当にやめろ。
中川が隣で小さく言う。
「え、何これ。綾瀬さん、可愛い」
「中川、どいた」
及川は低く言った。
中川が、しぶしぶ席をずれる。
及川は、綾瀬の近くにあった徳利をそっと遠ざけた。
「はいはい、綾瀬、水」
「水?」
「水」
及川は綾瀬の前に水のグラスを置いた。
綾瀬は素直にそれを受け取る。
両手で。
そして、こくこく飲んだ。
及川は心の中で叫んだ。
素直すぎる。
誰だよ。
普段の綾瀬なら、「自分で調整できます」と冷静に返すところだ。
それが今は、言われた通りに水を飲んでいる。
しかも両手で。
外科レジデントたちがざわつく。
「やば」
「普段とのギャップすごい」
「綾瀬さん推しになりそう」
「分かる」
及川は顔を引きつらせた。
分かるな。
推すな。
見るな。
柏木と三浦は、慣れているのだろう。
楽しそうに笑っている。
佐伯も珍しく、少しだけ口元を緩めている。
相澤は完全に面白がっている。
中川は、まだ諦めきれない顔で綾瀬の近くにいる。
けれど、及川だけが違う意味の危機感を持っていた。
綾瀬は酔っている。
それも、いつもの綾瀬なら絶対に見せない顔で。
ただの同僚の飲み会なら、笑って済ませたかもしれない。
けれど今の及川は、ひとつ余計な事情を知っている。
綾瀬を守らなければいけない。
同時に、藤崎先生も守らなければいけない。
二人が守ろうとしている秘密も、守らなければいけない。
「綾瀬さん、次のお酒は何にします?」
中川が、また余計なことを言った。
及川は即座に遮る。
「だから呑ませるな」
「本人に聞いてるんだけど」
「どう見ても酔ってるだろ」
「でも、普段と違って可愛いし」
「中川、その発言アウトだろ」
相澤がツッコミを入れる。
綾瀬は、水のグラスを両手で持ったまま、少しだけ首を傾げた。
「酔ってないけどな。いつもと同じだよね? 香澄」
「美月は普段通り可愛いよ」
「ありがと、香澄」
ふわっと笑う姿は、別人のようだ。
中川が顔を押さえた。
「無理。可愛い」
「中川ストップ」
及川はもう一度、低く言った。
どうしてこうなったんだ。
柏木と三浦は、特に驚く様子もなく笑っている。
初めて見る顔ではない、ということなのだろう。
酔うと、綾瀬はこうなるのか。
あの綾瀬が。
柏木が、綾瀬の顔を覗き込む。
「美月、水飲めてる?」
「飲んでるよ」
「よし」
三浦も笑う。
「美月、顔ゆるい」
「ゆるくない」
「ゆるいよ。今日はかなり」
「そうかな」
「そう」
綾瀬は不思議そうに首を傾げたあと、また水を飲んだ。
及川は少しだけ黙った。
柏木も三浦も、今の綾瀬を止めようとはしていない。
危ないと思っていないというより、このくらいの美月を知っているのだろう。
たぶん、綾瀬は今日、柏木と三浦に何かを話した。
結婚のことか。
10Aを離れるかもしれないことか。
相手の名前まで話したのかは分からない。
けれど、その話を二人に受け止めてもらって、気が緩んでいる。
そう考えれば、この柔らかさにも説明はつく。
それはいい。
すごくいい話だ。
けれど。
だからといって、中川たちの前でこの状態を放置していいわけではない。
「綾瀬」
及川が呼ぶと、綾瀬は素直にこちらを見た。
「何ですか」
「今日はもう日本酒はお終い。水だけね」
「水だけ?」
綾瀬本人は水を飲みながら、何も分かっていない顔をしていた。
それがまた、危ない。
綾瀬は、両手でグラスを持ったまま、ふわっと笑っている。
ヤバい。
かなりヤバい。
これは、緊急案件なんじゃないか。
及川はポケットの中のスマートフォンを握った。
患者ではない。
でも、緊急ではある。
これは、藤崎先生案件だ。
しかも、かなり急ぎの案件だった。
まず、中川が綾瀬の近くにいる。
近すぎる、というほどではない。
けれど、普段の綾瀬美月なら、自然に一席分は離れる距離だった。
その綾瀬が、逃げていない。
むしろ、冷酒のグラスを持って、中川に笑っている。
「綾瀬さん、日本酒いけるんですね」
中川が言う。
「うん。美味しいですよ」
綾瀬は、ふわっと笑って答えた。
柔らかい。
口調も、表情も柔らかい。
棘がない。
及川は、思わず固まった。
誰だ。
これは誰だ。
曖昧な指示には静かに圧をかけ、医師のミスを淡々と拾い、余計な距離を詰めてくる相手を一刀両断する綾瀬美月ではない。
笑っている。
しかも、ふわっと。
「なあ、及川」
隣に座った相澤が、小声で話しかけてきた。
「綾瀬さんって、普段こんな感じなの? 可愛いんだけど」
及川は、目の前の光景から視線を外せなかった。
「いや……俺もこんな綾瀬は知らない」
本音だった。
綾瀬が安心した相手の前で少し柔らかくなることは知っている。
けれど、ここまでではない。
しかも、相手は柏木と三浦だけではない。
外科レジデントが三人いる。
中川が、綾瀬のグラスを見て言った。
「綾瀬さん、次何飲みます?」
及川の中で、警報が鳴った。
中川が店員を呼ぼうとしている。
しかも、綾瀬は止めない。
小さく首を傾げている。
「次……」
待て。
待て待て待て。
及川は反射的に声を出した。
「中川、席チェンジ」
「え?」
中川が目を丸くする。
「何で?」
「いいから、席チェンジ」
「いや、俺ここがいいんだけど」
「じゃなくて、綾瀬に呑ませるな」
「何でお前が」
中川が不満そうに言う。
及川は答えられない。
言えるわけがない。
綾瀬は、藤崎先生の婚約者だ。
お前らの上司の婚約者だ。
だから近づくな。
酒を勧めるな。
可愛いとか言うな。
そう言いたい。
けれど、言えるわけがない。
それが、歯がゆい。
柏木が、面白そうに及川を見る。
「及川先生、美月の保護者なの?」
及川は即答した。
「ああ、そうだよ。保護者だよ」
綾瀬がこちらを見る。
頬が赤い。
目元が柔らかい。
「及川くん、保護者なの?」
そう言って、笑った。
及川は一瞬、言葉を失った。
やめろ。
その顔で呼ぶな。
本当にやめろ。
中川が隣で小さく言う。
「え、何これ。綾瀬さん、可愛い」
「中川、どいた」
及川は低く言った。
中川が、しぶしぶ席をずれる。
及川は、綾瀬の近くにあった徳利をそっと遠ざけた。
「はいはい、綾瀬、水」
「水?」
「水」
及川は綾瀬の前に水のグラスを置いた。
綾瀬は素直にそれを受け取る。
両手で。
そして、こくこく飲んだ。
及川は心の中で叫んだ。
素直すぎる。
誰だよ。
普段の綾瀬なら、「自分で調整できます」と冷静に返すところだ。
それが今は、言われた通りに水を飲んでいる。
しかも両手で。
外科レジデントたちがざわつく。
「やば」
「普段とのギャップすごい」
「綾瀬さん推しになりそう」
「分かる」
及川は顔を引きつらせた。
分かるな。
推すな。
見るな。
柏木と三浦は、慣れているのだろう。
楽しそうに笑っている。
佐伯も珍しく、少しだけ口元を緩めている。
相澤は完全に面白がっている。
中川は、まだ諦めきれない顔で綾瀬の近くにいる。
けれど、及川だけが違う意味の危機感を持っていた。
綾瀬は酔っている。
それも、いつもの綾瀬なら絶対に見せない顔で。
ただの同僚の飲み会なら、笑って済ませたかもしれない。
けれど今の及川は、ひとつ余計な事情を知っている。
綾瀬を守らなければいけない。
同時に、藤崎先生も守らなければいけない。
二人が守ろうとしている秘密も、守らなければいけない。
「綾瀬さん、次のお酒は何にします?」
中川が、また余計なことを言った。
及川は即座に遮る。
「だから呑ませるな」
「本人に聞いてるんだけど」
「どう見ても酔ってるだろ」
「でも、普段と違って可愛いし」
「中川、その発言アウトだろ」
相澤がツッコミを入れる。
綾瀬は、水のグラスを両手で持ったまま、少しだけ首を傾げた。
「酔ってないけどな。いつもと同じだよね? 香澄」
「美月は普段通り可愛いよ」
「ありがと、香澄」
ふわっと笑う姿は、別人のようだ。
中川が顔を押さえた。
「無理。可愛い」
「中川ストップ」
及川はもう一度、低く言った。
どうしてこうなったんだ。
柏木と三浦は、特に驚く様子もなく笑っている。
初めて見る顔ではない、ということなのだろう。
酔うと、綾瀬はこうなるのか。
あの綾瀬が。
柏木が、綾瀬の顔を覗き込む。
「美月、水飲めてる?」
「飲んでるよ」
「よし」
三浦も笑う。
「美月、顔ゆるい」
「ゆるくない」
「ゆるいよ。今日はかなり」
「そうかな」
「そう」
綾瀬は不思議そうに首を傾げたあと、また水を飲んだ。
及川は少しだけ黙った。
柏木も三浦も、今の綾瀬を止めようとはしていない。
危ないと思っていないというより、このくらいの美月を知っているのだろう。
たぶん、綾瀬は今日、柏木と三浦に何かを話した。
結婚のことか。
10Aを離れるかもしれないことか。
相手の名前まで話したのかは分からない。
けれど、その話を二人に受け止めてもらって、気が緩んでいる。
そう考えれば、この柔らかさにも説明はつく。
それはいい。
すごくいい話だ。
けれど。
だからといって、中川たちの前でこの状態を放置していいわけではない。
「綾瀬」
及川が呼ぶと、綾瀬は素直にこちらを見た。
「何ですか」
「今日はもう日本酒はお終い。水だけね」
「水だけ?」
綾瀬本人は水を飲みながら、何も分かっていない顔をしていた。
それがまた、危ない。
綾瀬は、両手でグラスを持ったまま、ふわっと笑っている。
ヤバい。
かなりヤバい。
これは、緊急案件なんじゃないか。
及川はポケットの中のスマートフォンを握った。
患者ではない。
でも、緊急ではある。
これは、藤崎先生案件だ。
しかも、かなり急ぎの案件だった。
