美月が香澄と玲奈に連絡をしたのは、日勤を終えた日の夕方だった。
話したいことがある。
それだけ送ると、二人からの返信は早かった。
香澄からは、
『今夜?
行ける。』
玲奈からは、
『何それ。
行く。』
と返ってきた。
相変わらず、二人とも決断が早い。
美月はスマートフォンを見つめながら、少しだけ息を吐いた。
自分から誘ったのに、今さら緊張している。
師長に相談した。
及川にも話した。
理久とは、何度も話している。
でも、香澄と玲奈に話すのは、また少し違った。
二人は、美月にとって同期だった。
柏木香澄は、10Aで一緒に新人時代を過ごした同期だ。
よく走り、よく怒られ、それでもすぐに立ち直る。
美月が一人で抱え込むタイプなら、香澄は怒られても周りに助けられながら前へ進むタイプだった。
三浦玲奈は、最初からオペ室にいた。
同じ病棟で働いたわけではない。
けれど、新人の頃に同じ寮で暮らしていて、気づけば一番よく飲む仲になっていた。
勤務終わりに、玲奈の部屋へ香澄が転がり込み、そこに美月も呼ばれる。
仕事の愚痴を言い合った。
失敗した話をした。
先輩に怒られたことも、患者にうまく関われなかったことも、夜中にカップ麺を食べながら何度も話した。
病棟は違っても、玲奈もまた、同じ時期に看護師として叩き込まれていた一人だった。
三人とも、お酒は強い方だった。
ただ、美月は酔わないのではなく、酔っても崩れないようにしていただけだったのかもしれない。
三年目になる頃、三人はそれぞれ寮を出た。
香澄は救急部へ移り、美月は10Aに残った。
玲奈は変わらずオペ室にいたけれど、勤務の忙しさは年々増していった。
それぞれの勤務はばらばらになった。
それでも、勤務が合えば、こうして病院近くの居酒屋に集まった。
ただ飲むだけの夜もあった。
仕事の話で延々と盛り上がる夜もあった。
誰かが落ち込んでいれば、二人が勝手に集められる夜もあった。
美月にとって、二人はそういう仲間だった。
* * *
病院近くの居酒屋に着くと、香澄はすでに席に座っていた。
「美月、こっち」
救急部の勤務後なのに、香澄は相変わらず元気そうだった。
少し遅れて、玲奈も現れる。
「ごめん、オペ押した」
「大丈夫」
「で、何? 話って」
玲奈は席に着くなり、遠慮なく聞いてきた。
香澄も、美月を見る。
二人とも、軽いようでいて、こういう時にはちゃんと待ってくれる。
美月は、グラスに手を添えた。
水滴が指先につく。
冷たい。
言葉を出す前に、少しだけ喉が詰まった。
「……結婚することになった」
香澄と玲奈の動きが止まった。
数秒の沈黙。
それから、二人の声が重なった。
「え」
「え?」
美月は少しだけ視線を落とした。
「まだ、周りにはほとんど伝えてない」
香澄が、ゆっくりグラスを置いた。
玲奈も、さっきまでの勢いを少しだけ引っ込める。
「相手は?」
玲奈が聞いた。
責めるような声ではなかった。
ただ、同期として当然のように出てきた問いだった。
美月は、膝の上で指先を握った。
「ごめん。今は言えない」
二人は黙っていた。
美月は続ける。
「でも、言える時が来たら、ちゃんと伝える」
その言葉で、香澄と玲奈の表情が少し変わった。
察したのだと思った。
美月が今言えない相手。
それでも、いつかちゃんと伝えると言う相手。
ただの秘密ではない。
病院に関係している人なのだと。
香澄が、静かに言った。
「院内にいるんだね」
美月は答えなかった。
否定もしなかった。
それだけで、十分だった。
玲奈が小さく息を吐く。
「それなら、尚更慎重にならないとだね」
その言葉に、美月の胸が少しだけ緩んだ。
聞かれると思っていた。
誰なのか。
医師なのか。
どうして隠すのか。
普通なら、聞きたくなるはずだ。
けれど、二人はそこから先へ踏み込まなかった。
美月が今は言えないと言ったから。
ただ、それだけで止まってくれた。
「ありがとう」
そう言うと、玲奈が少し笑った。
「でも、祝うのは祝うからね」
「うん。それは別」
香澄も笑う。
「相手の名前は聞かない。でも、おめでとうは言う」
その言葉に、美月はようやく顔を上げた。
「ありがとう」
声が少し揺れた。
けれど、泣かなかった。
まだ、もう一つ言わなければいけないことがある。
美月は、一度息を整えた。
「それで……10Aを離れる可能性も考えてる」
今度は、二人ともすぐには笑わなかった。
結婚よりも、その言葉の方が、現実味を持って響いたのかもしれない。
香澄が静かに聞いた。
「退職?」
「まだ決めたわけじゃない。でも、そういう選択肢も含めて考えてる」
玲奈は黙って美月を見ていた。
いつもの明るい顔ではない。
けれど、責める顔でもなかった。
「そっか」
玲奈は、ふっと息を吐いた。
香澄も少しだけ目を伏せる。
「寂しいけど、ちゃんと考えてる顔してるね」
「うん」
美月は小さく頷いた。
「怖い。でも、流されて決めたくない。ちゃんと自分で考えたい」
二人は、何も茶化さなかった。
そのことだけで、美月は胸がいっぱいになった。
香澄はビールのグラスを持ち上げる。
「じゃあ、今日は祝い酒だね」
玲奈もすぐにグラスを持つ。
「そうだね。秘密の祝杯」
「秘密って言わないで」
美月が少しだけ眉を寄せると、玲奈が笑った。
「だって秘密じゃん」
「言える時が来たら言うって言った」
「分かってる。だから、今日は聞かない」
香澄がグラスを少し掲げた。
「美月の結婚と、これからの選択に」
玲奈も続ける。
「あと、相手の名前を聞かずに我慢している私たちに」
「それは入れなくていい」
美月が言うと、二人が笑った。
三人のグラスが触れる。
小さな音がした。
その音を聞いた瞬間、美月の中にあった緊張が、少しずつほどけていった。
話せた。
言えた。
相手の名前を伏せたままでも、二人は受け止めてくれた。
10Aを離れるかもしれないと言っても、責めなかった。
寂しいと言いながら、それでも美月が考えていることを尊重してくれた。
美月は、グラスに口をつけた。
いつもより少しだけ、喉を通る速度が早かった。
「美月、ペース早い」
香澄がすぐに言った。
「そう?」
「そう」
玲奈が笑う。
「まあ、今日は祝杯だからいいけど」
「いいんだ」
「今日くらいはね」
香澄も笑った。
「でも水は挟んでね」
「分かってるよ」
「分かってる人の返事じゃないってば」
「分かってるし」
「……もう怪しい」
玲奈が笑う。
そこから先は、いつもの三人だった。
香澄が救急部での慌ただしい夜勤の話をする。
玲奈がオペ室で器械出しの先輩にしごかれた話をする。
美月は10Aの後輩が少しずつ独り立ちしていく話をした。
仕事の愚痴。
失敗した話。
今だから笑える新人時代の話。
寮で夜中に飲んで、空き缶を積み上げて、誰が一番きれいなピラミッドを作れるか競った話。
「美月、あの時めちゃくちゃ真剣だったよね」
玲奈が言う。
「缶の角度が悪いって言ってた」
香澄も笑う。
美月は少しだけ口を尖らせた。
「崩れるから」
「そこに真面目を出さなくていいんだよ」
「美月らしいけどね」
三人で笑う。
楽しかった。
久しぶりに、ただ同期と飲んでいる時間だった。
結婚の話をした。
10Aを離れる可能性の話もした。
それでも、二人は美月を特別扱いしなかった。
ただ、いつものように笑わせてくれた。
だから、美月も気が抜けたのだと思う。
冷酒が運ばれてきた頃には、頬が少し熱くなっていた。
「美月、日本酒いく?」
玲奈が聞く。
「少しだけ」
「少しだけって言う人ほど飲むんだよ」
香澄が言う。
「飲まない」
「飲むよ」
「今日はいいじゃん。祝い酒だし」
玲奈が軽く言うと、美月は少しだけ笑った。
「じゃあ、少しだけ」
少しだけ。
その言葉は、たいてい守られない。
特に、安心している夜には。
* * *
しばらくして、店の入り口付近が少しだけ賑やかになった。
「三浦?」
聞き覚えのある声に、玲奈が振り返る。
店に入ってきたのは、外科レジデントの中川、相澤、佐伯だった。
三人とも、オペ室で玲奈と顔を合わせることが多い。
香澄も救急部で一緒になることがあり、廊下で軽口を交わす程度には顔なじみだった。
「あれ、ここで飲んでたんだ」
中川が言う。
「そう。同期会」
玲奈が軽く返す。
相澤が席の方を覗き込んだ。
「同期会なら、俺らも混ざっていい?」
玲奈が眉を上げる。
「同期会の意味、分かってる?」
「だいたい同じ病院で、同じ時期に苦労してきた会ってことで」
「雑」
香澄が笑った。
「まあ、うるさくしないならいいよ」
「する」
「じゃあ駄目」
「しない」
佐伯が苦笑しながら中川の肩を叩く。
「お前、黙ってた方がいい」
「何でだよ」
「たぶん、その方が入れてもらえる」
香澄と玲奈が笑う。
そんなやり取りの間に、三人は近くの席へ荷物を置き、結局、少し席を広げる形になった。
結婚の話は、そこで自然に伏せられた。
香澄も玲奈も、誰に言われるでもなく、その話題を出さなかった。
美月は、冷酒の入った小さなグラスを持ったまま、軽く会釈した。
「お疲れ様です」
その声が、いつもより少し柔らかかった。
中川が、一瞬だけ動きを止める。
相澤も目を瞬かせた。
佐伯は黙って美月を見たあと、小さく言った。
「……綾瀬さん?」
美月は首を傾げる。
「はい」
その返事も、いつもの美月とは少し違った。
外科レジデントたちは、美月を知らないわけではない。
10Aの綾瀬美月。
曖昧な指示には静かに圧をかける看護師。
必要な確認は容赦なく行い、余計な雑談には乗らない人。
医師に対して、必要以上に距離を詰めない人。
だからこそ、今の美月に驚いたのだ。
私服で、頬を少し赤くして、柔らかく笑っている。
玲奈が、すぐにその反応に気づいた。
にやりと笑う。
「あ、今、美月のこと可愛いって思ったでしょ」
「え」
中川が焦る。
香澄も乗った。
「私の美月に手を出さないでね」
「いや、俺、綾瀬さんとあんまり話したことないから気になるだけで」
「中川は駄目」
玲奈が即答した。
「何で?」
「隣は禁止」
「何そのルール」
「今できたルール」
香澄が笑う。
美月は、そのやり取りを見ながら少しだけ笑っていた。
いつもなら、こういう場では一歩引く。
医師たちの軽口には入らない。
必要な挨拶だけして、あとは香澄や玲奈に任せる。
けれど今日は、少し違った。
香澄と玲奈がいる。
二人が笑っている。
その空気に、美月も少しだけ乗せられていた。
香澄と玲奈がいることで、いつもの線引きが少しだけ緩んでいた。
「綾瀬さん、日本酒飲むんですね。意外です」
中川が言った。
美月は、小さなグラスを少し持ち上げた。
「そうかな? 美味しいですよ。中川先生も飲みますか?」
美月は、ふわっと笑って答えた。
中川が、また固まった。
相澤が隣で吹き出す。
「中川、誘われてるじゃん」
「いや、そういう意味じゃないだろ」
佐伯まで少し笑った。
「でも、これはちょっとレア」
香澄と玲奈は楽しそうに笑っている。
美月もつられて笑った。
その時、少し遅れて店に入ってきた男がいた。
「悪い、遅れた」
及川だった。
外科レジデントたちの方へ歩いてきて、途中で香澄が気づく。
「あ、及川先生だ」
及川は軽く手を上げる。
「お疲れ。……って、あれ? 何でこんな集まりになってんの?」
香澄が笑いながら説明する。
「同期会してたら、この人たちが来たから合流したの」
「なるほど」
及川は、空いている席に座った。
いつものように、何でもない顔で。
けれどその顔が、すぐに少しだけ変わったことに、美月は気づかなかった。
話したいことがある。
それだけ送ると、二人からの返信は早かった。
香澄からは、
『今夜?
行ける。』
玲奈からは、
『何それ。
行く。』
と返ってきた。
相変わらず、二人とも決断が早い。
美月はスマートフォンを見つめながら、少しだけ息を吐いた。
自分から誘ったのに、今さら緊張している。
師長に相談した。
及川にも話した。
理久とは、何度も話している。
でも、香澄と玲奈に話すのは、また少し違った。
二人は、美月にとって同期だった。
柏木香澄は、10Aで一緒に新人時代を過ごした同期だ。
よく走り、よく怒られ、それでもすぐに立ち直る。
美月が一人で抱え込むタイプなら、香澄は怒られても周りに助けられながら前へ進むタイプだった。
三浦玲奈は、最初からオペ室にいた。
同じ病棟で働いたわけではない。
けれど、新人の頃に同じ寮で暮らしていて、気づけば一番よく飲む仲になっていた。
勤務終わりに、玲奈の部屋へ香澄が転がり込み、そこに美月も呼ばれる。
仕事の愚痴を言い合った。
失敗した話をした。
先輩に怒られたことも、患者にうまく関われなかったことも、夜中にカップ麺を食べながら何度も話した。
病棟は違っても、玲奈もまた、同じ時期に看護師として叩き込まれていた一人だった。
三人とも、お酒は強い方だった。
ただ、美月は酔わないのではなく、酔っても崩れないようにしていただけだったのかもしれない。
三年目になる頃、三人はそれぞれ寮を出た。
香澄は救急部へ移り、美月は10Aに残った。
玲奈は変わらずオペ室にいたけれど、勤務の忙しさは年々増していった。
それぞれの勤務はばらばらになった。
それでも、勤務が合えば、こうして病院近くの居酒屋に集まった。
ただ飲むだけの夜もあった。
仕事の話で延々と盛り上がる夜もあった。
誰かが落ち込んでいれば、二人が勝手に集められる夜もあった。
美月にとって、二人はそういう仲間だった。
* * *
病院近くの居酒屋に着くと、香澄はすでに席に座っていた。
「美月、こっち」
救急部の勤務後なのに、香澄は相変わらず元気そうだった。
少し遅れて、玲奈も現れる。
「ごめん、オペ押した」
「大丈夫」
「で、何? 話って」
玲奈は席に着くなり、遠慮なく聞いてきた。
香澄も、美月を見る。
二人とも、軽いようでいて、こういう時にはちゃんと待ってくれる。
美月は、グラスに手を添えた。
水滴が指先につく。
冷たい。
言葉を出す前に、少しだけ喉が詰まった。
「……結婚することになった」
香澄と玲奈の動きが止まった。
数秒の沈黙。
それから、二人の声が重なった。
「え」
「え?」
美月は少しだけ視線を落とした。
「まだ、周りにはほとんど伝えてない」
香澄が、ゆっくりグラスを置いた。
玲奈も、さっきまでの勢いを少しだけ引っ込める。
「相手は?」
玲奈が聞いた。
責めるような声ではなかった。
ただ、同期として当然のように出てきた問いだった。
美月は、膝の上で指先を握った。
「ごめん。今は言えない」
二人は黙っていた。
美月は続ける。
「でも、言える時が来たら、ちゃんと伝える」
その言葉で、香澄と玲奈の表情が少し変わった。
察したのだと思った。
美月が今言えない相手。
それでも、いつかちゃんと伝えると言う相手。
ただの秘密ではない。
病院に関係している人なのだと。
香澄が、静かに言った。
「院内にいるんだね」
美月は答えなかった。
否定もしなかった。
それだけで、十分だった。
玲奈が小さく息を吐く。
「それなら、尚更慎重にならないとだね」
その言葉に、美月の胸が少しだけ緩んだ。
聞かれると思っていた。
誰なのか。
医師なのか。
どうして隠すのか。
普通なら、聞きたくなるはずだ。
けれど、二人はそこから先へ踏み込まなかった。
美月が今は言えないと言ったから。
ただ、それだけで止まってくれた。
「ありがとう」
そう言うと、玲奈が少し笑った。
「でも、祝うのは祝うからね」
「うん。それは別」
香澄も笑う。
「相手の名前は聞かない。でも、おめでとうは言う」
その言葉に、美月はようやく顔を上げた。
「ありがとう」
声が少し揺れた。
けれど、泣かなかった。
まだ、もう一つ言わなければいけないことがある。
美月は、一度息を整えた。
「それで……10Aを離れる可能性も考えてる」
今度は、二人ともすぐには笑わなかった。
結婚よりも、その言葉の方が、現実味を持って響いたのかもしれない。
香澄が静かに聞いた。
「退職?」
「まだ決めたわけじゃない。でも、そういう選択肢も含めて考えてる」
玲奈は黙って美月を見ていた。
いつもの明るい顔ではない。
けれど、責める顔でもなかった。
「そっか」
玲奈は、ふっと息を吐いた。
香澄も少しだけ目を伏せる。
「寂しいけど、ちゃんと考えてる顔してるね」
「うん」
美月は小さく頷いた。
「怖い。でも、流されて決めたくない。ちゃんと自分で考えたい」
二人は、何も茶化さなかった。
そのことだけで、美月は胸がいっぱいになった。
香澄はビールのグラスを持ち上げる。
「じゃあ、今日は祝い酒だね」
玲奈もすぐにグラスを持つ。
「そうだね。秘密の祝杯」
「秘密って言わないで」
美月が少しだけ眉を寄せると、玲奈が笑った。
「だって秘密じゃん」
「言える時が来たら言うって言った」
「分かってる。だから、今日は聞かない」
香澄がグラスを少し掲げた。
「美月の結婚と、これからの選択に」
玲奈も続ける。
「あと、相手の名前を聞かずに我慢している私たちに」
「それは入れなくていい」
美月が言うと、二人が笑った。
三人のグラスが触れる。
小さな音がした。
その音を聞いた瞬間、美月の中にあった緊張が、少しずつほどけていった。
話せた。
言えた。
相手の名前を伏せたままでも、二人は受け止めてくれた。
10Aを離れるかもしれないと言っても、責めなかった。
寂しいと言いながら、それでも美月が考えていることを尊重してくれた。
美月は、グラスに口をつけた。
いつもより少しだけ、喉を通る速度が早かった。
「美月、ペース早い」
香澄がすぐに言った。
「そう?」
「そう」
玲奈が笑う。
「まあ、今日は祝杯だからいいけど」
「いいんだ」
「今日くらいはね」
香澄も笑った。
「でも水は挟んでね」
「分かってるよ」
「分かってる人の返事じゃないってば」
「分かってるし」
「……もう怪しい」
玲奈が笑う。
そこから先は、いつもの三人だった。
香澄が救急部での慌ただしい夜勤の話をする。
玲奈がオペ室で器械出しの先輩にしごかれた話をする。
美月は10Aの後輩が少しずつ独り立ちしていく話をした。
仕事の愚痴。
失敗した話。
今だから笑える新人時代の話。
寮で夜中に飲んで、空き缶を積み上げて、誰が一番きれいなピラミッドを作れるか競った話。
「美月、あの時めちゃくちゃ真剣だったよね」
玲奈が言う。
「缶の角度が悪いって言ってた」
香澄も笑う。
美月は少しだけ口を尖らせた。
「崩れるから」
「そこに真面目を出さなくていいんだよ」
「美月らしいけどね」
三人で笑う。
楽しかった。
久しぶりに、ただ同期と飲んでいる時間だった。
結婚の話をした。
10Aを離れる可能性の話もした。
それでも、二人は美月を特別扱いしなかった。
ただ、いつものように笑わせてくれた。
だから、美月も気が抜けたのだと思う。
冷酒が運ばれてきた頃には、頬が少し熱くなっていた。
「美月、日本酒いく?」
玲奈が聞く。
「少しだけ」
「少しだけって言う人ほど飲むんだよ」
香澄が言う。
「飲まない」
「飲むよ」
「今日はいいじゃん。祝い酒だし」
玲奈が軽く言うと、美月は少しだけ笑った。
「じゃあ、少しだけ」
少しだけ。
その言葉は、たいてい守られない。
特に、安心している夜には。
* * *
しばらくして、店の入り口付近が少しだけ賑やかになった。
「三浦?」
聞き覚えのある声に、玲奈が振り返る。
店に入ってきたのは、外科レジデントの中川、相澤、佐伯だった。
三人とも、オペ室で玲奈と顔を合わせることが多い。
香澄も救急部で一緒になることがあり、廊下で軽口を交わす程度には顔なじみだった。
「あれ、ここで飲んでたんだ」
中川が言う。
「そう。同期会」
玲奈が軽く返す。
相澤が席の方を覗き込んだ。
「同期会なら、俺らも混ざっていい?」
玲奈が眉を上げる。
「同期会の意味、分かってる?」
「だいたい同じ病院で、同じ時期に苦労してきた会ってことで」
「雑」
香澄が笑った。
「まあ、うるさくしないならいいよ」
「する」
「じゃあ駄目」
「しない」
佐伯が苦笑しながら中川の肩を叩く。
「お前、黙ってた方がいい」
「何でだよ」
「たぶん、その方が入れてもらえる」
香澄と玲奈が笑う。
そんなやり取りの間に、三人は近くの席へ荷物を置き、結局、少し席を広げる形になった。
結婚の話は、そこで自然に伏せられた。
香澄も玲奈も、誰に言われるでもなく、その話題を出さなかった。
美月は、冷酒の入った小さなグラスを持ったまま、軽く会釈した。
「お疲れ様です」
その声が、いつもより少し柔らかかった。
中川が、一瞬だけ動きを止める。
相澤も目を瞬かせた。
佐伯は黙って美月を見たあと、小さく言った。
「……綾瀬さん?」
美月は首を傾げる。
「はい」
その返事も、いつもの美月とは少し違った。
外科レジデントたちは、美月を知らないわけではない。
10Aの綾瀬美月。
曖昧な指示には静かに圧をかける看護師。
必要な確認は容赦なく行い、余計な雑談には乗らない人。
医師に対して、必要以上に距離を詰めない人。
だからこそ、今の美月に驚いたのだ。
私服で、頬を少し赤くして、柔らかく笑っている。
玲奈が、すぐにその反応に気づいた。
にやりと笑う。
「あ、今、美月のこと可愛いって思ったでしょ」
「え」
中川が焦る。
香澄も乗った。
「私の美月に手を出さないでね」
「いや、俺、綾瀬さんとあんまり話したことないから気になるだけで」
「中川は駄目」
玲奈が即答した。
「何で?」
「隣は禁止」
「何そのルール」
「今できたルール」
香澄が笑う。
美月は、そのやり取りを見ながら少しだけ笑っていた。
いつもなら、こういう場では一歩引く。
医師たちの軽口には入らない。
必要な挨拶だけして、あとは香澄や玲奈に任せる。
けれど今日は、少し違った。
香澄と玲奈がいる。
二人が笑っている。
その空気に、美月も少しだけ乗せられていた。
香澄と玲奈がいることで、いつもの線引きが少しだけ緩んでいた。
「綾瀬さん、日本酒飲むんですね。意外です」
中川が言った。
美月は、小さなグラスを少し持ち上げた。
「そうかな? 美味しいですよ。中川先生も飲みますか?」
美月は、ふわっと笑って答えた。
中川が、また固まった。
相澤が隣で吹き出す。
「中川、誘われてるじゃん」
「いや、そういう意味じゃないだろ」
佐伯まで少し笑った。
「でも、これはちょっとレア」
香澄と玲奈は楽しそうに笑っている。
美月もつられて笑った。
その時、少し遅れて店に入ってきた男がいた。
「悪い、遅れた」
及川だった。
外科レジデントたちの方へ歩いてきて、途中で香澄が気づく。
「あ、及川先生だ」
及川は軽く手を上げる。
「お疲れ。……って、あれ? 何でこんな集まりになってんの?」
香澄が笑いながら説明する。
「同期会してたら、この人たちが来たから合流したの」
「なるほど」
及川は、空いている席に座った。
いつものように、何でもない顔で。
けれどその顔が、すぐに少しだけ変わったことに、美月は気づかなかった。
