光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

師長に相談してから、数日が過ぎた。

まだ、何かが具体的に決まったわけではない。

退職するのか。

休職という形があるのか。

時期はどうするのか。

そもそも、自分が本当に10Aを離れるのか。

何も決定していない。

けれど、一度言葉にしたことで、胸の中にあった重さは少しだけ形を変えていた。

不安が消えたわけではない。

ただ、ひとりで抱え込んでいた時より、自分が何を怖がっているのかは見え始めていた。

その日、美月は準夜勤だった。

準夜勤の10Aは、日勤とは違う空気をしている。

面会時間が終わり、病棟は少しずつ夜へ向かっていく。

日中のような慌ただしさはない。

けれど、静けさの中に気を抜けない緊張がある。

美月はいつも通り、ひとつずつ確認していった。

休憩に入れたのは、予定より少し遅い時間だった。

軽く食べられるものを買おうと思い、美月は院内のコンビニへ向かった。

夜の院内コンビニは、昼間とはまるで違う。

棚の前に立つ人も少なく、レジ横の照明だけがやけに明るく見える。

美月はおにぎりをひとつと、温かいお茶を取った。

その時、隣の棚の前から軽い声がした。

「綾瀬」

顔を上げると、及川が立っていた。

白衣のポケットに片手を入れ、もう片方の手でおにぎりを取ろうとしている。

「及川くん」

「今日、準夜?」

「見れば分かるでしょう」

「分かるけど、確認」

及川は棚からおにぎりをひとつ取った。

「終わったら飯行かない?」

美月はおにぎりを持ったまま、少しだけ目を細めた。

「準夜明けですよ」

「だから、ちゃんと食べて帰れって話」

「及川くんに言われると、説得力があるような、ないような」

「あるだろ」

「微妙です」

及川は笑って、おにぎりを手の中で軽く持ち直した。

「この前の話も、少し聞きたいし」

美月の手が止まった。

この前の話。

10Aを離れるかもしれない、と言ったこと。

「……それは、勤務明けにする話ですか」

「飯食いながらなら、少しは重くならないだろ」

「及川くんがいる時点で、重くはなりにくいでしょうね」

「今の褒めた?」

「いいえ」

「即答だな」

美月は少しだけ息を吐いた。

嫌ではなかった。

けれど、簡単に頷く気にもなれなかった。

自分の中でまだ整理しきれていないものを、誰かに聞かれるのは少し怖い。

及川相手ならなおさら、軽く見抜かれそうで困る。

「考えておきます」

「それ、だいたい来ない時の返事じゃん」

「分かっているなら聞かないでください」

及川が何か言い返そうとした時、白衣のポケットで院内端末が鳴った。

短い電子音が、コンビニの明るい空気を切る。

及川は画面を見て、顔をしかめた。

「呼ばれた」

「行ってください」

「冷たい」

「業務です」

「また連絡する」

「無理なら返しません」

「じゃあ、返したら来るってことで」

「そうは言っていません」

及川は返事を聞かずに、軽く手を上げてコンビニを出ていった。

美月はしばらくその背中を見ていた。

相変わらず唐突で、雑で、こちらの都合を聞いているようで聞いていない。

けれど、及川が「この前の話」と言った時の声は、いつもより少しだけ真面目だった。

美月は手元のおにぎりに視線を落とす。

行かない。

そう思ったはずなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残った。

その後の勤務は、大きなトラブルなく進んだ。

急変はなかった。

けれど、準夜明けには身体の奥に疲労が残る。

記録を終えて更衣室へ向かう頃、美月はようやく空腹に気づいた。

スマートフォンが震えたのは、その時だった。

及川からだった。

『10分後、裏門。
さっきの続き。
腹減ってるだろ。』

美月は画面を見つめた。

「……結局、命令形」

小さく呟いて、返信する。

『少しだけなら。』

送信してから、すぐに後悔した。

どうせ及川は「少しだけ」を守らない。

美月は更衣室へ向かった。

制服から私服に着替え、最低限の身だしなみを整える。

鏡に映る自分は、完全に準夜明けの顔をしていた。

外に出るなら、せめて少しだけ整えておきたい。

美月は薄く口紅を塗り、すぐにポーチを閉じた。

裏門へ向かう廊下は、夜の病院特有の静けさがあった。

日中とは違い、人の気配が少ない。

蛍光灯の光が少し冷たく、外へ近づくほど夜風の気配が強くなる。

裏門が見えた。

その先に、男のシルエットが二つ。

一人はすぐに分かる。

立ち方がやたらと軽い及川。

もう一人は、少し離れて立っている理久だった。

美月は足を止めかけた。

聞いていない。

及川は片手を上げた。

「遅い」

「10分後と言ったのは及川くんです」

美月が返した瞬間、理久がこちらを見た。

少し驚いたような表情だった。

その顔を見て、美月はすぐに分かった。

理久も、自分が来ることを知らなかったのだ。

「及川、スペシャルゲストって……綾瀬さんのこと?」

理久の小さな声が聞こえた。

美月は聞こえなかったことにした。

及川は悪びれない。

「準夜明けの綾瀬を回収しました」

「回収って何ですか」

美月が睨むと、及川は肩をすくめた。

「腹減ってるだろ」

「それは否定しませんけど」

美月が小さく返すと、理久が隣で苦笑した。

「及川、せめて事前に説明して」

「説明したら来ないじゃないですか、二人とも」

「自覚はあるんだね」

理久が静かに言う。

及川は胸を張った。

「あります」

「威張るところではありません」

美月が言うと、及川は笑った。

理久の顔は、すぐにいつもの外向きのものへ変わる。

「綾瀬さん、お疲れ様」

藤崎先生の声。

落ち着いていて、丁寧で、少し距離がある。

美月は内心で少しだけ笑いそうになった。

この切り替えは、いつ見ても見事だ。

「お疲れ様です」

職場の外。

でも、まだ病院の敷地内。

及川がいる。

だから、美月も綾瀬看護師の顔をする。

及川が得意げに言った。

「いやー、働いた後は食べないと。藤崎先生も腹減ってるし、綾瀬も腹減ってる。つまり平和」

「勝手にまとめないでください」

美月が返す。

「いいじゃん。どうせ帰っても何も食べないだろ」

「食べます」

「何を」

「……何か」

「ほら」

及川はさっさと歩き出した。

美月は呆れながら後を追う。

理久はその様子を見て、少しだけ笑っていた。

三人で病院から少し離れた、小さな飲み屋に入った。

遅い時間でも開いている店だった。

派手さはない。

でも、温かい照明と、少し油の香りがする空気が、準夜明けの身体には妙に染みる。

「こっちこっち」

及川が奥の席へ向かう。

そして、当然のように理久の隣を指した。

「綾瀬、こっち」

「なぜそこを指定するんですか」

「準夜明けの人は奥。藤崎先生はその隣。俺は入口側」

「勝手に決めないでください」

「まあまあ、座って座って」

「雑ですね」

「及川采配です」

「信用できません」

美月は呆れながらも、結局理久の隣に座った。

理久は何も言わない。

ただ、自然にメニューを美月の方へ少し寄せる。

「何食べる?」

その声も、対外的には普通だった。

丁寧すぎず、近すぎず。

美月は少しだけ理久を見た。

「……何でも」

「準夜明けの何でもは、一番困るやつだね」

「お腹が空きすぎて決められません」

「じゃあ、温かいもの頼もうか」

及川が向かい側でにやにやしている。

「何だよ、その自然なやり取り」

美月はすぐにメニューを見るふりをした。

「普通です」

「普通じゃねぇよ」

「及川くんも、注文係なら早く決めてください」

「扱いの差がすごい」

「日頃の行いです」

「刺さる」

理久が小さく笑った。

ビールが運ばれてくる。

グラスが三つ。

及川が声を少し落として、やたら楽しそうに持ち上げた。

「じゃあ」

嫌な予感がした。

「藤崎先生と綾瀬に乾杯」

美月はグラスを持ったまま固まった。

理久も、グラスを持つ手を一瞬止めた。

及川は楽しそうに笑っている。

「先生、隠しても無理っすよ」

理久は黙って及川を見る。

美月も、チラッと理久を見た。

理久の表情は穏やかだった。

でも、目だけが少しだけ細くなっている。

美月は小さく息を吐いた。

「及川くん、今回は踏み込んできたんですね」

「さすがにな」

「前回は思いとどまって、胸の内に秘めていたのに?」

「それは、触れたら俺が刺されそうだったから」

「身の危険を冒してまで、今回は踏み込んだわけですか」

「綾瀬が分かりやすいからな」

「どこがですか?」

「病棟で藤崎先生のことを考えてる顔をしてた」

「してません」

即答した。

けれど、顔が熱くなる。

理久が横で、少しだけ笑っている気配がした。

「り……藤崎先生も笑わないでください」

危ない。

呼び方を間違えそうになった。

及川はそれも聞き逃さなかった。

「今、り、って言いかけたよな」

「言ってません」

美月は即答した。

「言った」

「疲労です」

「疲労、便利すぎ」

及川が笑う。

理久は観念したように、グラスを置いた。

「及川」

「はい」

「どこまで気づいてる?」

及川は少しだけ真面目な顔になった。

「屋形船の時には、藤崎先生が綾瀬を特別に見てるのは分かりました」

美月は黙った。

理久も否定しなかった。

「触れるなって言ってきたじゃないですか」

理久は目を細めて、及川を見た。

「あの時は、何でそこまで言うのかと思いましたけど」

及川は美月を見る。

「思い返すと、先生はずっと、綾瀬のことを見てないようで見てたんですよね」

美月は目を伏せた。

「その後、綾瀬に聞いたら、否定されなかったし」

「……それで?」

「そうなんだなって、確信しました」

及川は肩をすくめる。

「その後も、先生は何もないように振る舞ってたし、綾瀬も病棟ではきっちり距離を取ってたから、俺も触れないようにしてましたけど」

一度言葉を切って、及川は理久と美月を交互に見た。

「さすがに、もう無理です」

理久の目が、少しだけ動いた。

「何か、ありましたよね」

理久は少しだけ黙った。

それから、一度、美月を見た。

「言ってもいい?」

美月は少しだけ迷った。

けれど、及川の目はもう茶化していなかった。

美月は小さく頷く。

「うん」

理久は及川へ向き直った。

「美月さんと婚約した」

及川が、数秒固まった。

本当に、珍しく何も言わなかった。

それから、ゆっくり美月を見る。

「……マジで?」

美月は小さく頷いた。

「うん」

及川は今度は理久を見る。

「それ、病棟には」

「まだ言っていない」

理久が答える。

「留学の可能性も含めて、美月さんの仕事のことは、これから順番に相談していく」

及川は黙った。

その表情から、この前病棟で交わした会話を思い出しているのが分かった。

10Aを離れる可能性を、考えています。

美月が言った言葉。

及川は、グラスを見つめながら小さく息を吐いた。

「そっか」

それだけだった。

けれど、その一言は軽くなかった。

「だからか」

美月は及川を見る。

「何がですか」

「この前の顔」

及川は少しだけ笑った。

「腹決める前の顔って言っただろ」

「……まだ決めたわけじゃないです」

「分かってる」

及川は頷いた。

「でも、そういうことかって思っただけ」

それから、及川は一度だけ理久を見た。

何か言いかけたように見えた。

けれど、結局言わなかった。

理久と美月の間に、及川が口を挟むことではない。

たぶん、そう思ったのだ。

及川はビールを一口飲み、いつもより少しだけ低い声で言った。

「誰にも言わねぇよ」

美月は何も言えなかった。

「婚約のことも、10Aのことも。綾瀬が話す前に、俺が勝手に言うことじゃないだろ」

美月が黙っていると、及川は少しだけ眉を上げた。

「疑ってる?」

「……少し」

「正直だな」

及川は箸で美月を指しそうになり、理久の視線に気づいて箸を下ろした。

「こう見えて、俺、綾瀬の味方だから」

美月は少し驚いた。

「……そうなんですか?」

「何だよ、その意外そうな顔」

「意外でした」

「おい」

理久が小さく笑った。

及川は少し不満そうにビールを飲む。

「まあ、先生の味方かは分かんないっすけど」

理久は落ち着いて答えた。

「美月の味方なら、それでいいよ」

及川は一瞬黙った。

それから、少しだけ目を逸らす。

「そういうこと言うから王子なんすよ」

「王子はやめて」

「無理っす」

「じゃあ、せめて人前では」

「ここ、身内しかいないじゃないすか」

及川はそう言って、グラスを持ち上げた。

「じゃあ、改めて」

理久と美月を見る。

今度は、さっきより少しだけ真面目な顔だった。

「婚約おめでとうございます」

美月の胸が静かに温かくなった。

「ありがとう」

理久もグラスを持つ。

「ありがとう」

三人のグラスが、軽く触れた。

小さな音がした。

及川はすぐにいつもの顔に戻る。

「で、いつから綾瀬は藤崎先生のこと“りく”って呼んでんの?」

美月はむせそうになった。

「ちょっと」

理久は横で笑っている。

「それは聞かなくていい」

「気になるじゃないすか」

「気にしなくていい」

「先生、独占欲出てますよ」

「出てるね」

「認めるんすか」

「隠す必要ないでしょ、ここでは」

美月は顔を覆いたくなった。

及川が大笑いする。

「うわ、やっぱ進展してる」

「及川くん、うるさいです」

「だって面白いだろ。病棟のクール綾瀬が」

「黙って食べてください」

「はいはい」

運ばれてきた温かい料理の湯気が、テーブルの上に広がる。

美月は箸を取った。

お腹が空いていたことを、ようやく思い出す。

理久が隣でさりげなく取り皿を渡してくれる。

及川はそれを見て、また何か言いたそうな顔をした。

けれど、今度は黙った。

美月は少しだけ笑った。

日常が戻ってきた。

でも、その日常は少しずつ変わっていく。

看護師としてこの病棟にいる時間。

及川とこうしてくだらない言い合いをする時間。

理久が藤崎先生の顔で隣にいる時間。

全部、いつか懐かしくなるのかもしれない。

美月は温かい料理を口に運びながら、左手を一瞬だけ意識した。

今は指輪はつけていない。

でも、そこには確かに重みが残っている。

そして、目の前の及川は、それを知った。

秘密がひとつ、味方になった夜だった。