師長に相談してから、数日が過ぎた。
まだ、何かが具体的に決まったわけではない。
退職するのか。
休職という形があるのか。
時期はどうするのか。
そもそも、自分が本当に10Aを離れるのか。
何も決定していない。
けれど、一度言葉にしたことで、胸の中にあった重さは少しだけ形を変えていた。
不安が消えたわけではない。
ただ、ひとりで抱え込んでいた時より、自分が何を怖がっているのかは見え始めていた。
その日、美月は準夜勤だった。
準夜勤の10Aは、日勤とは違う空気をしている。
面会時間が終わり、病棟は少しずつ夜へ向かっていく。
日中のような慌ただしさはない。
けれど、静けさの中に気を抜けない緊張がある。
美月はいつも通り、ひとつずつ確認していった。
休憩に入れたのは、予定より少し遅い時間だった。
軽く食べられるものを買おうと思い、美月は院内のコンビニへ向かった。
夜の院内コンビニは、昼間とはまるで違う。
棚の前に立つ人も少なく、レジ横の照明だけがやけに明るく見える。
美月はおにぎりをひとつと、温かいお茶を取った。
その時、隣の棚の前から軽い声がした。
「綾瀬」
顔を上げると、及川が立っていた。
白衣のポケットに片手を入れ、もう片方の手でおにぎりを取ろうとしている。
「及川くん」
「今日、準夜?」
「見れば分かるでしょう」
「分かるけど、確認」
及川は棚からおにぎりをひとつ取った。
「終わったら飯行かない?」
美月はおにぎりを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「準夜明けですよ」
「だから、ちゃんと食べて帰れって話」
「及川くんに言われると、説得力があるような、ないような」
「あるだろ」
「微妙です」
及川は笑って、おにぎりを手の中で軽く持ち直した。
「この前の話も、少し聞きたいし」
美月の手が止まった。
この前の話。
10Aを離れるかもしれない、と言ったこと。
「……それは、勤務明けにする話ですか」
「飯食いながらなら、少しは重くならないだろ」
「及川くんがいる時点で、重くはなりにくいでしょうね」
「今の褒めた?」
「いいえ」
「即答だな」
美月は少しだけ息を吐いた。
嫌ではなかった。
けれど、簡単に頷く気にもなれなかった。
自分の中でまだ整理しきれていないものを、誰かに聞かれるのは少し怖い。
及川相手ならなおさら、軽く見抜かれそうで困る。
「考えておきます」
「それ、だいたい来ない時の返事じゃん」
「分かっているなら聞かないでください」
及川が何か言い返そうとした時、白衣のポケットで院内端末が鳴った。
短い電子音が、コンビニの明るい空気を切る。
及川は画面を見て、顔をしかめた。
「呼ばれた」
「行ってください」
「冷たい」
「業務です」
「また連絡する」
「無理なら返しません」
「じゃあ、返したら来るってことで」
「そうは言っていません」
及川は返事を聞かずに、軽く手を上げてコンビニを出ていった。
美月はしばらくその背中を見ていた。
相変わらず唐突で、雑で、こちらの都合を聞いているようで聞いていない。
けれど、及川が「この前の話」と言った時の声は、いつもより少しだけ真面目だった。
美月は手元のおにぎりに視線を落とす。
行かない。
そう思ったはずなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
その後の勤務は、大きなトラブルなく進んだ。
急変はなかった。
けれど、準夜明けには身体の奥に疲労が残る。
記録を終えて更衣室へ向かう頃、美月はようやく空腹に気づいた。
スマートフォンが震えたのは、その時だった。
及川からだった。
『10分後、裏門。
さっきの続き。
腹減ってるだろ。』
美月は画面を見つめた。
「……結局、命令形」
小さく呟いて、返信する。
『少しだけなら。』
送信してから、すぐに後悔した。
どうせ及川は「少しだけ」を守らない。
美月は更衣室へ向かった。
制服から私服に着替え、最低限の身だしなみを整える。
鏡に映る自分は、完全に準夜明けの顔をしていた。
外に出るなら、せめて少しだけ整えておきたい。
美月は薄く口紅を塗り、すぐにポーチを閉じた。
裏門へ向かう廊下は、夜の病院特有の静けさがあった。
日中とは違い、人の気配が少ない。
蛍光灯の光が少し冷たく、外へ近づくほど夜風の気配が強くなる。
裏門が見えた。
その先に、男のシルエットが二つ。
一人はすぐに分かる。
立ち方がやたらと軽い及川。
もう一人は、少し離れて立っている理久だった。
美月は足を止めかけた。
聞いていない。
及川は片手を上げた。
「遅い」
「10分後と言ったのは及川くんです」
美月が返した瞬間、理久がこちらを見た。
少し驚いたような表情だった。
その顔を見て、美月はすぐに分かった。
理久も、自分が来ることを知らなかったのだ。
「及川、スペシャルゲストって……綾瀬さんのこと?」
理久の小さな声が聞こえた。
美月は聞こえなかったことにした。
及川は悪びれない。
「準夜明けの綾瀬を回収しました」
「回収って何ですか」
美月が睨むと、及川は肩をすくめた。
「腹減ってるだろ」
「それは否定しませんけど」
美月が小さく返すと、理久が隣で苦笑した。
「及川、せめて事前に説明して」
「説明したら来ないじゃないですか、二人とも」
「自覚はあるんだね」
理久が静かに言う。
及川は胸を張った。
「あります」
「威張るところではありません」
美月が言うと、及川は笑った。
理久の顔は、すぐにいつもの外向きのものへ変わる。
「綾瀬さん、お疲れ様」
藤崎先生の声。
落ち着いていて、丁寧で、少し距離がある。
美月は内心で少しだけ笑いそうになった。
この切り替えは、いつ見ても見事だ。
「お疲れ様です」
職場の外。
でも、まだ病院の敷地内。
及川がいる。
だから、美月も綾瀬看護師の顔をする。
及川が得意げに言った。
「いやー、働いた後は食べないと。藤崎先生も腹減ってるし、綾瀬も腹減ってる。つまり平和」
「勝手にまとめないでください」
美月が返す。
「いいじゃん。どうせ帰っても何も食べないだろ」
「食べます」
「何を」
「……何か」
「ほら」
及川はさっさと歩き出した。
美月は呆れながら後を追う。
理久はその様子を見て、少しだけ笑っていた。
三人で病院から少し離れた、小さな飲み屋に入った。
遅い時間でも開いている店だった。
派手さはない。
でも、温かい照明と、少し油の香りがする空気が、準夜明けの身体には妙に染みる。
「こっちこっち」
及川が奥の席へ向かう。
そして、当然のように理久の隣を指した。
「綾瀬、こっち」
「なぜそこを指定するんですか」
「準夜明けの人は奥。藤崎先生はその隣。俺は入口側」
「勝手に決めないでください」
「まあまあ、座って座って」
「雑ですね」
「及川采配です」
「信用できません」
美月は呆れながらも、結局理久の隣に座った。
理久は何も言わない。
ただ、自然にメニューを美月の方へ少し寄せる。
「何食べる?」
その声も、対外的には普通だった。
丁寧すぎず、近すぎず。
美月は少しだけ理久を見た。
「……何でも」
「準夜明けの何でもは、一番困るやつだね」
「お腹が空きすぎて決められません」
「じゃあ、温かいもの頼もうか」
及川が向かい側でにやにやしている。
「何だよ、その自然なやり取り」
美月はすぐにメニューを見るふりをした。
「普通です」
「普通じゃねぇよ」
「及川くんも、注文係なら早く決めてください」
「扱いの差がすごい」
「日頃の行いです」
「刺さる」
理久が小さく笑った。
ビールが運ばれてくる。
グラスが三つ。
及川が声を少し落として、やたら楽しそうに持ち上げた。
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「藤崎先生と綾瀬に乾杯」
美月はグラスを持ったまま固まった。
理久も、グラスを持つ手を一瞬止めた。
及川は楽しそうに笑っている。
「先生、隠しても無理っすよ」
理久は黙って及川を見る。
美月も、チラッと理久を見た。
理久の表情は穏やかだった。
でも、目だけが少しだけ細くなっている。
美月は小さく息を吐いた。
「及川くん、今回は踏み込んできたんですね」
「さすがにな」
「前回は思いとどまって、胸の内に秘めていたのに?」
「それは、触れたら俺が刺されそうだったから」
「身の危険を冒してまで、今回は踏み込んだわけですか」
「綾瀬が分かりやすいからな」
「どこがですか?」
「病棟で藤崎先生のことを考えてる顔をしてた」
「してません」
即答した。
けれど、顔が熱くなる。
理久が横で、少しだけ笑っている気配がした。
「り……藤崎先生も笑わないでください」
危ない。
呼び方を間違えそうになった。
及川はそれも聞き逃さなかった。
「今、り、って言いかけたよな」
「言ってません」
美月は即答した。
「言った」
「疲労です」
「疲労、便利すぎ」
及川が笑う。
理久は観念したように、グラスを置いた。
「及川」
「はい」
「どこまで気づいてる?」
及川は少しだけ真面目な顔になった。
「屋形船の時には、藤崎先生が綾瀬を特別に見てるのは分かりました」
美月は黙った。
理久も否定しなかった。
「触れるなって言ってきたじゃないですか」
理久は目を細めて、及川を見た。
「あの時は、何でそこまで言うのかと思いましたけど」
及川は美月を見る。
「思い返すと、先生はずっと、綾瀬のことを見てないようで見てたんですよね」
美月は目を伏せた。
「その後、綾瀬に聞いたら、否定されなかったし」
「……それで?」
「そうなんだなって、確信しました」
及川は肩をすくめる。
「その後も、先生は何もないように振る舞ってたし、綾瀬も病棟ではきっちり距離を取ってたから、俺も触れないようにしてましたけど」
一度言葉を切って、及川は理久と美月を交互に見た。
「さすがに、もう無理です」
理久の目が、少しだけ動いた。
「何か、ありましたよね」
理久は少しだけ黙った。
それから、一度、美月を見た。
「言ってもいい?」
美月は少しだけ迷った。
けれど、及川の目はもう茶化していなかった。
美月は小さく頷く。
「うん」
理久は及川へ向き直った。
「美月さんと婚約した」
及川が、数秒固まった。
本当に、珍しく何も言わなかった。
それから、ゆっくり美月を見る。
「……マジで?」
美月は小さく頷いた。
「うん」
及川は今度は理久を見る。
「それ、病棟には」
「まだ言っていない」
理久が答える。
「留学の可能性も含めて、美月さんの仕事のことは、これから順番に相談していく」
及川は黙った。
その表情から、この前病棟で交わした会話を思い出しているのが分かった。
10Aを離れる可能性を、考えています。
美月が言った言葉。
及川は、グラスを見つめながら小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
けれど、その一言は軽くなかった。
「だからか」
美月は及川を見る。
「何がですか」
「この前の顔」
及川は少しだけ笑った。
「腹決める前の顔って言っただろ」
「……まだ決めたわけじゃないです」
「分かってる」
及川は頷いた。
「でも、そういうことかって思っただけ」
それから、及川は一度だけ理久を見た。
何か言いかけたように見えた。
けれど、結局言わなかった。
理久と美月の間に、及川が口を挟むことではない。
たぶん、そう思ったのだ。
及川はビールを一口飲み、いつもより少しだけ低い声で言った。
「誰にも言わねぇよ」
美月は何も言えなかった。
「婚約のことも、10Aのことも。綾瀬が話す前に、俺が勝手に言うことじゃないだろ」
美月が黙っていると、及川は少しだけ眉を上げた。
「疑ってる?」
「……少し」
「正直だな」
及川は箸で美月を指しそうになり、理久の視線に気づいて箸を下ろした。
「こう見えて、俺、綾瀬の味方だから」
美月は少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「何だよ、その意外そうな顔」
「意外でした」
「おい」
理久が小さく笑った。
及川は少し不満そうにビールを飲む。
「まあ、先生の味方かは分かんないっすけど」
理久は落ち着いて答えた。
「美月の味方なら、それでいいよ」
及川は一瞬黙った。
それから、少しだけ目を逸らす。
「そういうこと言うから王子なんすよ」
「王子はやめて」
「無理っす」
「じゃあ、せめて人前では」
「ここ、身内しかいないじゃないすか」
及川はそう言って、グラスを持ち上げた。
「じゃあ、改めて」
理久と美月を見る。
今度は、さっきより少しだけ真面目な顔だった。
「婚約おめでとうございます」
美月の胸が静かに温かくなった。
「ありがとう」
理久もグラスを持つ。
「ありがとう」
三人のグラスが、軽く触れた。
小さな音がした。
及川はすぐにいつもの顔に戻る。
「で、いつから綾瀬は藤崎先生のこと“りく”って呼んでんの?」
美月はむせそうになった。
「ちょっと」
理久は横で笑っている。
「それは聞かなくていい」
「気になるじゃないすか」
「気にしなくていい」
「先生、独占欲出てますよ」
「出てるね」
「認めるんすか」
「隠す必要ないでしょ、ここでは」
美月は顔を覆いたくなった。
及川が大笑いする。
「うわ、やっぱ進展してる」
「及川くん、うるさいです」
「だって面白いだろ。病棟のクール綾瀬が」
「黙って食べてください」
「はいはい」
運ばれてきた温かい料理の湯気が、テーブルの上に広がる。
美月は箸を取った。
お腹が空いていたことを、ようやく思い出す。
理久が隣でさりげなく取り皿を渡してくれる。
及川はそれを見て、また何か言いたそうな顔をした。
けれど、今度は黙った。
美月は少しだけ笑った。
日常が戻ってきた。
でも、その日常は少しずつ変わっていく。
看護師としてこの病棟にいる時間。
及川とこうしてくだらない言い合いをする時間。
理久が藤崎先生の顔で隣にいる時間。
全部、いつか懐かしくなるのかもしれない。
美月は温かい料理を口に運びながら、左手を一瞬だけ意識した。
今は指輪はつけていない。
でも、そこには確かに重みが残っている。
そして、目の前の及川は、それを知った。
秘密がひとつ、味方になった夜だった。
まだ、何かが具体的に決まったわけではない。
退職するのか。
休職という形があるのか。
時期はどうするのか。
そもそも、自分が本当に10Aを離れるのか。
何も決定していない。
けれど、一度言葉にしたことで、胸の中にあった重さは少しだけ形を変えていた。
不安が消えたわけではない。
ただ、ひとりで抱え込んでいた時より、自分が何を怖がっているのかは見え始めていた。
その日、美月は準夜勤だった。
準夜勤の10Aは、日勤とは違う空気をしている。
面会時間が終わり、病棟は少しずつ夜へ向かっていく。
日中のような慌ただしさはない。
けれど、静けさの中に気を抜けない緊張がある。
美月はいつも通り、ひとつずつ確認していった。
休憩に入れたのは、予定より少し遅い時間だった。
軽く食べられるものを買おうと思い、美月は院内のコンビニへ向かった。
夜の院内コンビニは、昼間とはまるで違う。
棚の前に立つ人も少なく、レジ横の照明だけがやけに明るく見える。
美月はおにぎりをひとつと、温かいお茶を取った。
その時、隣の棚の前から軽い声がした。
「綾瀬」
顔を上げると、及川が立っていた。
白衣のポケットに片手を入れ、もう片方の手でおにぎりを取ろうとしている。
「及川くん」
「今日、準夜?」
「見れば分かるでしょう」
「分かるけど、確認」
及川は棚からおにぎりをひとつ取った。
「終わったら飯行かない?」
美月はおにぎりを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「準夜明けですよ」
「だから、ちゃんと食べて帰れって話」
「及川くんに言われると、説得力があるような、ないような」
「あるだろ」
「微妙です」
及川は笑って、おにぎりを手の中で軽く持ち直した。
「この前の話も、少し聞きたいし」
美月の手が止まった。
この前の話。
10Aを離れるかもしれない、と言ったこと。
「……それは、勤務明けにする話ですか」
「飯食いながらなら、少しは重くならないだろ」
「及川くんがいる時点で、重くはなりにくいでしょうね」
「今の褒めた?」
「いいえ」
「即答だな」
美月は少しだけ息を吐いた。
嫌ではなかった。
けれど、簡単に頷く気にもなれなかった。
自分の中でまだ整理しきれていないものを、誰かに聞かれるのは少し怖い。
及川相手ならなおさら、軽く見抜かれそうで困る。
「考えておきます」
「それ、だいたい来ない時の返事じゃん」
「分かっているなら聞かないでください」
及川が何か言い返そうとした時、白衣のポケットで院内端末が鳴った。
短い電子音が、コンビニの明るい空気を切る。
及川は画面を見て、顔をしかめた。
「呼ばれた」
「行ってください」
「冷たい」
「業務です」
「また連絡する」
「無理なら返しません」
「じゃあ、返したら来るってことで」
「そうは言っていません」
及川は返事を聞かずに、軽く手を上げてコンビニを出ていった。
美月はしばらくその背中を見ていた。
相変わらず唐突で、雑で、こちらの都合を聞いているようで聞いていない。
けれど、及川が「この前の話」と言った時の声は、いつもより少しだけ真面目だった。
美月は手元のおにぎりに視線を落とす。
行かない。
そう思ったはずなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
その後の勤務は、大きなトラブルなく進んだ。
急変はなかった。
けれど、準夜明けには身体の奥に疲労が残る。
記録を終えて更衣室へ向かう頃、美月はようやく空腹に気づいた。
スマートフォンが震えたのは、その時だった。
及川からだった。
『10分後、裏門。
さっきの続き。
腹減ってるだろ。』
美月は画面を見つめた。
「……結局、命令形」
小さく呟いて、返信する。
『少しだけなら。』
送信してから、すぐに後悔した。
どうせ及川は「少しだけ」を守らない。
美月は更衣室へ向かった。
制服から私服に着替え、最低限の身だしなみを整える。
鏡に映る自分は、完全に準夜明けの顔をしていた。
外に出るなら、せめて少しだけ整えておきたい。
美月は薄く口紅を塗り、すぐにポーチを閉じた。
裏門へ向かう廊下は、夜の病院特有の静けさがあった。
日中とは違い、人の気配が少ない。
蛍光灯の光が少し冷たく、外へ近づくほど夜風の気配が強くなる。
裏門が見えた。
その先に、男のシルエットが二つ。
一人はすぐに分かる。
立ち方がやたらと軽い及川。
もう一人は、少し離れて立っている理久だった。
美月は足を止めかけた。
聞いていない。
及川は片手を上げた。
「遅い」
「10分後と言ったのは及川くんです」
美月が返した瞬間、理久がこちらを見た。
少し驚いたような表情だった。
その顔を見て、美月はすぐに分かった。
理久も、自分が来ることを知らなかったのだ。
「及川、スペシャルゲストって……綾瀬さんのこと?」
理久の小さな声が聞こえた。
美月は聞こえなかったことにした。
及川は悪びれない。
「準夜明けの綾瀬を回収しました」
「回収って何ですか」
美月が睨むと、及川は肩をすくめた。
「腹減ってるだろ」
「それは否定しませんけど」
美月が小さく返すと、理久が隣で苦笑した。
「及川、せめて事前に説明して」
「説明したら来ないじゃないですか、二人とも」
「自覚はあるんだね」
理久が静かに言う。
及川は胸を張った。
「あります」
「威張るところではありません」
美月が言うと、及川は笑った。
理久の顔は、すぐにいつもの外向きのものへ変わる。
「綾瀬さん、お疲れ様」
藤崎先生の声。
落ち着いていて、丁寧で、少し距離がある。
美月は内心で少しだけ笑いそうになった。
この切り替えは、いつ見ても見事だ。
「お疲れ様です」
職場の外。
でも、まだ病院の敷地内。
及川がいる。
だから、美月も綾瀬看護師の顔をする。
及川が得意げに言った。
「いやー、働いた後は食べないと。藤崎先生も腹減ってるし、綾瀬も腹減ってる。つまり平和」
「勝手にまとめないでください」
美月が返す。
「いいじゃん。どうせ帰っても何も食べないだろ」
「食べます」
「何を」
「……何か」
「ほら」
及川はさっさと歩き出した。
美月は呆れながら後を追う。
理久はその様子を見て、少しだけ笑っていた。
三人で病院から少し離れた、小さな飲み屋に入った。
遅い時間でも開いている店だった。
派手さはない。
でも、温かい照明と、少し油の香りがする空気が、準夜明けの身体には妙に染みる。
「こっちこっち」
及川が奥の席へ向かう。
そして、当然のように理久の隣を指した。
「綾瀬、こっち」
「なぜそこを指定するんですか」
「準夜明けの人は奥。藤崎先生はその隣。俺は入口側」
「勝手に決めないでください」
「まあまあ、座って座って」
「雑ですね」
「及川采配です」
「信用できません」
美月は呆れながらも、結局理久の隣に座った。
理久は何も言わない。
ただ、自然にメニューを美月の方へ少し寄せる。
「何食べる?」
その声も、対外的には普通だった。
丁寧すぎず、近すぎず。
美月は少しだけ理久を見た。
「……何でも」
「準夜明けの何でもは、一番困るやつだね」
「お腹が空きすぎて決められません」
「じゃあ、温かいもの頼もうか」
及川が向かい側でにやにやしている。
「何だよ、その自然なやり取り」
美月はすぐにメニューを見るふりをした。
「普通です」
「普通じゃねぇよ」
「及川くんも、注文係なら早く決めてください」
「扱いの差がすごい」
「日頃の行いです」
「刺さる」
理久が小さく笑った。
ビールが運ばれてくる。
グラスが三つ。
及川が声を少し落として、やたら楽しそうに持ち上げた。
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「藤崎先生と綾瀬に乾杯」
美月はグラスを持ったまま固まった。
理久も、グラスを持つ手を一瞬止めた。
及川は楽しそうに笑っている。
「先生、隠しても無理っすよ」
理久は黙って及川を見る。
美月も、チラッと理久を見た。
理久の表情は穏やかだった。
でも、目だけが少しだけ細くなっている。
美月は小さく息を吐いた。
「及川くん、今回は踏み込んできたんですね」
「さすがにな」
「前回は思いとどまって、胸の内に秘めていたのに?」
「それは、触れたら俺が刺されそうだったから」
「身の危険を冒してまで、今回は踏み込んだわけですか」
「綾瀬が分かりやすいからな」
「どこがですか?」
「病棟で藤崎先生のことを考えてる顔をしてた」
「してません」
即答した。
けれど、顔が熱くなる。
理久が横で、少しだけ笑っている気配がした。
「り……藤崎先生も笑わないでください」
危ない。
呼び方を間違えそうになった。
及川はそれも聞き逃さなかった。
「今、り、って言いかけたよな」
「言ってません」
美月は即答した。
「言った」
「疲労です」
「疲労、便利すぎ」
及川が笑う。
理久は観念したように、グラスを置いた。
「及川」
「はい」
「どこまで気づいてる?」
及川は少しだけ真面目な顔になった。
「屋形船の時には、藤崎先生が綾瀬を特別に見てるのは分かりました」
美月は黙った。
理久も否定しなかった。
「触れるなって言ってきたじゃないですか」
理久は目を細めて、及川を見た。
「あの時は、何でそこまで言うのかと思いましたけど」
及川は美月を見る。
「思い返すと、先生はずっと、綾瀬のことを見てないようで見てたんですよね」
美月は目を伏せた。
「その後、綾瀬に聞いたら、否定されなかったし」
「……それで?」
「そうなんだなって、確信しました」
及川は肩をすくめる。
「その後も、先生は何もないように振る舞ってたし、綾瀬も病棟ではきっちり距離を取ってたから、俺も触れないようにしてましたけど」
一度言葉を切って、及川は理久と美月を交互に見た。
「さすがに、もう無理です」
理久の目が、少しだけ動いた。
「何か、ありましたよね」
理久は少しだけ黙った。
それから、一度、美月を見た。
「言ってもいい?」
美月は少しだけ迷った。
けれど、及川の目はもう茶化していなかった。
美月は小さく頷く。
「うん」
理久は及川へ向き直った。
「美月さんと婚約した」
及川が、数秒固まった。
本当に、珍しく何も言わなかった。
それから、ゆっくり美月を見る。
「……マジで?」
美月は小さく頷いた。
「うん」
及川は今度は理久を見る。
「それ、病棟には」
「まだ言っていない」
理久が答える。
「留学の可能性も含めて、美月さんの仕事のことは、これから順番に相談していく」
及川は黙った。
その表情から、この前病棟で交わした会話を思い出しているのが分かった。
10Aを離れる可能性を、考えています。
美月が言った言葉。
及川は、グラスを見つめながら小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
けれど、その一言は軽くなかった。
「だからか」
美月は及川を見る。
「何がですか」
「この前の顔」
及川は少しだけ笑った。
「腹決める前の顔って言っただろ」
「……まだ決めたわけじゃないです」
「分かってる」
及川は頷いた。
「でも、そういうことかって思っただけ」
それから、及川は一度だけ理久を見た。
何か言いかけたように見えた。
けれど、結局言わなかった。
理久と美月の間に、及川が口を挟むことではない。
たぶん、そう思ったのだ。
及川はビールを一口飲み、いつもより少しだけ低い声で言った。
「誰にも言わねぇよ」
美月は何も言えなかった。
「婚約のことも、10Aのことも。綾瀬が話す前に、俺が勝手に言うことじゃないだろ」
美月が黙っていると、及川は少しだけ眉を上げた。
「疑ってる?」
「……少し」
「正直だな」
及川は箸で美月を指しそうになり、理久の視線に気づいて箸を下ろした。
「こう見えて、俺、綾瀬の味方だから」
美月は少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「何だよ、その意外そうな顔」
「意外でした」
「おい」
理久が小さく笑った。
及川は少し不満そうにビールを飲む。
「まあ、先生の味方かは分かんないっすけど」
理久は落ち着いて答えた。
「美月の味方なら、それでいいよ」
及川は一瞬黙った。
それから、少しだけ目を逸らす。
「そういうこと言うから王子なんすよ」
「王子はやめて」
「無理っす」
「じゃあ、せめて人前では」
「ここ、身内しかいないじゃないすか」
及川はそう言って、グラスを持ち上げた。
「じゃあ、改めて」
理久と美月を見る。
今度は、さっきより少しだけ真面目な顔だった。
「婚約おめでとうございます」
美月の胸が静かに温かくなった。
「ありがとう」
理久もグラスを持つ。
「ありがとう」
三人のグラスが、軽く触れた。
小さな音がした。
及川はすぐにいつもの顔に戻る。
「で、いつから綾瀬は藤崎先生のこと“りく”って呼んでんの?」
美月はむせそうになった。
「ちょっと」
理久は横で笑っている。
「それは聞かなくていい」
「気になるじゃないすか」
「気にしなくていい」
「先生、独占欲出てますよ」
「出てるね」
「認めるんすか」
「隠す必要ないでしょ、ここでは」
美月は顔を覆いたくなった。
及川が大笑いする。
「うわ、やっぱ進展してる」
「及川くん、うるさいです」
「だって面白いだろ。病棟のクール綾瀬が」
「黙って食べてください」
「はいはい」
運ばれてきた温かい料理の湯気が、テーブルの上に広がる。
美月は箸を取った。
お腹が空いていたことを、ようやく思い出す。
理久が隣でさりげなく取り皿を渡してくれる。
及川はそれを見て、また何か言いたそうな顔をした。
けれど、今度は黙った。
美月は少しだけ笑った。
日常が戻ってきた。
でも、その日常は少しずつ変わっていく。
看護師としてこの病棟にいる時間。
及川とこうしてくだらない言い合いをする時間。
理久が藤崎先生の顔で隣にいる時間。
全部、いつか懐かしくなるのかもしれない。
美月は温かい料理を口に運びながら、左手を一瞬だけ意識した。
今は指輪はつけていない。
でも、そこには確かに重みが残っている。
そして、目の前の及川は、それを知った。
秘密がひとつ、味方になった夜だった。
