朝の10Aは、いつも通り慌ただしかった。
夜勤者からの申し送り。
検査予定の確認。
内服変更。
点滴更新。
入院予定のベッド調整。
廊下を行き交う看護師の足音と、ナースコールの音。
電子カルテの画面に並ぶ情報。
そのすべてが、美月にはもう身体に染みついていた。
新人の頃は、朝の申し送りだけで息が詰まりそうだった。
何を聞き漏らしてはいけないのか。
どこに線を引けばいいのか。
どの患者の何を優先すべきなのか。
分からないことばかりだった。
今は違う。
申し送りを聞きながら、今日の流れを頭の中で組み立てる。
午前の検査出し。
午後の家族面談。
血糖変動のある患者。
退院調整中の患者。
新人がつく処置。
美月は、手元のメモに必要なことだけを書き足した。
「綾瀬さん、今日、山田さんの検査出し、私が行くんですよね」
隣で後輩の看護師が小声で確認してきた。
「うん。造影CTだから、ルートと同意書、あと内服の確認を先に見ておいて」
「はい」
「不安なら、一回一緒に確認する」
「お願いします」
後輩は、少しほっとした顔をした。
その表情を見て、美月はふと、自分の新人時代を思い出した。
確認が抜けて、先輩に厳しく注意された日。
渡り廊下のベンチ。
あの頃は、ここに立っているだけで必死だった。
誰にも頼らないように。
弱く見えないように。
父の名前に寄りかかっていると思われないように。
ずっと肩に力が入っていた。
その自分が今、後輩に「一緒に確認する」と言っている。
そのことが少し不思議で、少しだけ胸に残った。
「綾瀬さん?」
後輩が不思議そうに見る。
美月は小さく首を振った。
「ごめん。あとで一緒に確認しようか」
「はい」
業務は容赦なく進んでいった。
検査に出る患者に声をかけ、医師に指示の確認をし、患者家族からの質問に答える。
昼前には急な発熱対応が入り、午後には退院前カンファレンスがあった。
新人の頃、10Aの厳しさはただ怖かった。
迷えば遅いと言われ、分からないまま動けば危ないと言われる。
そのたびに、美月は自分の足元ばかり見ていた。
けれど今は、その厳しさの意味が少し分かる。
誰かを責めるためではなく、患者を守るためにある厳しさ。
その中で、美月は少しずつ看護師になっていった。
午後の処置が一段落した頃、及川がナースステーションに顔を出した。
今ではもう、初期研修医ではない。
それなりに経験を積み、病棟でも医師としての顔が板についている。
それでも、美月から見れば、あの頃の軽さもどこか残っていた。
「綾瀬」
「はい」
「外科で併診してる患者さん、午後の尿量を見てから利尿剤の調整を相談したい。記録、後で確認させて」
「分かりました。今のところ尿量は安定しています」
「助かる」
及川は電子カルテを覗き込んだ。
美月も記録を開く。
業務の話をしているはずなのに、及川はふと、美月を見る。
「綾瀬」
「何ですか」
「今日、妙に静かじゃない?」
美月は手を止めた。
「仕事中です」
「いや、それはいつもそうだけど」
「では、いつも通りです」
「そう言われると、そうじゃない気がする」
「曖昧ですね」
「俺の勘、けっこう当たるよ」
「外れることも多いですよね」
「そこは否定しないけど」
及川は軽く笑った。
けれど、それ以上は踏み込まなかった。
視線を患者の記録へ戻す。
「ここまで見れば大丈夫。午後の尿量が出たら教えて」
「はい。こちらから連絡します」
「よろしく」
いつも通りの短いやり取り。
けれど、美月の中では、いつも通りではなかった。
藤崎家へ行った日から、ずっと考えている。
知らないまま怖がるのではなく、知ってから選びたい。
理久の隣に立つ未来を、怖がるだけではなく、ちゃんと見たい。
その気持ちは本物だった。
けれど、それは同時に、10Aを離れる可能性と向き合うことでもあった。
この病棟を離れるかもしれない。
今までと同じ働き方は、できなくなるかもしれない。
そう考えるだけで、胸の奥が重くなる。
自分はここで多くをもらった。
厳しさも。
悔しさも。
同期も。
戦友も。
患者と向き合う時間も。
簡単に手放せるものではなかった。
* * *
夕方、日勤の記録を終え、申し送りまで済ませたあとだった。
美月は更衣室へ向かう前に、少しだけ足を止めた。
誰かに呼ばれたわけではない。
ただ、少し考えたかった。
足が向いたのは、病棟から少し離れた渡り廊下だった。
窓際のベンチ。
新人の頃、何度も自分の感情を置き去りにしてきた場所。
美月はベンチには座らず、窓の前に立った。
外はもう夕方で、ガラスに薄く自分の顔が映っている。
少し疲れて見えた。
「……綾瀬?」
背後から声がした。
振り返ると、及川が立っていた。
白衣のポケットに片手を入れ、少し驚いた顔をしている。
「何してるの」
「少し、考えごとです」
業務外だから、呼び方だけは少し緩む。
及川は窓際のベンチを見て、少しだけ笑った。
「ここに来ると、だいたい何か考えてるよね」
「そうかもしれません」
「昔から」
「……否定できません」
及川は、美月の隣までは来なかった。
少し離れたところで、同じように窓の外を見る。
その距離が、昔と同じだった。
近すぎない。
でも、いなくならない。
「及川くんこそ、どうしてここに?」
「俺も頭を切り替えに来ただけ」
「業務から逃げてきたんですか?」
「人聞き悪いな」
「違うんですか?」
「違うと言い切りたいところではあるけど」
「言い切れないんですね」
「綾瀬、今日も容赦ないね」
いつもの軽さだった。
けれど、その軽さが、今は少しありがたかった。
美月は窓の外を見たまま、静かに言った。
「10Aを離れる可能性を、考えています」
及川はすぐには返事をしなかった。
珍しく、軽い相槌もない。
けれど、驚きすぎた顔もしなかった。
「……そっか」
「まだ決めたわけじゃないです」
「うん」
「でも、考えています」
「そういう顔してた」
美月は及川を見る。
「顔に出てましたか?」
「少し」
「嫌ですね」
「俺くらいしか気づかないと思うよ」
「それはそれで、嫌かも」
「ひどい」
及川は少し笑った。
その笑い方も、昔とあまり変わらない。
「止めてほしいの?」
美月は言葉に詰まった。
止めてほしい。
そう言われると、違う気がした。
でも、何も言われないのも、寂しい気がした。
自分でも面倒だと思う。
「……分からないです」
「じゃあ、止めない」
及川はあっさり言った。
美月は黙った。
「綾瀬が決めることだろ」
その言葉に、美月の胸が少しだけ揺れた。
及川は続ける。
「もちろん、いなくなったら困るよ。綾瀬、仕事できるし。後輩の面倒も見られるし。指示ミスも容赦なく拾ってくれるし」
「最後は及川くんの都合ですね」
「それは大事」
及川は肩をすくめる。
「でも、だから残れとは言わない」
美月は何も言えなかった。
「昔も言ったじゃん。ここでは自分らしくやればいいって」
「覚えてます」
「なら、今も同じだよ」
及川は軽く言った。
「綾瀬が、自分らしく選べばいい」
その言葉は、思ったより深く入ってきた。
自分らしく選ぶ。
それは簡単ではない。
けれど、及川が言うと、少しだけ難しさがほどける。
「及川くん」
「うん」
「軽いですね」
「またそれ?」
「でも、助かります」
及川は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「綾瀬に助かるって言われる日が来るとは」
「取り消します」
「早い早い」
「調子に乗るので」
「乗るよ。全力で」
美月は少しだけ笑った。
その笑いを見て、及川も笑う。
渡り廊下の外は、もう暗くなり始めていた。
あの日の自分は、泣きそうな顔で、誰にも近づかせまいとしていた。
及川の軽さに巻き込まれて。
先輩たちの輪に少しずつ入れてもらって。
厳しさばかりが目についていた10Aが、いつの間にか居場所になっていた。
だから、苦しい。
ここを嫌いになったわけではない。
逃げ出したいわけでもない。
大切だからこそ、ちゃんと考えなければいけない。
「綾瀬」
及川が言った。
「はい」
「師長には?」
美月は、ゆっくり息を吸った。
「相談します」
「そっか」
「決めたわけじゃないから、何をどこまで話すかは考えます」
「うん」
「でも、何も言わずに一人で考えるのは、違う気がするので」
及川は頷いた。
「いいと思う」
その一言は、軽くなかった。
美月は少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
及川はそこで、いつもの顔に戻る。
「でも、今の俺、ちょっといいこと言ったよね」
美月は目を瞬いた。
「自分で言います?」
「言う。誰も褒めてくれないから」
「褒めるほどではないと思います」
「綾瀬、そういうところ」
美月は呆れたように息を吐いた。
けれど、少し笑っていた。
* * *
翌日、午前の処置が一段落したあと、美月は師長室の前で足を止めた。
扉の前に立つだけで、少しだけ胸が重くなる。
何かが決まったわけではない。
辞めると決めたわけでも、異動を願い出ると決めたわけでもない。
それでも、自分の中にある可能性を言葉にするには、勇気がいった。
美月は一度、深く息を吸った。
そして、扉をノックした。
「どうぞ」
中から師長の声がした。
「失礼します」
美月が入ると、師長は書類から顔を上げた。
「綾瀬さん、どうしたの」
美月は、少しだけ指先に力を入れた。
でも、目は逸らさなかった。
「お時間のある時で構いません」
師長が静かに美月を見る。
美月は続けた。
「今後のことで、ご相談したいことがあります」
師長の表情が、少しだけ真面目になる。
「分かった。今日の午後、少し時間を取ろうか」
「ありがとうございます」
言った瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。
決めたわけではない。
まだ何も終わっていない。
けれど美月は初めて、10Aを離れる可能性を、自分の言葉で誰かに差し出した。
自分の場所を、自分で見直すために。
その一歩を、踏み出した。
夜勤者からの申し送り。
検査予定の確認。
内服変更。
点滴更新。
入院予定のベッド調整。
廊下を行き交う看護師の足音と、ナースコールの音。
電子カルテの画面に並ぶ情報。
そのすべてが、美月にはもう身体に染みついていた。
新人の頃は、朝の申し送りだけで息が詰まりそうだった。
何を聞き漏らしてはいけないのか。
どこに線を引けばいいのか。
どの患者の何を優先すべきなのか。
分からないことばかりだった。
今は違う。
申し送りを聞きながら、今日の流れを頭の中で組み立てる。
午前の検査出し。
午後の家族面談。
血糖変動のある患者。
退院調整中の患者。
新人がつく処置。
美月は、手元のメモに必要なことだけを書き足した。
「綾瀬さん、今日、山田さんの検査出し、私が行くんですよね」
隣で後輩の看護師が小声で確認してきた。
「うん。造影CTだから、ルートと同意書、あと内服の確認を先に見ておいて」
「はい」
「不安なら、一回一緒に確認する」
「お願いします」
後輩は、少しほっとした顔をした。
その表情を見て、美月はふと、自分の新人時代を思い出した。
確認が抜けて、先輩に厳しく注意された日。
渡り廊下のベンチ。
あの頃は、ここに立っているだけで必死だった。
誰にも頼らないように。
弱く見えないように。
父の名前に寄りかかっていると思われないように。
ずっと肩に力が入っていた。
その自分が今、後輩に「一緒に確認する」と言っている。
そのことが少し不思議で、少しだけ胸に残った。
「綾瀬さん?」
後輩が不思議そうに見る。
美月は小さく首を振った。
「ごめん。あとで一緒に確認しようか」
「はい」
業務は容赦なく進んでいった。
検査に出る患者に声をかけ、医師に指示の確認をし、患者家族からの質問に答える。
昼前には急な発熱対応が入り、午後には退院前カンファレンスがあった。
新人の頃、10Aの厳しさはただ怖かった。
迷えば遅いと言われ、分からないまま動けば危ないと言われる。
そのたびに、美月は自分の足元ばかり見ていた。
けれど今は、その厳しさの意味が少し分かる。
誰かを責めるためではなく、患者を守るためにある厳しさ。
その中で、美月は少しずつ看護師になっていった。
午後の処置が一段落した頃、及川がナースステーションに顔を出した。
今ではもう、初期研修医ではない。
それなりに経験を積み、病棟でも医師としての顔が板についている。
それでも、美月から見れば、あの頃の軽さもどこか残っていた。
「綾瀬」
「はい」
「外科で併診してる患者さん、午後の尿量を見てから利尿剤の調整を相談したい。記録、後で確認させて」
「分かりました。今のところ尿量は安定しています」
「助かる」
及川は電子カルテを覗き込んだ。
美月も記録を開く。
業務の話をしているはずなのに、及川はふと、美月を見る。
「綾瀬」
「何ですか」
「今日、妙に静かじゃない?」
美月は手を止めた。
「仕事中です」
「いや、それはいつもそうだけど」
「では、いつも通りです」
「そう言われると、そうじゃない気がする」
「曖昧ですね」
「俺の勘、けっこう当たるよ」
「外れることも多いですよね」
「そこは否定しないけど」
及川は軽く笑った。
けれど、それ以上は踏み込まなかった。
視線を患者の記録へ戻す。
「ここまで見れば大丈夫。午後の尿量が出たら教えて」
「はい。こちらから連絡します」
「よろしく」
いつも通りの短いやり取り。
けれど、美月の中では、いつも通りではなかった。
藤崎家へ行った日から、ずっと考えている。
知らないまま怖がるのではなく、知ってから選びたい。
理久の隣に立つ未来を、怖がるだけではなく、ちゃんと見たい。
その気持ちは本物だった。
けれど、それは同時に、10Aを離れる可能性と向き合うことでもあった。
この病棟を離れるかもしれない。
今までと同じ働き方は、できなくなるかもしれない。
そう考えるだけで、胸の奥が重くなる。
自分はここで多くをもらった。
厳しさも。
悔しさも。
同期も。
戦友も。
患者と向き合う時間も。
簡単に手放せるものではなかった。
* * *
夕方、日勤の記録を終え、申し送りまで済ませたあとだった。
美月は更衣室へ向かう前に、少しだけ足を止めた。
誰かに呼ばれたわけではない。
ただ、少し考えたかった。
足が向いたのは、病棟から少し離れた渡り廊下だった。
窓際のベンチ。
新人の頃、何度も自分の感情を置き去りにしてきた場所。
美月はベンチには座らず、窓の前に立った。
外はもう夕方で、ガラスに薄く自分の顔が映っている。
少し疲れて見えた。
「……綾瀬?」
背後から声がした。
振り返ると、及川が立っていた。
白衣のポケットに片手を入れ、少し驚いた顔をしている。
「何してるの」
「少し、考えごとです」
業務外だから、呼び方だけは少し緩む。
及川は窓際のベンチを見て、少しだけ笑った。
「ここに来ると、だいたい何か考えてるよね」
「そうかもしれません」
「昔から」
「……否定できません」
及川は、美月の隣までは来なかった。
少し離れたところで、同じように窓の外を見る。
その距離が、昔と同じだった。
近すぎない。
でも、いなくならない。
「及川くんこそ、どうしてここに?」
「俺も頭を切り替えに来ただけ」
「業務から逃げてきたんですか?」
「人聞き悪いな」
「違うんですか?」
「違うと言い切りたいところではあるけど」
「言い切れないんですね」
「綾瀬、今日も容赦ないね」
いつもの軽さだった。
けれど、その軽さが、今は少しありがたかった。
美月は窓の外を見たまま、静かに言った。
「10Aを離れる可能性を、考えています」
及川はすぐには返事をしなかった。
珍しく、軽い相槌もない。
けれど、驚きすぎた顔もしなかった。
「……そっか」
「まだ決めたわけじゃないです」
「うん」
「でも、考えています」
「そういう顔してた」
美月は及川を見る。
「顔に出てましたか?」
「少し」
「嫌ですね」
「俺くらいしか気づかないと思うよ」
「それはそれで、嫌かも」
「ひどい」
及川は少し笑った。
その笑い方も、昔とあまり変わらない。
「止めてほしいの?」
美月は言葉に詰まった。
止めてほしい。
そう言われると、違う気がした。
でも、何も言われないのも、寂しい気がした。
自分でも面倒だと思う。
「……分からないです」
「じゃあ、止めない」
及川はあっさり言った。
美月は黙った。
「綾瀬が決めることだろ」
その言葉に、美月の胸が少しだけ揺れた。
及川は続ける。
「もちろん、いなくなったら困るよ。綾瀬、仕事できるし。後輩の面倒も見られるし。指示ミスも容赦なく拾ってくれるし」
「最後は及川くんの都合ですね」
「それは大事」
及川は肩をすくめる。
「でも、だから残れとは言わない」
美月は何も言えなかった。
「昔も言ったじゃん。ここでは自分らしくやればいいって」
「覚えてます」
「なら、今も同じだよ」
及川は軽く言った。
「綾瀬が、自分らしく選べばいい」
その言葉は、思ったより深く入ってきた。
自分らしく選ぶ。
それは簡単ではない。
けれど、及川が言うと、少しだけ難しさがほどける。
「及川くん」
「うん」
「軽いですね」
「またそれ?」
「でも、助かります」
及川は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「綾瀬に助かるって言われる日が来るとは」
「取り消します」
「早い早い」
「調子に乗るので」
「乗るよ。全力で」
美月は少しだけ笑った。
その笑いを見て、及川も笑う。
渡り廊下の外は、もう暗くなり始めていた。
あの日の自分は、泣きそうな顔で、誰にも近づかせまいとしていた。
及川の軽さに巻き込まれて。
先輩たちの輪に少しずつ入れてもらって。
厳しさばかりが目についていた10Aが、いつの間にか居場所になっていた。
だから、苦しい。
ここを嫌いになったわけではない。
逃げ出したいわけでもない。
大切だからこそ、ちゃんと考えなければいけない。
「綾瀬」
及川が言った。
「はい」
「師長には?」
美月は、ゆっくり息を吸った。
「相談します」
「そっか」
「決めたわけじゃないから、何をどこまで話すかは考えます」
「うん」
「でも、何も言わずに一人で考えるのは、違う気がするので」
及川は頷いた。
「いいと思う」
その一言は、軽くなかった。
美月は少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
及川はそこで、いつもの顔に戻る。
「でも、今の俺、ちょっといいこと言ったよね」
美月は目を瞬いた。
「自分で言います?」
「言う。誰も褒めてくれないから」
「褒めるほどではないと思います」
「綾瀬、そういうところ」
美月は呆れたように息を吐いた。
けれど、少し笑っていた。
* * *
翌日、午前の処置が一段落したあと、美月は師長室の前で足を止めた。
扉の前に立つだけで、少しだけ胸が重くなる。
何かが決まったわけではない。
辞めると決めたわけでも、異動を願い出ると決めたわけでもない。
それでも、自分の中にある可能性を言葉にするには、勇気がいった。
美月は一度、深く息を吸った。
そして、扉をノックした。
「どうぞ」
中から師長の声がした。
「失礼します」
美月が入ると、師長は書類から顔を上げた。
「綾瀬さん、どうしたの」
美月は、少しだけ指先に力を入れた。
でも、目は逸らさなかった。
「お時間のある時で構いません」
師長が静かに美月を見る。
美月は続けた。
「今後のことで、ご相談したいことがあります」
師長の表情が、少しだけ真面目になる。
「分かった。今日の午後、少し時間を取ろうか」
「ありがとうございます」
言った瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。
決めたわけではない。
まだ何も終わっていない。
けれど美月は初めて、10Aを離れる可能性を、自分の言葉で誰かに差し出した。
自分の場所を、自分で見直すために。
その一歩を、踏み出した。
