光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

10A病棟に、外科の術後患者が入院してくることになった。

その日のナースステーションは、朝から少し慌ただしかった。

週明けの入退院。
検査出し。
点滴更新。
退院前カンファレンス。

そして、午後から上がってくる予定の術後患者。

「今日、外科のオペ後入るって」

日勤帯のナースステーションで、後輩がそう言った。

「え、外科?」

別の看護師が反応する。

「うん。午後に上がってくるらしいよ。術後管理、こっちで見るって」

美月は電子カルテを開きながら、少しだけ嫌な予感がした。

いやいや。

まさかね。

外科医なんて何人もいる。

大学病院の外科なのだから、担当医も後期研修医もスタッフもたくさんいる。

ピンポイントで来るわけがない。

そう思いながら、患者一覧を確認する。

術式。
麻酔時間。
帰室予定。
術後指示。
安静度。
疼痛時指示。
ドレーンの有無。
発熱時の連絡基準。

仕事は仕事だ。

誰が来るかなんて関係ない。

そう思った数分後、ナースステーションの空気が一瞬で変わった。

「……来た」

誰かが小さく言った。

美月は反射的に顔を上げそうになり、それをこらえた。

見ない。

私は関係ない。

外科の先生が来ただけ。

そう思いながらも、周囲のざわつきが耳に入る。

「藤崎先生だ」
「今日こっち来るんだ」
「包交あるって言ってなかった?」
「介助、誰入る?」
「え、見たい」

美月は、ゆっくり視線を上げた。

白衣の藤崎理久が、外科の後期研修医らしき医師と一緒に病棟へ入ってきていた。

穏やかな表情。
柔らかい声。
完璧な距離感。

エレベーターで人の頬のすぐ横に指を止めて、楽しそうに笑っていた男とは思えないくらい、見事に外科医の顔をしている。

「10Aさんで術後管理をお願いしている患者さんの件で、少し処置に入ります」

その一言だけで、ナースステーションがまた少し浮ついた。

「藤崎先生だ……」
「近くで見ると本当に綺麗」
「処置、誰入るの?」

主任が、すぐに低い声で言った。

「仕事しなさい」

ナースステーションが一瞬静かになる。

けれど数秒後には、また小声が漏れる。

「包交、誰入る?」
「私、今手空いてる」
「え、ずるい」
「いや、記録終わってないでしょ」

美月は完全に他人事の顔で、電子カルテに向かった。

関係ない。

私は関係ない。

あんな人は知らない。

その時、主任の声が飛んできた。

「綾瀬さん、入って」

美月の手が止まった。

「……私ですか」

「あなたが一番落ち着いてるから」

げっ。

落ち着いているのではない。

関わりたくないだけだ。

けれど、仕事なので断れない。

「分かりました」

美月は、できるだけいつも通りの声で答えた。

処置車を準備しながら、後輩たちの視線が刺さる。

「綾瀬さん、いいなぁ」
「羨ましい」

美月は心の中でため息をついた。

羨ましくない。

全然、羨ましくない。

むしろ代わってほしい。

でも、もちろん口には出さなかった。

* * *

個室の前で、美月は一度だけ小さく息を吸った。

処置車を押して入室する。

藤崎理久は、すでに患者と家族に説明を終えていた。

「創部の状態を確認します。少しテープを剥がす時に引っ張られる感じがありますが、痛みが強ければすぐ言ってください」

声は穏やかだった。

患者も家族も、安心したように頷いている。

その顔がまた、腹立たしいほど紳士的だった。

患者にも家族にも、看護師にも、誰にでも同じように柔らかい。

みんな、絶対に騙されている。

美月は無表情のまま、処置の準備を始めた。

「ガーゼ、開けます」
「お願いします」

声だけは普通。

仕事だから。

仕事だから大丈夫。

器械台に必要物品を並べる。

手袋。
鑷子。
滅菌ガーゼ。
消毒。
固定テープ。
廃棄物入れ。

美月は淡々と手を動かした。

患者の表情を見ながら、物品の位置を整える。
医師の利き手側に鑷子。
ガーゼはすぐ取れる位置。
テープは剥がしやすいように端を少し折る。

こういう準備は、会話より正直だ。

誰と仕事をするかより、患者にとって安全かどうか。
それだけを考えていればいい。

そう思っていたのに。

藤崎理久が手袋をつけながら、ほんの少しだけ美月の方へ視線を寄せた。

患者には聞こえないくらいの声で言う。

「駅ビルの時も思いましたけど」

美月の手が、わずかに止まった。

「……何ですか」

「指示、短くて分かりやすいですよね」

美月は、目だけで藤崎を睨んだ。

「今、それ言います?」

藤崎理久は、平然とガーゼを受け取りながら、口元だけで笑った。

「思い出したので」
「仕事中です」
「うん。だから小声」

なんつー男。

本当に、なんつー男。

美月は患者に聞こえないよう、低く返した。

「必要な処置をしてください」
「はい。綾瀬さんの指示なので」
「そういう意味ではありません」

藤崎は、ほんの少しだけ笑った。

けれど次の瞬間には、完全に仕事の顔へ戻る。

「創部確認します。少し引っ張られる感じがあります」

手つきは正確だった。

テープを剥がす角度。
創部周囲の皮膚を見る目。
ガーゼに付着した滲出液を確認する速さ。

どれも迷いがない。

それでいて、患者を急かさない。

「痛み、今どれくらいですか」
「少し引っ張られるくらいです」
「分かりました。すぐ終わります」

声かけは丁寧。

患者の表情を見る目も早い。

後期研修医へ出す指示も短く、分かりやすい。

「発赤は軽度。滲出液は少量。感染兆候は今のところ目立ちません」
「明日も同じように確認します」
「発熱、疼痛増強、滲出液増加があれば外科へ連絡してください」

美月は介助しながら思った。

こういうところ。

こういうところで、みんな騙される。

でも同時に、認めざるを得ない。

仕事は、できる。

しかも、処置中の空気の作り方がうまい。

患者を不安にさせない。
家族を置いていかない。
後輩医師に指示を出しても、無駄に威圧しない。

こういう医師は、現場ではやりやすい。

それもまた、腹立たしい。

処置が終わり、藤崎理久は手袋を外した。

「ありがとうございました」

患者には、いつもの柔らかい笑顔。

家族にも簡潔に今後の注意点を説明する。

「今日の状態としては問題ありません。食事や離床については主治医と病棟で確認しながら進めます。何か気になることがあれば、看護師さんへ伝えてください」

美月は処置物を片付けながら、最後の確認をした。

「包交物品、下げます」
「お願いします」

病室を出る。

廊下に出た瞬間、美月は小声で言った。

「さっきの、性格悪いです」

藤崎はカルテを確認しながら、少しだけ笑う。

「褒め言葉?」
「違います」
「でも、ちゃんと覚えてたでしょ」
「忘れたいんですけど」
「俺は結構気に入ってる」

美月は足を止めた。

「何をですか」

藤崎理久が、少しだけこちらを見る。

「俺のこと、知らない人扱いしたところ」

軽い言い方だった。

けれど、少しだけ本音っぽかった。



美月はすぐに視線を逸らした。

「実際、知らなかったので」
「今は?」
「……知りたくなかったです」

藤崎は声を出さずに笑った。

「ひどいな」
「事実です」
「じゃあ、少しずつで」
「何がですか」
「知っていくの」

美月は即答した。

「遠慮します」

藤崎理久は、またあの余裕のある顔で笑う。

「三回言う?」

美月は黙った。

腹立つ。

本当に、腹立つ。

あの職員用エレベーターでのやり取りを、また引っ張ってくるなんて。

こちらの反応を見て、面白がっているのが分かる。

美月は処置車を押しながら、何も言わずにナースステーションへ戻った。

* * *

戻るなり、後輩たちに囲まれた。

「どうでした?」
「藤崎先生、近くで見るとやばくないですか?」
「優しかったですか?」
「包交うまかった?」
「声、穏やかでした?」

主任が再び一喝する。

「仕事しなさい!」

後輩たちは散っていく。

でも、完全には散らない。

小声でまだ騒いでいる。

「やっぱり藤崎先生ってすごいよね」
「綾瀬さん、全然動じてなかった」
「さすが」
「私だったら無理」

美月は処置記録を開きながら、心の中で思った。

みんな、絶対に騙されている。

あの人は外では紳士。

でも、二人になると全然違う。

いや。

二人になったから違うのか?

そこまで考えて、美月はすぐに打ち消した。

違う。

考えない。

私は騙されない。

絶対に。

処置記録を入力する。

創部発赤軽度。
滲出液少量。
疼痛訴え軽度。
包交実施。
医師より、発熱・疼痛増強・滲出液増加時は外科へ連絡指示あり。

ただの記録。

仕事。

それだけ。

少しして、後期研修医がナースステーションへ戻ってきた。

「先ほどの術後の方ですが、次回の包交は明日午前でお願いします。指示はカルテに入れてあります」

美月は顔を上げた。

「分かりました」

その後期研修医の後ろに、藤崎理久がいた。

目が合う。

ほんの一瞬。

藤崎は、周囲には分からないくらい小さく会釈した。

「介助、ありがとうございました」

普通の言葉。

外科医として、看護師へ向けた礼。

それだけ。

なのに、さっきの廊下での声が重なる。

少しずつで。

知っていくの。

美月は表情を変えないようにして、軽く頭を下げた。

「お疲れ様です」

藤崎理久は、それ以上何も言わなかった。

そのまま後期研修医と一緒に病棟を出ていく。

後輩たちがまた小声で言う。

「最後までかっこいい」
「綾瀬さん、普通に対応できるのすごい」
「いや、仕事だからでしょ」

美月は画面を見たまま、静かに息を吐いた。

仕事だから。

そう。

仕事だから普通にできる。

けれど、エレベーターで頬のすぐ横に止まった指先と、さっきの小声のやり取りが、なかなか消えない。

触れられたわけではない。

それなのに、あの距離だけが妙に残っている。

本当に、なんつー男。

美月は処置記録を保存し、次の業務へ移った。

私は騙されない。

そう心の中で繰り返しながら。

それでも、病棟を出ていく白衣の背中を、ほんの一瞬だけ目で追ってしまったことは、誰にも言わないでおこうと思った。