藤崎家へ伺う日、美月は怜子に選んでもらった服を着た。
淡いグレージュのワンピース。
深いネイビーのジャケット。
派手ではない。
けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。
左手には、理久から贈られた指輪をつけた。
仕事の日には外しているその指輪も、今日は外さなかった。
服は、相手に勝つために着るものではない。
自分がその場で呼吸をするために着るもの。
怜子の言葉を思い出し、美月はそっと息を吸った。
手土産も、怜子が教えてくれた店で選んだ。
季節の和菓子。
高すぎず、けれど丁寧に作られたもの。
手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶。
その言葉も、美月の中に残っている。
玄関で理久が美月を見た。
「大丈夫?」
「……大丈夫に見えますか」
「見える」
「本当ですか」
「うん」
理久は少しだけ目元を緩めた。
「その服、似合ってる」
美月は視線を落とす。
「怜子さんが選んでくださったので」
「姉さん、喜ぶだろうね」
「もうお礼は伝えました」
「直接会った時も言うと思う」
「何をですか」
「美月がちゃんと着てくれたって」
美月は少しだけ笑った。
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
* * *
藤崎家は、都内の静かな住宅街にあった。
大きな通りから少し入っただけで、街の音が遠くなる。
門構えは立派だった。
けれど、誇示するような派手さはない。
石畳も、植え込みも、玄関までの道も、隅々まで手入れが行き届いている。
美月は一瞬、言葉を失った。
綾瀬家とは違う。
綾瀬家には、父の気配があった。
強さ。
緊張。
医師としての矜持。
家の中にいても、どこか父の存在が濃かった。
けれど藤崎家は、違った。
静かなのに、圧倒される。
余計なものがないのに、すべてが満たされている。
そういう場所だった。
玄関の扉が開く。
先に出てきたのは、怜子だった。
今日も美しかった。
けれど、前回のサロンで見た時より少しだけ柔らかい。
「いらっしゃい、美月さん」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
美月は深く頭を下げた。
怜子は、美月の服を見ると満足そうに微笑んだ。
「とても似合っているわ」
「怜子さんのおかげです」
「選んだのは私だけれど、着ると決めたのは美月さんでしょう」
その言い方が、自然だった。
美月は少しだけ胸が温かくなる。
怜子は理久を見る。
「理久、ちゃんとエスコートしてきた?」
「してきたよ」
「本当に?」
「疑うところ?」
「あなたは整えすぎることがあるから」
理久は小さく息を吐いた。
「今日まで言う?」
「必要ならいつでも言うわ」
美月は思わず口元を緩めそうになった。
怜子は、それに気づいて少しだけ笑う。
「少し笑えるなら大丈夫ね」
そう言って、二人を中へ招いた。
玄関に入ると、空気がさらに静かになった。
磨かれた床。
控えめに飾られた花。
壁に掛けられた絵。
どれも主張しすぎない。
でも、ひとつひとつが確かだった。
迎えてくれたのは、理久の母だった。
藤崎佳乃。
姿を見た瞬間、理久の母だと分かった。
静かな目元。
柔らかな微笑み。
相手を包むような空気。
理久や怜子の持つ洗練は、この人からも来ているのだと思った。
「美月さんね」
声は穏やかだった。
「お会いできて嬉しいわ」
美月はすぐに頭を下げた。
「はじめまして。綾瀬美月と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、いらしてくださってありがとう」
佳乃は、美月を値踏みするようには見なかった。
ただ、そこに立つ美月をそのまま受け止めるように見ていた。
それだけで、美月の胸の奥にあった緊張が、少しほどけた。
「こちら、心ばかりですが」
美月が手土産を差し出すと、佳乃は両手で受け取った。
「まあ、綺麗な包み」
「季節の和菓子です。お口に合えばよいのですが」
「ありがとう。あとで皆でいただきましょう」
その言い方が、あまりに自然だった。
高価かどうかではない。
珍しいかどうかでもない。
美月が選んで持ってきたものとして、丁寧に受け取ってくれる。
今、自分の挨拶は受け取られたのだ。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
奥の部屋へ案内される。
そこには、理久の父がいた。
藤崎圭一郎。
穏やかに立ち上がり、美月に向かって軽く会釈した。
「よく来てくださいました」
声は低く、落ち着いていた。
綾瀬宗一郎とはまったく違う。
父は、場に入った瞬間に空気を動かす人だった。
相手の芯を掴み、正面から見据える。
藤崎圭一郎は違った。
空気を動かさない。
けれど、その場の土台そのもののように静かにいる。
美月は、別の意味で圧倒された。
「はじめまして。綾瀬美月と申します」
「理久から話は聞いています」
圭一郎は静かに言った。
「どうぞ、楽にしてください」
楽に。
そう言われても、簡単に楽にはなれない。
けれど、その言葉には押しつけがなかった。
楽にしなさい、ではない。
楽にしていい。
そう言われているようだった。
席に着くと、佳乃が自然にお茶を勧めた。
美月は一瞬、どのタイミングで手を伸ばすべきか迷った。
その迷いに気づいたのか、佳乃が先に湯呑みに手を添えた。
「どうぞ。冷めないうちに」
「あ、ありがとうございます」
美月は佳乃の動きを見てから、湯呑みに手を添えた。
湯呑みは温かく、指先に少しずつ熱が移る。
理久が隣で小さく言った。
「無理に飲まなくていいよ」
その瞬間、佳乃が理久を見る。
「理久」
「何」
「お茶くらい、美月さんが自分で決められるでしょう」
理久は一瞬黙った。
怜子が横で楽しそうに笑っている。
「姉さん、嬉しそうだね」
「ええ。とても」
美月は思わず湯呑みに目を落とした。
笑ってしまいそうだった。
いつもこちらを先回りして助けてくれる理久が、この家では少しだけ先回りを止められている。
それが不思議で、少し可愛かった。
食事は、驚くほど穏やかに進んだ。
藤崎家の食卓には、声の大きい人はいなかった。
誰かが場を支配するわけでもない。
けれど、話題が途切れることもなく、誰かが置いていかれることもない。
美月が少し迷えば、佳乃が先に箸を置く。
湯呑みに手を伸ばすタイミングに迷えば、怜子が自然に同じ動きをする。
それは教えるというより、そっと道を作ってくれるようだった。
美月は、少しずつ呼吸を取り戻していった。
圭一郎は多くを語る人ではなかった。
けれど、美月が話す時は必ず顔を向ける。
相槌は少ない。
でも、一言一言をきちんと受け取っているようだった。
「看護師を続けてこられたことは、理久から聞いています」
圭一郎が言った。
「はい」
「病院という場所で働くのは、体力だけでなく、気力も要るでしょう」
美月は少し驚いた。
理久の父から、そういう言葉が出ると思っていなかった。
「はい。大変なこともあります」
「でしょうね」
圭一郎は静かに頷いた。
「人の痛みに近い場所にいる仕事ですから」
その言葉に、美月は胸を打たれた。
看護師という仕事を、軽く見ていない。
理久の父は、美月を理久についていく人としてだけ見ているのではない。
美月が立ってきた場所も、ちゃんと見ようとしてくれている。
「留学の話もあると聞いています」
圭一郎は続けた。
美月の背筋が、少し伸びる。
理久が静かに答えた。
「はい。まだ、正式に決まった話ではありません」
「まだ正式に決まっていないなら、なおさら今から話しておくべきだろう」
その声は静かだった。
責めるような響きではない。
けれど、言葉そのものは甘くなかった。
圭一郎は理久を見た。
「理久」
「はい」
「美月さんが考える時間を、急がせるな」
理久は静かに頷いた。
「分かっています」
「お前は整えすぎるところがある」
美月は思わず怜子を見た。
怜子が少しだけ微笑んでいる。
理久は、もう諦めたように小さく息を吐いた。
「家族全員に言われるとは思わなかった」
「言われるだけの自覚があるなら、気をつけなさい」
圭一郎の声は穏やかだった。
けれど、しっかり理久に届いている。
佳乃が柔らかく笑う。
「理久は昔から、先に全部並べてしまうところがあるものね」
「母さんまで」
「だって本当でしょう」
怜子が涼しい顔で頷いた。
「本当ね」
「姉さんは黙ってて」
「無理ね」
美月は、とうとう小さく笑ってしまった。
理久がこちらを見る。
少し困ったような顔。
その表情を見て、美月の胸の奥がふっと緩んだ。
ここでは、理久は完璧な外科医でも、余裕のある恋人でもない。
藤崎家の息子だった。
その姿が、美月には少しだけ愛おしかった。
食事が一段落したころ、圭一郎が静かに湯呑みを置いた。
「美月さん」
「はい」
「うちは、親族の付き合いが少し多い家です」
空気が、少しだけ変わった。
理久が父を見る。
「父さん」
圭一郎は理久を見た。
「先に伝えておく方が誠実だろう」
理久は黙った。
圭一郎は美月へ視線を戻す。
「悪い人間ばかりではありません。ただ、見る人は見る。藤崎の家に関わる人として、あなたを見る人もいるでしょう」
美月は、湯呑みを持つ指に少しだけ力を込めた。
怜子が静かに口を挟む。
「怖がらせる言い方ね」
「事実を言った」
「事実でも、順番というものがあるわ」
理久が小さく息を吐いた。
「それ、姉さんが言う?」
「私は予習をしたでしょう」
「圧強めの予習だったけどね」
「効果はあったはずよ」
佳乃が、ふふ、と小さく笑った。
一気に張りつめかけた空気が、少しだけ緩む。
圭一郎も、ほんのわずかに口元を動かした。
「脅しているわけではありません」
圭一郎は改めて言った。
「ただ、知らないまま疲れるより、知っていた方がいい」
その言葉は、怜子の言葉と似ていた。
美月はゆっくり頷いた。
「はい」
声が少し緊張していた。
でも、逃げてはいなかった。
「分からないことは、きちんと聞きます」
圭一郎は美月を見た。
「それでいいと思います」
短い言葉だった。
けれど、美月には十分だった。
佳乃が、そこで穏やかに言った。
「最初から慣れる必要はないわ」
美月は佳乃を見る。
「分からないことがあれば、その都度知っていけばいいの」
その言葉が、胸の中に静かに落ちた。
知っていけばいい。
知らないことを責められるのではなく。
知らないから入れないのでもなく。
これから知っていくことを許されている。
それが分かっただけで、美月は少しだけ息がしやすくなった。
「ありがとうございます」
美月は、静かに頭を下げた。
「私、知らないことが多いと思います」
「誰でもそうよ」
佳乃は穏やかに頷いた。
美月は少しだけ息を吸った。
「でも、知りたいです」
理久が、美月を見る。
怜子も、黙って美月を見ていた。
美月は、もう一度言った。
「理久の隣に立つなら、知らないまま怖がるのではなく、ちゃんと知っていきたいです」
佳乃の目元が、ほんの少し柔らかくなった。
「その気持ちがあれば十分よ」
圭一郎も、静かに頷いた。
「理久」
「はい」
「聞いたな」
「はい」
「なら、お前も覚えておきなさい」
理久は少しだけ苦笑した。
「分かっています」
怜子がすかさず言う。
「本当に?」
「姉さん」
「大事なことだから」
「分かってるよ」
美月はまた少し笑ってしまった。
その笑いに気づいて、怜子が満足そうに目を細める。
「ね、大丈夫でしょう」
「何がですか」
「この家、怖いだけではなかったでしょう」
美月は一瞬、言葉に詰まった。
怜子の言葉は、やっぱり強い。
でも、今日その強さに何度も助けられた。
「はい」
美月は素直に頷いた。
「少し、分かりました」
怜子は嬉しそうに微笑んだ。
食事を終え、玄関へ向かう。
来た時には遠く感じた廊下が、帰りには少しだけ違って見えた。
磨かれた床。
静かな花。
壁に掛けられた絵。
どれもまだ慣れない。
でも、もうただ圧倒されるだけではなかった。
この家は、美月を追い出そうとしていない。
理久の隣に立つ人として、静かに迎えようとしてくれている。
車に乗る前、佳乃が美月に言った。
「またいらしてね」
「はい」
「今度は、お茶だけでも」
その言葉に、美月は一瞬驚いた。
社交辞令ではないと分かったからだ。
「よろしいんですか」
佳乃は少しだけ笑った。
「もちろん。いろいろお話ししましょう」
怜子が横から言う。
「母は教えるのが上手よ。私より優しいし」
「怜子」
佳乃がたしなめるように言う。
怜子は涼しい顔で微笑んだ。
「本当のことでしょう」
理久は隣で小さく息を吐いた。
「姉さんは最後まで姉さんだね」
「あなたの姉だから」
「そこは否定できない」
そのやり取りに、美月はまた少し笑った。
* * *
帰りの車の中、美月はしばらく黙っていた。
理久は急かさなかった。
窓の外を流れる街灯を見ながら、美月はゆっくり言った。
「理久」
「うん」
「今日、少し分かった気がします」
「何を?」
「私が怖かったのは、知らない世界に入ることだけじゃなくて、知らないまま置いていかれることだったんだと思います」
理久は黙って聞いていた。
「でも、理久のお母様も、怜子さんも、知らないことを責める人ではありませんでした」
「うん」
「だから、知っていきたいと思いました」
美月は左手の指輪に触れた。
「看護師を続けることも、もし一緒に向こうへ行くことになった時のことも、まだ簡単には決められません」
「うん」
「でも、どちらを選ぶとしても、それは逃げるためではなく、自分で選ぶためにしたい」
理久の表情が、少し変わった。
「美月」
「今すぐ答えを出すわけではありません」
美月は理久を見る。
「でも、ちゃんと考えます。理久の隣に立つ未来を、怖がるだけではなくて、知ってから選びたいです」
理久は、静かに美月の手を取った。
「ありがとう」
それだけだった。
でも、美月には十分だった。
藤崎家という場所は、まだ遠い。
けれど、もうただ怖いだけの場所ではなかった。
知っていけばいい。
その言葉が、胸の中で静かに灯っていた。
淡いグレージュのワンピース。
深いネイビーのジャケット。
派手ではない。
けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。
左手には、理久から贈られた指輪をつけた。
仕事の日には外しているその指輪も、今日は外さなかった。
服は、相手に勝つために着るものではない。
自分がその場で呼吸をするために着るもの。
怜子の言葉を思い出し、美月はそっと息を吸った。
手土産も、怜子が教えてくれた店で選んだ。
季節の和菓子。
高すぎず、けれど丁寧に作られたもの。
手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶。
その言葉も、美月の中に残っている。
玄関で理久が美月を見た。
「大丈夫?」
「……大丈夫に見えますか」
「見える」
「本当ですか」
「うん」
理久は少しだけ目元を緩めた。
「その服、似合ってる」
美月は視線を落とす。
「怜子さんが選んでくださったので」
「姉さん、喜ぶだろうね」
「もうお礼は伝えました」
「直接会った時も言うと思う」
「何をですか」
「美月がちゃんと着てくれたって」
美月は少しだけ笑った。
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
* * *
藤崎家は、都内の静かな住宅街にあった。
大きな通りから少し入っただけで、街の音が遠くなる。
門構えは立派だった。
けれど、誇示するような派手さはない。
石畳も、植え込みも、玄関までの道も、隅々まで手入れが行き届いている。
美月は一瞬、言葉を失った。
綾瀬家とは違う。
綾瀬家には、父の気配があった。
強さ。
緊張。
医師としての矜持。
家の中にいても、どこか父の存在が濃かった。
けれど藤崎家は、違った。
静かなのに、圧倒される。
余計なものがないのに、すべてが満たされている。
そういう場所だった。
玄関の扉が開く。
先に出てきたのは、怜子だった。
今日も美しかった。
けれど、前回のサロンで見た時より少しだけ柔らかい。
「いらっしゃい、美月さん」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
美月は深く頭を下げた。
怜子は、美月の服を見ると満足そうに微笑んだ。
「とても似合っているわ」
「怜子さんのおかげです」
「選んだのは私だけれど、着ると決めたのは美月さんでしょう」
その言い方が、自然だった。
美月は少しだけ胸が温かくなる。
怜子は理久を見る。
「理久、ちゃんとエスコートしてきた?」
「してきたよ」
「本当に?」
「疑うところ?」
「あなたは整えすぎることがあるから」
理久は小さく息を吐いた。
「今日まで言う?」
「必要ならいつでも言うわ」
美月は思わず口元を緩めそうになった。
怜子は、それに気づいて少しだけ笑う。
「少し笑えるなら大丈夫ね」
そう言って、二人を中へ招いた。
玄関に入ると、空気がさらに静かになった。
磨かれた床。
控えめに飾られた花。
壁に掛けられた絵。
どれも主張しすぎない。
でも、ひとつひとつが確かだった。
迎えてくれたのは、理久の母だった。
藤崎佳乃。
姿を見た瞬間、理久の母だと分かった。
静かな目元。
柔らかな微笑み。
相手を包むような空気。
理久や怜子の持つ洗練は、この人からも来ているのだと思った。
「美月さんね」
声は穏やかだった。
「お会いできて嬉しいわ」
美月はすぐに頭を下げた。
「はじめまして。綾瀬美月と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、いらしてくださってありがとう」
佳乃は、美月を値踏みするようには見なかった。
ただ、そこに立つ美月をそのまま受け止めるように見ていた。
それだけで、美月の胸の奥にあった緊張が、少しほどけた。
「こちら、心ばかりですが」
美月が手土産を差し出すと、佳乃は両手で受け取った。
「まあ、綺麗な包み」
「季節の和菓子です。お口に合えばよいのですが」
「ありがとう。あとで皆でいただきましょう」
その言い方が、あまりに自然だった。
高価かどうかではない。
珍しいかどうかでもない。
美月が選んで持ってきたものとして、丁寧に受け取ってくれる。
今、自分の挨拶は受け取られたのだ。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
奥の部屋へ案内される。
そこには、理久の父がいた。
藤崎圭一郎。
穏やかに立ち上がり、美月に向かって軽く会釈した。
「よく来てくださいました」
声は低く、落ち着いていた。
綾瀬宗一郎とはまったく違う。
父は、場に入った瞬間に空気を動かす人だった。
相手の芯を掴み、正面から見据える。
藤崎圭一郎は違った。
空気を動かさない。
けれど、その場の土台そのもののように静かにいる。
美月は、別の意味で圧倒された。
「はじめまして。綾瀬美月と申します」
「理久から話は聞いています」
圭一郎は静かに言った。
「どうぞ、楽にしてください」
楽に。
そう言われても、簡単に楽にはなれない。
けれど、その言葉には押しつけがなかった。
楽にしなさい、ではない。
楽にしていい。
そう言われているようだった。
席に着くと、佳乃が自然にお茶を勧めた。
美月は一瞬、どのタイミングで手を伸ばすべきか迷った。
その迷いに気づいたのか、佳乃が先に湯呑みに手を添えた。
「どうぞ。冷めないうちに」
「あ、ありがとうございます」
美月は佳乃の動きを見てから、湯呑みに手を添えた。
湯呑みは温かく、指先に少しずつ熱が移る。
理久が隣で小さく言った。
「無理に飲まなくていいよ」
その瞬間、佳乃が理久を見る。
「理久」
「何」
「お茶くらい、美月さんが自分で決められるでしょう」
理久は一瞬黙った。
怜子が横で楽しそうに笑っている。
「姉さん、嬉しそうだね」
「ええ。とても」
美月は思わず湯呑みに目を落とした。
笑ってしまいそうだった。
いつもこちらを先回りして助けてくれる理久が、この家では少しだけ先回りを止められている。
それが不思議で、少し可愛かった。
食事は、驚くほど穏やかに進んだ。
藤崎家の食卓には、声の大きい人はいなかった。
誰かが場を支配するわけでもない。
けれど、話題が途切れることもなく、誰かが置いていかれることもない。
美月が少し迷えば、佳乃が先に箸を置く。
湯呑みに手を伸ばすタイミングに迷えば、怜子が自然に同じ動きをする。
それは教えるというより、そっと道を作ってくれるようだった。
美月は、少しずつ呼吸を取り戻していった。
圭一郎は多くを語る人ではなかった。
けれど、美月が話す時は必ず顔を向ける。
相槌は少ない。
でも、一言一言をきちんと受け取っているようだった。
「看護師を続けてこられたことは、理久から聞いています」
圭一郎が言った。
「はい」
「病院という場所で働くのは、体力だけでなく、気力も要るでしょう」
美月は少し驚いた。
理久の父から、そういう言葉が出ると思っていなかった。
「はい。大変なこともあります」
「でしょうね」
圭一郎は静かに頷いた。
「人の痛みに近い場所にいる仕事ですから」
その言葉に、美月は胸を打たれた。
看護師という仕事を、軽く見ていない。
理久の父は、美月を理久についていく人としてだけ見ているのではない。
美月が立ってきた場所も、ちゃんと見ようとしてくれている。
「留学の話もあると聞いています」
圭一郎は続けた。
美月の背筋が、少し伸びる。
理久が静かに答えた。
「はい。まだ、正式に決まった話ではありません」
「まだ正式に決まっていないなら、なおさら今から話しておくべきだろう」
その声は静かだった。
責めるような響きではない。
けれど、言葉そのものは甘くなかった。
圭一郎は理久を見た。
「理久」
「はい」
「美月さんが考える時間を、急がせるな」
理久は静かに頷いた。
「分かっています」
「お前は整えすぎるところがある」
美月は思わず怜子を見た。
怜子が少しだけ微笑んでいる。
理久は、もう諦めたように小さく息を吐いた。
「家族全員に言われるとは思わなかった」
「言われるだけの自覚があるなら、気をつけなさい」
圭一郎の声は穏やかだった。
けれど、しっかり理久に届いている。
佳乃が柔らかく笑う。
「理久は昔から、先に全部並べてしまうところがあるものね」
「母さんまで」
「だって本当でしょう」
怜子が涼しい顔で頷いた。
「本当ね」
「姉さんは黙ってて」
「無理ね」
美月は、とうとう小さく笑ってしまった。
理久がこちらを見る。
少し困ったような顔。
その表情を見て、美月の胸の奥がふっと緩んだ。
ここでは、理久は完璧な外科医でも、余裕のある恋人でもない。
藤崎家の息子だった。
その姿が、美月には少しだけ愛おしかった。
食事が一段落したころ、圭一郎が静かに湯呑みを置いた。
「美月さん」
「はい」
「うちは、親族の付き合いが少し多い家です」
空気が、少しだけ変わった。
理久が父を見る。
「父さん」
圭一郎は理久を見た。
「先に伝えておく方が誠実だろう」
理久は黙った。
圭一郎は美月へ視線を戻す。
「悪い人間ばかりではありません。ただ、見る人は見る。藤崎の家に関わる人として、あなたを見る人もいるでしょう」
美月は、湯呑みを持つ指に少しだけ力を込めた。
怜子が静かに口を挟む。
「怖がらせる言い方ね」
「事実を言った」
「事実でも、順番というものがあるわ」
理久が小さく息を吐いた。
「それ、姉さんが言う?」
「私は予習をしたでしょう」
「圧強めの予習だったけどね」
「効果はあったはずよ」
佳乃が、ふふ、と小さく笑った。
一気に張りつめかけた空気が、少しだけ緩む。
圭一郎も、ほんのわずかに口元を動かした。
「脅しているわけではありません」
圭一郎は改めて言った。
「ただ、知らないまま疲れるより、知っていた方がいい」
その言葉は、怜子の言葉と似ていた。
美月はゆっくり頷いた。
「はい」
声が少し緊張していた。
でも、逃げてはいなかった。
「分からないことは、きちんと聞きます」
圭一郎は美月を見た。
「それでいいと思います」
短い言葉だった。
けれど、美月には十分だった。
佳乃が、そこで穏やかに言った。
「最初から慣れる必要はないわ」
美月は佳乃を見る。
「分からないことがあれば、その都度知っていけばいいの」
その言葉が、胸の中に静かに落ちた。
知っていけばいい。
知らないことを責められるのではなく。
知らないから入れないのでもなく。
これから知っていくことを許されている。
それが分かっただけで、美月は少しだけ息がしやすくなった。
「ありがとうございます」
美月は、静かに頭を下げた。
「私、知らないことが多いと思います」
「誰でもそうよ」
佳乃は穏やかに頷いた。
美月は少しだけ息を吸った。
「でも、知りたいです」
理久が、美月を見る。
怜子も、黙って美月を見ていた。
美月は、もう一度言った。
「理久の隣に立つなら、知らないまま怖がるのではなく、ちゃんと知っていきたいです」
佳乃の目元が、ほんの少し柔らかくなった。
「その気持ちがあれば十分よ」
圭一郎も、静かに頷いた。
「理久」
「はい」
「聞いたな」
「はい」
「なら、お前も覚えておきなさい」
理久は少しだけ苦笑した。
「分かっています」
怜子がすかさず言う。
「本当に?」
「姉さん」
「大事なことだから」
「分かってるよ」
美月はまた少し笑ってしまった。
その笑いに気づいて、怜子が満足そうに目を細める。
「ね、大丈夫でしょう」
「何がですか」
「この家、怖いだけではなかったでしょう」
美月は一瞬、言葉に詰まった。
怜子の言葉は、やっぱり強い。
でも、今日その強さに何度も助けられた。
「はい」
美月は素直に頷いた。
「少し、分かりました」
怜子は嬉しそうに微笑んだ。
食事を終え、玄関へ向かう。
来た時には遠く感じた廊下が、帰りには少しだけ違って見えた。
磨かれた床。
静かな花。
壁に掛けられた絵。
どれもまだ慣れない。
でも、もうただ圧倒されるだけではなかった。
この家は、美月を追い出そうとしていない。
理久の隣に立つ人として、静かに迎えようとしてくれている。
車に乗る前、佳乃が美月に言った。
「またいらしてね」
「はい」
「今度は、お茶だけでも」
その言葉に、美月は一瞬驚いた。
社交辞令ではないと分かったからだ。
「よろしいんですか」
佳乃は少しだけ笑った。
「もちろん。いろいろお話ししましょう」
怜子が横から言う。
「母は教えるのが上手よ。私より優しいし」
「怜子」
佳乃がたしなめるように言う。
怜子は涼しい顔で微笑んだ。
「本当のことでしょう」
理久は隣で小さく息を吐いた。
「姉さんは最後まで姉さんだね」
「あなたの姉だから」
「そこは否定できない」
そのやり取りに、美月はまた少し笑った。
* * *
帰りの車の中、美月はしばらく黙っていた。
理久は急かさなかった。
窓の外を流れる街灯を見ながら、美月はゆっくり言った。
「理久」
「うん」
「今日、少し分かった気がします」
「何を?」
「私が怖かったのは、知らない世界に入ることだけじゃなくて、知らないまま置いていかれることだったんだと思います」
理久は黙って聞いていた。
「でも、理久のお母様も、怜子さんも、知らないことを責める人ではありませんでした」
「うん」
「だから、知っていきたいと思いました」
美月は左手の指輪に触れた。
「看護師を続けることも、もし一緒に向こうへ行くことになった時のことも、まだ簡単には決められません」
「うん」
「でも、どちらを選ぶとしても、それは逃げるためではなく、自分で選ぶためにしたい」
理久の表情が、少し変わった。
「美月」
「今すぐ答えを出すわけではありません」
美月は理久を見る。
「でも、ちゃんと考えます。理久の隣に立つ未来を、怖がるだけではなくて、知ってから選びたいです」
理久は、静かに美月の手を取った。
「ありがとう」
それだけだった。
でも、美月には十分だった。
藤崎家という場所は、まだ遠い。
けれど、もうただ怖いだけの場所ではなかった。
知っていけばいい。
その言葉が、胸の中で静かに灯っていた。
