光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

藤崎家へ伺う日、美月は怜子に選んでもらった服を着た。

淡いグレージュのワンピース。

深いネイビーのジャケット。

派手ではない。

けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。

左手には、理久から贈られた指輪をつけた。

仕事の日には外しているその指輪も、今日は外さなかった。

服は、相手に勝つために着るものではない。

自分がその場で呼吸をするために着るもの。

怜子の言葉を思い出し、美月はそっと息を吸った。

手土産も、怜子が教えてくれた店で選んだ。

季節の和菓子。

高すぎず、けれど丁寧に作られたもの。

手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶。

その言葉も、美月の中に残っている。

玄関で理久が美月を見た。

「大丈夫?」

「……大丈夫に見えますか」

「見える」

「本当ですか」

「うん」

理久は少しだけ目元を緩めた。

「その服、似合ってる」

美月は視線を落とす。

「怜子さんが選んでくださったので」

「姉さん、喜ぶだろうね」

「もうお礼は伝えました」

「直接会った時も言うと思う」

「何をですか」

「美月がちゃんと着てくれたって」

美月は少しだけ笑った。

その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。

* * *

藤崎家は、都内の静かな住宅街にあった。

大きな通りから少し入っただけで、街の音が遠くなる。

門構えは立派だった。

けれど、誇示するような派手さはない。

石畳も、植え込みも、玄関までの道も、隅々まで手入れが行き届いている。

美月は一瞬、言葉を失った。

綾瀬家とは違う。

綾瀬家には、父の気配があった。

強さ。

緊張。

医師としての矜持。

家の中にいても、どこか父の存在が濃かった。

けれど藤崎家は、違った。

静かなのに、圧倒される。

余計なものがないのに、すべてが満たされている。

そういう場所だった。

玄関の扉が開く。

先に出てきたのは、怜子だった。

今日も美しかった。

けれど、前回のサロンで見た時より少しだけ柔らかい。

「いらっしゃい、美月さん」

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

美月は深く頭を下げた。

怜子は、美月の服を見ると満足そうに微笑んだ。

「とても似合っているわ」

「怜子さんのおかげです」

「選んだのは私だけれど、着ると決めたのは美月さんでしょう」

その言い方が、自然だった。

美月は少しだけ胸が温かくなる。

怜子は理久を見る。

「理久、ちゃんとエスコートしてきた?」

「してきたよ」

「本当に?」

「疑うところ?」

「あなたは整えすぎることがあるから」

理久は小さく息を吐いた。

「今日まで言う?」

「必要ならいつでも言うわ」

美月は思わず口元を緩めそうになった。

怜子は、それに気づいて少しだけ笑う。

「少し笑えるなら大丈夫ね」

そう言って、二人を中へ招いた。

玄関に入ると、空気がさらに静かになった。

磨かれた床。

控えめに飾られた花。

壁に掛けられた絵。

どれも主張しすぎない。

でも、ひとつひとつが確かだった。

迎えてくれたのは、理久の母だった。

藤崎佳乃。

姿を見た瞬間、理久の母だと分かった。

静かな目元。

柔らかな微笑み。

相手を包むような空気。

理久や怜子の持つ洗練は、この人からも来ているのだと思った。

「美月さんね」

声は穏やかだった。

「お会いできて嬉しいわ」

美月はすぐに頭を下げた。

「はじめまして。綾瀬美月と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」

「こちらこそ、いらしてくださってありがとう」

佳乃は、美月を値踏みするようには見なかった。

ただ、そこに立つ美月をそのまま受け止めるように見ていた。

それだけで、美月の胸の奥にあった緊張が、少しほどけた。

「こちら、心ばかりですが」

美月が手土産を差し出すと、佳乃は両手で受け取った。

「まあ、綺麗な包み」

「季節の和菓子です。お口に合えばよいのですが」

「ありがとう。あとで皆でいただきましょう」

その言い方が、あまりに自然だった。

高価かどうかではない。

珍しいかどうかでもない。

美月が選んで持ってきたものとして、丁寧に受け取ってくれる。

今、自分の挨拶は受け取られたのだ。

そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。

奥の部屋へ案内される。

そこには、理久の父がいた。

藤崎圭一郎。

穏やかに立ち上がり、美月に向かって軽く会釈した。

「よく来てくださいました」

声は低く、落ち着いていた。

綾瀬宗一郎とはまったく違う。

父は、場に入った瞬間に空気を動かす人だった。

相手の芯を掴み、正面から見据える。

藤崎圭一郎は違った。

空気を動かさない。

けれど、その場の土台そのもののように静かにいる。

美月は、別の意味で圧倒された。

「はじめまして。綾瀬美月と申します」

「理久から話は聞いています」

圭一郎は静かに言った。

「どうぞ、楽にしてください」

楽に。

そう言われても、簡単に楽にはなれない。

けれど、その言葉には押しつけがなかった。

楽にしなさい、ではない。

楽にしていい。

そう言われているようだった。

席に着くと、佳乃が自然にお茶を勧めた。

美月は一瞬、どのタイミングで手を伸ばすべきか迷った。

その迷いに気づいたのか、佳乃が先に湯呑みに手を添えた。

「どうぞ。冷めないうちに」

「あ、ありがとうございます」

美月は佳乃の動きを見てから、湯呑みに手を添えた。

湯呑みは温かく、指先に少しずつ熱が移る。

理久が隣で小さく言った。

「無理に飲まなくていいよ」

その瞬間、佳乃が理久を見る。

「理久」

「何」

「お茶くらい、美月さんが自分で決められるでしょう」

理久は一瞬黙った。

怜子が横で楽しそうに笑っている。

「姉さん、嬉しそうだね」

「ええ。とても」

美月は思わず湯呑みに目を落とした。

笑ってしまいそうだった。

いつもこちらを先回りして助けてくれる理久が、この家では少しだけ先回りを止められている。

それが不思議で、少し可愛かった。

食事は、驚くほど穏やかに進んだ。

藤崎家の食卓には、声の大きい人はいなかった。

誰かが場を支配するわけでもない。

けれど、話題が途切れることもなく、誰かが置いていかれることもない。

美月が少し迷えば、佳乃が先に箸を置く。

湯呑みに手を伸ばすタイミングに迷えば、怜子が自然に同じ動きをする。

それは教えるというより、そっと道を作ってくれるようだった。

美月は、少しずつ呼吸を取り戻していった。

圭一郎は多くを語る人ではなかった。

けれど、美月が話す時は必ず顔を向ける。

相槌は少ない。

でも、一言一言をきちんと受け取っているようだった。

「看護師を続けてこられたことは、理久から聞いています」

圭一郎が言った。

「はい」

「病院という場所で働くのは、体力だけでなく、気力も要るでしょう」

美月は少し驚いた。

理久の父から、そういう言葉が出ると思っていなかった。

「はい。大変なこともあります」

「でしょうね」

圭一郎は静かに頷いた。

「人の痛みに近い場所にいる仕事ですから」

その言葉に、美月は胸を打たれた。

看護師という仕事を、軽く見ていない。

理久の父は、美月を理久についていく人としてだけ見ているのではない。

美月が立ってきた場所も、ちゃんと見ようとしてくれている。

「留学の話もあると聞いています」

圭一郎は続けた。

美月の背筋が、少し伸びる。

理久が静かに答えた。

「はい。まだ、正式に決まった話ではありません」

「まだ正式に決まっていないなら、なおさら今から話しておくべきだろう」

その声は静かだった。

責めるような響きではない。

けれど、言葉そのものは甘くなかった。

圭一郎は理久を見た。

「理久」

「はい」

「美月さんが考える時間を、急がせるな」

理久は静かに頷いた。

「分かっています」

「お前は整えすぎるところがある」

美月は思わず怜子を見た。

怜子が少しだけ微笑んでいる。

理久は、もう諦めたように小さく息を吐いた。

「家族全員に言われるとは思わなかった」

「言われるだけの自覚があるなら、気をつけなさい」

圭一郎の声は穏やかだった。

けれど、しっかり理久に届いている。

佳乃が柔らかく笑う。

「理久は昔から、先に全部並べてしまうところがあるものね」

「母さんまで」

「だって本当でしょう」

怜子が涼しい顔で頷いた。

「本当ね」

「姉さんは黙ってて」

「無理ね」

美月は、とうとう小さく笑ってしまった。

理久がこちらを見る。

少し困ったような顔。

その表情を見て、美月の胸の奥がふっと緩んだ。

ここでは、理久は完璧な外科医でも、余裕のある恋人でもない。

藤崎家の息子だった。

その姿が、美月には少しだけ愛おしかった。

食事が一段落したころ、圭一郎が静かに湯呑みを置いた。

「美月さん」

「はい」

「うちは、親族の付き合いが少し多い家です」

空気が、少しだけ変わった。

理久が父を見る。

「父さん」

圭一郎は理久を見た。

「先に伝えておく方が誠実だろう」

理久は黙った。

圭一郎は美月へ視線を戻す。

「悪い人間ばかりではありません。ただ、見る人は見る。藤崎の家に関わる人として、あなたを見る人もいるでしょう」

美月は、湯呑みを持つ指に少しだけ力を込めた。

怜子が静かに口を挟む。

「怖がらせる言い方ね」

「事実を言った」

「事実でも、順番というものがあるわ」

理久が小さく息を吐いた。

「それ、姉さんが言う?」

「私は予習をしたでしょう」

「圧強めの予習だったけどね」

「効果はあったはずよ」

佳乃が、ふふ、と小さく笑った。

一気に張りつめかけた空気が、少しだけ緩む。

圭一郎も、ほんのわずかに口元を動かした。

「脅しているわけではありません」

圭一郎は改めて言った。

「ただ、知らないまま疲れるより、知っていた方がいい」

その言葉は、怜子の言葉と似ていた。

美月はゆっくり頷いた。

「はい」

声が少し緊張していた。

でも、逃げてはいなかった。

「分からないことは、きちんと聞きます」

圭一郎は美月を見た。

「それでいいと思います」

短い言葉だった。

けれど、美月には十分だった。

佳乃が、そこで穏やかに言った。

「最初から慣れる必要はないわ」

美月は佳乃を見る。

「分からないことがあれば、その都度知っていけばいいの」

その言葉が、胸の中に静かに落ちた。

知っていけばいい。

知らないことを責められるのではなく。

知らないから入れないのでもなく。

これから知っていくことを許されている。

それが分かっただけで、美月は少しだけ息がしやすくなった。

「ありがとうございます」

美月は、静かに頭を下げた。

「私、知らないことが多いと思います」

「誰でもそうよ」

佳乃は穏やかに頷いた。

美月は少しだけ息を吸った。

「でも、知りたいです」

理久が、美月を見る。

怜子も、黙って美月を見ていた。

美月は、もう一度言った。

「理久の隣に立つなら、知らないまま怖がるのではなく、ちゃんと知っていきたいです」

佳乃の目元が、ほんの少し柔らかくなった。

「その気持ちがあれば十分よ」

圭一郎も、静かに頷いた。

「理久」

「はい」

「聞いたな」

「はい」

「なら、お前も覚えておきなさい」

理久は少しだけ苦笑した。

「分かっています」

怜子がすかさず言う。

「本当に?」

「姉さん」

「大事なことだから」

「分かってるよ」

美月はまた少し笑ってしまった。

その笑いに気づいて、怜子が満足そうに目を細める。

「ね、大丈夫でしょう」

「何がですか」

「この家、怖いだけではなかったでしょう」

美月は一瞬、言葉に詰まった。

怜子の言葉は、やっぱり強い。

でも、今日その強さに何度も助けられた。

「はい」

美月は素直に頷いた。

「少し、分かりました」

怜子は嬉しそうに微笑んだ。

食事を終え、玄関へ向かう。

来た時には遠く感じた廊下が、帰りには少しだけ違って見えた。

磨かれた床。

静かな花。

壁に掛けられた絵。

どれもまだ慣れない。

でも、もうただ圧倒されるだけではなかった。

この家は、美月を追い出そうとしていない。

理久の隣に立つ人として、静かに迎えようとしてくれている。

車に乗る前、佳乃が美月に言った。

「またいらしてね」

「はい」

「今度は、お茶だけでも」

その言葉に、美月は一瞬驚いた。

社交辞令ではないと分かったからだ。

「よろしいんですか」

佳乃は少しだけ笑った。

「もちろん。いろいろお話ししましょう」

怜子が横から言う。

「母は教えるのが上手よ。私より優しいし」

「怜子」

佳乃がたしなめるように言う。

怜子は涼しい顔で微笑んだ。

「本当のことでしょう」

理久は隣で小さく息を吐いた。

「姉さんは最後まで姉さんだね」

「あなたの姉だから」

「そこは否定できない」

そのやり取りに、美月はまた少し笑った。

* * *

帰りの車の中、美月はしばらく黙っていた。

理久は急かさなかった。

窓の外を流れる街灯を見ながら、美月はゆっくり言った。

「理久」

「うん」

「今日、少し分かった気がします」

「何を?」

「私が怖かったのは、知らない世界に入ることだけじゃなくて、知らないまま置いていかれることだったんだと思います」

理久は黙って聞いていた。

「でも、理久のお母様も、怜子さんも、知らないことを責める人ではありませんでした」

「うん」

「だから、知っていきたいと思いました」

美月は左手の指輪に触れた。

「看護師を続けることも、もし一緒に向こうへ行くことになった時のことも、まだ簡単には決められません」

「うん」

「でも、どちらを選ぶとしても、それは逃げるためではなく、自分で選ぶためにしたい」

理久の表情が、少し変わった。

「美月」

「今すぐ答えを出すわけではありません」

美月は理久を見る。

「でも、ちゃんと考えます。理久の隣に立つ未来を、怖がるだけではなくて、知ってから選びたいです」

理久は、静かに美月の手を取った。

「ありがとう」

それだけだった。

でも、美月には十分だった。

藤崎家という場所は、まだ遠い。

けれど、もうただ怖いだけの場所ではなかった。

知っていけばいい。

その言葉が、胸の中で静かに灯っていた。