光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

綾瀬家への挨拶を終えて、数日が過ぎた。

夕食のあと、理久はめずらしく少しだけ言いにくそうな顔をした。

「美月」

「はい」

「姉が、美月に会いたいって」

美月は手にしていたカップを止めた。

「お姉さん、ですか」

「うん」

「ご実家に伺う前に?」

「そう」

理久の表情が、わずかに曇る。

美月はそれを見逃さなかった。

「……理久」

「何」

「もしかして、苦手なんですか」

「苦手ではない」

答えが早かった。

早すぎる。

美月はじっと理久を見る。

「苦手ではないけれど、会わせるのは気が進まない、ということですか」

理久はカップを置いた。

「姉さんは、悪い人ではない」

「はい」

「ただ、強い」

「強い」

「そして、遠慮がない」

美月は少しだけ緊張した。

理久がそこまで言う相手。

それは、相当手強いのではないだろうか。

「怖い方なんですか」

「怖くはない」

理久は少し考えてから言った。

「逃げ場がないだけ」

「それは怖いのでは」

「否定しきれない……かな」

美月は思わず黙った。

理久は小さく息を吐く。

「でも、大丈夫。美月を困らせるために会いたいわけじゃないと思う」

「思う?」

「そこは断言しにくいかな」

「理久」

「ごめん」

謝り方が早い。

その時点で、美月はますます不安になった。

けれど、理久の姉。

理久を育てた家の人。

いずれ会う相手なら、先に会う方がいいのかもしれない。

美月はカップを置き、静かに頷いた。

「お会いします」

理久が少しだけ目を細める。

「無理しなくていいよ」

「無理ではありません」

「本当に?」

「はい」

美月は一拍置いた。

「ただ、かなり緊張しています」

理久は少し笑った。

「正直でいいね」

「理久がそこまで警戒している方なので」

「警戒はしてないよ」

「では、何ですか」

「対策」

「もっと怖いです」

理久は、否定しなかった。

* * *

数日後、美月は理久に連れられて、青山の静かな通りを歩いていた。

行き先は、怜子が指定したという予約制のサロンだった。

表に大きな看板はない。

ガラス越しに見えるのは、落ち着いた照明と、整えられた服、奥に続く白い廊下。

一人なら、きっと通り過ぎてしまう場所だと思った。

「……ここですか」

「うん」

「お姉さんが指定されたんですよね」

「そう」

「やはり、とても強い方なのですね」

「強いって言ったでしょ」

理久は扉に手をかけた。

その時、内側からスタッフが静かに扉を開けた。

「藤崎様、お待ちしておりました」

美月は背筋を伸ばした。

中へ入ると、柔らかな照明の奥に、ひとりの女性が立っていた。

綺麗な人だった。

華やかなのに、派手ではない。

穏やかに立っているだけで、その場の空気が自然と整う。

彼女は美月を見ると、にこりと微笑んだ。

「あなたが美月さんね」

美月はすぐに頭を下げた。

「はじめまして。綾瀬美月と申します」

「藤崎怜子です。理久の姉です」

声まで美しかった。

柔らかいのに、隙がない。

美月は一瞬で思った。

これは、手強い。

怜子は理久をちらりと見た。

「やっと会わせてくれたわね」

「姉さん」

理久の声が、少し低くなる。

怜子は少しも動じなかった。

「何?」

「初対面から圧をかけないで」

「圧ではないわ。挨拶よ」

「その挨拶が強いんだよ」

「弱い挨拶をする家ではないでしょう」

美月は、少し笑いそうになった。

いつも余裕があって、何でも先に整えてしまう理久が、怜子の前では少しだけ弟の顔になる。

それだけで、緊張がほんの少し緩んだ。

怜子は美月へ向き直る。

「今日は来てくださってありがとう」

「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」

「そんなに固くならなくて大丈夫よ。今日は面接ではないもの」

美月は少しだけ息を呑む。

怜子はその反応に気づいたように、楽しそうに目を細めた。

「本当に違うわ。今日は、藤崎家へ来る前の予習」

「予習、ですか」

「ええ」

怜子はさらりと言った。

「うちは、少し面倒なの」

「姉さん」

理久がすぐに口を挟む。

「何?」

「その言い方」

「事実でしょう」

「もう少し柔らかく言えない?」

「言えるわ」

怜子は美月を見て、にこりと微笑んだ。

「藤崎家は、一般的なご家庭より、少しだけ見るところが多いの」

美月は返事に迷った。

柔らかい。

けれど、意味はほとんど変わっていない。

「親族付き合いも多いし、場に慣れていないと疲れると思うわ」

怜子は、軽く肩をすくめた。

「私も一度は通った道だから」

美月は思わず怜子を見た。

「怜子さんも、ですか」

「ええ。藤崎家にいる側の私でも、結婚の時はそれなりに面倒だったもの」

怜子は涼しい顔で言った。

「うちの夫なんて、弁護士なのに最初は言葉を選んでいたわ」

「弁護士の方でも、ですか」

「ええ。職業はあまり関係ないわ。藤崎家の親族の前では、誰でも少しは姿勢がよくなるの」

理久が小さく息を吐く。

「だから強いって言ったよね」

「理久」

今度は怜子が理久をたしなめる。

「美月さんの前で姉の悪口を言わないの」

「悪口ではないよ」

「事実でも、言い方というものがあるでしょう」

「どの口が言うの」

怜子は涼しい顔で微笑んだ。

美月は、今度こそ少しだけ笑ってしまった。

怜子がそれを見て、満足そうに頷く。

「笑えるなら大丈夫ね」

「……すみません」

「謝らなくていいわ。理久が家でどういう顔をしているのか、私も少し見たかったし」

「姉さん」

理久の声が、また低くなる。

怜子は美月を見たまま言った。

「それにしても、本当にやっと会えたわ」

「私を、ですか」

「ええ。ずっと気になっていたの」

「ずっと……?」

怜子は悪びれもせず、さらりと言った。

「火事のあと、理久の生活に誰かが入ったのは分かっていたわ」

美月は息を止めた。

思わず理久を見る。

理久が、はっきり嫌そうな顔をした。

「……なんでそこまで分かるの」

「姉の勘よ」

「信用ならないな」

「失礼ね」

怜子は楽しそうに笑った。

美月も聞きたかった。

けれど、理久の顔を見た瞬間、それ以上聞いてはいけない気がした。

怜子は、そんな二人を見て、少しだけ目元を柔らかくした。

「理久が、自分の生活の中に誰かを入れるなんて、今までなかったもの」

その声は軽かった。

けれど、からかいだけではなかった。

「だから、どんな方なのか気になっていたの。早く会いたいと思っていたわ」

美月は、理久を見る。

理久は視線を逸らした。

「……理久」

「何」

「そうだったんですか」

「姉さんが会いたがっていたのは事実」

「理久が全然取り合ってくれなかったのも事実よ」

怜子がすぐに言う。

理久は、低く息を吐いた。

「会わせる必要がある段階じゃなかった」

「そういうところよ」

「何が」

「大事にしているものほど、ぎりぎりまで隠すところ」

理久は黙った。

怜子は、そんな弟を見て少しだけ微笑む。

「でも、もう隠せないでしょう」

理久は怜子を見た。

「隠すつもりはないよ」

その声は静かだった。

怜子は一瞬だけ黙り、それから満足そうに目を細めた。

「なら、よかった」

美月は、そのやり取りを黙って見ていた。

怜子の言葉は鋭い。

けれど、突き放すためのものではなかった。

理久が何を隠して、何を守ろうとしているのか。

その奥まで分かった上で、あえて踏み込んでいる。

そういう人なのだと思った。

怜子は、すぐに空気を切り替えるように手を叩いた。

「では、本題に入りましょう」

「本題」

美月は背筋を伸ばす。

怜子は楽しそうに頷いた。

「藤崎家へ来る日の服を見ましょう」

「服、ですか」

「ええ」

怜子は美しく微笑んだ。

「理久は、あなたに似合う服を選ぶのは上手でしょう。でも、初めて家に来る日の服は、少し意味が違うの」

美月は黙って怜子を見る。

「華やかである必要はないわ。でも、萎縮して見える服はだめ」

その声は優しい。

けれど、はっきりしていた。

「あなたが藤崎家に合わせる必要はない。でも、場に飲まれる必要もないわ」

美月は胸の奥で、その言葉を受け止めた。

藤崎家。

まだ見たことのない家。

理久が育った場所。

そこへ行くことを考えるだけで、少し息が詰まる。

怜子は、それを見抜いたように続けた。

「服は、相手に勝つために着るものではないわ」

美月は顔を上げた。

「自分がその場で呼吸をするために着るものよ」

美月は、ゆっくり頷いた。

「……お願いします」

怜子が選んだのは、淡いグレージュのワンピースだった。

華やかではない。

けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。

深いネイビーのジャケットを羽織ると、さらに落ち着いた。

怜子は美月の後ろに立ち、肩の位置を少しだけ整えた。

「似合っているわ」

「ありがとうございます」

「理久」

「何」

「黙っていないで、あなたも言いなさいよ」

美月は息を止めた。

理久は少しだけ視線を逸らし、それから静かに言った。

「似合ってる」

怜子が満足そうに微笑む。

「最初からそう言えばいいのに」

「言おうとしてたよ」

「遅いのよ」

「姉さん」

「何?」

「美月の前で全部言わないで」

「全部は言っていないわ」

理久はそれ以上言い返さなかった。

美月は、鏡越しに理久を見る。

少し困ったような。

けれど、どこか諦めたような顔。

その表情が新鮮で、少しだけ可愛かった。

いつもの理久にも、敵わない人がいる。

そう思うだけで、藤崎家という場所が、少しだけ遠くなくなった気がした。

服を決めたあと、怜子は手土産にちょうどいい店をいくつか教えてくれた。

「無理に高いものを選ばなくていいわ」

「でも」

「高いものは、うちでは珍しくないから」

美月は一瞬固まった。

理久が横で低く言う。

「姉さん」

「事実でしょう」

怜子は悪びれない。

けれど、その言い方に嫌味はなかった。

「だからこそ、値段で勝とうとしなくていいの」

怜子は、美月を見て静かに微笑んだ。

「手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶よ。相手の好みを少し考えたもの。季節に合うもの。重すぎず、負担にならないもの」

「挨拶……」

「ええ。完璧な答えを出す必要はないわ」

怜子は、理久をちらりと見た。

「この人は何でも先に整えたがるけれど」

「姉さん」

「でも、あなたまで全部整っている必要はないの」

美月は、怜子を見る。

「分からないことは、分からないと言っていいわ」

怜子は続けた。

「藤崎家に合わせようとしすぎなくていい。でも、何も知らないまま不安になる必要もない」

美月は、ゆっくり頷いた。

「……ありがとうございます」

怜子は満足そうに微笑んだ。

「いいの。理久がやっと連れてきた人だもの。少し世話を焼かせて」

理久が小さく息を吐く。

「焼きすぎないで」

「努力するわ」

「信用できないな」

「それは残念」

怜子は、少しも残念そうではなかった。

美月はまた、少し笑ってしまった。

帰り際、怜子は美月に紙袋を渡した。

今日選んだ服。

そして、手土産にちょうどいい店のメモ。

「困ったら、ここから選んで」

「こんなにしていただいて……」

「いいの。これは私がしたかったことだから」

怜子は美しく微笑んだ。

「それに、藤崎家では最初に味方を一人作っておいた方がいいわ」

美月は目を瞬いた。

「味方、ですか」

「ええ」

怜子はにこりと笑った。

「私よ」

その言い方があまりに迷いなくて、美月はまた少し笑ってしまった。

理久は隣で、諦めたように息を吐く。

「頼もしいけど、強引なんだよね」

「頼もしいなら十分でしょう」

「否定はしないかな」

怜子は満足そうに頷いた。

「なら、いいわ」

サロンを出ると、外の空気は少しだけ冷たかった。

帰りの車の中、美月は、膝の上で紙袋をそっと抱えていた。

怜子が選んでくれた服。

教えてくれた言葉。

藤崎家へ行く日は、まだ怖い。

けれど、もうただ怖いだけではなかった。

「理久」

「うん」

「怜子さん、とても素敵な方ですね」

理久は少しだけ苦笑した。

「強かったでしょ」

「はい」

美月は迷わず頷いた。

「でも、優しい方でした」

理久は前を見たまま、ほんの少し表情を和らげた。

「昔から、ああなんだ」

「理久にも、敵わない人がいるんですね」

「いるよ」

理久は即答した。

「しかも、一生勝てないと思う」

美月は小さく笑った。

その笑いに、理久も少しだけ笑う。

藤崎家へ行く日は、まだ緊張する。

でも、怜子の顔を思い出せば、少しだけ息ができる気がした。