綾瀬家への挨拶を終えて、数日が過ぎた。
夕食のあと、理久はめずらしく少しだけ言いにくそうな顔をした。
「美月」
「はい」
「姉が、美月に会いたいって」
美月は手にしていたカップを止めた。
「お姉さん、ですか」
「うん」
「ご実家に伺う前に?」
「そう」
理久の表情が、わずかに曇る。
美月はそれを見逃さなかった。
「……理久」
「何」
「もしかして、苦手なんですか」
「苦手ではない」
答えが早かった。
早すぎる。
美月はじっと理久を見る。
「苦手ではないけれど、会わせるのは気が進まない、ということですか」
理久はカップを置いた。
「姉さんは、悪い人ではない」
「はい」
「ただ、強い」
「強い」
「そして、遠慮がない」
美月は少しだけ緊張した。
理久がそこまで言う相手。
それは、相当手強いのではないだろうか。
「怖い方なんですか」
「怖くはない」
理久は少し考えてから言った。
「逃げ場がないだけ」
「それは怖いのでは」
「否定しきれない……かな」
美月は思わず黙った。
理久は小さく息を吐く。
「でも、大丈夫。美月を困らせるために会いたいわけじゃないと思う」
「思う?」
「そこは断言しにくいかな」
「理久」
「ごめん」
謝り方が早い。
その時点で、美月はますます不安になった。
けれど、理久の姉。
理久を育てた家の人。
いずれ会う相手なら、先に会う方がいいのかもしれない。
美月はカップを置き、静かに頷いた。
「お会いします」
理久が少しだけ目を細める。
「無理しなくていいよ」
「無理ではありません」
「本当に?」
「はい」
美月は一拍置いた。
「ただ、かなり緊張しています」
理久は少し笑った。
「正直でいいね」
「理久がそこまで警戒している方なので」
「警戒はしてないよ」
「では、何ですか」
「対策」
「もっと怖いです」
理久は、否定しなかった。
* * *
数日後、美月は理久に連れられて、青山の静かな通りを歩いていた。
行き先は、怜子が指定したという予約制のサロンだった。
表に大きな看板はない。
ガラス越しに見えるのは、落ち着いた照明と、整えられた服、奥に続く白い廊下。
一人なら、きっと通り過ぎてしまう場所だと思った。
「……ここですか」
「うん」
「お姉さんが指定されたんですよね」
「そう」
「やはり、とても強い方なのですね」
「強いって言ったでしょ」
理久は扉に手をかけた。
その時、内側からスタッフが静かに扉を開けた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
美月は背筋を伸ばした。
中へ入ると、柔らかな照明の奥に、ひとりの女性が立っていた。
綺麗な人だった。
華やかなのに、派手ではない。
穏やかに立っているだけで、その場の空気が自然と整う。
彼女は美月を見ると、にこりと微笑んだ。
「あなたが美月さんね」
美月はすぐに頭を下げた。
「はじめまして。綾瀬美月と申します」
「藤崎怜子です。理久の姉です」
声まで美しかった。
柔らかいのに、隙がない。
美月は一瞬で思った。
これは、手強い。
怜子は理久をちらりと見た。
「やっと会わせてくれたわね」
「姉さん」
理久の声が、少し低くなる。
怜子は少しも動じなかった。
「何?」
「初対面から圧をかけないで」
「圧ではないわ。挨拶よ」
「その挨拶が強いんだよ」
「弱い挨拶をする家ではないでしょう」
美月は、少し笑いそうになった。
いつも余裕があって、何でも先に整えてしまう理久が、怜子の前では少しだけ弟の顔になる。
それだけで、緊張がほんの少し緩んだ。
怜子は美月へ向き直る。
「今日は来てくださってありがとう」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
「そんなに固くならなくて大丈夫よ。今日は面接ではないもの」
美月は少しだけ息を呑む。
怜子はその反応に気づいたように、楽しそうに目を細めた。
「本当に違うわ。今日は、藤崎家へ来る前の予習」
「予習、ですか」
「ええ」
怜子はさらりと言った。
「うちは、少し面倒なの」
「姉さん」
理久がすぐに口を挟む。
「何?」
「その言い方」
「事実でしょう」
「もう少し柔らかく言えない?」
「言えるわ」
怜子は美月を見て、にこりと微笑んだ。
「藤崎家は、一般的なご家庭より、少しだけ見るところが多いの」
美月は返事に迷った。
柔らかい。
けれど、意味はほとんど変わっていない。
「親族付き合いも多いし、場に慣れていないと疲れると思うわ」
怜子は、軽く肩をすくめた。
「私も一度は通った道だから」
美月は思わず怜子を見た。
「怜子さんも、ですか」
「ええ。藤崎家にいる側の私でも、結婚の時はそれなりに面倒だったもの」
怜子は涼しい顔で言った。
「うちの夫なんて、弁護士なのに最初は言葉を選んでいたわ」
「弁護士の方でも、ですか」
「ええ。職業はあまり関係ないわ。藤崎家の親族の前では、誰でも少しは姿勢がよくなるの」
理久が小さく息を吐く。
「だから強いって言ったよね」
「理久」
今度は怜子が理久をたしなめる。
「美月さんの前で姉の悪口を言わないの」
「悪口ではないよ」
「事実でも、言い方というものがあるでしょう」
「どの口が言うの」
怜子は涼しい顔で微笑んだ。
美月は、今度こそ少しだけ笑ってしまった。
怜子がそれを見て、満足そうに頷く。
「笑えるなら大丈夫ね」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。理久が家でどういう顔をしているのか、私も少し見たかったし」
「姉さん」
理久の声が、また低くなる。
怜子は美月を見たまま言った。
「それにしても、本当にやっと会えたわ」
「私を、ですか」
「ええ。ずっと気になっていたの」
「ずっと……?」
怜子は悪びれもせず、さらりと言った。
「火事のあと、理久の生活に誰かが入ったのは分かっていたわ」
美月は息を止めた。
思わず理久を見る。
理久が、はっきり嫌そうな顔をした。
「……なんでそこまで分かるの」
「姉の勘よ」
「信用ならないな」
「失礼ね」
怜子は楽しそうに笑った。
美月も聞きたかった。
けれど、理久の顔を見た瞬間、それ以上聞いてはいけない気がした。
怜子は、そんな二人を見て、少しだけ目元を柔らかくした。
「理久が、自分の生活の中に誰かを入れるなんて、今までなかったもの」
その声は軽かった。
けれど、からかいだけではなかった。
「だから、どんな方なのか気になっていたの。早く会いたいと思っていたわ」
美月は、理久を見る。
理久は視線を逸らした。
「……理久」
「何」
「そうだったんですか」
「姉さんが会いたがっていたのは事実」
「理久が全然取り合ってくれなかったのも事実よ」
怜子がすぐに言う。
理久は、低く息を吐いた。
「会わせる必要がある段階じゃなかった」
「そういうところよ」
「何が」
「大事にしているものほど、ぎりぎりまで隠すところ」
理久は黙った。
怜子は、そんな弟を見て少しだけ微笑む。
「でも、もう隠せないでしょう」
理久は怜子を見た。
「隠すつもりはないよ」
その声は静かだった。
怜子は一瞬だけ黙り、それから満足そうに目を細めた。
「なら、よかった」
美月は、そのやり取りを黙って見ていた。
怜子の言葉は鋭い。
けれど、突き放すためのものではなかった。
理久が何を隠して、何を守ろうとしているのか。
その奥まで分かった上で、あえて踏み込んでいる。
そういう人なのだと思った。
怜子は、すぐに空気を切り替えるように手を叩いた。
「では、本題に入りましょう」
「本題」
美月は背筋を伸ばす。
怜子は楽しそうに頷いた。
「藤崎家へ来る日の服を見ましょう」
「服、ですか」
「ええ」
怜子は美しく微笑んだ。
「理久は、あなたに似合う服を選ぶのは上手でしょう。でも、初めて家に来る日の服は、少し意味が違うの」
美月は黙って怜子を見る。
「華やかである必要はないわ。でも、萎縮して見える服はだめ」
その声は優しい。
けれど、はっきりしていた。
「あなたが藤崎家に合わせる必要はない。でも、場に飲まれる必要もないわ」
美月は胸の奥で、その言葉を受け止めた。
藤崎家。
まだ見たことのない家。
理久が育った場所。
そこへ行くことを考えるだけで、少し息が詰まる。
怜子は、それを見抜いたように続けた。
「服は、相手に勝つために着るものではないわ」
美月は顔を上げた。
「自分がその場で呼吸をするために着るものよ」
美月は、ゆっくり頷いた。
「……お願いします」
怜子が選んだのは、淡いグレージュのワンピースだった。
華やかではない。
けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。
深いネイビーのジャケットを羽織ると、さらに落ち着いた。
怜子は美月の後ろに立ち、肩の位置を少しだけ整えた。
「似合っているわ」
「ありがとうございます」
「理久」
「何」
「黙っていないで、あなたも言いなさいよ」
美月は息を止めた。
理久は少しだけ視線を逸らし、それから静かに言った。
「似合ってる」
怜子が満足そうに微笑む。
「最初からそう言えばいいのに」
「言おうとしてたよ」
「遅いのよ」
「姉さん」
「何?」
「美月の前で全部言わないで」
「全部は言っていないわ」
理久はそれ以上言い返さなかった。
美月は、鏡越しに理久を見る。
少し困ったような。
けれど、どこか諦めたような顔。
その表情が新鮮で、少しだけ可愛かった。
いつもの理久にも、敵わない人がいる。
そう思うだけで、藤崎家という場所が、少しだけ遠くなくなった気がした。
服を決めたあと、怜子は手土産にちょうどいい店をいくつか教えてくれた。
「無理に高いものを選ばなくていいわ」
「でも」
「高いものは、うちでは珍しくないから」
美月は一瞬固まった。
理久が横で低く言う。
「姉さん」
「事実でしょう」
怜子は悪びれない。
けれど、その言い方に嫌味はなかった。
「だからこそ、値段で勝とうとしなくていいの」
怜子は、美月を見て静かに微笑んだ。
「手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶よ。相手の好みを少し考えたもの。季節に合うもの。重すぎず、負担にならないもの」
「挨拶……」
「ええ。完璧な答えを出す必要はないわ」
怜子は、理久をちらりと見た。
「この人は何でも先に整えたがるけれど」
「姉さん」
「でも、あなたまで全部整っている必要はないの」
美月は、怜子を見る。
「分からないことは、分からないと言っていいわ」
怜子は続けた。
「藤崎家に合わせようとしすぎなくていい。でも、何も知らないまま不安になる必要もない」
美月は、ゆっくり頷いた。
「……ありがとうございます」
怜子は満足そうに微笑んだ。
「いいの。理久がやっと連れてきた人だもの。少し世話を焼かせて」
理久が小さく息を吐く。
「焼きすぎないで」
「努力するわ」
「信用できないな」
「それは残念」
怜子は、少しも残念そうではなかった。
美月はまた、少し笑ってしまった。
帰り際、怜子は美月に紙袋を渡した。
今日選んだ服。
そして、手土産にちょうどいい店のメモ。
「困ったら、ここから選んで」
「こんなにしていただいて……」
「いいの。これは私がしたかったことだから」
怜子は美しく微笑んだ。
「それに、藤崎家では最初に味方を一人作っておいた方がいいわ」
美月は目を瞬いた。
「味方、ですか」
「ええ」
怜子はにこりと笑った。
「私よ」
その言い方があまりに迷いなくて、美月はまた少し笑ってしまった。
理久は隣で、諦めたように息を吐く。
「頼もしいけど、強引なんだよね」
「頼もしいなら十分でしょう」
「否定はしないかな」
怜子は満足そうに頷いた。
「なら、いいわ」
サロンを出ると、外の空気は少しだけ冷たかった。
帰りの車の中、美月は、膝の上で紙袋をそっと抱えていた。
怜子が選んでくれた服。
教えてくれた言葉。
藤崎家へ行く日は、まだ怖い。
けれど、もうただ怖いだけではなかった。
「理久」
「うん」
「怜子さん、とても素敵な方ですね」
理久は少しだけ苦笑した。
「強かったでしょ」
「はい」
美月は迷わず頷いた。
「でも、優しい方でした」
理久は前を見たまま、ほんの少し表情を和らげた。
「昔から、ああなんだ」
「理久にも、敵わない人がいるんですね」
「いるよ」
理久は即答した。
「しかも、一生勝てないと思う」
美月は小さく笑った。
その笑いに、理久も少しだけ笑う。
藤崎家へ行く日は、まだ緊張する。
でも、怜子の顔を思い出せば、少しだけ息ができる気がした。
夕食のあと、理久はめずらしく少しだけ言いにくそうな顔をした。
「美月」
「はい」
「姉が、美月に会いたいって」
美月は手にしていたカップを止めた。
「お姉さん、ですか」
「うん」
「ご実家に伺う前に?」
「そう」
理久の表情が、わずかに曇る。
美月はそれを見逃さなかった。
「……理久」
「何」
「もしかして、苦手なんですか」
「苦手ではない」
答えが早かった。
早すぎる。
美月はじっと理久を見る。
「苦手ではないけれど、会わせるのは気が進まない、ということですか」
理久はカップを置いた。
「姉さんは、悪い人ではない」
「はい」
「ただ、強い」
「強い」
「そして、遠慮がない」
美月は少しだけ緊張した。
理久がそこまで言う相手。
それは、相当手強いのではないだろうか。
「怖い方なんですか」
「怖くはない」
理久は少し考えてから言った。
「逃げ場がないだけ」
「それは怖いのでは」
「否定しきれない……かな」
美月は思わず黙った。
理久は小さく息を吐く。
「でも、大丈夫。美月を困らせるために会いたいわけじゃないと思う」
「思う?」
「そこは断言しにくいかな」
「理久」
「ごめん」
謝り方が早い。
その時点で、美月はますます不安になった。
けれど、理久の姉。
理久を育てた家の人。
いずれ会う相手なら、先に会う方がいいのかもしれない。
美月はカップを置き、静かに頷いた。
「お会いします」
理久が少しだけ目を細める。
「無理しなくていいよ」
「無理ではありません」
「本当に?」
「はい」
美月は一拍置いた。
「ただ、かなり緊張しています」
理久は少し笑った。
「正直でいいね」
「理久がそこまで警戒している方なので」
「警戒はしてないよ」
「では、何ですか」
「対策」
「もっと怖いです」
理久は、否定しなかった。
* * *
数日後、美月は理久に連れられて、青山の静かな通りを歩いていた。
行き先は、怜子が指定したという予約制のサロンだった。
表に大きな看板はない。
ガラス越しに見えるのは、落ち着いた照明と、整えられた服、奥に続く白い廊下。
一人なら、きっと通り過ぎてしまう場所だと思った。
「……ここですか」
「うん」
「お姉さんが指定されたんですよね」
「そう」
「やはり、とても強い方なのですね」
「強いって言ったでしょ」
理久は扉に手をかけた。
その時、内側からスタッフが静かに扉を開けた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
美月は背筋を伸ばした。
中へ入ると、柔らかな照明の奥に、ひとりの女性が立っていた。
綺麗な人だった。
華やかなのに、派手ではない。
穏やかに立っているだけで、その場の空気が自然と整う。
彼女は美月を見ると、にこりと微笑んだ。
「あなたが美月さんね」
美月はすぐに頭を下げた。
「はじめまして。綾瀬美月と申します」
「藤崎怜子です。理久の姉です」
声まで美しかった。
柔らかいのに、隙がない。
美月は一瞬で思った。
これは、手強い。
怜子は理久をちらりと見た。
「やっと会わせてくれたわね」
「姉さん」
理久の声が、少し低くなる。
怜子は少しも動じなかった。
「何?」
「初対面から圧をかけないで」
「圧ではないわ。挨拶よ」
「その挨拶が強いんだよ」
「弱い挨拶をする家ではないでしょう」
美月は、少し笑いそうになった。
いつも余裕があって、何でも先に整えてしまう理久が、怜子の前では少しだけ弟の顔になる。
それだけで、緊張がほんの少し緩んだ。
怜子は美月へ向き直る。
「今日は来てくださってありがとう」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
「そんなに固くならなくて大丈夫よ。今日は面接ではないもの」
美月は少しだけ息を呑む。
怜子はその反応に気づいたように、楽しそうに目を細めた。
「本当に違うわ。今日は、藤崎家へ来る前の予習」
「予習、ですか」
「ええ」
怜子はさらりと言った。
「うちは、少し面倒なの」
「姉さん」
理久がすぐに口を挟む。
「何?」
「その言い方」
「事実でしょう」
「もう少し柔らかく言えない?」
「言えるわ」
怜子は美月を見て、にこりと微笑んだ。
「藤崎家は、一般的なご家庭より、少しだけ見るところが多いの」
美月は返事に迷った。
柔らかい。
けれど、意味はほとんど変わっていない。
「親族付き合いも多いし、場に慣れていないと疲れると思うわ」
怜子は、軽く肩をすくめた。
「私も一度は通った道だから」
美月は思わず怜子を見た。
「怜子さんも、ですか」
「ええ。藤崎家にいる側の私でも、結婚の時はそれなりに面倒だったもの」
怜子は涼しい顔で言った。
「うちの夫なんて、弁護士なのに最初は言葉を選んでいたわ」
「弁護士の方でも、ですか」
「ええ。職業はあまり関係ないわ。藤崎家の親族の前では、誰でも少しは姿勢がよくなるの」
理久が小さく息を吐く。
「だから強いって言ったよね」
「理久」
今度は怜子が理久をたしなめる。
「美月さんの前で姉の悪口を言わないの」
「悪口ではないよ」
「事実でも、言い方というものがあるでしょう」
「どの口が言うの」
怜子は涼しい顔で微笑んだ。
美月は、今度こそ少しだけ笑ってしまった。
怜子がそれを見て、満足そうに頷く。
「笑えるなら大丈夫ね」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。理久が家でどういう顔をしているのか、私も少し見たかったし」
「姉さん」
理久の声が、また低くなる。
怜子は美月を見たまま言った。
「それにしても、本当にやっと会えたわ」
「私を、ですか」
「ええ。ずっと気になっていたの」
「ずっと……?」
怜子は悪びれもせず、さらりと言った。
「火事のあと、理久の生活に誰かが入ったのは分かっていたわ」
美月は息を止めた。
思わず理久を見る。
理久が、はっきり嫌そうな顔をした。
「……なんでそこまで分かるの」
「姉の勘よ」
「信用ならないな」
「失礼ね」
怜子は楽しそうに笑った。
美月も聞きたかった。
けれど、理久の顔を見た瞬間、それ以上聞いてはいけない気がした。
怜子は、そんな二人を見て、少しだけ目元を柔らかくした。
「理久が、自分の生活の中に誰かを入れるなんて、今までなかったもの」
その声は軽かった。
けれど、からかいだけではなかった。
「だから、どんな方なのか気になっていたの。早く会いたいと思っていたわ」
美月は、理久を見る。
理久は視線を逸らした。
「……理久」
「何」
「そうだったんですか」
「姉さんが会いたがっていたのは事実」
「理久が全然取り合ってくれなかったのも事実よ」
怜子がすぐに言う。
理久は、低く息を吐いた。
「会わせる必要がある段階じゃなかった」
「そういうところよ」
「何が」
「大事にしているものほど、ぎりぎりまで隠すところ」
理久は黙った。
怜子は、そんな弟を見て少しだけ微笑む。
「でも、もう隠せないでしょう」
理久は怜子を見た。
「隠すつもりはないよ」
その声は静かだった。
怜子は一瞬だけ黙り、それから満足そうに目を細めた。
「なら、よかった」
美月は、そのやり取りを黙って見ていた。
怜子の言葉は鋭い。
けれど、突き放すためのものではなかった。
理久が何を隠して、何を守ろうとしているのか。
その奥まで分かった上で、あえて踏み込んでいる。
そういう人なのだと思った。
怜子は、すぐに空気を切り替えるように手を叩いた。
「では、本題に入りましょう」
「本題」
美月は背筋を伸ばす。
怜子は楽しそうに頷いた。
「藤崎家へ来る日の服を見ましょう」
「服、ですか」
「ええ」
怜子は美しく微笑んだ。
「理久は、あなたに似合う服を選ぶのは上手でしょう。でも、初めて家に来る日の服は、少し意味が違うの」
美月は黙って怜子を見る。
「華やかである必要はないわ。でも、萎縮して見える服はだめ」
その声は優しい。
けれど、はっきりしていた。
「あなたが藤崎家に合わせる必要はない。でも、場に飲まれる必要もないわ」
美月は胸の奥で、その言葉を受け止めた。
藤崎家。
まだ見たことのない家。
理久が育った場所。
そこへ行くことを考えるだけで、少し息が詰まる。
怜子は、それを見抜いたように続けた。
「服は、相手に勝つために着るものではないわ」
美月は顔を上げた。
「自分がその場で呼吸をするために着るものよ」
美月は、ゆっくり頷いた。
「……お願いします」
怜子が選んだのは、淡いグレージュのワンピースだった。
華やかではない。
けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。
深いネイビーのジャケットを羽織ると、さらに落ち着いた。
怜子は美月の後ろに立ち、肩の位置を少しだけ整えた。
「似合っているわ」
「ありがとうございます」
「理久」
「何」
「黙っていないで、あなたも言いなさいよ」
美月は息を止めた。
理久は少しだけ視線を逸らし、それから静かに言った。
「似合ってる」
怜子が満足そうに微笑む。
「最初からそう言えばいいのに」
「言おうとしてたよ」
「遅いのよ」
「姉さん」
「何?」
「美月の前で全部言わないで」
「全部は言っていないわ」
理久はそれ以上言い返さなかった。
美月は、鏡越しに理久を見る。
少し困ったような。
けれど、どこか諦めたような顔。
その表情が新鮮で、少しだけ可愛かった。
いつもの理久にも、敵わない人がいる。
そう思うだけで、藤崎家という場所が、少しだけ遠くなくなった気がした。
服を決めたあと、怜子は手土産にちょうどいい店をいくつか教えてくれた。
「無理に高いものを選ばなくていいわ」
「でも」
「高いものは、うちでは珍しくないから」
美月は一瞬固まった。
理久が横で低く言う。
「姉さん」
「事実でしょう」
怜子は悪びれない。
けれど、その言い方に嫌味はなかった。
「だからこそ、値段で勝とうとしなくていいの」
怜子は、美月を見て静かに微笑んだ。
「手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶よ。相手の好みを少し考えたもの。季節に合うもの。重すぎず、負担にならないもの」
「挨拶……」
「ええ。完璧な答えを出す必要はないわ」
怜子は、理久をちらりと見た。
「この人は何でも先に整えたがるけれど」
「姉さん」
「でも、あなたまで全部整っている必要はないの」
美月は、怜子を見る。
「分からないことは、分からないと言っていいわ」
怜子は続けた。
「藤崎家に合わせようとしすぎなくていい。でも、何も知らないまま不安になる必要もない」
美月は、ゆっくり頷いた。
「……ありがとうございます」
怜子は満足そうに微笑んだ。
「いいの。理久がやっと連れてきた人だもの。少し世話を焼かせて」
理久が小さく息を吐く。
「焼きすぎないで」
「努力するわ」
「信用できないな」
「それは残念」
怜子は、少しも残念そうではなかった。
美月はまた、少し笑ってしまった。
帰り際、怜子は美月に紙袋を渡した。
今日選んだ服。
そして、手土産にちょうどいい店のメモ。
「困ったら、ここから選んで」
「こんなにしていただいて……」
「いいの。これは私がしたかったことだから」
怜子は美しく微笑んだ。
「それに、藤崎家では最初に味方を一人作っておいた方がいいわ」
美月は目を瞬いた。
「味方、ですか」
「ええ」
怜子はにこりと笑った。
「私よ」
その言い方があまりに迷いなくて、美月はまた少し笑ってしまった。
理久は隣で、諦めたように息を吐く。
「頼もしいけど、強引なんだよね」
「頼もしいなら十分でしょう」
「否定はしないかな」
怜子は満足そうに頷いた。
「なら、いいわ」
サロンを出ると、外の空気は少しだけ冷たかった。
帰りの車の中、美月は、膝の上で紙袋をそっと抱えていた。
怜子が選んでくれた服。
教えてくれた言葉。
藤崎家へ行く日は、まだ怖い。
けれど、もうただ怖いだけではなかった。
「理久」
「うん」
「怜子さん、とても素敵な方ですね」
理久は少しだけ苦笑した。
「強かったでしょ」
「はい」
美月は迷わず頷いた。
「でも、優しい方でした」
理久は前を見たまま、ほんの少し表情を和らげた。
「昔から、ああなんだ」
「理久にも、敵わない人がいるんですね」
「いるよ」
理久は即答した。
「しかも、一生勝てないと思う」
美月は小さく笑った。
その笑いに、理久も少しだけ笑う。
藤崎家へ行く日は、まだ緊張する。
でも、怜子の顔を思い出せば、少しだけ息ができる気がした。
