光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

シンポジウム会場から車で少し離れた日本料理店。

理久が予約していたのは、奥の静かな個室だった。

個室に入るまでの動線も、人の目が気にならないように配慮されている。

そういうところまで、理久はきっと考えていた。

窓の外には、都心の灯りが見える。

会場のざわめきから離れると、急に空気が重くなった気がした。

父と母が奥に座り、その向かいに美月と理久が座る。

料理が運ばれ、最初のうちはシンポジウムの話が少しだけ続いた。

けれど父は、理久の質問内容を細かく聞き直すことはしなかった。

会場で、外科医としての藤崎理久はすでに見ている。

今日ここで父が見るのは、たぶん別のものだ。

娘の隣に立つ人としての、理久。

料理が一段落したところで、母が箸を置いた。

父もそれに気づいたように、ゆっくり姿勢を正す。

「さて」

父が言った。

「そろそろ本題か」

美月の心臓が大きく鳴った。

理久は、隣で静かに息を整えたように見えた。

美月は口を開いた。

「お父さん、お母さん」

二人の視線が美月に向く。

「私、藤崎理久さんと結婚したいと思っています」

言った。

言えた。

部屋の空気が静かになる。

母は小さく息を呑み、父は理久を見た。

理久はその視線を受け、ゆっくり姿勢を正した。

そして、深く頭を下げる。

「藤崎理久と申します」

その声は、静かで、揺るがなかった。

「先日、美月さんに結婚を申し込み、受けていただきました。本日は、そのご報告とご挨拶に参りました」

父はしばらく何も言わなかった。

母も黙っていた。

美月は、自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。

やがて母が、美月を見る。

「美月」

「うん」

「あなたが選んだのね」

美月は頷いた。

「うん」

母はそれ以上何も言わなかった。

ただ、少しだけ目元を柔らかくした。

父は、理久から視線を外さなかった。

「藤崎先生」

「はい」

「君か」

その一言には、驚きと、納得と、警戒が混じっていた。

理久は逃げずに答える。

「はい」

父は美月へ視線を向ける。

「私に先に名前を知らせなかったのは、私が動くと思ったからか」

美月は喉が少し乾くのを感じた。

でも、今日は逃げない。

「そうです」

父の眉がわずかに動いた。

美月は続ける。

「お父さんは、名前を聞いたら調べると思ったから」

父は数秒、美月を見た。

そして、低く笑った。

「よく分かっている」

母が横で小さく息を吐く。

父は再び理久を見る。

「いつからだ」

美月が答えようとすると、理久が先に口を開いた。

「正式に交際を始めたのは、今年に入ってからです」

父の目が細くなる。

「正式に、という言い方をするんだな」

「はい」

「その前から感情はあったと?」

美月は息を止めた。

理久は、少しも慌てなかった。

「ありました」

父は理久をじっと見た。

「同じ病院の看護師にか」

空気が少し冷えた。

母が父を見る。

美月は思わず手を握りしめた。

来た。

やはり、そこを突く。

理久は静かに頷いた。

「はい」

「自分の立場を分かっているのか」

「分かっています」

「本当に?」

父の声が低くなる。

「大学病院の外科医。留学の話も進めている。その立場で、同じ病院の看護師と交際する意味を、分かっているのか」

美月は言葉を挟みそうになった。

けれど、理久が先に答えた。

「完全に分かっていると軽々しく言えるほど、簡単な問題ではないと思っています」

父の表情が少し変わった。

理久は続ける。

「だからこそ、曖昧な形にはしないと決めました」

「曖昧な形?」

「院内の噂に晒されるだけの関係にも、美月さんだけが立場を悪くする関係にもしたくありませんでした」

父は黙っている。

「留学の話を進める中で、自分の将来だけではなく、美月さんの人生も関わってくるのだと考えました」

理久の声は静かだった。

「恋人のまま曖昧に未来を差し出すのは違うと思いました。だから、正式にプロポーズしました」

父は理久を見ている。

理久は一度、美月へ視線を向けた。

「もちろん、それだけが理由ではありません」

美月の胸が、小さく震えた。

「美月さんと、この先を一緒に考えたいと思ったからです」

父は、しばらく何も言わなかった。

その沈黙の中で、美月は理久の横顔を見る。

理久は逃げていない。

言葉を選びながら、それでも父の視線をまっすぐ受け止めている。

父は、理久から視線を外さなかった。

「つまり、二人の間ではもう決めたということだな」

「はい」

理久は逃げずに答えた。

「まず、美月さんの意思を確認しました」

父の目がわずかに動く。

「その上で、今日ここへ来た」

「はい」

理久は静かに頷いた。

「ご両親にきちんとお話しする前に、私だけで未来を決めることはできません。ただ、美月さん自身が望んでいない未来を、先にご両親へお願いすることもできないと思いました」

父は黙った。

「だから、まず美月さんに聞きました。その上で、本日ご挨拶に伺いました」

個室に、静かな沈黙が落ちた。

父はしばらく理久を見ていた。

その目は厳しかった。

けれど、怒ってはいなかった。

「筋は通っているな」

父が低く言った。

「ありがとうございます」

「褒めたわけではない」

「承知しています」

父は理久を見たまま、少しだけ黙った。

それから、姿勢を変えた。

「留学の話は、まだ正式には決まっていないんだったな」

「はい」

「その段階で、結婚を申し込んだのか」

理久は一拍置いた。

「はい」

父の眉がわずかに動く。

理久は続ける。

「決まってから話せば、報告になります。美月さんに選ぶ余地を残しているようで、実際には私が決めた未来を渡すことになると思いました」

父は黙っている。

「だから、決まる前に話しました」

「綺麗なことを言うな」

美月は唇を噛みそうになった。

けれど、理久は動じなかった。

「はい。綺麗ごとです」

父の目がわずかに動く。

「ですが、綺麗ごとを現実にする努力をしなければ、美月さんと未来を考える資格はないと思っています」

個室の空気が、静かに変わった。

父は、理久をじっと見た。

「現実には、君のキャリアが中心になる。留学するのは君だ。美月はどうしても、君の予定に影響される」

「はい」

理久は否定しなかった。

「おっしゃる通りです」

父は少し黙る。

「だからこそ、私がその重みを軽く扱ってはいけないと思っています」

美月は、隣の理久を見る。

この人は、分かっている。

自分が何を手放すか。

何を恐れているか。

どこに引っかかっているか。

その上で、ここにいる。

父は、今度は少し角度を変えた。

「藤崎先生」

「はい」

「君は、私に気に入られれば得をする立場だな」

美月は息を止めた。

来た。

父はこういうところを見逃さない。

理久は静かに答えた。

「そうかもしれません」

「否定しないのか」

「否定しても、嘘になります」

父の口元がわずかに動く。

「私の人脈や立場を利用する気はあるか」

母が少しだけ眉を寄せた。

「あなた」

父は母を見ない。

理久だけを見ている。

理久は、まっすぐ父を見た。

「利用、という言葉を使うなら、あります」

美月は思わず理久を見た。

父の目が光る。

「ほう」

理久は続けた。

「綾瀬教授の立場も、人脈も、外科医としての見識も、私にとって学ぶべきものです。必要なら頼ることもあると思います」

父は黙っている。

「ただ、美月さんとの結婚を、そのための手段にするつもりはありません」

父の笑みが消える。

理久の声は、少しだけ低くなった。

「私は美月さんと家族になりたいから、ここにいます」

美月は胸がいっぱいになった。

母がそっと美月を見る。

その目は、少し潤んでいるようにも見えた。

父はしばらく黙っていた。

そして、美月に視線を向ける。

「美月」

「はい」

「お前はどうなんだ」

ついに来た。

今度は理久ではなく、自分が答える番だった。

美月は背筋を伸ばした。

「私は」

声が少し震えた。

でも、逃げない。

「理久と結婚したい」

父は黙っている。

「留学のことも、一緒に考えるつもりです」

「仕事は」

「まだ考えています」

父の声が少し厳しくなる。

「甘いな」

痛い。

でも、美月は目を伏せなかった。

「甘いと思う」

父の眉が動く。

美月は続ける。

「今すぐ全部決められるほど、私は強くない。でも、理久についていくだけのつもりもない」

理久は隣で静かに聞いている。

「仕事も、もし向こうへ行くことになった時の生活も、帰ってきてからのことも、ちゃんと考える。逃げない」

美月は父をまっすぐ見た。

「でも、それはお父さんに決めてもらうことじゃない」

母が小さく息を呑んだ。

父の顔が、わずかに動く。

美月は、自分でも驚くほどはっきりと言った。

「私が決めること」

個室に沈黙が落ちた。

美月の心臓はうるさかった。

父にこんなふうに言ったことがあっただろうか。

たぶん、ない。

父はゆっくり椅子に背を預けた。

そして、ふっと笑った。

「言うようになったな」

その声は、怒っていなかった。

呆れてもいなかった。

どこか、面白がっているような。

いや。

少しだけ、嬉しそうな。

母が静かに微笑んだ。

父は理久を見る。

「藤崎先生」

「はい」

「娘は、面倒だぞ」

美月は思わず父を見る。

「お父さん」

父は無視した。

「理屈っぽい。頑固だ。自分で決めたがるくせに、認められないと傷つく」

美月は何も言えなくなった。

当たりすぎている。

理久は少しだけ笑った。

「分かっているつもりです」

美月は理久を見る。

「理久」

理久は穏やかな顔で続けた。

「そこも含めて、美月さんです」

父は理久をじっと見る。

「うまいことを言う」

「本心です」

「本心なら、厄介だな」

父は低く笑った。

それから、少しだけ表情を改めた。

「私は、娘を利用されるのが嫌いだ」

その言葉に、美月は胸が詰まった。

父は理久を見据える。

「たとえ相手がどれだけ優秀でも、家柄が良くても、将来性があっても。娘を踏み台にするなら許さん」

理久は、すぐに深く頭を下げた。

「承知しています」

「だが」

父は少し間を置いた。

「娘が自分で選んだなら、それは娘の人生だ」

美月は息を止めた。

父は美月を見る。

「美月」

「……はい」

「本当にいいんだな」

その問いは、さっきまでの試すような声ではなかった。

父親の声だった。

美月は、しっかり頷いた。

「うん」

父は、ほんの少しだけ目を伏せた。

それから、理久へ向き直る。

「藤崎先生」

「はい」

「娘をよろしく頼む」

理久は深く頭を下げた。

「必ず大切にします」

その声は、静かだった。

けれど、揺るがなかった。

母がそっとハンカチで目元を押さえた。

美月は、ようやく息を吐いた。

父は湯呑みを手に取り、ひと口飲んだ。

そして言った。

「ただし」

全員が父を見る。

「留学の話は、今度きっちり聞かせてもらう。研究内容、期間、帰国後の見通し、美月の生活設計も含めてだ」

美月は思わず肩を落とした。

やはり、父は父だった。

理久は少しだけ笑って答えた。

「もちろんです」

父は満足そうに頷く。

「それと、藤崎先生」

「はい」

「今後は、会場ではなく、食事の席で話そう」

理久は静かに頷いた。

「ぜひ、お願いいたします」

母が小さく笑う。

「あなた、本当に面接みたい」

「当然だろう」

父は何食わぬ顔で言う。

「娘の結婚相手だぞ」

その言葉に、美月の胸が少しだけ温かくなった。

父は父なりに、娘の結婚相手として理久を見てくれていたのだ。

食事を終え、個室を出る。

店の廊下は静かだった。

父と母が少し前を歩く。

美月は隣の理久を見た。

理久は、いつものように穏やかな顔をしている。

でも、ほんの少しだけ肩の力が抜けているようにも見えた。

「理久」

小さく呼ぶ。

「うん」

「ありがとう」

理久は美月を見る。

「美月が言ったんだよ」

「え?」

「私が決めること、って」

美月は少しだけ顔が熱くなった。

理久は柔らかく笑う。

「かっこよかった」

「……やめて」

「本当」

美月は前を歩く父と母の背中を見る。

父は、まだ理久を簡単に許したわけではない。

けれど、拒まなかった。

母は、横にいてくれた。

理久は、逃げなかった。

そして自分も。

初めて、父の前で自分の人生を自分で決めると言えた。

美月は胸の奥が静かに震えるのを感じながら、理久の隣を歩いた。

指輪は、まだバッグの中にある。

けれどその重みは、確かに自分の中にあった。