光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

都内のホテルで開かれたシンポジウムは、午後のセッションに入っていた。

消化器癌治療をテーマにした国際シンポジウム。

壇上には、座長と数名のパネリストが並んでいる。

その一人が、綾瀬宗一郎だった。

会場内に響くのは、日本語ではない。

発表も、質疑も、座長の進行も、すべて英語で進んでいく。

留学すれば、これが特別な場ではなくなる。

英語で症例を説明し、英語でデータの限界を突かれ、英語で次の課題を返す。

それが、当たり前の日常になる。

理久は会場の中ほどの席で、配布資料に目を落としながら壇上のやり取りを聞いていた。

綾瀬宗一郎は、英語になっても変わらなかった。

言葉が変わっても、切り込む場所が変わらない。

穏やかな声で問いを置きながら、発表者が曖昧にした部分を正確に拾い上げる。

流暢さだけではない。

場の重心を、自然に自分の方へ引き寄せる人だった。

隣に座っていた相良が、小さく息を吐いた。

「さすがだな」

理久は資料から目を上げる。

消化器外科講師の相良修平。

理久がレジデントの頃から知っている上級医だった。

相良は壇上を見たまま、声を潜めて続ける。

「英語になっても、鋭さが何も変わらない」

「……そうですね」

理久は短く答えた。

綾瀬教授の問いに、海外から来た演者が少し考え込む。

その間に、会場の空気がわずかに締まった。

簡単に近づける相手ではない。

横浜で初めて言葉を交わした時にも思った。

そして今、改めてそう思う。

大学病院の助教が、ただ顔を知っているというだけで話しかけられる相手ではない。

だからこそ、美月との関係が別の意味を持ってしまう。

このあと自分が娘の婚約者として名乗れば、これまでとは違う距離で、綾瀬宗一郎に近づけてしまう。

それは、理久にとって強みになり得る。

同時に、危うさにもなる。

医師として認められる前に、別の扉から入ってしまうこと。

美月が恐れていたのは、きっとそこだ。

父の名前が、美月の人生だけではなく、理久のキャリアにまで影を伸ばすこと。

理久は資料の端を指で押さえた。

その時、座長が質疑応答に移ると告げた。

会場内に、短い沈黙が落ちる。

理久は少しだけ息を吸った。

英語で質問すること自体は、初めてではない。

けれど、日本語の時よりも、言葉を選ぶ速度が少し落ちる。

逃げようと思えば、黙っていることもできた。

今日は発表者ではない。

指名されたわけでもない。

それでも、この場で何もせずに帰ることが、理久にはできなかった。

留学するなら、議論から逃げられない。

そして、綾瀬宗一郎の前で、まず一人の外科医として立っていたかった。

理久は手を挙げた。

座長がこちらを見る。

マイクが回ってくる。

理久は立ち上がり、所属と名前を告げた。

「Riku Fujisaki, Department of Gastrointestinal Surgery. Thank you for your excellent presentation. I have one question about patient selection criteria.」

自分の声が、会場内に響く。

発音が完璧かどうかではない。

流暢に聞こえるかどうかでもない。

聞くべきことを、逃げずに聞く。

術前画像で判断できる範囲。

切除適応を広げる時に、何を根拠にするのか。

症例数の少なさを、どう補うのか。

問いを重ねるうちに、壇上の演者の表情が少し変わった。

綾瀬宗一郎も、理久を見ていた。

少なくとも今この瞬間は、質問をした若手外科医として。

その視線から逃げたくなかった。

この先、美月の隣に立つことで、別の意味が重なってしまうとしても。

今だけは、藤崎理久という一人の外科医として、この場に立っていたかった。

質疑が終わり、次の質問者へマイクが移る。

理久が席に座ると、隣にいた相良が小さく笑った。

「お前、相変わらず鬼メンタルだな」

「褒め言葉として、ありがたく頂戴しておきます」

「……昔からそこは変わらないな」

相良は呆れたように息を吐いた。

「助教で戻ってきてから雰囲気は柔らかくなったけど、相変わらず可愛くない」

理久は小さく笑った。

「それ、まだ言うんですね」

「言わせることをするからだろ」

懐かしい言葉だった。

レジデントの頃から、何度も言われてきた。

可愛くない。

生意気だ。

黙っていれば、もう少し得をする。

それでも、黙っていられなかった。

分からないものを、分からないままにしたくない。

曖昧な答えで、その場を流したくない。

そういうところは、きっと今も変わっていない。

理久は壇上を見る。

この先に進めば、もっと可愛くなくなるのかもしれない。

美月の隣に立つということは、綾瀬宗一郎の後ろ盾を得てしまうことでもある。

望んでも、望まなくても。

周囲はそう見る。

だからこそ、自分が何を得るのか、何を利用できてしまうのか、その危うさから目を逸らしてはいけない。

それでも。

理久は壇上の光を見つめた。

逃げるつもりはなかった。

初めて、自分の人生に、いなくなったら困る人を見つけた。

その人の隣に立つために、これからもっと面倒な場所へ進むのだとしても。

それはもう、避けたい未来ではなかった。

* * *

シンポジウムが終わる頃、美月はホテルのロビーの端で母と並んで立っていた。

会場から出てくる医師たちの流れが、少しずつロビーへ広がっていく。

資料の入ったバッグを肩にかけた人。

名刺入れを手にしたまま話し込む人。

海外からの参加者らしき医師と英語で挨拶を交わす人。

そのどれもが、美月には少し遠い世界に見えた。

父は少し離れたところで、知り合いの医師と話している。

相変わらず、どこにいても父の周りだけ空気が違う。

声が大きいわけではない。

必要以上に身振りをするわけでもない。

それなのに、父がいる場所には自然と人が集まる。

話している相手は笑っているのに、どこか背筋を伸ばしているように見えた。

父は、そういう人だった。

母が小さく言った。

「緊張してる?」

美月は少しだけ笑った。

「してる」

「そうでしょうね」

母は責めるでもなく、ただそう言った。

その落ち着いた声に、少しだけ救われる。

「お父さんには、大事な話がある、とだけ言ってあるわ」

「ありがとう」

「それ以上は、聞かれても私にも分からないもの」

美月は小さく頷いた。

母は本当に、何も聞かなかった。

そして父にも、余計なことを言わずにいてくれた。

「お母さん、ありがとう。来てくれて」

母は美月を見た。

「あなたが来てほしいと言ったから」

それだけだった。

でも、美月には十分だった。

父と話していた医師が、軽く会釈をして離れていく。

父がこちらへ戻ってきた。

「美月」

「お父さん」

「で、話というのは?」

いきなり本題に入る。

美月は一瞬、言葉に詰まった。

母が横から静かに言った。

「ここでは落ち着かないでしょう。移動してからにしましょう」

父は母を見て、少しだけ肩をすくめた。

「まあ、そうだな」

その時だった。

少し離れた通路から、理久が歩いてくるのが見えた。

グレーのスーツ。

白いシャツ。

落ち着いた色のネクタイ。

理久は、会場の空気に自然に溶け込んでいた。

教授たちや医師たちの集まる場所に、自分の足で立っている人だった。

美月と目が合う。

ほんの一瞬。

理久は、いつものように静かに微笑んだ。

大丈夫。

そう言われたような気がした。

父が先に理久に気づいた。

「藤崎先生」

理久はすぐに父へ向き直る。

「綾瀬教授。お疲れ様です」

「先ほどの質問は君だったな」

「はい」

父は理久を見て、少しだけ口元を緩めた。

「相変わらず、聞きにくいところを聞く」

「必要な点だと思いました」

「そういう返しをするか」

父は低く笑った。

父と理久の間には、すでに医師同士の空気があった。

横浜の学会で発表を聞いた若手外科医。

博士論文を通し、留学を視野に入れている医師。

そして今日、英語での質疑にも立った医師。

父は今、理久を、外科医として見ている。

まだ、自分の娘の婚約者だとは知らない。

いや。

もう、何かを察し始めているのかもしれない。

父の視線が、理久から美月へ動いた。

そして、母を見る。

最後に、もう一度理久を見る。

その目が、ほんの少し変わった。

教授として相手を見る目から、別の目へ。

理久は何も言わなかった。

美月の方へ視線を向ける。

その静かな目に、美月は小さく息を吸った。

ここでは、まだ全部は言わない。

けれど、父に理久を会わせるのは、自分の役目だった。

美月は一歩前に出た。

「お父さん」

父が美月を見る。

「今日、会ってほしかった人です」

父の視線が、理久へ移る。

理久は静かに姿勢を正した。

「藤崎理久です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

父はしばらく理久を見ていた。

それから、美月を見る。

「……そうか」

その一言だけだった。

けれど、美月には、父が何かを察したことが分かった。

父は理久へ視線を戻す。

「藤崎先生」

「はい」

「場所は?」

理久は落ち着いた声で答えた。

「会場から少し離れた店を予約しております」

父は短く頷いた。

「分かった」

そして、低い声で言った。

「ここで話すことではないな」

美月は小さく息を吸った。

ここからだ。

父の前で、自分の言葉で伝える。

結婚したいと言う。

父に決めてもらうのではなく、自分が決めたこととして。

理久は美月の隣に立っていた。

近すぎず、離れすぎず。

その距離が、今の美月には何より心強かった。

父と母が先に歩き出す。

美月は一瞬だけ足を止めた。

理久がこちらを見る。

「行こう」

小さな声だった。

美月は頷いた。

「はい」

そして、美月は理久の隣で、父の背中を追った。