光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

プロポーズの翌日、美月は何度もスマートフォンを手に取っては、また置いた。

左手の薬指には、指輪がある。

仕事へ行く時は外すと決めている。

けれど、家にいる時にそっとつけると、その小さな光が急に現実を連れてくる。

理久と結婚する。

そう決めた。

決めたのは自分だ。

けれど、決めたからといって、すぐにすべてが簡単になるわけではなかった。

次にしなければいけないことは分かっている。

両親に伝えること。

特に、父に。

美月はスマートフォンの画面を見つめた。

父に直接電話する気持ちには、まだなれなかった。

父はきっと、用件を聞いた瞬間に本題へ入る。

何だ。

相手は誰だ。

どこの人間だ。

どこの病院だ。

そこまで想像して、美月は小さく息を吐いた。

逃げたいわけではない。

でも、順番を間違えたくなかった。

父に先に名前を出したら、その瞬間から父の世界で話が動き出してしまう気がした。

理久の名前。

藤崎理久。

その名前は、父にとってただの結婚相手の名前ではない。

学会で会った若手外科医の名前でもある。

発表を聞き、留学の話をし、外科医として興味を持った相手の名前でもある。

だからこそ、先に父へ渡したくなかった。

美月は、母の名前を押した。

数回の呼び出し音のあと、母が出た。

「もしもし、美月?」

その声を聞いただけで、胸の奥が少し緩む。

「お母さん、今、大丈夫?」

「大丈夫よ。どうしたの」

美月は、すぐには本題に入れなかった。

電話をかける前に、何度も考えたはずだった。

それなのに、母の声を聞くと、用意していた言葉が少しずつほどけていく。

「……お父さんって、次、いつ東京に来る予定?」

母は少し黙った。

「東京?」

「うん」

「ちょっと待って。予定、見てみるから」

電話の向こうで、何かを確認する気配がした。

その間、美月は膝の上で指先を握った。

父の予定。

学会。

講演。

会議。

そのどれもが、美月にとっては父の世界だった。

自分が簡単には入れなかった場所。

そして、理久が外科医として立っている場所。

「来月、都内でシンポジウムがあるみたいね」

母の声が戻ってきた。

「シンポジウム……」

「詳しくは聞いていないけれど、消化器系のものだと思うわ。お父さん、その日は東京に出る予定になっている」

美月は小さく息を吸った。

来月。

すぐではない。

でも、遠すぎるわけでもない。

その時間が、少しだけありがたかった。

「美月、どうしたの?」

母の声が、ほんの少し柔らかくなる。

美月は唇を結んだ。

やっぱり母は、こういうところで察する。

「お母さん、その時に、お父さんと一緒に都内に出て来られたりするかな」

電話の向こうで、母が黙った。

その沈黙は、驚きというより、確認のためのものだった。

「私も?」

「うん」

「何かあるのね」

「うん」

それだけ答えるのに、少し時間がかかった。

母は急かさなかった。

美月は膝の上で、左手をそっと握った。

指輪の感触がある。

家の中でだけつけている、小さな約束。

「会ってほしい人がいるの」

母は、しばらく黙っていた。

「美月の、大事な人?」

美月の胸が、少しだけ熱くなる。

「うん」

「そう」

母は、それ以上すぐには聞かなかった。

名前は。

仕事は。

どこで知り合ったの。

父ならきっと、そう聞く。

けれど、母は聞かなかった。

「お父さんには、まだ詳しく言わないでほしい」

美月は小さく言った。

「詳しく、というのは」

「名前も。仕事も。どこの人かも」

言ってから、少しだけ息が詰まった。

隠したいわけではない。

でも、父の知らないところで進めたいわけでもない。

ただ、自分の口で言いたかった。

父の前で。

理久の隣で。

逃げずに。

「分かった」

母の返事は早かった。

あまりに早くて、美月は少し驚いた。

「聞かないの?」

「聞いてほしくないのでしょう」

「……うん」

「じゃあ、今は聞かないわ」

美月は、目の奥が少し熱くなるのを感じた。

母はいつもそうだった。

何も分かっていないわけではない。

むしろ、かなり分かっている。

それでも、踏み込まないところは踏み込まない。

「お父さんには、何て言うつもりなの?」

「美月がその日、会いたいみたい。大事な話があるらしい、とだけ言っておくわ」

「相手のことは」

「触れないでおく」

「ありがとう」

母は少しだけ笑ったようだった。

「お父さんが聞いてきても、私が知らないと言えばいいもの」

「……本当に知らないしね」

「そうね」

そのやり取りで、少しだけ呼吸が戻った。

けれど、母の声はすぐに静かになった。

「でも、美月」

「うん」

「あなたが選んだ人なら、あなたが自分で言いなさい」

美月は膝の上で指先を握った。

「うん」

「お母さんは横にいるから」

その一言で、美月は堪えきれず、少しだけ目を閉じた。

横にいる。

それだけでよかった。

父の前に立つのは、自分だ。

理久を紹介するのも、自分だ。

結婚したいと言うのも、自分だ。

でも、母が横にいてくれる。

それだけで、少しだけ立てる気がした。

「ありがとう」

「美月」

「うん」

「お父さんのことばかり気にしなくていいのよ」

美月は息を止めた。

母は、ゆっくり続けた。

「あなたの話だから」

美月は小さく頷いた。

「……うん」

「ちゃんと聞くわ」

「ありがとう」

電話を切ったあと、美月はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。

怖い。

でも、もう逃げたくない。

その現実が、静かに胸の奥へ落ちてきた。

* * *

その夜、理久が帰ってきてから、美月は母に電話したことを話した。

理久は黙って聞いていた。

ソファの向かいに座り、いつものように穏やかな顔をしている。

けれど、軽く受け流しているわけではないことは分かった。

テーブルには、理久が淹れたコーヒーが置かれている。

「母には、会ってほしい人がいるとだけ言いました」

「うん」

「名前も、仕事も、どこの人かも言っていません」

理久は小さく頷いた。

「分かった」

「父は来月、都内のシンポジウムに参加するそうです」

理久の指が、カップの縁で止まった。

「シンポジウム?」

「はい。消化器系のものだと思う、と母は言っていました」

理久は少しだけ考えるように目を伏せた。

「……それ、俺も参加予定に入れてる」

美月は顔を上げた。

「理久も?」

「うん。発表者ではないけど、聞きに行くつもりだった」

「じゃあ、会場で父と会うかもしれないんですね」

「可能性はある」

理久は静かに頷いた。

「でも、綾瀬教授は、簡単に話しかけられる相手じゃないよ」

美月は黙った。

その言葉は、当たり前のようでいて、胸に少し重く落ちた。

綾瀬宗一郎。

有名な教授。

学会で名前を知られていて、医師たちが自然に距離を取る人。

美月にとっては父でも、理久にとっては、まだその世界の高い場所にいる人だった。

「……そうですね」

「だから、会場で会ったとしても、それはそれ」

理久は美月を見る。

「その夜に会うなら、そこからは別の話になる」

美月は小さく頷いた。

「父として、ですね」

「うん」

理久は少しだけ間を置いた。

「そして、俺は美月が選んだ相手として行く」

その言葉に、美月の胸が小さく鳴った。

「理久にとっては、仕事でも関わる相手なのに」

美月は小さく言った。

「父の前で、いきなりそういう話をすることになります」

理久は少しだけ表情を改めた。

「美月が謝ることじゃないよ」

「でも」

「俺も分かってて行くし」

その声は静かだった。

「綾瀬教授には、外科医として見られている。そこに、別の話が重なることになる」

美月は顔を上げた。

理久は続ける。

「だからこそ、中途半端な態度では行かないよ」

その言葉に、美月の胸が少しだけ鳴った。

「怖くないんですか」

「怖くないと言ったら、嘘になるよ」

理久はあっさり答えて、小さく笑った。

その答えに、美月は少しだけ救われた。

完璧に見える理久でも、怖くないわけではない。

それでも、逃げるつもりはないのだ。

「でも、逃げる理由はないよ」

美月は何も言えなかった。

その言葉が、ひどく理久らしかった。

静かで、淡々としていて。

でも、逃げていない。

「その夜は、時間をつくれますか」

理久はすぐに答えた。

「空けておく」

「まだ日程だけで、詳しい時間は分からないです」

「分かった。調整する」

「お店は……」

「俺が予約しておく」

美月は少しだけ黙った。

「……そこは、理久にお任せします」

理久が目を細める。

「信用されてる?」

「適材適所です」

「じゃあ、外せないね」

「はい。外さないでください」

理久は小さく笑った。

重かった空気が、少しだけ緩む。

それが分かって、美月も少しだけ息をつけた。

理久なら、きっと場に合う店を選ぶ。

派手すぎず、軽すぎず。

父が落ち着いて話せて、母が無理なく座っていられて、美月が必要以上に緊張しない場所。

そういうことを、何も言わなくても考える人だ。

「美月」

「はい」

「当日は、最初に美月から言った方がいいと思う」

美月は顔を上げた。

「私から、ですか」

「うん。美月のご両親だから」

理久はまっすぐ美月を見る。

「結婚したい相手がいること。俺を会わせたいこと。そこは、美月の口から伝えた方がいい」

美月は膝の上で手を握った。

「そのあとで、俺もちゃんと話す」

その言葉に、胸の奥がぎゅっと痛くなった。

怖い。

けれど、確かにそうだ。

これは父に決めてもらう話ではない。

理久に全部言ってもらう話でもない。

自分の両親に、自分の口で伝える話だ。

「言えるか、分かりません」

「うん」

「でも」

美月は小さく息を吸った。

「言います」

理久は、ほんの少しだけ笑った。

「うん」

美月は左手を見る。

家に帰ってからつけた指輪が、静かに光っていた。

その光はまだ、自分の指に馴染みきってはいない。

でも、昨日よりは少しだけ近い。

自分で選んだ約束。

その重みが、指先から胸の奥へ、少しずつ移っていく気がした。

次は、父だ。

その現実から、もう目を逸らさない。