ホテルを出ると、夕方の空はさらに深くなっていた。
街には、少しずつ夜の灯りが増えている。
タクシーの窓の外を流れていく景色を、美月はぼんやりと見つめていた。
さっきまで、あの部屋にいた。
理久に名前を呼ばれて。
結婚してください、と言われて。
自分の声で、はいと答えた。
たった二文字なのに、まだ胸の奥で震えている。
隣には理久がいた。
いつもと同じように静かに座っている。
けれど、もう何も変わっていないわけではなかった。
「大丈夫?」
理久が静かに聞いた。
美月は、少し遅れて顔を上げた。
「……大丈夫、ではないかもしれません」
「うん」
理久は、それ以上聞かなかった。
その沈黙が、今はありがたかった。
現実感はまだ遠い。
それでも、理久の隣にいると、浮き上がりそうな心が少しずつ戻ってくる。
タクシーが停まったのは、名の知れたハイジュエラーだった。
美月は店の前で足を止めた。
磨かれたガラス。
静かな光。
中に見えるショーケース。
そこだけ、街の喧騒から切り離されたように明るい。
美月は思わず、理久を見た。
「……指輪に負けそうです」
口にしてから、自分でも情けない声だと思った。
けれど本音だった。
理久は、美月を見て、王子みたいに微笑んだ。
外ではもう、夕方の光が薄れている。
その中で、理久の表情だけが妙に落ち着いて見えた。
「負ける人を、ここへ連れてきたつもりはないよ」
美月は眉を寄せた。
「それは、指輪の価値に値する女性ってことですか?」
「違う」
理久は少し笑った。
「美月に似合う形を探しに来たってこと」
美月は言葉に詰まった。
そういう言い方を、理久は本当に自然にする。
「……さらっと言いますね」
「本音だから」
美月は視線を逸らした。
心臓に悪い。
けれど、さっきより少しだけ息がしやすくなった。
理久は、店の扉へ視線を向けた。
「でも、もし負けそうだと思うなら」
「はい」
「これから、負けないくらいの未来にすればいい」
美月は目を瞬いた。
「未来込みですか」
「うん」
理久は、いつもの余裕を少しだけ戻して微笑んだ。
「だから、かなり奮発しないとね」
「理久」
思わず声が出た。
からかわれた。
けれど、嫌なからかい方ではなかった。
緊張で固まっていた胸が、少しだけほどける。
理久は、笑みを残したまま店の扉へ向かった。
「行こうか」
美月は小さく息を吸って、理久の隣に並んだ。
店内に入ると、すぐにスタッフが近づいてきた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
また予約。
もう驚くべきではないのかもしれない。
それでも、美月は小さく息を詰めた。
担当者が丁寧に挨拶し、奥へ案内してくれる。
店内は、外から見るよりずっと静かだった。
光は明るいのに、騒がしくない。
ショーケースの中で、リングが小さな光を返している。
憧れのエンゲージリングの一角は、目が眩むほどまぶしい光に包まれていた。
美月は、それをまともに見られなかった。
理久が担当者と話している。
石の大きさ。
デザイン。
アームの細さ。
爪の形。
日常的につけるかどうか。
担当者は丁寧に確認しているようだった。
けれど、美月の耳には、うまく入ってこなかった。
緊張しているからなのか。
現実感が追いつかないからなのか。
美月は、ただ並んだ指輪の光を見ていた。
小さな札に記された数字が目に入った瞬間、ますます気が遠くなりそうになった。
指輪。
約束の形。
理久の覚悟。
そのどれもが、美月にはまだ大きすぎた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
理久がこちらを見ていた。
「緊張してる?」
「も、もちろんです」
即答してしまった。
理久は少し笑った。
「俺も」
美月は目を瞬いた。
「理久が?」
そんな素振りは、少しも見えなかった。
理久はいつも通り落ち着いていて、担当者との会話も自然で、こういう場に慣れている人のように見える。
けれど理久は、並んだリングへ視線を落とした。
「俺と一緒に人生を歩いてくれる人への、約束の形だよ」
その声は、静かだった。
「俺の覚悟を見せるのに、緊張しないわけないでしょ」
美月は、何も言えなくなった。
理久は、ただ高価な指輪を買いに来たのではない。
自分の覚悟を、形にしに来たのだ。
そして美月は、その形に、これから自分も向き合っていく。
指輪の値段に自分を合わせるのではない。
理久の本気から逃げずに、この約束を選び続ける。
指輪を選ぶということは、たぶん、そういうことなのだと思った。
担当者が、いくつか候補を用意してくれた。
案内されたのは、さらに奥の個室だった。
柔らかい照明の下、白いトレーにリングが並べられる。
美月は椅子に座った。
膝の上で手を重ねる。
自分の手が、少し震えているのが分かった。
理久は向かいではなく、斜め横に座った。
近すぎない。
でも、すぐそばにいる。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
最初のリングは、繊細で美しかった。
薬指に通された瞬間、白い光が指の上で小さく揺れる。
「……綺麗ですね」
思わず呟いた。
本当に綺麗だった。
けれど、どこか自分の手だけが置いていかれているような気がした。
二つ目は、少し華やかだった。
角度を変えるたびに光が強く返る。
確かに美しい。
けれど、少しだけ指輪の方が先に行ってしまう感じがした。
三つ目。
担当者が、細身のリングを美月の指に通した。
一粒のダイヤが、静かに光った。
派手ではない。
けれど、弱くもない。
主張しすぎず、でも確かにそこにある。
美月は、指先を少し動かした。
光が控えめに揺れる。
その瞬間、胸の奥がふっと静かになった。
不思議なくらい、違和感がなかった。
指輪が自分を変えるのではなく、自分の中にあるものを少しだけ照らしてくれるような気がした。
美月は、目を離せなくなった。
理久が、その横顔を見ていた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
「それがいい?」
美月はすぐには答えられなかった。
けれど、視線はまだ、その小さな光から離れなかった。
「……はい」
小さく答えると、理久は静かに頷いた。
少しだけ、嬉しそうに見えた。
「俺も、それだと思った」
美月は息を止めた。
「……理久も?」
「うん」
理久は、美月の左手を見た。
「最初に見た時から、たぶんこれだと思ってた」
美月は指輪を見る。
自分が目を離せなくなった光を、理久も同じように見ていた。
それが、どうしてこんなに胸を熱くするのか分からなかった。
指輪を選んだというより、二人で同じ光を見つけたような気がした。
担当者が穏やかに微笑んだ。
「とてもお似合いです」
美月は、少しだけ頬が熱くなった。
理久が担当者に向き直る。
「こちらにします」
その声は、迷いがなかった。
けれど、美月の答えを聞く前に決めた声ではなかった。
美月が選んだものを、理久が受け取った声だった。
担当者が丁寧に頷く。
「ありがとうございます。サイズはこのままでよろしいかと思います。刻印につきましては、後日お預かりする形でも承れます」
理久は少し考えた。
そして、美月を見た。
「刻印は、後日にしよう」
「……はい」
「そこも、一緒に考えたい」
美月は、胸の奥がまた少し熱くなるのを感じた。
指輪だけではない。
刻む言葉まで、これから二人で考える。
約束は、ひとつずつ形になっていくのだと思った。
担当者が一度席を外す。
個室に、静かな時間が流れた。
美月は左手を見下ろした。
まだ試着用のリングがそこにある。
正式に自分のものになったわけではない。
けれど、その光はもう、さっきまでとは違って見えた。
「……重いですね」
思わず言うと、理久が美月を見た。
「うん」
「でも」
美月は指輪を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「外したい重さではないです」
理久は少しだけ目を細めた。
「美月らしいね」
「褒めてますか」
「かなり」
理久が静かに笑った。
美月も、ほんの少し笑った。
プロポーズの時には泣きそうだったのに、今は少しだけ笑えている。
それが不思議だった。
でも、たぶん、これでいいのだと思った。
大きな約束をしたからといって、急に強くなれるわけではない。
怖さが消えるわけでもない。
それでも、理久とこうして並んでいれば、怖いままでも少しずつ進める気がした。
* * *
指輪の手続きを終え、店を出た時には、街はほとんど夜になっていた。
美月の手には、小さな箱が入った紙袋があった。
理久が持とうとしたけれど、美月は首を振った。
「自分で持ちます」
理久は少しだけ驚いた顔をした。
それから、柔らかく頷いた。
「うん」
紙袋は軽い。
けれど、軽くはなかった。
ホテルへ戻るタクシーの中で、美月は紙袋を膝の上に置いていた。
理久は何も言わない。
けれど、隣にいる気配が静かに伝わってくる。
窓の外に、夜の東京が流れていく。
さっきサロンから見た景色とは違う。
同じ街なのに、もう違って見えた。
ホテルに戻ると、スタッフは自然に二人を迎えた。
エレベーターで上層階へ上がる。
先ほどのプライベートサロンに戻ると、部屋の印象は変わっていた。
夕方の光は消え、窓の外には東京の夜景が広がっている。
東京タワーは、先ほどよりもはっきりと赤く灯っていた。
テーブルには、食事の支度が整えられていた。
美月は窓の前で足を止めた。
さっきここで、理久にプロポーズされた。
その時と同じ部屋なのに、もう同じ場所ではないように見えた。
美月は、紙袋をそっと胸に抱いた。
理久が隣に立つ。
「疲れた?」
「疲れた、というより」
美月は少し考えた。
「現実感がありません」
理久が小さく笑う。
「俺も、少し」
「理久も?」
「うん」
理久は窓の外を見た。
「考えてきた時間の方が長かったから。今日が本当に来た感じが、まだ少ししない」
美月は、その横顔を見た。
完璧に整えていた人が、今だけ少し遠くを見る。
それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
食事の時間は、ゆっくりと過ぎていった。
理久は、美月のグラスが空きそうになると自然に気づき、食べる速度を合わせた。
何か特別な言葉を重ねるわけではない。
ただ、張りつめていた時間が、少しずつほどけていく。
食事の終わりに、理久が紙袋を見た。
「開けてみる?」
美月は少し迷った。
そして頷いた。
箱を取り出す。
濃い色の小さな箱。
指先が震える。
理久は急かさなかった。
美月はゆっくり箱を開けた。
中で、小さな光が静かに待っていた。
さっき自分の指に通した時と同じ光。
派手ではない。
けれど、確かにそこにある。
美月は、その光を見つめた。
理久が、箱の中の指輪にそっと触れた。
けれど、すぐには取り出さなかった。
「つけてもいい?」
その一言で、胸の奥がまた静かに揺れた。
美月は、指輪を見た。
それから、理久を見た。
「……はい」
理久が箱から指輪を取り出す。
美月は左手を差し出した。
薬指に、ひんやりとした感触が触れる。
ゆっくりと、指輪が通された。
光が、指の上に収まる。
美月は、息を止めてそれを見た。
さっきよりも少しだけ、その重さを知っている気がした。
理久が、美月の左手にそっと触れた。
強く握らない。
ただ、そこにある光を確かめるように。
「一緒に考えよう」
理久が言った。
美月は、指輪を見つめたまま頷いた。
「はい」
窓の向こうで、東京タワーの赤い光が夜の中に滲んでいた。
指輪の光は小さい。
けれど、確かにそこにある。
父の名前から逃げてきた自分が、初めて自分の手で選んだ約束。
それが美月の左手に、静かに残っていた。
街には、少しずつ夜の灯りが増えている。
タクシーの窓の外を流れていく景色を、美月はぼんやりと見つめていた。
さっきまで、あの部屋にいた。
理久に名前を呼ばれて。
結婚してください、と言われて。
自分の声で、はいと答えた。
たった二文字なのに、まだ胸の奥で震えている。
隣には理久がいた。
いつもと同じように静かに座っている。
けれど、もう何も変わっていないわけではなかった。
「大丈夫?」
理久が静かに聞いた。
美月は、少し遅れて顔を上げた。
「……大丈夫、ではないかもしれません」
「うん」
理久は、それ以上聞かなかった。
その沈黙が、今はありがたかった。
現実感はまだ遠い。
それでも、理久の隣にいると、浮き上がりそうな心が少しずつ戻ってくる。
タクシーが停まったのは、名の知れたハイジュエラーだった。
美月は店の前で足を止めた。
磨かれたガラス。
静かな光。
中に見えるショーケース。
そこだけ、街の喧騒から切り離されたように明るい。
美月は思わず、理久を見た。
「……指輪に負けそうです」
口にしてから、自分でも情けない声だと思った。
けれど本音だった。
理久は、美月を見て、王子みたいに微笑んだ。
外ではもう、夕方の光が薄れている。
その中で、理久の表情だけが妙に落ち着いて見えた。
「負ける人を、ここへ連れてきたつもりはないよ」
美月は眉を寄せた。
「それは、指輪の価値に値する女性ってことですか?」
「違う」
理久は少し笑った。
「美月に似合う形を探しに来たってこと」
美月は言葉に詰まった。
そういう言い方を、理久は本当に自然にする。
「……さらっと言いますね」
「本音だから」
美月は視線を逸らした。
心臓に悪い。
けれど、さっきより少しだけ息がしやすくなった。
理久は、店の扉へ視線を向けた。
「でも、もし負けそうだと思うなら」
「はい」
「これから、負けないくらいの未来にすればいい」
美月は目を瞬いた。
「未来込みですか」
「うん」
理久は、いつもの余裕を少しだけ戻して微笑んだ。
「だから、かなり奮発しないとね」
「理久」
思わず声が出た。
からかわれた。
けれど、嫌なからかい方ではなかった。
緊張で固まっていた胸が、少しだけほどける。
理久は、笑みを残したまま店の扉へ向かった。
「行こうか」
美月は小さく息を吸って、理久の隣に並んだ。
店内に入ると、すぐにスタッフが近づいてきた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
また予約。
もう驚くべきではないのかもしれない。
それでも、美月は小さく息を詰めた。
担当者が丁寧に挨拶し、奥へ案内してくれる。
店内は、外から見るよりずっと静かだった。
光は明るいのに、騒がしくない。
ショーケースの中で、リングが小さな光を返している。
憧れのエンゲージリングの一角は、目が眩むほどまぶしい光に包まれていた。
美月は、それをまともに見られなかった。
理久が担当者と話している。
石の大きさ。
デザイン。
アームの細さ。
爪の形。
日常的につけるかどうか。
担当者は丁寧に確認しているようだった。
けれど、美月の耳には、うまく入ってこなかった。
緊張しているからなのか。
現実感が追いつかないからなのか。
美月は、ただ並んだ指輪の光を見ていた。
小さな札に記された数字が目に入った瞬間、ますます気が遠くなりそうになった。
指輪。
約束の形。
理久の覚悟。
そのどれもが、美月にはまだ大きすぎた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
理久がこちらを見ていた。
「緊張してる?」
「も、もちろんです」
即答してしまった。
理久は少し笑った。
「俺も」
美月は目を瞬いた。
「理久が?」
そんな素振りは、少しも見えなかった。
理久はいつも通り落ち着いていて、担当者との会話も自然で、こういう場に慣れている人のように見える。
けれど理久は、並んだリングへ視線を落とした。
「俺と一緒に人生を歩いてくれる人への、約束の形だよ」
その声は、静かだった。
「俺の覚悟を見せるのに、緊張しないわけないでしょ」
美月は、何も言えなくなった。
理久は、ただ高価な指輪を買いに来たのではない。
自分の覚悟を、形にしに来たのだ。
そして美月は、その形に、これから自分も向き合っていく。
指輪の値段に自分を合わせるのではない。
理久の本気から逃げずに、この約束を選び続ける。
指輪を選ぶということは、たぶん、そういうことなのだと思った。
担当者が、いくつか候補を用意してくれた。
案内されたのは、さらに奥の個室だった。
柔らかい照明の下、白いトレーにリングが並べられる。
美月は椅子に座った。
膝の上で手を重ねる。
自分の手が、少し震えているのが分かった。
理久は向かいではなく、斜め横に座った。
近すぎない。
でも、すぐそばにいる。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
最初のリングは、繊細で美しかった。
薬指に通された瞬間、白い光が指の上で小さく揺れる。
「……綺麗ですね」
思わず呟いた。
本当に綺麗だった。
けれど、どこか自分の手だけが置いていかれているような気がした。
二つ目は、少し華やかだった。
角度を変えるたびに光が強く返る。
確かに美しい。
けれど、少しだけ指輪の方が先に行ってしまう感じがした。
三つ目。
担当者が、細身のリングを美月の指に通した。
一粒のダイヤが、静かに光った。
派手ではない。
けれど、弱くもない。
主張しすぎず、でも確かにそこにある。
美月は、指先を少し動かした。
光が控えめに揺れる。
その瞬間、胸の奥がふっと静かになった。
不思議なくらい、違和感がなかった。
指輪が自分を変えるのではなく、自分の中にあるものを少しだけ照らしてくれるような気がした。
美月は、目を離せなくなった。
理久が、その横顔を見ていた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
「それがいい?」
美月はすぐには答えられなかった。
けれど、視線はまだ、その小さな光から離れなかった。
「……はい」
小さく答えると、理久は静かに頷いた。
少しだけ、嬉しそうに見えた。
「俺も、それだと思った」
美月は息を止めた。
「……理久も?」
「うん」
理久は、美月の左手を見た。
「最初に見た時から、たぶんこれだと思ってた」
美月は指輪を見る。
自分が目を離せなくなった光を、理久も同じように見ていた。
それが、どうしてこんなに胸を熱くするのか分からなかった。
指輪を選んだというより、二人で同じ光を見つけたような気がした。
担当者が穏やかに微笑んだ。
「とてもお似合いです」
美月は、少しだけ頬が熱くなった。
理久が担当者に向き直る。
「こちらにします」
その声は、迷いがなかった。
けれど、美月の答えを聞く前に決めた声ではなかった。
美月が選んだものを、理久が受け取った声だった。
担当者が丁寧に頷く。
「ありがとうございます。サイズはこのままでよろしいかと思います。刻印につきましては、後日お預かりする形でも承れます」
理久は少し考えた。
そして、美月を見た。
「刻印は、後日にしよう」
「……はい」
「そこも、一緒に考えたい」
美月は、胸の奥がまた少し熱くなるのを感じた。
指輪だけではない。
刻む言葉まで、これから二人で考える。
約束は、ひとつずつ形になっていくのだと思った。
担当者が一度席を外す。
個室に、静かな時間が流れた。
美月は左手を見下ろした。
まだ試着用のリングがそこにある。
正式に自分のものになったわけではない。
けれど、その光はもう、さっきまでとは違って見えた。
「……重いですね」
思わず言うと、理久が美月を見た。
「うん」
「でも」
美月は指輪を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「外したい重さではないです」
理久は少しだけ目を細めた。
「美月らしいね」
「褒めてますか」
「かなり」
理久が静かに笑った。
美月も、ほんの少し笑った。
プロポーズの時には泣きそうだったのに、今は少しだけ笑えている。
それが不思議だった。
でも、たぶん、これでいいのだと思った。
大きな約束をしたからといって、急に強くなれるわけではない。
怖さが消えるわけでもない。
それでも、理久とこうして並んでいれば、怖いままでも少しずつ進める気がした。
* * *
指輪の手続きを終え、店を出た時には、街はほとんど夜になっていた。
美月の手には、小さな箱が入った紙袋があった。
理久が持とうとしたけれど、美月は首を振った。
「自分で持ちます」
理久は少しだけ驚いた顔をした。
それから、柔らかく頷いた。
「うん」
紙袋は軽い。
けれど、軽くはなかった。
ホテルへ戻るタクシーの中で、美月は紙袋を膝の上に置いていた。
理久は何も言わない。
けれど、隣にいる気配が静かに伝わってくる。
窓の外に、夜の東京が流れていく。
さっきサロンから見た景色とは違う。
同じ街なのに、もう違って見えた。
ホテルに戻ると、スタッフは自然に二人を迎えた。
エレベーターで上層階へ上がる。
先ほどのプライベートサロンに戻ると、部屋の印象は変わっていた。
夕方の光は消え、窓の外には東京の夜景が広がっている。
東京タワーは、先ほどよりもはっきりと赤く灯っていた。
テーブルには、食事の支度が整えられていた。
美月は窓の前で足を止めた。
さっきここで、理久にプロポーズされた。
その時と同じ部屋なのに、もう同じ場所ではないように見えた。
美月は、紙袋をそっと胸に抱いた。
理久が隣に立つ。
「疲れた?」
「疲れた、というより」
美月は少し考えた。
「現実感がありません」
理久が小さく笑う。
「俺も、少し」
「理久も?」
「うん」
理久は窓の外を見た。
「考えてきた時間の方が長かったから。今日が本当に来た感じが、まだ少ししない」
美月は、その横顔を見た。
完璧に整えていた人が、今だけ少し遠くを見る。
それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
食事の時間は、ゆっくりと過ぎていった。
理久は、美月のグラスが空きそうになると自然に気づき、食べる速度を合わせた。
何か特別な言葉を重ねるわけではない。
ただ、張りつめていた時間が、少しずつほどけていく。
食事の終わりに、理久が紙袋を見た。
「開けてみる?」
美月は少し迷った。
そして頷いた。
箱を取り出す。
濃い色の小さな箱。
指先が震える。
理久は急かさなかった。
美月はゆっくり箱を開けた。
中で、小さな光が静かに待っていた。
さっき自分の指に通した時と同じ光。
派手ではない。
けれど、確かにそこにある。
美月は、その光を見つめた。
理久が、箱の中の指輪にそっと触れた。
けれど、すぐには取り出さなかった。
「つけてもいい?」
その一言で、胸の奥がまた静かに揺れた。
美月は、指輪を見た。
それから、理久を見た。
「……はい」
理久が箱から指輪を取り出す。
美月は左手を差し出した。
薬指に、ひんやりとした感触が触れる。
ゆっくりと、指輪が通された。
光が、指の上に収まる。
美月は、息を止めてそれを見た。
さっきよりも少しだけ、その重さを知っている気がした。
理久が、美月の左手にそっと触れた。
強く握らない。
ただ、そこにある光を確かめるように。
「一緒に考えよう」
理久が言った。
美月は、指輪を見つめたまま頷いた。
「はい」
窓の向こうで、東京タワーの赤い光が夜の中に滲んでいた。
指輪の光は小さい。
けれど、確かにそこにある。
父の名前から逃げてきた自分が、初めて自分の手で選んだ約束。
それが美月の左手に、静かに残っていた。
