「食事の前に、少し話したいことがある」
その言葉で、美月の呼吸が止まった。
窓の向こうには、夕方の東京が広がっている。
淡い光の中で、ビルの輪郭が少しずつ夜へ沈んでいく。
遠くに見える東京タワーは、夕方の空の中で静かに赤く灯っていた。
美月は、理久を見た。
今日、理久がいつもより改まった服を着ていたこと。
ブティックに連れて行かれたこと。
自分に似合う服を、一緒に選んだこと。
そのままホテルへ来たこと。
レストランではなく、この静かなプライベートサロンに案内されたこと。
一つ一つが、今になって、胸の中でつながっていく。
分からないふりは、もうできなかった。
理久は、窓を背にして立っていた。
いつものように整っている。
けれど、いつものように余裕だけで立っているわけではない。
美月を見る目が、まっすぐだった。
それが怖かった。
けれど、目を逸らしたくなかった。
「この前、留学の話をした時」
理久が静かに口を開いた。
「一緒に考えてほしいって言ったよね」
美月は、小さく頷いた。
あの日のリビング。
テーブルに広げられていた資料。
留学候補。
研究テーマ。
期間。
帰国後。
理久の未来の中に、自分がどう関わるのか、まだ何も分からなかった。
けれど理久は、美月を置いて決めたくないと言った。
連れていく前提にもしたくないと言った。
「でも、あの言い方だけじゃ足りなかったと思う」
理久の声は穏やかだった。
けれど、いつもより少しだけ低かった。
「美月に、俺の未来の重さだけ渡すみたいだった」
美月の指先が、ワンピースの布を握る。
「ついてきてほしいとか、待っていてほしいとか、そういう話にしたくない」
理久は、美月を見た。
「俺は、美月を俺の予定に入れたいんじゃない」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
父の名前の下に置かれてきた人生。
期待される役割。
誰かの計画の中に、当然のように置かれる未来。
美月はずっと、そこから逃げたかった。
逃げて、逃げて、綾瀬宗一郎の娘ではなく、綾瀬美月として立とうとしてきた。
だからこそ、理久の言葉が苦しいほど胸に響いた。
「美月と、未来を選びたい」
美月は、息を止めた。
「留学も、仕事も、これからの生活も。簡単じゃないと思う」
理久は一度、言葉を切った。
「でも、難しいからこそ、美月を置いて決めたくない」
まっすぐな声だった。
「だから、ちゃんと言葉にする」
理久が、一歩近づいた。
大きな窓の外で、夕方の光が少しずつ薄くなる。
部屋の中の静けさが、急に深くなった気がした。
理久は、美月の前で立ち止まった。
「美月」
名前を呼ばれただけで、胸が震えた。
「結婚してください」
時間が、止まった。
そう思った。
けれど本当は、止まったのではない。
今まで避けてきたものが、一斉に動き出したのだと思った。
父の名前。
10A病棟で積み上げてきた仕事。
理久の留学。
知らない国で暮らすかもしれない未来。
それでも仕事を続けたいと思う自分。
そして、藤崎理久の隣に立つということ。
一つを選べば、一つを失うのかもしれない。
何を守れて、何を変えなければならないのか、まだ何も分からなかった。
美月は、理久を見上げた。
理久は、答えを急かさなかった。
何かを言い足すこともしなかった。
ただ、そこに立っていた。
覚悟を持って、言葉を差し出した人の顔で。
美月は、その顔を見ていた。
怖い。
あまりにも大きい。
自分にはまだ、何も分かっていない。
留学のことも。
父のことも。
これからどうなるのかも。
それでも。
ここで逃げたら、きっと一生、自分で何かを選んだとは言えなくなる。
父の名前から逃げてきた。
期待から逃げてきた。
誰かの視線から逃げてきた。
それでも、理久の本気からまで逃げたら、美月はどこにも進めない。
これは、父の盤面ではない。
理久が差し出した、本気だった。
美月は、小さく息を吸った。
声が震えそうだった。
それでも、言葉にしたかった。
「まだ、全部は分かりません」
理久が静かに聞いている。
「留学のことも、父のことも、これからどうなるのかも、分かりません」
自分の声が、思ったより頼りなく聞こえた。
けれど、止めなかった。
「怖いです」
言ってしまうと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「でも、逃げたくないです」
理久の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「理久の本気から、逃げたくないです」
美月は、まっすぐ理久を見た。
「一緒に考えたいです」
その言葉を言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
答えは、まだ全部出ていない。
それでも、今言えることは一つだけだった。
美月は、震える息を吐いた。
「……はい」
理久の表情が、静かに崩れた。
ほんの少し。
けれど、美月には分かった。
理久も、怖かったのだ。
完璧に見えて。
全部を整えて。
何もかも先に読んでいるように見えて。
それでも、今この瞬間だけは、答えを待つしかなかったのだ。
理久は、小さく息を吐いた。
「ありがとう」
その声は、少し掠れていた。
美月は、目を伏せた。
涙が出そうで、でも泣いてしまったら、今の自分が崩れてしまいそうだった。
理久が、そっと美月の手に触れた。
強く握らない。
ただ、確かめるように。
その手の温度に触れた瞬間、ようやく少しだけ現実が戻ってきた。
美月は、はいと言った。
言ってしまった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
怖さは消えていない。
分からないことも、何一つ減っていない。
それでも、理久の前で逃げなかった自分が、今ここにいる。
そのことだけが、静かに胸の奥へ残っていた。
「美月」
「はい」
「約束の形を、一緒に選びに行こうか」
美月は瞬きをした。
「……今から、ですか」
「うん」
「食事は」
「この部屋に戻ってくる」
理久は、少しだけいつもの顔で言った。
「押さえてあるから」
美月は、言葉を失った。
プロポーズのためだけではなかった。
この部屋は、戻ってくる場所として用意されていたのだ。
相変わらず、段取りがいい。
けれど今は、その段取りに追い詰められている感じはしなかった。
むしろ、プロポーズのあと、自分が夢の中に置き去りにされないように、次に歩く場所まで用意されていたように思えた。
「……本当に、抜かりないですね」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めているのか、呆れているのか、自分でも分かりません」
理久がようやく少し笑った。
その笑顔を見て、美月の胸も少しだけ緩んだ。
美月は、窓の外を見た。
夕方の東京は、少しずつ夜に変わっていく。
さっきまで見ていた景色と同じはずなのに、もう同じものには見えなかった。
理久の言葉を受け取った。
自分の言葉で、返事をした。
それだけで、世界の輪郭がほんの少し変わって見える。
「行ける?」
理久が静かに聞いた。
美月は、窓の外から視線を戻した。
まだ胸は高鳴っている。
足元も、少し頼りない。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
美月は小さく頷いた。
「はい」
理久が、美月の手を取った。
今度は、確かに。
強く引くのではなく、隣を歩くための手だった。
二人で扉へ向かう。
サロンを出る前に、美月は一度だけ振り返った。
夕方の光を含んだ窓。
静かなソファ。
控えめに飾られた花。
理久が言葉をくれた場所。
自分が逃げずに受け取った場所。
この部屋に、また戻ってくる。
その時には、きっと今とは違う自分で。
美月は、理久の手を握り返した。
胸の奥に、まだ言葉の余韻が残っている。
結婚してください。
その一言は、指輪より先に、美月の中へ静かに残っていた。
その言葉で、美月の呼吸が止まった。
窓の向こうには、夕方の東京が広がっている。
淡い光の中で、ビルの輪郭が少しずつ夜へ沈んでいく。
遠くに見える東京タワーは、夕方の空の中で静かに赤く灯っていた。
美月は、理久を見た。
今日、理久がいつもより改まった服を着ていたこと。
ブティックに連れて行かれたこと。
自分に似合う服を、一緒に選んだこと。
そのままホテルへ来たこと。
レストランではなく、この静かなプライベートサロンに案内されたこと。
一つ一つが、今になって、胸の中でつながっていく。
分からないふりは、もうできなかった。
理久は、窓を背にして立っていた。
いつものように整っている。
けれど、いつものように余裕だけで立っているわけではない。
美月を見る目が、まっすぐだった。
それが怖かった。
けれど、目を逸らしたくなかった。
「この前、留学の話をした時」
理久が静かに口を開いた。
「一緒に考えてほしいって言ったよね」
美月は、小さく頷いた。
あの日のリビング。
テーブルに広げられていた資料。
留学候補。
研究テーマ。
期間。
帰国後。
理久の未来の中に、自分がどう関わるのか、まだ何も分からなかった。
けれど理久は、美月を置いて決めたくないと言った。
連れていく前提にもしたくないと言った。
「でも、あの言い方だけじゃ足りなかったと思う」
理久の声は穏やかだった。
けれど、いつもより少しだけ低かった。
「美月に、俺の未来の重さだけ渡すみたいだった」
美月の指先が、ワンピースの布を握る。
「ついてきてほしいとか、待っていてほしいとか、そういう話にしたくない」
理久は、美月を見た。
「俺は、美月を俺の予定に入れたいんじゃない」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
父の名前の下に置かれてきた人生。
期待される役割。
誰かの計画の中に、当然のように置かれる未来。
美月はずっと、そこから逃げたかった。
逃げて、逃げて、綾瀬宗一郎の娘ではなく、綾瀬美月として立とうとしてきた。
だからこそ、理久の言葉が苦しいほど胸に響いた。
「美月と、未来を選びたい」
美月は、息を止めた。
「留学も、仕事も、これからの生活も。簡単じゃないと思う」
理久は一度、言葉を切った。
「でも、難しいからこそ、美月を置いて決めたくない」
まっすぐな声だった。
「だから、ちゃんと言葉にする」
理久が、一歩近づいた。
大きな窓の外で、夕方の光が少しずつ薄くなる。
部屋の中の静けさが、急に深くなった気がした。
理久は、美月の前で立ち止まった。
「美月」
名前を呼ばれただけで、胸が震えた。
「結婚してください」
時間が、止まった。
そう思った。
けれど本当は、止まったのではない。
今まで避けてきたものが、一斉に動き出したのだと思った。
父の名前。
10A病棟で積み上げてきた仕事。
理久の留学。
知らない国で暮らすかもしれない未来。
それでも仕事を続けたいと思う自分。
そして、藤崎理久の隣に立つということ。
一つを選べば、一つを失うのかもしれない。
何を守れて、何を変えなければならないのか、まだ何も分からなかった。
美月は、理久を見上げた。
理久は、答えを急かさなかった。
何かを言い足すこともしなかった。
ただ、そこに立っていた。
覚悟を持って、言葉を差し出した人の顔で。
美月は、その顔を見ていた。
怖い。
あまりにも大きい。
自分にはまだ、何も分かっていない。
留学のことも。
父のことも。
これからどうなるのかも。
それでも。
ここで逃げたら、きっと一生、自分で何かを選んだとは言えなくなる。
父の名前から逃げてきた。
期待から逃げてきた。
誰かの視線から逃げてきた。
それでも、理久の本気からまで逃げたら、美月はどこにも進めない。
これは、父の盤面ではない。
理久が差し出した、本気だった。
美月は、小さく息を吸った。
声が震えそうだった。
それでも、言葉にしたかった。
「まだ、全部は分かりません」
理久が静かに聞いている。
「留学のことも、父のことも、これからどうなるのかも、分かりません」
自分の声が、思ったより頼りなく聞こえた。
けれど、止めなかった。
「怖いです」
言ってしまうと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「でも、逃げたくないです」
理久の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「理久の本気から、逃げたくないです」
美月は、まっすぐ理久を見た。
「一緒に考えたいです」
その言葉を言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
答えは、まだ全部出ていない。
それでも、今言えることは一つだけだった。
美月は、震える息を吐いた。
「……はい」
理久の表情が、静かに崩れた。
ほんの少し。
けれど、美月には分かった。
理久も、怖かったのだ。
完璧に見えて。
全部を整えて。
何もかも先に読んでいるように見えて。
それでも、今この瞬間だけは、答えを待つしかなかったのだ。
理久は、小さく息を吐いた。
「ありがとう」
その声は、少し掠れていた。
美月は、目を伏せた。
涙が出そうで、でも泣いてしまったら、今の自分が崩れてしまいそうだった。
理久が、そっと美月の手に触れた。
強く握らない。
ただ、確かめるように。
その手の温度に触れた瞬間、ようやく少しだけ現実が戻ってきた。
美月は、はいと言った。
言ってしまった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
怖さは消えていない。
分からないことも、何一つ減っていない。
それでも、理久の前で逃げなかった自分が、今ここにいる。
そのことだけが、静かに胸の奥へ残っていた。
「美月」
「はい」
「約束の形を、一緒に選びに行こうか」
美月は瞬きをした。
「……今から、ですか」
「うん」
「食事は」
「この部屋に戻ってくる」
理久は、少しだけいつもの顔で言った。
「押さえてあるから」
美月は、言葉を失った。
プロポーズのためだけではなかった。
この部屋は、戻ってくる場所として用意されていたのだ。
相変わらず、段取りがいい。
けれど今は、その段取りに追い詰められている感じはしなかった。
むしろ、プロポーズのあと、自分が夢の中に置き去りにされないように、次に歩く場所まで用意されていたように思えた。
「……本当に、抜かりないですね」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めているのか、呆れているのか、自分でも分かりません」
理久がようやく少し笑った。
その笑顔を見て、美月の胸も少しだけ緩んだ。
美月は、窓の外を見た。
夕方の東京は、少しずつ夜に変わっていく。
さっきまで見ていた景色と同じはずなのに、もう同じものには見えなかった。
理久の言葉を受け取った。
自分の言葉で、返事をした。
それだけで、世界の輪郭がほんの少し変わって見える。
「行ける?」
理久が静かに聞いた。
美月は、窓の外から視線を戻した。
まだ胸は高鳴っている。
足元も、少し頼りない。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
美月は小さく頷いた。
「はい」
理久が、美月の手を取った。
今度は、確かに。
強く引くのではなく、隣を歩くための手だった。
二人で扉へ向かう。
サロンを出る前に、美月は一度だけ振り返った。
夕方の光を含んだ窓。
静かなソファ。
控えめに飾られた花。
理久が言葉をくれた場所。
自分が逃げずに受け取った場所。
この部屋に、また戻ってくる。
その時には、きっと今とは違う自分で。
美月は、理久の手を握り返した。
胸の奥に、まだ言葉の余韻が残っている。
結婚してください。
その一言は、指輪より先に、美月の中へ静かに残っていた。
