週末の午後、玄関に立つ理久は、いつもよりずっと端正に整っていた。
白いシャツに、薄いグレーのジャケット。
ネクタイはしていないのに、どこか改まった空気がある。
仕事の時に見せる整った顔とも、家で二人きりの時に見せる柔らかさとも違う。
今日の理久は、どこか特別だった。
美月は玄関先で靴を履きながら、理久を見上げた。
「今日、どこに行くんですか」
「買い物」
「買い物?」
「うん」
理久はそれ以上、詳しく言わなかった。
美月は少しだけ警戒した。
理久の言う買い物は、たいてい普通では終わらない。
表参道でネックレスを買ってもらった記憶が、まだ鮮明に残っている。
「また、何か変なことを考えていませんか」
「変なことは考えてない」
「本当ですか」
「うん。必要なものを見に行くだけ」
必要なもの。
その言葉が、少し引っかかった。
けれど、美月はそれ以上聞けなかった。
外へ出ると、理久は車ではなくタクシーを呼んでいた。
「今日は車じゃないんですね」
「うん」
「珍しいですね」
「あとで食事もするから」
「食事?」
「うん」
理久がそこで会話を切るように視線を外した時、タクシーのドアが開いた。
買い物。
食事。
必要なもの。
どれも一つずつなら普通の言葉なのに、理久が言うと、普通では済まない気がした。
* * *
タクシーが停まったのは、都心の通りから少し奥まったブティックの前だった。
大きなロゴはない。
店内には柔らかい照明が落ち、外の賑やかさが嘘のように静かだった。
美月は入口で一度、足を止めた。
理久が振り返る。
「美月」
呼ばれて、顔を上げた。
理久は何も言わず、ただ小さく微笑んだ。
急かされているわけではない。
でも、ここへ連れてきた理由が、理久の中にはちゃんとあるのだと分かった。
美月は小さく息を吸って、理久の隣に並んだ。
店内に入ると、店員が理久に気づいて近づいてきた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
美月は思わず理久を見た。
予約していた。
つまり、思いつきではない。
最初から、ここへ連れてくるつもりだった。
理久は穏やかな声で言った。
「彼女に似合うものを、いくつか見せていただけますか」
彼女。
その言葉に、美月の耳が少し熱くなる。
何度聞いても、まだ慣れない。
店員は美月を見て、柔らかく微笑んだ。
「かしこまりました。上品な雰囲気のものがお似合いになりそうですね」
美月は会釈を返した。
何か言うべきなのに、うまく言葉が出てこなかった。
奥のソファに案内される。
理久は隣ではなく、少し離れた椅子に座った。
視線は届く。
けれど、近すぎない。
美月が店員と話す余白を残すような距離だった。
店員が何着か持ってきた。
淡い色のワンピース。
柔らかい生地のセットアップ。
控えめな光沢のあるドレス。
どれも、美月が普段自分で選ぶものよりずっと上品で、少しだけ非日常だった。
「これは……」
美月が小さく呟くと、理久が言った。
「似合うと思う」
「まだ着てません」
「見れば分かる」
「分からないです」
「じゃあ、着てみて」
そう言われてしまうと、断る理由が見つからない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
美月は試着室に入り、最初のワンピースに袖を通した。
柔らかい布が肌に触れる。
鏡の中にいるのは、普段の延長にいる自分ではなかった。
誰かに会うために、丁寧に整えられた自分。
美月は少し落ち着かない気持ちでカーテンを開けた。
理久が顔を上げる。
その瞬間、ほんの少しだけ表情が止まった。
美月は視線を逸らした。
「……変ですか」
「全然」
「では、なぜ黙るんですか」
「想像より似合ってた」
まっすぐ言われて、美月は言葉に詰まった。
店員が少し微笑んでいる。
美月はそれ以上何も言えず、もう一度試着室へ戻った。
何着か試した。
そのたびに、理久はきちんと見る。
似合うものは、似合うと言う。
少し違うものには、無理に褒めない。
美月を飾るためではなく、美月が無理をしない服を探しているように見えた。
華やかすぎない。
幼く見えない。
でも、地味ではない。
美月が、美月のまま、きちんと立てる服。
最後に残ったのは、淡いブルーグレーのワンピースだった。
首元は開きすぎず、袖も控えめで、ラインは柔らかい。
派手ではない。
けれど鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びた。
理久は静かに言った。
「それがいい」
美月も、同じことを思っていた。
けれど、値札を見た瞬間、指先が止まった。
理久はそれに気づいたはずなのに、何も言わなかった。
話が進んでいく。
美月は、すぐには口を挟めなかった。
値札を見た指先は止まったままだったけれど、鏡の中の自分から目を逸らせなかった。
自分で選んだら、きっと手に取らなかった服。
けれど、今の自分から浮いているわけではない。
淡いブルーグレーのワンピースは、派手ではないのに、背筋を少しだけ伸ばしてくれる。
理久はきっと、何かのためにこの服を選んだ。
その何かに、美月は少しずつ気づき始めていた。
胸が落ち着かない。
けれど、嫌ではなかった。
美月は小さく息を吸った。
「……これで、お願いします」
理久はそこで初めて、店員へ静かに頷いた。
「こちらでお願いします。靴も合わせていただけますか」
しばらくして、店員が言った。
「よろしければ、このままお召しになっていかれますか」
美月は理久を見た。
「このまま、ですか」
理久は頷く。
「この服で、美月と行きたい場所がある」
その言葉に、美月は返事を失った。
行きたい場所。
理久がそう言うだけで、胸の奥が小さく跳ねる。
期待してはいけないと思う。
でも、期待していないと言えば嘘になる。
「どこへ行くんですか」
「あとで分かる」
「理久」
少しだけ責めるような声になった。
理久は笑わなかった。
「今日は、ちゃんと美月と選びたかった」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
何を。
聞きたいのに、聞けなかった。
聞いてしまったら、今かろうじて保っているものが崩れてしまいそうだった。
美月は鏡の中の自分を見た。
淡いブルーグレーのワンピース。
合わせてもらった靴。
少しだけ高くなった視線。
自分ではない誰かになったようで、それでも、完全に自分ではなくなったわけではない。
むしろ、知らなかった自分を先に見せられているようだった。
美月は小さく頷いた。
「……このままで行きます」
店を出る時、美月は選んだワンピースを着ていた。
靴も、ワンピースに合わせてもらったものだった。
歩き慣れない高さのヒールに、足元が少し頼りない。
理久はさりげなく歩幅を落とした。
手は取らない。
けれど、美月が無理なく歩ける速さで隣にいる。
それだけで、なぜか胸が落ち着かなかった。
* * *
次のタクシーが停まったのは、都心のホテルだった。
美月は、思わず建物を見上げた。
高く伸びたガラスの壁に、夕方の光が淡く映っている。
「……食事、ここですか」
「うん」
理久はそう答えたけれど、すぐにレストランへ向かう様子はなかった。
エントランスを抜け、静かなロビーを進む。
磨かれた床。
低く落とされた照明。
行き交う人たちの声まで、どこか遠く聞こえる。
美月は、淡いブルーグレーのワンピースの裾を、指先でそっと押さえた。
この服を着ているから、少しだけ息ができる気がした。
エレベーターは、上層階へ向かって静かに上がっていく。
扉が開くと、スタッフが理久に向かって丁寧に頭を下げた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
また、予約。
美月はもう驚くより先に、胸の奥が落ち着かなくなった。
案内されたのは、レストランではなかった。
大きな窓のある、静かなプライベートサロンだった。
広すぎない部屋。
低いソファ。
小さなテーブル。
控えめに飾られた花。
窓の向こうには、夕方の東京が広がっていた。
ビルの輪郭が、傾いた光の中で少しずつ柔らかくなっている。
遠くに、東京タワーが見えた。
夕方の空は、少しずつ夜の色を含み始めていた。

美月は、初めて足を踏み入れるその空間に、しばらく言葉を失った。
食事の席というより、誰かを静かに迎えるための部屋のようだった。
理久はスタッフに短く礼を言い、扉が閉まるのを待った。
部屋に、二人だけの静けさが落ちる。
美月は窓の外を見たまま、小さく息を吸った。
ここまで整えられた理由が、もう分からないふりはできなかった。
胸が高鳴る。
怖い。
けれど、それだけではなかった。
期待しているのかもしれない。
そう気づいた瞬間、美月は指先に力を入れた。
理久が、静かに名前を呼んだ。
「美月」
振り返ると、理久はまっすぐこちらを見ていた。
いつもの余裕はある。
けれど、それだけではない。
今日の理久は、どこか覚悟を決めた人の顔をしていた。
「食事の前に、少し話したいことがある」
その言葉で、美月の呼吸が止まった。
白いシャツに、薄いグレーのジャケット。
ネクタイはしていないのに、どこか改まった空気がある。
仕事の時に見せる整った顔とも、家で二人きりの時に見せる柔らかさとも違う。
今日の理久は、どこか特別だった。
美月は玄関先で靴を履きながら、理久を見上げた。
「今日、どこに行くんですか」
「買い物」
「買い物?」
「うん」
理久はそれ以上、詳しく言わなかった。
美月は少しだけ警戒した。
理久の言う買い物は、たいてい普通では終わらない。
表参道でネックレスを買ってもらった記憶が、まだ鮮明に残っている。
「また、何か変なことを考えていませんか」
「変なことは考えてない」
「本当ですか」
「うん。必要なものを見に行くだけ」
必要なもの。
その言葉が、少し引っかかった。
けれど、美月はそれ以上聞けなかった。
外へ出ると、理久は車ではなくタクシーを呼んでいた。
「今日は車じゃないんですね」
「うん」
「珍しいですね」
「あとで食事もするから」
「食事?」
「うん」
理久がそこで会話を切るように視線を外した時、タクシーのドアが開いた。
買い物。
食事。
必要なもの。
どれも一つずつなら普通の言葉なのに、理久が言うと、普通では済まない気がした。
* * *
タクシーが停まったのは、都心の通りから少し奥まったブティックの前だった。
大きなロゴはない。
店内には柔らかい照明が落ち、外の賑やかさが嘘のように静かだった。
美月は入口で一度、足を止めた。
理久が振り返る。
「美月」
呼ばれて、顔を上げた。
理久は何も言わず、ただ小さく微笑んだ。
急かされているわけではない。
でも、ここへ連れてきた理由が、理久の中にはちゃんとあるのだと分かった。
美月は小さく息を吸って、理久の隣に並んだ。
店内に入ると、店員が理久に気づいて近づいてきた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
美月は思わず理久を見た。
予約していた。
つまり、思いつきではない。
最初から、ここへ連れてくるつもりだった。
理久は穏やかな声で言った。
「彼女に似合うものを、いくつか見せていただけますか」
彼女。
その言葉に、美月の耳が少し熱くなる。
何度聞いても、まだ慣れない。
店員は美月を見て、柔らかく微笑んだ。
「かしこまりました。上品な雰囲気のものがお似合いになりそうですね」
美月は会釈を返した。
何か言うべきなのに、うまく言葉が出てこなかった。
奥のソファに案内される。
理久は隣ではなく、少し離れた椅子に座った。
視線は届く。
けれど、近すぎない。
美月が店員と話す余白を残すような距離だった。
店員が何着か持ってきた。
淡い色のワンピース。
柔らかい生地のセットアップ。
控えめな光沢のあるドレス。
どれも、美月が普段自分で選ぶものよりずっと上品で、少しだけ非日常だった。
「これは……」
美月が小さく呟くと、理久が言った。
「似合うと思う」
「まだ着てません」
「見れば分かる」
「分からないです」
「じゃあ、着てみて」
そう言われてしまうと、断る理由が見つからない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
美月は試着室に入り、最初のワンピースに袖を通した。
柔らかい布が肌に触れる。
鏡の中にいるのは、普段の延長にいる自分ではなかった。
誰かに会うために、丁寧に整えられた自分。
美月は少し落ち着かない気持ちでカーテンを開けた。
理久が顔を上げる。
その瞬間、ほんの少しだけ表情が止まった。
美月は視線を逸らした。
「……変ですか」
「全然」
「では、なぜ黙るんですか」
「想像より似合ってた」
まっすぐ言われて、美月は言葉に詰まった。
店員が少し微笑んでいる。
美月はそれ以上何も言えず、もう一度試着室へ戻った。
何着か試した。
そのたびに、理久はきちんと見る。
似合うものは、似合うと言う。
少し違うものには、無理に褒めない。
美月を飾るためではなく、美月が無理をしない服を探しているように見えた。
華やかすぎない。
幼く見えない。
でも、地味ではない。
美月が、美月のまま、きちんと立てる服。
最後に残ったのは、淡いブルーグレーのワンピースだった。
首元は開きすぎず、袖も控えめで、ラインは柔らかい。
派手ではない。
けれど鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びた。
理久は静かに言った。
「それがいい」
美月も、同じことを思っていた。
けれど、値札を見た瞬間、指先が止まった。
理久はそれに気づいたはずなのに、何も言わなかった。
話が進んでいく。
美月は、すぐには口を挟めなかった。
値札を見た指先は止まったままだったけれど、鏡の中の自分から目を逸らせなかった。
自分で選んだら、きっと手に取らなかった服。
けれど、今の自分から浮いているわけではない。
淡いブルーグレーのワンピースは、派手ではないのに、背筋を少しだけ伸ばしてくれる。
理久はきっと、何かのためにこの服を選んだ。
その何かに、美月は少しずつ気づき始めていた。
胸が落ち着かない。
けれど、嫌ではなかった。
美月は小さく息を吸った。
「……これで、お願いします」
理久はそこで初めて、店員へ静かに頷いた。
「こちらでお願いします。靴も合わせていただけますか」
しばらくして、店員が言った。
「よろしければ、このままお召しになっていかれますか」
美月は理久を見た。
「このまま、ですか」
理久は頷く。
「この服で、美月と行きたい場所がある」
その言葉に、美月は返事を失った。
行きたい場所。
理久がそう言うだけで、胸の奥が小さく跳ねる。
期待してはいけないと思う。
でも、期待していないと言えば嘘になる。
「どこへ行くんですか」
「あとで分かる」
「理久」
少しだけ責めるような声になった。
理久は笑わなかった。
「今日は、ちゃんと美月と選びたかった」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
何を。
聞きたいのに、聞けなかった。
聞いてしまったら、今かろうじて保っているものが崩れてしまいそうだった。
美月は鏡の中の自分を見た。
淡いブルーグレーのワンピース。
合わせてもらった靴。
少しだけ高くなった視線。
自分ではない誰かになったようで、それでも、完全に自分ではなくなったわけではない。
むしろ、知らなかった自分を先に見せられているようだった。
美月は小さく頷いた。
「……このままで行きます」
店を出る時、美月は選んだワンピースを着ていた。
靴も、ワンピースに合わせてもらったものだった。
歩き慣れない高さのヒールに、足元が少し頼りない。
理久はさりげなく歩幅を落とした。
手は取らない。
けれど、美月が無理なく歩ける速さで隣にいる。
それだけで、なぜか胸が落ち着かなかった。
* * *
次のタクシーが停まったのは、都心のホテルだった。
美月は、思わず建物を見上げた。
高く伸びたガラスの壁に、夕方の光が淡く映っている。
「……食事、ここですか」
「うん」
理久はそう答えたけれど、すぐにレストランへ向かう様子はなかった。
エントランスを抜け、静かなロビーを進む。
磨かれた床。
低く落とされた照明。
行き交う人たちの声まで、どこか遠く聞こえる。
美月は、淡いブルーグレーのワンピースの裾を、指先でそっと押さえた。
この服を着ているから、少しだけ息ができる気がした。
エレベーターは、上層階へ向かって静かに上がっていく。
扉が開くと、スタッフが理久に向かって丁寧に頭を下げた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
また、予約。
美月はもう驚くより先に、胸の奥が落ち着かなくなった。
案内されたのは、レストランではなかった。
大きな窓のある、静かなプライベートサロンだった。
広すぎない部屋。
低いソファ。
小さなテーブル。
控えめに飾られた花。
窓の向こうには、夕方の東京が広がっていた。
ビルの輪郭が、傾いた光の中で少しずつ柔らかくなっている。
遠くに、東京タワーが見えた。
夕方の空は、少しずつ夜の色を含み始めていた。

美月は、初めて足を踏み入れるその空間に、しばらく言葉を失った。
食事の席というより、誰かを静かに迎えるための部屋のようだった。
理久はスタッフに短く礼を言い、扉が閉まるのを待った。
部屋に、二人だけの静けさが落ちる。
美月は窓の外を見たまま、小さく息を吸った。
ここまで整えられた理由が、もう分からないふりはできなかった。
胸が高鳴る。
怖い。
けれど、それだけではなかった。
期待しているのかもしれない。
そう気づいた瞬間、美月は指先に力を入れた。
理久が、静かに名前を呼んだ。
「美月」
振り返ると、理久はまっすぐこちらを見ていた。
いつもの余裕はある。
けれど、それだけではない。
今日の理久は、どこか覚悟を決めた人の顔をしていた。
「食事の前に、少し話したいことがある」
その言葉で、美月の呼吸が止まった。
