その夜、美月がリビングに入ると、理久はテーブルの前に座っていた。
いつものように論文を読んでいるのだと思った。
けれど、テーブルの上に広がっていたのは、学会でもらった資料と、いくつかのメモだった。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
帰国後。
その中のひとつの文字に、美月の目が止まった。
留学。
指先が、少しだけ止まる。
「……何の資料ですか」
理久はペンを置いた。
「留学の候補」
美月は、すぐに返事ができなかった。
留学。
突然、現実の言葉として目の前に置かれた気がした。
理久は、先に言った。
「まだ、何も決まってない」
美月は顔を上げる。
「……はい」
「行き先も、期間も、研究テーマも、これから詰める段階」
「はい」
「研究留学だよ」
理久は静かに言った。
「患者を受け持ったり、執刀したりするためのものじゃない」
美月は何も言えなかった。
「でも、黙って進めるのは違うと思った」
留学が、理久にとって大きな機会であることは分かる。
父の周りには、留学を経て戻ってきた医師がたくさんいた。
美月自身にも、幼い頃、父の留学先で過ごした時期がある。
ただ、その記憶ははっきりしていない。
聞き取れない言葉。
知らない匂い。
広すぎる建物。
大人たちの声。
断片だけが、ぼんやり残っている。
それでも、外へ出ることが医師として何かを変えることがあるのだと、美月は知っていた。
だから、止めるようなことは言えない。
言えるはずがない。
「チャンス、なんですよね」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
理久は少しだけ目を伏せた。
「たぶん」
「なら、考えた方がいいと思います」
言ってから、美月は胸の奥が少し痛くなった。
正しいことを言った。
たぶん、正しい。
でも、正しいことを言うほど、自分がどこかへ置いていかれるような気がした。
理久は静かに美月を見ていた。
「美月」
「はい」
「今、何かを決めてほしいわけじゃない」
美月は頷いた。
「分かっています」
分かっている。
分かっているのに、うまく受け止められない。
理久が留学するかもしれない。
それは理久の人生にとって必要なことかもしれない。
なら、自分はどうすればいいのか。
邪魔はしたくない。
でも、関係ない顔もできない。
待つとか。
ついていくとか。
そういう言葉は頭の端に浮かんで、すぐに消えた。
そんなことを口にするには、何もかも早すぎる。
「理久の邪魔は、したくないです」
美月は小さく言った。
理久の表情が、少しだけ変わった。
「邪魔?」
「はい」
「美月が?」
美月は視線を落とした。
「父のこともあります。私のことで、理久の選択が難しくなるなら、それは嫌です」
理久はすぐには答えなかった。
その沈黙が怖くて、美月はマグカップに手を伸ばした。
中身はもう冷めている。
理久は、ゆっくり言った。
「難しくはなると思う」
美月の胸が、きゅっと縮んだ。
けれど、理久は続けた。
「でも、それは美月が悪いからじゃない」
美月は顔を上げた。
理久は資料に視線を落としたまま、静かに言った。
「俺が、美月のいる未来まで考えるようになったから」
美月は、息を止めた。
一瞬、意味が分からなかった。
分からなかったのに、胸の奥だけが先に熱くなる。
理久は顔を上げた。
「俺も迷ってる」
「理久も?」
「うん」
理久は資料の端に指を置いた。
「全部整えてから話すべきなのか、まだ決まっていない段階で話すべきなのか。俺も迷った」
美月は黙って聞いていた。
「でも、整ってから話したら、たぶん報告になる」
「……報告」
「うん。俺だけが先に決めた未来を、美月にあとから渡すことになる」
その言葉は、美月の胸に静かに落ちた。
それも怖い。
何も知らないまま、理久の未来だけが先に進んでしまうのは怖い。
でも、今こうして未完成の未来を渡されるのも怖い。
どちらも、怖い。
「美月を置いて決めたくない」
理久は言った。
「でも、美月を連れていく前提にもしたくない」
美月は何も言えなかった。
置いていかれたくない。
でも、連れていかれるだけにもなりたくない。
その両方を、理久が分かっている。
それが、少し苦しくて。
少しだけ、救いでもあった。
「だから、今は答えじゃなくて」
理久は美月を見た。
「迷っていることを話したかった」
「迷っていることを」
「うん」
理久の声は静かだった。
「一緒に考えてほしい」
それは、ついてきてほしい、ではなかった。
待っていてほしい、でもなかった。
けれど、何も関係ないと言われたわけでもなかった。
美月は、すぐには答えられなかった。
考える。
その言葉が、思っていたより重い。
父から逃げるためでも、理久の邪魔をしないためでもなく。
自分がどうしたいのかを考える。
そんなことを、今まで本当にしてきただろうか。
「今は」
美月はようやく言った。
「何も言えません」
「うん」
「父のことも、まだ整理できていません」
理久は頷いた。
「理久の留学のことも、正直、怖いです」
「うん」
「でも」
美月は、少しだけ息を吸った。
「考えます」
その声は頼りなかった。
それでも、逃げるとは言わなかった。
理久は小さく頷いた。
「うん。ありがとう」
それ以上、何も求めなかった。
美月はテーブルの上の資料を見た。
まだ何も決まっていない未来。
怖い。
でも、知らないまま置いていかれるよりは、きっといい。
まだ、そう言い切ることはできなかったけれど。
美月はマグカップを両手で包んだ。
冷めた陶器の感触だけが、妙にはっきりしていた。
理久の未来。
自分の未来。
父の名前。
逃げてきた場所。
向き合わなければならないものが、少しずつ増えていく。
まだ答えは出ない。
それでも、背を向けるわけにはいかないのだと思った。
一緒に考えてほしい。
その言葉だけが、静かに残っていた。
いつものように論文を読んでいるのだと思った。
けれど、テーブルの上に広がっていたのは、学会でもらった資料と、いくつかのメモだった。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
帰国後。
その中のひとつの文字に、美月の目が止まった。
留学。
指先が、少しだけ止まる。
「……何の資料ですか」
理久はペンを置いた。
「留学の候補」
美月は、すぐに返事ができなかった。
留学。
突然、現実の言葉として目の前に置かれた気がした。
理久は、先に言った。
「まだ、何も決まってない」
美月は顔を上げる。
「……はい」
「行き先も、期間も、研究テーマも、これから詰める段階」
「はい」
「研究留学だよ」
理久は静かに言った。
「患者を受け持ったり、執刀したりするためのものじゃない」
美月は何も言えなかった。
「でも、黙って進めるのは違うと思った」
留学が、理久にとって大きな機会であることは分かる。
父の周りには、留学を経て戻ってきた医師がたくさんいた。
美月自身にも、幼い頃、父の留学先で過ごした時期がある。
ただ、その記憶ははっきりしていない。
聞き取れない言葉。
知らない匂い。
広すぎる建物。
大人たちの声。
断片だけが、ぼんやり残っている。
それでも、外へ出ることが医師として何かを変えることがあるのだと、美月は知っていた。
だから、止めるようなことは言えない。
言えるはずがない。
「チャンス、なんですよね」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
理久は少しだけ目を伏せた。
「たぶん」
「なら、考えた方がいいと思います」
言ってから、美月は胸の奥が少し痛くなった。
正しいことを言った。
たぶん、正しい。
でも、正しいことを言うほど、自分がどこかへ置いていかれるような気がした。
理久は静かに美月を見ていた。
「美月」
「はい」
「今、何かを決めてほしいわけじゃない」
美月は頷いた。
「分かっています」
分かっている。
分かっているのに、うまく受け止められない。
理久が留学するかもしれない。
それは理久の人生にとって必要なことかもしれない。
なら、自分はどうすればいいのか。
邪魔はしたくない。
でも、関係ない顔もできない。
待つとか。
ついていくとか。
そういう言葉は頭の端に浮かんで、すぐに消えた。
そんなことを口にするには、何もかも早すぎる。
「理久の邪魔は、したくないです」
美月は小さく言った。
理久の表情が、少しだけ変わった。
「邪魔?」
「はい」
「美月が?」
美月は視線を落とした。
「父のこともあります。私のことで、理久の選択が難しくなるなら、それは嫌です」
理久はすぐには答えなかった。
その沈黙が怖くて、美月はマグカップに手を伸ばした。
中身はもう冷めている。
理久は、ゆっくり言った。
「難しくはなると思う」
美月の胸が、きゅっと縮んだ。
けれど、理久は続けた。
「でも、それは美月が悪いからじゃない」
美月は顔を上げた。
理久は資料に視線を落としたまま、静かに言った。
「俺が、美月のいる未来まで考えるようになったから」
美月は、息を止めた。
一瞬、意味が分からなかった。
分からなかったのに、胸の奥だけが先に熱くなる。
理久は顔を上げた。
「俺も迷ってる」
「理久も?」
「うん」
理久は資料の端に指を置いた。
「全部整えてから話すべきなのか、まだ決まっていない段階で話すべきなのか。俺も迷った」
美月は黙って聞いていた。
「でも、整ってから話したら、たぶん報告になる」
「……報告」
「うん。俺だけが先に決めた未来を、美月にあとから渡すことになる」
その言葉は、美月の胸に静かに落ちた。
それも怖い。
何も知らないまま、理久の未来だけが先に進んでしまうのは怖い。
でも、今こうして未完成の未来を渡されるのも怖い。
どちらも、怖い。
「美月を置いて決めたくない」
理久は言った。
「でも、美月を連れていく前提にもしたくない」
美月は何も言えなかった。
置いていかれたくない。
でも、連れていかれるだけにもなりたくない。
その両方を、理久が分かっている。
それが、少し苦しくて。
少しだけ、救いでもあった。
「だから、今は答えじゃなくて」
理久は美月を見た。
「迷っていることを話したかった」
「迷っていることを」
「うん」
理久の声は静かだった。
「一緒に考えてほしい」
それは、ついてきてほしい、ではなかった。
待っていてほしい、でもなかった。
けれど、何も関係ないと言われたわけでもなかった。
美月は、すぐには答えられなかった。
考える。
その言葉が、思っていたより重い。
父から逃げるためでも、理久の邪魔をしないためでもなく。
自分がどうしたいのかを考える。
そんなことを、今まで本当にしてきただろうか。
「今は」
美月はようやく言った。
「何も言えません」
「うん」
「父のことも、まだ整理できていません」
理久は頷いた。
「理久の留学のことも、正直、怖いです」
「うん」
「でも」
美月は、少しだけ息を吸った。
「考えます」
その声は頼りなかった。
それでも、逃げるとは言わなかった。
理久は小さく頷いた。
「うん。ありがとう」
それ以上、何も求めなかった。
美月はテーブルの上の資料を見た。
まだ何も決まっていない未来。
怖い。
でも、知らないまま置いていかれるよりは、きっといい。
まだ、そう言い切ることはできなかったけれど。
美月はマグカップを両手で包んだ。
冷めた陶器の感触だけが、妙にはっきりしていた。
理久の未来。
自分の未来。
父の名前。
逃げてきた場所。
向き合わなければならないものが、少しずつ増えていく。
まだ答えは出ない。
それでも、背を向けるわけにはいかないのだと思った。
一緒に考えてほしい。
その言葉だけが、静かに残っていた。
