さらに数日後。
職員用エレベーターの前で、美月は足を止めた。
扉が開く。
中には、先に一人乗っている人がいた。
藤崎理久だった。
一瞬、目が合った。
美月は、何も見なかったことにして乗り込んだ。
エレベーターの端に立ち、階数表示を見る。
沈黙。
扉が閉まる。
狭い箱の中に、二人だけ。
美月は階数表示だけを見た。
見ていない。
後ろにいる人など知らない。
そう決めていた。
少しして、背後から声がした。
「……無視?」
軽い声だった。
責めているわけではない。
でも、完全に気づいている声。
美月は表情を変えずに答えた。
「無視ではないです」
「じゃあ、見えてないふり?」
「勤務中なので」
「便利だね、それ」
美月は無言で階数表示を見続ける。
「食堂でも、目を逸らしたよね」
「見てないです」
「否定早いな」
「見てないです」
後ろで、藤崎理久が少し笑う気配がした。
「二回言うと、だいたい見てるよね」
美月は、すました顔で返した。
「では、三回言っておきます。見てないです」
一瞬、空気が止まった。
そのあと、後ろで小さく笑う声がした。
「……強いな」
その言い方は、馬鹿にしているわけではなかった。
むしろ、面白がっている。
美月は、それが余計に腹立たしかった。
次の階まで、沈黙が数秒続く。
美月は、もう話は終わったと思っていた。
その時だった。
背後から、一歩近づく気配がした。
反射的に振り向く。
すると、藤崎理久の指先が、頬のすぐ横で止まっていた。
触れてはいない。
けれど、完全にからかわれた距離だった。
「……何してるんですか」
美月は低い声で言った。
藤崎理久は悪びれない。
「見えてないって言うから」
「だからって、何ですか」
「本当に見えてないのか確認しようかと」
「触る気でした?」
「触ったら怒るでしょ」
「分かっているなら、やめてください」
「だから止めた」
腹立つ。
本当に腹立つ。
触れていない分、余計に腹立つ。
美月は一歩、きっちり距離を取った。
「藤崎先生ですよね」
「はい」
「外科の」
「はい」
「……駅ビルの」
「はい」
全部、あっさり認める。
美月は少しだけ目を細めた。
「なぜ、その時名乗らなかったんですか」
「名乗る必要がなかったので」
「そうですけど」
「綾瀬さんも名乗らなかった」
その言葉に、美月は止まった。
名前。
知られている。
美月は反射的に胸元を見る。
ネームプレート。
その瞬間、藤崎理久の視線が、ほんの一瞬だけそこをかすめた。
見た。
今、見た。
美月はすぐに言った。
「今、見ましたよね」
藤崎理久は、九階のボタンが光るのを見ながら平然と答えた。
「見えてしまっただけ」
ずるい。
さっきの自分の「見てない」を逆手に取っている。
かなりずるい。
エレベーターが九階に着く。
扉が開く。
藤崎理久は降りる前に、少しだけこちらを見た。
そして、控えめに笑った。
「じゃあ、また。見えてしまったら」
そう言って、降りていく。
扉が閉まる。
美月は一人、エレベーターに残された。
しばらく、その場から動けなかった。
なんつー男。
ほんとに、なんつー男。
最悪。
名前、見られた。
それなのに。
触れられたわけでもないのに、頬のすぐ横に止まった指先の距離だけが、妙に残っている。
腹立たしいほど自然に、彼の笑った顔が頭に残っていた。
美月は階数表示を見上げながら、小さく息を吐いた。
見えてしまったら、また。
そんな言い方をされたら。
次に見えてしまった時、どうしたらいいのか分からない。
本当に、なんつー男。
職員用エレベーターの前で、美月は足を止めた。
扉が開く。
中には、先に一人乗っている人がいた。
藤崎理久だった。
一瞬、目が合った。
美月は、何も見なかったことにして乗り込んだ。
エレベーターの端に立ち、階数表示を見る。
沈黙。
扉が閉まる。
狭い箱の中に、二人だけ。
美月は階数表示だけを見た。
見ていない。
後ろにいる人など知らない。
そう決めていた。
少しして、背後から声がした。
「……無視?」
軽い声だった。
責めているわけではない。
でも、完全に気づいている声。
美月は表情を変えずに答えた。
「無視ではないです」
「じゃあ、見えてないふり?」
「勤務中なので」
「便利だね、それ」
美月は無言で階数表示を見続ける。
「食堂でも、目を逸らしたよね」
「見てないです」
「否定早いな」
「見てないです」
後ろで、藤崎理久が少し笑う気配がした。
「二回言うと、だいたい見てるよね」
美月は、すました顔で返した。
「では、三回言っておきます。見てないです」
一瞬、空気が止まった。
そのあと、後ろで小さく笑う声がした。
「……強いな」
その言い方は、馬鹿にしているわけではなかった。
むしろ、面白がっている。
美月は、それが余計に腹立たしかった。
次の階まで、沈黙が数秒続く。
美月は、もう話は終わったと思っていた。
その時だった。
背後から、一歩近づく気配がした。
反射的に振り向く。
すると、藤崎理久の指先が、頬のすぐ横で止まっていた。
触れてはいない。
けれど、完全にからかわれた距離だった。
「……何してるんですか」
美月は低い声で言った。
藤崎理久は悪びれない。
「見えてないって言うから」
「だからって、何ですか」
「本当に見えてないのか確認しようかと」
「触る気でした?」
「触ったら怒るでしょ」
「分かっているなら、やめてください」
「だから止めた」
腹立つ。
本当に腹立つ。
触れていない分、余計に腹立つ。
美月は一歩、きっちり距離を取った。
「藤崎先生ですよね」
「はい」
「外科の」
「はい」
「……駅ビルの」
「はい」
全部、あっさり認める。
美月は少しだけ目を細めた。
「なぜ、その時名乗らなかったんですか」
「名乗る必要がなかったので」
「そうですけど」
「綾瀬さんも名乗らなかった」
その言葉に、美月は止まった。
名前。
知られている。
美月は反射的に胸元を見る。
ネームプレート。
その瞬間、藤崎理久の視線が、ほんの一瞬だけそこをかすめた。
見た。
今、見た。
美月はすぐに言った。
「今、見ましたよね」
藤崎理久は、九階のボタンが光るのを見ながら平然と答えた。
「見えてしまっただけ」
ずるい。
さっきの自分の「見てない」を逆手に取っている。
かなりずるい。
エレベーターが九階に着く。
扉が開く。
藤崎理久は降りる前に、少しだけこちらを見た。
そして、控えめに笑った。
「じゃあ、また。見えてしまったら」
そう言って、降りていく。
扉が閉まる。
美月は一人、エレベーターに残された。
しばらく、その場から動けなかった。
なんつー男。
ほんとに、なんつー男。
最悪。
名前、見られた。
それなのに。
触れられたわけでもないのに、頬のすぐ横に止まった指先の距離だけが、妙に残っている。
腹立たしいほど自然に、彼の笑った顔が頭に残っていた。
美月は階数表示を見上げながら、小さく息を吐いた。
見えてしまったら、また。
そんな言い方をされたら。
次に見えてしまった時、どうしたらいいのか分からない。
本当に、なんつー男。
