週が明けて、理久は医局棟の共有スペースで留学候補の資料を見ていた。
博士論文の目処がつき、学位授与までの流れが見え始めてから、留学の話は以前より現実味を帯びていた。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
推薦状。
留学中の所属。
帰国後のポジション。
考えるべきことは、いくつもある。
綾瀬宗一郎。
週末の学会で、初めて言葉を交わした教授。
レジデントの頃から論文で読んできた名前。
発表に指摘をくれた人。
留学について、短くも重い言葉を置いていった人。
何を持って出るかを決めてから行け。
その言葉は、まだ理久の中に残っていた。
医師としては、嬉しかった。
認められた、などと簡単に言うつもりはない。
ただ、見られた。
自分が積み上げてきたものが、あの人の視界に入った。
それは確かに、大きかった。
だからこそ、海外で何を積むのかを、もう一度考え始めていた。
患者を受け持ったり、執刀したりするための留学ではない。
研究留学。
術前画像評価。
症例データの解析。
手術適応の判断。
手術動画やカンファレンスを通して見える、判断の組み立て方。
外でしか見えないものがある。
それは、理久にも分かっていた。
もっと症例を見たい。
もっと先の判断を知りたい。
術前にどこまで見抜けるか。
術中にどこで迷うのか。
その精度を上げたい。
そういう欲は、理久の中にはっきりあった。
「留学?」
背後から声がした。
桐谷だった。
理久は資料から顔を上げる。
「候補だけ」
「候補だけ、って顔じゃないな」
「どういう顔」
「行くやつの顔」
理久は少し眉を上げた。
「決まってない」
「でも、行くだろ」
「簡単に言うね」
「お前なら行く」
桐谷は隣の椅子を引き、勝手に座った。
手にはコンビニのコーヒーを持っている。
「まあ、行ったら教えろよ」
「何で」
「長期休みに遊びに行く」
理久は資料から視線を上げた。
「遊びに?」
「折角だからな。楽しみが一つ増える」
「観光気分?」
「家族旅行」
理久は少し笑った。
「いい身分だな」
「お前が海外にいるなら、宿代くらい浮くだろ」
「泊めるとは言ってない」
「王子は冷たいな」
「その呼び方やめて」
「無理」
桐谷は当然のように言って、コーヒーを飲んだ。
いつも通りの軽口だった。
留学に行くかもしれない。
行ったら遊びに行く。
家族旅行。
ただ、それだけの話だった。
けれど、ひとつだけ、理久の中に残った言葉があった。
家族。
理久は資料に視線を落とした。
今まで、自分の未来にその言葉を置いたことは、ほとんどなかった。
誰かと付き合うことはあった。
一緒に過ごす時間を、心地いいと思ったこともある。
会えば嬉しい。
触れたいと思う。
同じ部屋で黙って過ごすことが楽だと思ったこともある。
でも、その先に生活が続いていくことを、本気で考えたことはなかった。
結婚。
家族。
そういう言葉は、どこか他人のものだった。
仕事をして。
論文を書いて。
症例を積んで。
留学して。
戻ってくる。
自分の未来は、ずっとそういう線でできていた。
そこに誰かがいることを、前提にしたことがなかった。
「何。急に黙って」
桐谷が横から言った。
理久は資料を一枚めくる。
「考えてる」
「留学のこと?」
「そう」
「嘘はついてないけど、全部でもない顔だな」
理久は桐谷を見る。
「顔で判断しすぎ」
「最近、分かりやすいんだよ」
「そう?」
「そう」
桐谷は少し笑った。
「まあ、決まったら言えよ。旅行先の候補に入れるから」
「だから泊めるとは言ってない」
「はいはい」
桐谷は軽く手を振り、立ち上がった。
それ以上は聞いてこなかった。
その距離感が、今は少しありがたかった。
桐谷が去ったあと、理久はもう一度資料に目を落とした。
そこには、行き先や期間、研究テーマ、帰国後のことまで、現実的な項目が並んでいた。
どれも大事なことだった。
具体的にしなければ動けない。
曖昧なままでは、どこにも行けない。
それは分かっている。
けれど、理久の思考は、もう資料だけに戻れなかった。
留学先の病院。
知らない街。
知らない部屋。
英語だけが飛び交うカンファレンス。
自分の判断の甘さを、何度も突きつけられるかもしれない。
それでも行きたいと思う。
そういう場所へ行きたいと思っている。
そして。
その未来を考えた時、当たり前のように美月の顔が浮かんだ。
一緒に来てほしい。
その言葉は、確かに理久の中にあった。
思わないわけがない。
むしろ、思っている。
知らない土地で、うまくいかない日があっても。
帰る部屋に美月がいたらいいと思ってしまう。
朝、同じ部屋でコーヒーを飲んで。
夜、慣れない街を歩いて帰ってきた美月に、おかえりと言って。
慣れない場所で、少し不機嫌になった美月に笑って。
それでも、いつかその街にも二人で慣れていく。
そんな未来を、勝手に想像してしまう。
理久は、資料の端を指で押さえた。
一緒に来てほしい。
言葉にするだけなら簡単だ。
けれど、それはただの恋人への甘い誘いでは済まない。
美月には、10Aがある。
綾瀬宗一郎の娘ではなく、綾瀬美月として立ってきた場所。
患者を見て。
後輩に声をかけて。
病棟の流れを読み、必要なことを言い、時には煙たがられながら、それでも積み重ねてきた時間。
美月はそこで、自分の足で立ってきた。
父の名前から離れて。
父のいない場所で。
自分の仕事を作ってきた。
その場所から、美月を連れ出していいのか。
自分が留学したいから。
自分が一緒にいてほしいから。
それだけで、美月の仕事を動かしていいのか。
理久は息を吐いた。
美月が大切だから、一緒に来てほしい。
でも。
美月が大切だからこそ、簡単には言えない。
その矛盾が、思っていたより重かった。
理久は資料の横に置いたノートを開いた。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
帰国後。
そこまでは書ける。
けれど、その下に「生活」と書いたところで、ペンが止まった。
一緒に来てほしい。
そう書けたら、どれだけ楽だろうと思った。
でも、それは理久の願いであって、美月の答えではない。
理久は、生活の下を空欄のままにした。
未来はまだ、書かない。
美月の名前を、勝手にそこへ置かない。
けれど、その空欄を見た時に、誰の顔を思い浮かべているのかだけは、もう分かっていた。
博士論文の目処がつき、学位授与までの流れが見え始めてから、留学の話は以前より現実味を帯びていた。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
推薦状。
留学中の所属。
帰国後のポジション。
考えるべきことは、いくつもある。
綾瀬宗一郎。
週末の学会で、初めて言葉を交わした教授。
レジデントの頃から論文で読んできた名前。
発表に指摘をくれた人。
留学について、短くも重い言葉を置いていった人。
何を持って出るかを決めてから行け。
その言葉は、まだ理久の中に残っていた。
医師としては、嬉しかった。
認められた、などと簡単に言うつもりはない。
ただ、見られた。
自分が積み上げてきたものが、あの人の視界に入った。
それは確かに、大きかった。
だからこそ、海外で何を積むのかを、もう一度考え始めていた。
患者を受け持ったり、執刀したりするための留学ではない。
研究留学。
術前画像評価。
症例データの解析。
手術適応の判断。
手術動画やカンファレンスを通して見える、判断の組み立て方。
外でしか見えないものがある。
それは、理久にも分かっていた。
もっと症例を見たい。
もっと先の判断を知りたい。
術前にどこまで見抜けるか。
術中にどこで迷うのか。
その精度を上げたい。
そういう欲は、理久の中にはっきりあった。
「留学?」
背後から声がした。
桐谷だった。
理久は資料から顔を上げる。
「候補だけ」
「候補だけ、って顔じゃないな」
「どういう顔」
「行くやつの顔」
理久は少し眉を上げた。
「決まってない」
「でも、行くだろ」
「簡単に言うね」
「お前なら行く」
桐谷は隣の椅子を引き、勝手に座った。
手にはコンビニのコーヒーを持っている。
「まあ、行ったら教えろよ」
「何で」
「長期休みに遊びに行く」
理久は資料から視線を上げた。
「遊びに?」
「折角だからな。楽しみが一つ増える」
「観光気分?」
「家族旅行」
理久は少し笑った。
「いい身分だな」
「お前が海外にいるなら、宿代くらい浮くだろ」
「泊めるとは言ってない」
「王子は冷たいな」
「その呼び方やめて」
「無理」
桐谷は当然のように言って、コーヒーを飲んだ。
いつも通りの軽口だった。
留学に行くかもしれない。
行ったら遊びに行く。
家族旅行。
ただ、それだけの話だった。
けれど、ひとつだけ、理久の中に残った言葉があった。
家族。
理久は資料に視線を落とした。
今まで、自分の未来にその言葉を置いたことは、ほとんどなかった。
誰かと付き合うことはあった。
一緒に過ごす時間を、心地いいと思ったこともある。
会えば嬉しい。
触れたいと思う。
同じ部屋で黙って過ごすことが楽だと思ったこともある。
でも、その先に生活が続いていくことを、本気で考えたことはなかった。
結婚。
家族。
そういう言葉は、どこか他人のものだった。
仕事をして。
論文を書いて。
症例を積んで。
留学して。
戻ってくる。
自分の未来は、ずっとそういう線でできていた。
そこに誰かがいることを、前提にしたことがなかった。
「何。急に黙って」
桐谷が横から言った。
理久は資料を一枚めくる。
「考えてる」
「留学のこと?」
「そう」
「嘘はついてないけど、全部でもない顔だな」
理久は桐谷を見る。
「顔で判断しすぎ」
「最近、分かりやすいんだよ」
「そう?」
「そう」
桐谷は少し笑った。
「まあ、決まったら言えよ。旅行先の候補に入れるから」
「だから泊めるとは言ってない」
「はいはい」
桐谷は軽く手を振り、立ち上がった。
それ以上は聞いてこなかった。
その距離感が、今は少しありがたかった。
桐谷が去ったあと、理久はもう一度資料に目を落とした。
そこには、行き先や期間、研究テーマ、帰国後のことまで、現実的な項目が並んでいた。
どれも大事なことだった。
具体的にしなければ動けない。
曖昧なままでは、どこにも行けない。
それは分かっている。
けれど、理久の思考は、もう資料だけに戻れなかった。
留学先の病院。
知らない街。
知らない部屋。
英語だけが飛び交うカンファレンス。
自分の判断の甘さを、何度も突きつけられるかもしれない。
それでも行きたいと思う。
そういう場所へ行きたいと思っている。
そして。
その未来を考えた時、当たり前のように美月の顔が浮かんだ。
一緒に来てほしい。
その言葉は、確かに理久の中にあった。
思わないわけがない。
むしろ、思っている。
知らない土地で、うまくいかない日があっても。
帰る部屋に美月がいたらいいと思ってしまう。
朝、同じ部屋でコーヒーを飲んで。
夜、慣れない街を歩いて帰ってきた美月に、おかえりと言って。
慣れない場所で、少し不機嫌になった美月に笑って。
それでも、いつかその街にも二人で慣れていく。
そんな未来を、勝手に想像してしまう。
理久は、資料の端を指で押さえた。
一緒に来てほしい。
言葉にするだけなら簡単だ。
けれど、それはただの恋人への甘い誘いでは済まない。
美月には、10Aがある。
綾瀬宗一郎の娘ではなく、綾瀬美月として立ってきた場所。
患者を見て。
後輩に声をかけて。
病棟の流れを読み、必要なことを言い、時には煙たがられながら、それでも積み重ねてきた時間。
美月はそこで、自分の足で立ってきた。
父の名前から離れて。
父のいない場所で。
自分の仕事を作ってきた。
その場所から、美月を連れ出していいのか。
自分が留学したいから。
自分が一緒にいてほしいから。
それだけで、美月の仕事を動かしていいのか。
理久は息を吐いた。
美月が大切だから、一緒に来てほしい。
でも。
美月が大切だからこそ、簡単には言えない。
その矛盾が、思っていたより重かった。
理久は資料の横に置いたノートを開いた。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
帰国後。
そこまでは書ける。
けれど、その下に「生活」と書いたところで、ペンが止まった。
一緒に来てほしい。
そう書けたら、どれだけ楽だろうと思った。
でも、それは理久の願いであって、美月の答えではない。
理久は、生活の下を空欄のままにした。
未来はまだ、書かない。
美月の名前を、勝手にそこへ置かない。
けれど、その空欄を見た時に、誰の顔を思い浮かべているのかだけは、もう分かっていた。
