光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

「綾瀬宗一郎は、私の父です」

言ってしまってから、美月はマグカップを握る手に力を入れた。

理久はすぐには何も言わなかった。

その沈黙が、怖かった。

父の名前を出すと、いつも何かが変わる。

相手の目が変わる。

距離が変わる。

自分が、自分ではなくなる。

「……知っていたんですか」

美月が聞くと、理久は静かに答えた。

「今日、少しだけ。及川から聞いた」

「そうですか」

及川くんなら言うかもしれない、と思った。

理久が学会で父と話していたなら、知らないままにしておく方が不自然だから。

それでも、自分の口で先に言えなかったことが、少しだけ苦しかった。

「及川くんには、昔、ひどいことを言いました」

「牽制されたって言ってた」

美月は目を伏せた。

「はい」

あの頃の及川くんは、ただ普通に話しかけてきただけだった。

下心があったわけではない。

父に近づこうとしたわけでもない。

それなのに、美月は先に線を引いた。

私に近づいても、何もありません。

言ったあと、及川くんが本当に意味の分からない顔をしていたのを覚えている。

「父の名前を知られるのが、嫌だったんです」

美月は小さく言った。

「父の名前を知った途端に、近づいてくる人がいました。逆に、急によそよそしくなる人もいました」

理久は黙って聞いていた。

「父に覚えてもらいたい人。父の娘なら何か利用できると思う人。私ではなく、父を見て話す人」

言葉にすると、思っていたより苦かった。

「どれも嫌でした」

美月は笑おうとして、やめた。

「私を見ているのか、父を見ているのか、分からなくなるので」

だから逃げた。

父のいる場所から。

父の名前が届く場所から。

父の期待が見える場所から。

「10Aでは、ただの看護師でいたかったんです」

美月は言った。

「綾瀬宗一郎の娘ではなくて、綾瀬美月でいたかった」

理久は小さく頷いた。

「うん」

「だから、言えませんでした」

言い訳に聞こえるかもしれない。

それでも、それ以外に言葉がなかった。

「理久に言ったら、変わる気がしました」

理久は少しだけ間を置いた。

「何が変わると思った?」

「全部です」

美月は膝の上で手を握った。

「理久が私を見る目も。父を見る目も。父が理久を見る目も」

父は、理久を気に入ると思う。

たぶん、かなり。

今日、学会で話したなら余計にそうだ。

理久は優秀で、冷静で、外科医としての芯がある。

父はそういう人を見逃さない。

見つける。

評価する。

そして、必要なら自分の盤面に置く。

「父は、理久を気に入ると思います」

美月は言った。

「たぶん、すごく」

理久は何も言わなかった。

「それが怖いんです」

美月の声は少しだけ震えた。

「理久が父に認められるのが嫌なわけではありません。理久の仕事の邪魔をしたいわけでもありません」

でも。

言葉が止まる。

うまく言えない。

きれいに説明できない。

自分でも矛盾していると思う。

「でも、父が理久を見つけて、理久を父の盤面に置いて」

美月は息を詰めた。

「私まで、またそこに戻される気がするんです」

父の娘として。

綾瀬宗一郎の娘として。

理久の隣にいる人ではなく、父の名前の一部として。

「理久が、父に近づくために私を選んだ人に見られるのも嫌です」

理久は黙って聞いていた。

「私が、理久を父のところへ連れてきた人に見られるのも嫌です」

美月は、マグカップを握る手に力を込めた。

「父が、理久を動かすのも嫌です」

言ってから、美月は自分の言葉の強さに気づいた。

「……すみません」

「謝らなくていい」

理久の声は静かだった。

「うまく言えないんです」

「うん」

「父が嫌いなわけではありません。でも、怖いです」

「うん」

「逃げたのに、また戻される気がするんです」

理久はしばらく黙っていた。

その沈黙は、美月の言葉を整えるためではなく、受け止めるためのものに思えた。

「今日、綾瀬教授と話せたことは、俺にとって大きかった」

美月の胸が少し沈んだ。

分かっていた。

それでも、言葉にされると痛かった。

「正直に言うと、すぐに切り離せるとは言えない」

美月は顔を上げた。

理久はまっすぐこちらを見ていた。

「医師として尊敬してきた人で、美月の父親でもある。その二つが、今、俺の中で重なってる」

美月は何も言えなかった。

「でも、だからこそ、勝手に答えを出したくない」

「……答え?」

「綾瀬教授がどういう父親なのかも、美月がどう傷ついてきたのかも、俺が分かったつもりになりたくない」

理久の声は静かだった。

「それに、俺が今ここで何か言えば、美月を余計に困らせる気がする」

美月は、マグカップを握る手に力を込めた。

理久は少しだけ声を柔らかくした。

「話してくれてありがとう」

美月は小さく息を止めた。

「美月の気持ちは、ちゃんと受け止めたから」

その言葉で、肩から少しだけ力が抜けた。

全部話さなくていい。

全部分かってもらおうとしなくていい。

それが、少しだけありがたかった。

「……ありがとうございます」

「うん」

理久は少しだけ笑った。

「俺の方でも、ちゃんと考える」

美月は小さく頷いた。

けれど、安心しきることはできなかった。

父の名前を出した。

理久は離れなかった。

でも、それで終わりではない。

父はまだ、私の隣にいる理久を知らない。

理久もまだ、父としての綾瀬宗一郎を知らない。

そして美月はまだ、父の前で理久の隣に立てる自信がない。

そのことだけが、はっきりしていた。

「今日は、もう休みます」

「うん」

美月は立ち上がった。

寝室へ向かう前に、一度だけ振り返る。

「おやすみなさい」

「おやすみ、美月」

名前を呼ばれて、美月は小さく頷いた。

扉を閉めたあと、美月はしばらくその場に立っていた。

父の名前から逃げてきた。

父のいない場所で、自分の足で立とうとしてきた。

でも、理久が父と出会ったことで、その逃げ道の先にまで父の影が伸びてきた気がした。

まだ向き合えない。

まだ、父の前で理久の隣に立てる自分ではない。

それだけは、痛いほど分かっていた。