その週末、理久は学会に出ていた。
大学病院の廊下とは違う空気だった。
白衣ではなくスーツ姿の医師たちが行き交い、会場のあちこちで短い議論が交わされている。
所属も、立場も、年齢も違う。
けれど、発表の場に立てば、見られるものは一つだった。
何を見ているのか。
何を根拠に判断したのか。
どこまで考えて、その結論にしたのか。
肩書きではごまかせない。
曖昧なところは、すぐに見抜かれる。
理久は午前のセッションで発表を終えた。
肝胆膵領域の手術前評価についての発表だった。
症例数は多くない。
それでも、画像で見えていたことと、実際の手術で迷ったことのずれを、どう減らすか。
そこに絞ってまとめた。
質問は厳しかった。
「術前の時点で、どこまで判断できたと考えていますか」
「その所見を、どう手術方針につなげましたか」
「最終的に切除に踏み切った根拠を、もう少し具体的に」
理久は一つずつ答えた。
完璧ではない。
足りないところもある。
それでも、今の自分がどこまで見て、どこから先を不確実として扱ったのかは、言葉にできた。
発表が終わったあと、理久は会場横のスペースで資料を片付けていた。
そこへ、外科の主任教授が近づいてきた。
「藤崎」
「はい」
教授は、少し先に立つ男性を目で示した。
「挨拶しておきなさい」
理久は視線を上げた。
数メートル先に、一人の男性が立っていた。
周囲の医師たちが自然に一歩引いて話している。
笑っているわけではない。
威圧しているわけでもない。
ただ、そこにいるだけで、会話の中心がどこにあるのか分かる人だった。
綾瀬宗一郎。
名前だけなら、ずっと前から知っている。
レジデントの頃から、何度も論文で見てきた名前だった。
肝胆膵の手術前評価や、手術方針の考え方。
その名前が著者欄にある論文を、理久は何本も読んできた。
学会で登壇する姿を、遠くの席から見たこともある。
淡々と話し、鋭い質問にも短く返す。
その姿は、若い理久にとって、壇上の人だった。
一介のレジデントが、簡単に紹介してもらえる相手ではない。
直接言葉を交わす日が来るとは、あの頃は思っていなかった。
教授が声をかける。
「綾瀬先生」
綾瀬宗一郎がこちらを向いた。
「うちの藤崎です。先ほどのセッションで発表していた若手です」
理久は一歩前に出て、頭を下げた。
「藤崎理久です。本日はありがとうございました」
綾瀬教授の視線が、理久に向く。
鋭い。
人を値踏みするというより、余計な装飾を剥がして、芯だけを見るような目だった。
「藤崎先生」
低い声だった。
「はい」
「さっきの発表、最後の症例は悪くなかった」
理久は一瞬、呼吸を整えた。
「ありがとうございます」
「ただ、結論が少し急いでいた」
やはり、甘くはない。
理久は静かに頷く。
「はい。どこまで言い切るべきか、整理しきれていなかったと思います」
綾瀬教授の目が、少しだけ動いた。
「言い訳しないのはいい」
主任教授が横で少し笑った。
「藤崎は、そこは妙に素直です」
「素直というより、危ないところを分かっているのだろう」
綾瀬教授は理久を見た。
「君は、画像を見る時に何を最初に探す」
突然だった。
周囲の声が少し遠くなる。
理久は、少しだけ間を置いて答えた。
「自分が手術中に困る場所です」
綾瀬教授の視線が、理久を捉えた。
「続けて」
「できるかどうかだけではなく、どこで迷うか。どこで手が止まるか。術前にその場所を言葉にしておかないと、術中に初めて困ることになります」
綾瀬教授は、表情を変えなかった。
けれど、視線の温度がほんの少しだけ変わった気がした。
「誰に教わった」
理久は答えた。
「先生の論文からです」
主任教授が理久をちらりと見た。
理久は続ける。
「レジデントの頃から読ませていただいていました。最初は、正直、読んだだけでした」
綾瀬教授は黙っている。
「でも、外病院に出て、自分で判断しなければならない場面が増えてから、意味が変わりました。自分が何を見落としたら困るのか、先に探すようになりました」
数秒、沈黙が落ちた。
その数秒が、妙に長かった。
「悪くない」
それだけだった。
けれど、理久の中に、その言葉は静かに落ちた。
悪くない。
たったそれだけ。
温かい褒め言葉ではない。
けれど、理久にとっては十分だった。
主任教授が言う。
「藤崎は、今後も肝胆膵でやっていく予定です」
「留学は考えているのか」
綾瀬教授が理久を見る。
「考えています。まだ具体的には詰めきれていませんが」
「詰めなさい」
即答だった。
「はい」
「行くつもりがあるなら、早い方がいい。国内で積めるものと、外でしか見えないものは違う」
「はい」
「ただし、外に出ればいいわけではない。何を持って出るかを決めてから行け」
「分かりました」
綾瀬教授は、そこでようやく少しだけ表情を緩めた。
笑みと呼ぶには薄い。
けれど、会話を終えるだけの空気ではなかった。
「また発表しなさい」
理久は頭を下げた。
「ありがとうございます」
綾瀬教授は主任教授へ短く会釈し、別の医師たちの方へ歩いていった。
その背中を見ながら、理久は少しだけ息を吐いた。
緊張していた。
思っていたよりも、ずっと。
論文の中にあった名前。
壇上で遠くから見ていた人。
その人が今、目の前に立ち、自分の発表に言葉を返した。
医師としてここまで来た。
そう思えるほど大げさな場面ではないのかもしれない。
それでも、理久にとっては確かに一つの段差だった。
「藤崎先生」
呼ばれて振り向くと、少し離れたところに及川が立っていた。
学会用のスーツ姿。
いつもより少しだけ医師らしく見える。
本人に言えば、きっと嫌な顔をする。
「及川」
「お疲れ様です。発表、聞いてました」
「ありがとう」
「さっきの質疑、厳しかったですね」
「厳しかったね」
「でも、ちゃんと返してましたよね」
「ちゃんと返せてたかは分からない」
「いや、少なくとも僕なら途中で折れてました」
理久は少し笑った。
「及川は折れる前に、うまく逃げるでしょ」
「ばれてます?」
「ばれてる」
及川も軽く笑った。
けれど、そのあと少しだけ表情を変えた。
「さっき、綾瀬教授と話してましたよね」
「うん」
及川は、少しだけ周囲を見た。
いつもの軽さはある。
けれど、その奥に、ほんの少し迷うようなものが見えた。
「あの人、綾瀬の父親なんです」
理久は、そこで少しだけ動きを止めた。
「……綾瀬さんの?」
「はい」
同じ名字。
考えなかったわけではない。
けれど、同じ名字の医師など珍しくない。
ただの偶然だと思っていた。
思うことにしていたのかもしれない。
理久は、さっきまで目の前にいた綾瀬宗一郎の顔を思い浮かべた。
論文で何度も見てきた名前。
遠くの壇上で見てきた人。
今日、初めて直接言葉を交わした教授。
その人が、美月の父。
「僕、新人の頃に一度、綾瀬にかなり牽制されたんです」
及川が、少し苦笑した。
「牽制?」
「はい。普通に話しかけただけだったんですけど」
及川は、言っていいのか少し迷ったように間を置いた。
それでも、結局続けた。
「私に近づいても、何もありません、って言われました」
理久は黙った。
「こっちは下心も何もなかったので、最初は意味が分からなくて」
「及川が?」
「はい。僕が」
及川は肩をすくめた。
「普通に同期みたいな距離で話しかけただけだったんですけどね。今思えば、あれは僕個人に向けたものというより、父親の名前を知って近づいてくる人間への牽制だったんだと思います」
理久は、静かに聞いていた。
「父親を利用したい人もいたのかもしれないし、逆に、父親の名前を聞いて引く人もいたのかもしれないです」
「引く?」
「はい。あの先生の娘に手を出すなんて無理だ、とか。そういう感じで」
理久の中で、何かが静かに沈んだ。
美月が誰かに向けて、先に線を引く姿は想像できる。
でも、その線を引かなければならなかった理由までは、知らなかった。
及川は続ける。
「だから綾瀬は、先に線を引くんです。近づかれる前に。期待される前に。利用される前に」
声は軽すぎなかった。
けれど、重くしすぎてもいなかった。
及川らしい距離だった。
理久は、少しだけ及川を見た。
「及川は、綾瀬さんに線を引かれたけど、今もなお仲がいいんだね」
「えっ……」
及川が、分かりやすく顔を引きつらせた。
「先生、誤解を生むようなこと言わないでくださいよ」
「誤解?」
理久は、少しだけ笑った。
「仲良く見えるけど」
「先生、俺は結婚予定なので、変なこと言わないでください。どこで何を聞かれてるか分からないんですから」
「相手は同業者?」
「違いますけど……」
及川はそこで、少しだけ言葉を詰まらせた。
それから、困ったように視線を逸らす。
「ただ、綾瀬のことは、何となく先生に伝えておいた方がいいかな、と……」
「なんで?」
理久が静かに聞くと、及川はさらに困った顔をした。
言える理由と、言えない理由の間で迷っている。
そんな顔だった。
理久は、その表情だけで十分だった。
及川が何かに気づいていることも。
それを、ここで言葉にはしないつもりでいることも。
「……何となくです」
苦し紛れのように、及川はそう言った。
理久はそれ以上追及しなかった。
「分かった。教えてくれてありがとう」
「いえ」
「本人が話していないなら、俺からは触れない」
及川は、少し安心したように息を吐いた。
「その方がいいと思います」
理久は会場の奥を見た。
綾瀬宗一郎の姿は、もうそこにはなかった。
「話すなら、本人からだろうから」
「はい」
及川はそれ以上踏み込まなかった。
理久も、それ以上は聞かなかった。
ただ、一つ分かったことがあった。
及川は、美月の事情を面白がって話したわけではない。
新人の頃、理由も分からないまま一線を引かれて、それでも距離を間違えずに残った人間だ。
だから今も、綾瀬、と呼べる場所にいる。
それは、少しだけ理久を安心させた。
恋敵ではない。
守る対象でもない。
美月の仕事場の中で、時間をかけて残った関係。
そのことが、及川の言葉から分かった。
帰りの電車の中で、理久は窓に映る自分の顔を見ていた。
綾瀬宗一郎。
ずっと読んできた名前。
遠くから見てきた人。
今日、初めて直接言葉を交わした人。
そして、美月の父。
一つの名前に、意味が重なっていく。
医師として尊敬してきた教授。
美月が伏せてきた父。
及川の言葉の中にいた、新人時代の美月。
その全部を、すぐに一つにしてはいけないと思った。
綾瀬教授への敬意と、美月の中にある何かは別のものだ。
父親としての綾瀬宗一郎を、理久はまだ知らない。
美月がその名前をどう背負ってきたのかも、まだ知らない。
だから、聞かない。
帰って、顔を見たとしても。
こちらからは触れない。
そう決めた。
* * *
部屋に戻ると、リビングの灯りがついていた。
美月はソファではなく、ダイニングテーブルの前に座っていた。
手元にはマグカップがある。
本を開いているように見えるが、ページはほとんど進んでいないようだった。
理久が玄関で靴を脱ぐ音に、美月が顔を上げる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
理久は鞄を置いた。
「起きてたんだ」
「はい」
美月は少しだけ視線を落とした。
それから、迷うように口を開いた。
「今日、学会でしたよね」
「うん」
「発表は、どうでしたか」
「厳しかったけど、終わったよ」
「そうですか」
そこで会話は一度途切れた。
理久はそれ以上、何も言わなかった。
綾瀬宗一郎のことも。
及川から聞いたことも。
その名前が、美月の父であることも。
理久から触れることではない。
美月が伏せてきたものなら、こちらから開けてはいけない。
美月は、マグカップを両手で包んだ。
指先に、少しだけ力が入っている。
「……綾瀬宗一郎に、会いましたか」
理久は、静かに美月を見た。
その名前を、美月が自分から出した。
「会った」
美月は、ほんの少しだけ息を止めた。
「話しましたか」
「少し」
「……そうですか」
また沈黙が落ちる。
理久は待った。
聞かない。
促さない。
ただ、美月が次の言葉を出すまで待つ。
美月はしばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。
「綾瀬宗一郎は」
声は小さかった。
けれど、逃げてはいなかった。
「私の父です」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
大学病院の廊下とは違う空気だった。
白衣ではなくスーツ姿の医師たちが行き交い、会場のあちこちで短い議論が交わされている。
所属も、立場も、年齢も違う。
けれど、発表の場に立てば、見られるものは一つだった。
何を見ているのか。
何を根拠に判断したのか。
どこまで考えて、その結論にしたのか。
肩書きではごまかせない。
曖昧なところは、すぐに見抜かれる。
理久は午前のセッションで発表を終えた。
肝胆膵領域の手術前評価についての発表だった。
症例数は多くない。
それでも、画像で見えていたことと、実際の手術で迷ったことのずれを、どう減らすか。
そこに絞ってまとめた。
質問は厳しかった。
「術前の時点で、どこまで判断できたと考えていますか」
「その所見を、どう手術方針につなげましたか」
「最終的に切除に踏み切った根拠を、もう少し具体的に」
理久は一つずつ答えた。
完璧ではない。
足りないところもある。
それでも、今の自分がどこまで見て、どこから先を不確実として扱ったのかは、言葉にできた。
発表が終わったあと、理久は会場横のスペースで資料を片付けていた。
そこへ、外科の主任教授が近づいてきた。
「藤崎」
「はい」
教授は、少し先に立つ男性を目で示した。
「挨拶しておきなさい」
理久は視線を上げた。
数メートル先に、一人の男性が立っていた。
周囲の医師たちが自然に一歩引いて話している。
笑っているわけではない。
威圧しているわけでもない。
ただ、そこにいるだけで、会話の中心がどこにあるのか分かる人だった。
綾瀬宗一郎。
名前だけなら、ずっと前から知っている。
レジデントの頃から、何度も論文で見てきた名前だった。
肝胆膵の手術前評価や、手術方針の考え方。
その名前が著者欄にある論文を、理久は何本も読んできた。
学会で登壇する姿を、遠くの席から見たこともある。
淡々と話し、鋭い質問にも短く返す。
その姿は、若い理久にとって、壇上の人だった。
一介のレジデントが、簡単に紹介してもらえる相手ではない。
直接言葉を交わす日が来るとは、あの頃は思っていなかった。
教授が声をかける。
「綾瀬先生」
綾瀬宗一郎がこちらを向いた。
「うちの藤崎です。先ほどのセッションで発表していた若手です」
理久は一歩前に出て、頭を下げた。
「藤崎理久です。本日はありがとうございました」
綾瀬教授の視線が、理久に向く。
鋭い。
人を値踏みするというより、余計な装飾を剥がして、芯だけを見るような目だった。
「藤崎先生」
低い声だった。
「はい」
「さっきの発表、最後の症例は悪くなかった」
理久は一瞬、呼吸を整えた。
「ありがとうございます」
「ただ、結論が少し急いでいた」
やはり、甘くはない。
理久は静かに頷く。
「はい。どこまで言い切るべきか、整理しきれていなかったと思います」
綾瀬教授の目が、少しだけ動いた。
「言い訳しないのはいい」
主任教授が横で少し笑った。
「藤崎は、そこは妙に素直です」
「素直というより、危ないところを分かっているのだろう」
綾瀬教授は理久を見た。
「君は、画像を見る時に何を最初に探す」
突然だった。
周囲の声が少し遠くなる。
理久は、少しだけ間を置いて答えた。
「自分が手術中に困る場所です」
綾瀬教授の視線が、理久を捉えた。
「続けて」
「できるかどうかだけではなく、どこで迷うか。どこで手が止まるか。術前にその場所を言葉にしておかないと、術中に初めて困ることになります」
綾瀬教授は、表情を変えなかった。
けれど、視線の温度がほんの少しだけ変わった気がした。
「誰に教わった」
理久は答えた。
「先生の論文からです」
主任教授が理久をちらりと見た。
理久は続ける。
「レジデントの頃から読ませていただいていました。最初は、正直、読んだだけでした」
綾瀬教授は黙っている。
「でも、外病院に出て、自分で判断しなければならない場面が増えてから、意味が変わりました。自分が何を見落としたら困るのか、先に探すようになりました」
数秒、沈黙が落ちた。
その数秒が、妙に長かった。
「悪くない」
それだけだった。
けれど、理久の中に、その言葉は静かに落ちた。
悪くない。
たったそれだけ。
温かい褒め言葉ではない。
けれど、理久にとっては十分だった。
主任教授が言う。
「藤崎は、今後も肝胆膵でやっていく予定です」
「留学は考えているのか」
綾瀬教授が理久を見る。
「考えています。まだ具体的には詰めきれていませんが」
「詰めなさい」
即答だった。
「はい」
「行くつもりがあるなら、早い方がいい。国内で積めるものと、外でしか見えないものは違う」
「はい」
「ただし、外に出ればいいわけではない。何を持って出るかを決めてから行け」
「分かりました」
綾瀬教授は、そこでようやく少しだけ表情を緩めた。
笑みと呼ぶには薄い。
けれど、会話を終えるだけの空気ではなかった。
「また発表しなさい」
理久は頭を下げた。
「ありがとうございます」
綾瀬教授は主任教授へ短く会釈し、別の医師たちの方へ歩いていった。
その背中を見ながら、理久は少しだけ息を吐いた。
緊張していた。
思っていたよりも、ずっと。
論文の中にあった名前。
壇上で遠くから見ていた人。
その人が今、目の前に立ち、自分の発表に言葉を返した。
医師としてここまで来た。
そう思えるほど大げさな場面ではないのかもしれない。
それでも、理久にとっては確かに一つの段差だった。
「藤崎先生」
呼ばれて振り向くと、少し離れたところに及川が立っていた。
学会用のスーツ姿。
いつもより少しだけ医師らしく見える。
本人に言えば、きっと嫌な顔をする。
「及川」
「お疲れ様です。発表、聞いてました」
「ありがとう」
「さっきの質疑、厳しかったですね」
「厳しかったね」
「でも、ちゃんと返してましたよね」
「ちゃんと返せてたかは分からない」
「いや、少なくとも僕なら途中で折れてました」
理久は少し笑った。
「及川は折れる前に、うまく逃げるでしょ」
「ばれてます?」
「ばれてる」
及川も軽く笑った。
けれど、そのあと少しだけ表情を変えた。
「さっき、綾瀬教授と話してましたよね」
「うん」
及川は、少しだけ周囲を見た。
いつもの軽さはある。
けれど、その奥に、ほんの少し迷うようなものが見えた。
「あの人、綾瀬の父親なんです」
理久は、そこで少しだけ動きを止めた。
「……綾瀬さんの?」
「はい」
同じ名字。
考えなかったわけではない。
けれど、同じ名字の医師など珍しくない。
ただの偶然だと思っていた。
思うことにしていたのかもしれない。
理久は、さっきまで目の前にいた綾瀬宗一郎の顔を思い浮かべた。
論文で何度も見てきた名前。
遠くの壇上で見てきた人。
今日、初めて直接言葉を交わした教授。
その人が、美月の父。
「僕、新人の頃に一度、綾瀬にかなり牽制されたんです」
及川が、少し苦笑した。
「牽制?」
「はい。普通に話しかけただけだったんですけど」
及川は、言っていいのか少し迷ったように間を置いた。
それでも、結局続けた。
「私に近づいても、何もありません、って言われました」
理久は黙った。
「こっちは下心も何もなかったので、最初は意味が分からなくて」
「及川が?」
「はい。僕が」
及川は肩をすくめた。
「普通に同期みたいな距離で話しかけただけだったんですけどね。今思えば、あれは僕個人に向けたものというより、父親の名前を知って近づいてくる人間への牽制だったんだと思います」
理久は、静かに聞いていた。
「父親を利用したい人もいたのかもしれないし、逆に、父親の名前を聞いて引く人もいたのかもしれないです」
「引く?」
「はい。あの先生の娘に手を出すなんて無理だ、とか。そういう感じで」
理久の中で、何かが静かに沈んだ。
美月が誰かに向けて、先に線を引く姿は想像できる。
でも、その線を引かなければならなかった理由までは、知らなかった。
及川は続ける。
「だから綾瀬は、先に線を引くんです。近づかれる前に。期待される前に。利用される前に」
声は軽すぎなかった。
けれど、重くしすぎてもいなかった。
及川らしい距離だった。
理久は、少しだけ及川を見た。
「及川は、綾瀬さんに線を引かれたけど、今もなお仲がいいんだね」
「えっ……」
及川が、分かりやすく顔を引きつらせた。
「先生、誤解を生むようなこと言わないでくださいよ」
「誤解?」
理久は、少しだけ笑った。
「仲良く見えるけど」
「先生、俺は結婚予定なので、変なこと言わないでください。どこで何を聞かれてるか分からないんですから」
「相手は同業者?」
「違いますけど……」
及川はそこで、少しだけ言葉を詰まらせた。
それから、困ったように視線を逸らす。
「ただ、綾瀬のことは、何となく先生に伝えておいた方がいいかな、と……」
「なんで?」
理久が静かに聞くと、及川はさらに困った顔をした。
言える理由と、言えない理由の間で迷っている。
そんな顔だった。
理久は、その表情だけで十分だった。
及川が何かに気づいていることも。
それを、ここで言葉にはしないつもりでいることも。
「……何となくです」
苦し紛れのように、及川はそう言った。
理久はそれ以上追及しなかった。
「分かった。教えてくれてありがとう」
「いえ」
「本人が話していないなら、俺からは触れない」
及川は、少し安心したように息を吐いた。
「その方がいいと思います」
理久は会場の奥を見た。
綾瀬宗一郎の姿は、もうそこにはなかった。
「話すなら、本人からだろうから」
「はい」
及川はそれ以上踏み込まなかった。
理久も、それ以上は聞かなかった。
ただ、一つ分かったことがあった。
及川は、美月の事情を面白がって話したわけではない。
新人の頃、理由も分からないまま一線を引かれて、それでも距離を間違えずに残った人間だ。
だから今も、綾瀬、と呼べる場所にいる。
それは、少しだけ理久を安心させた。
恋敵ではない。
守る対象でもない。
美月の仕事場の中で、時間をかけて残った関係。
そのことが、及川の言葉から分かった。
帰りの電車の中で、理久は窓に映る自分の顔を見ていた。
綾瀬宗一郎。
ずっと読んできた名前。
遠くから見てきた人。
今日、初めて直接言葉を交わした人。
そして、美月の父。
一つの名前に、意味が重なっていく。
医師として尊敬してきた教授。
美月が伏せてきた父。
及川の言葉の中にいた、新人時代の美月。
その全部を、すぐに一つにしてはいけないと思った。
綾瀬教授への敬意と、美月の中にある何かは別のものだ。
父親としての綾瀬宗一郎を、理久はまだ知らない。
美月がその名前をどう背負ってきたのかも、まだ知らない。
だから、聞かない。
帰って、顔を見たとしても。
こちらからは触れない。
そう決めた。
* * *
部屋に戻ると、リビングの灯りがついていた。
美月はソファではなく、ダイニングテーブルの前に座っていた。
手元にはマグカップがある。
本を開いているように見えるが、ページはほとんど進んでいないようだった。
理久が玄関で靴を脱ぐ音に、美月が顔を上げる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
理久は鞄を置いた。
「起きてたんだ」
「はい」
美月は少しだけ視線を落とした。
それから、迷うように口を開いた。
「今日、学会でしたよね」
「うん」
「発表は、どうでしたか」
「厳しかったけど、終わったよ」
「そうですか」
そこで会話は一度途切れた。
理久はそれ以上、何も言わなかった。
綾瀬宗一郎のことも。
及川から聞いたことも。
その名前が、美月の父であることも。
理久から触れることではない。
美月が伏せてきたものなら、こちらから開けてはいけない。
美月は、マグカップを両手で包んだ。
指先に、少しだけ力が入っている。
「……綾瀬宗一郎に、会いましたか」
理久は、静かに美月を見た。
その名前を、美月が自分から出した。
「会った」
美月は、ほんの少しだけ息を止めた。
「話しましたか」
「少し」
「……そうですか」
また沈黙が落ちる。
理久は待った。
聞かない。
促さない。
ただ、美月が次の言葉を出すまで待つ。
美月はしばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。
「綾瀬宗一郎は」
声は小さかった。
けれど、逃げてはいなかった。
「私の父です」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
