目を閉じたまま、美月は息を詰めていた。
閉じた瞬間、世界が急に狭くなる。
テレビの音。
コーヒーの残り香。
隣にいる理久の気配。
自分の心臓の音。
全部が、近すぎる。
怖かったら、止めて。
さっき理久はそう言った。
だから、これ以上の確認はなかった。
理久の気配が、静かに近づく。
美月はクッションを手放した手を、膝の上で握った。
逃げない。
そう決めたはずなのに、身体はうまく言うことを聞かない。
肩に力が入る。
指先が固まる。
息をするタイミングすら分からない。
そして。
唇に、柔らかい感触が落ちた。
一瞬だった。
本当に、軽く触れるだけ。
奪うようなものではなく、試すようなものでもなく。
確かめるような、短いキス。
それだけなのに、美月の頭の中は真っ白になった。
唇が離れても、しばらく動けなかった。
目も開けられない。
息もできない。
いや。
息を止めていた。
「美月」
理久の声が近くで聞こえる。
低くて、少しだけ笑いを含んだ声。
「息して」
美月は、そこでようやく、止めていた息を吐いた。
細く、震えるような息だった。
それから慌てて吸い込む。
「……してます」
「今した」
「してました」
「止まってたよ」
美月はゆっくり目を開けた。
理久がすぐ近くにいる。
近い。
近すぎる。
キスをしたのだから当然なのに、その当然に身体がついていかない。
美月は反射的に少し引こうとして、ソファの背もたれに当たった。
もう下がれない。
それを見て、理久が小さく笑った。
でも、その笑いは、からかうだけのものではなかった。
困ったようで、優しい。
そして、少しだけ何かを抑えている顔だった。
理久が、ゆっくり身体を離す。
近かった空気が、少しだけ戻った。
美月は瞬きをした。
「今日はここまで」
理久が静かに言った。
美月は固まった。
「……え?」
声が出てから、自分でも驚いた。
え、とは何だ。
何に対する、え、なのか。
終わってほっとしたのか。
急に終わって驚いたのか。
それとも。
美月は自分の考えをそこで止めた。
理久が少しだけ目を細める。
「期待してた?」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「ち、違います」
「即答」
「違います」
「分かった」
絶対に分かっていない顔だった。
理久は少し笑っている。
美月は唇を引き結んだ。
「笑うところではありません」
「ごめん」
「絶対に思っていませんよね」
「思ってる」
「嘘です」
「ばれた?」
「ばれます」
理久がまた小さく笑った。
その笑い方が、少しだけいつもの理久に戻っていて、美月は余計に困った。
心臓がまだうるさい。
唇に、さっきの感触が残っている気がする。
軽かった。
本当に軽かった。
それなのに、全身が落ち着かない。
今日はここまで。
そう言われて、ほっとした。
ほっとしたはずなのに、変なところで引っかかった。
え?
なんて声を出してしまった。
違う。
期待していたわけではない。
絶対に違う。
ただ、急に終わったから驚いただけ。
そういうことにする。
美月は視線を逸らした。
「明日も勤務なので」
理久が少し笑う。
「出た」
「大事です」
「うん。大事」
「だから、寝ます」
「はい」
「先生も、明日早いですよね」
言ってから、美月ははっとした。
先生。
二人でいる時に。
今、完全に言った。
理久が何も言わずに美月を見た。
美月の背中が固まる。
「……今のは」
「うん」
「業務上の確認です」
「業務上?」
「明日早い、という話なので」
「二人でいる時に?」
「……」
「先生って言ったね」
美月は唇を引き結んだ。
まずい。
非常にまずい。
さっき、その条件でキスしたばかりなのに。
もう言った。
自分であえて呼んだ時とは違う。
今度は完全にうっかりだった。
理久は少し笑った。
「今日はここまでって言ったから、今のは見逃す」
美月は、ほっとしたような、余計に恥ずかしくなったような顔をした。
「……見逃す、という言い方は」
「じゃあ、今日は保留」
「それも嫌です」
「でも、忘れる気はない」
「忘れてください」
「無理」
理久は楽しそうに笑った。
でも、近づいてはこなかった。
美月が明らかに限界だと分かっているからだろう。
その余裕が、また腹立たしい。
いや、ありがたい。
ありがたいけれど、腹立たしい。
美月は立ち上がった。
「寝ます」
「逃げた」
「寝ます」
「はい」
美月はリビングを出ようとした。
扉の前まで行って、手をかける。
そのまま出ていけばよかった。
いつも通り。
何も言わずに、逃げてしまえばよかった。
でも、足が止まった。
美月は、少しだけ振り返った。
理久はソファに座ったまま、こちらを見ている。
追いかけてくるわけでもない。
からかうわけでもない。
ただ、静かに美月を見ていた。
その視線を受け止めきれなくて、美月はすぐに目を逸らした。
心臓が、またうるさくなる。
声が小さくなった。
「おやすみなさい……りく」
言った。
言ってしまった。
理久の反応を見る勇気はなかった。
美月はそのまま逃げるようにリビングを出た。
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、美月は両手で顔を覆いたくなった。
無理。
本当に無理。
キスをした。
先生って言った。
理久と呼んだ。
一晩に情報量が多すぎる。
明日も勤務なのに。
本当に勤務なのに。
寝られる気がしない。
寝室に入ってドアを閉めた瞬間、美月はその場にしゃがみ込みそうになった。
唇に、そっと指を当てる。
軽く触れただけだった。
でも、確かに初めてだった。
理久のキス。
理久の声。
息して。
今日はここまで。
思い出しただけで、顔が熱くなる。
「……最悪」
小さく呟いた。
けれど、その声には、さっきまでのような困惑だけではないものが混じっていた。
嫌ではなかった。
怖くもなかった。
ただ、分からなかった。
どうしていいか。
どこに気持ちを置けばいいか。
でも、逃げたくなかった。
だから、名前を呼んだ。
おやすみなさい、りく。
もう一度思い出して、美月は布団に顔を伏せた。
無理。
本当に、今日は無理。
* * *
リビングに残された理久は、しばらく動けなかった。
扉が閉まったあとも、視線はそのままだった。
おやすみなさい……りく。
小さな声。
目を逸らしたままの、逃げるような呼び方。
それなのに、確かに聞こえた。
理久。
初めて、美月が名前を呼んだ。
理久はゆっくり片手で口元を覆った。
「……反則だろ」
自分で仕掛けたはずだった。
二人でいる時に先生と呼んだら、キス。
名前で呼ばせるための、少し意地の悪い条件。
どちらを選んでも、自分が嬉しいように作ったはずだった。
それなのに、美月はあえて先生と呼んだ。
キスのあと、息を止めるほど固まって。
今日はここまで、と言えば、本気で不思議そうな顔をして。
最後に、逃げる直前で名前を置いていった。
理久はソファに深く座り直した。
軽いキスだけで止めた自分を、心底褒めたい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
今すぐ確かめたくなる気持ちを、理性で押さえ込む。
駄目だ。
今日はここまで。
自分で言った。
それでいい。
それが正解だった。
分かっている。
分かっているのに。
おやすみなさい、りく。
また、声が頭の中で再生される。
理久は低く笑った。
完全に負けた。
キスをしたのはこちらなのに。
仕掛けたのもこちらなのに。
最後に全部持っていったのは、美月だった。
本当に、敵わない。
しばらく理久は、閉じた扉の向こうに消えた声だけを、何度も思い出していた。
閉じた瞬間、世界が急に狭くなる。
テレビの音。
コーヒーの残り香。
隣にいる理久の気配。
自分の心臓の音。
全部が、近すぎる。
怖かったら、止めて。
さっき理久はそう言った。
だから、これ以上の確認はなかった。
理久の気配が、静かに近づく。
美月はクッションを手放した手を、膝の上で握った。
逃げない。
そう決めたはずなのに、身体はうまく言うことを聞かない。
肩に力が入る。
指先が固まる。
息をするタイミングすら分からない。
そして。
唇に、柔らかい感触が落ちた。
一瞬だった。
本当に、軽く触れるだけ。
奪うようなものではなく、試すようなものでもなく。
確かめるような、短いキス。
それだけなのに、美月の頭の中は真っ白になった。
唇が離れても、しばらく動けなかった。
目も開けられない。
息もできない。
いや。
息を止めていた。
「美月」
理久の声が近くで聞こえる。
低くて、少しだけ笑いを含んだ声。
「息して」
美月は、そこでようやく、止めていた息を吐いた。
細く、震えるような息だった。
それから慌てて吸い込む。
「……してます」
「今した」
「してました」
「止まってたよ」
美月はゆっくり目を開けた。
理久がすぐ近くにいる。
近い。
近すぎる。
キスをしたのだから当然なのに、その当然に身体がついていかない。
美月は反射的に少し引こうとして、ソファの背もたれに当たった。
もう下がれない。
それを見て、理久が小さく笑った。
でも、その笑いは、からかうだけのものではなかった。
困ったようで、優しい。
そして、少しだけ何かを抑えている顔だった。
理久が、ゆっくり身体を離す。
近かった空気が、少しだけ戻った。
美月は瞬きをした。
「今日はここまで」
理久が静かに言った。
美月は固まった。
「……え?」
声が出てから、自分でも驚いた。
え、とは何だ。
何に対する、え、なのか。
終わってほっとしたのか。
急に終わって驚いたのか。
それとも。
美月は自分の考えをそこで止めた。
理久が少しだけ目を細める。
「期待してた?」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「ち、違います」
「即答」
「違います」
「分かった」
絶対に分かっていない顔だった。
理久は少し笑っている。
美月は唇を引き結んだ。
「笑うところではありません」
「ごめん」
「絶対に思っていませんよね」
「思ってる」
「嘘です」
「ばれた?」
「ばれます」
理久がまた小さく笑った。
その笑い方が、少しだけいつもの理久に戻っていて、美月は余計に困った。
心臓がまだうるさい。
唇に、さっきの感触が残っている気がする。
軽かった。
本当に軽かった。
それなのに、全身が落ち着かない。
今日はここまで。
そう言われて、ほっとした。
ほっとしたはずなのに、変なところで引っかかった。
え?
なんて声を出してしまった。
違う。
期待していたわけではない。
絶対に違う。
ただ、急に終わったから驚いただけ。
そういうことにする。
美月は視線を逸らした。
「明日も勤務なので」
理久が少し笑う。
「出た」
「大事です」
「うん。大事」
「だから、寝ます」
「はい」
「先生も、明日早いですよね」
言ってから、美月ははっとした。
先生。
二人でいる時に。
今、完全に言った。
理久が何も言わずに美月を見た。
美月の背中が固まる。
「……今のは」
「うん」
「業務上の確認です」
「業務上?」
「明日早い、という話なので」
「二人でいる時に?」
「……」
「先生って言ったね」
美月は唇を引き結んだ。
まずい。
非常にまずい。
さっき、その条件でキスしたばかりなのに。
もう言った。
自分であえて呼んだ時とは違う。
今度は完全にうっかりだった。
理久は少し笑った。
「今日はここまでって言ったから、今のは見逃す」
美月は、ほっとしたような、余計に恥ずかしくなったような顔をした。
「……見逃す、という言い方は」
「じゃあ、今日は保留」
「それも嫌です」
「でも、忘れる気はない」
「忘れてください」
「無理」
理久は楽しそうに笑った。
でも、近づいてはこなかった。
美月が明らかに限界だと分かっているからだろう。
その余裕が、また腹立たしい。
いや、ありがたい。
ありがたいけれど、腹立たしい。
美月は立ち上がった。
「寝ます」
「逃げた」
「寝ます」
「はい」
美月はリビングを出ようとした。
扉の前まで行って、手をかける。
そのまま出ていけばよかった。
いつも通り。
何も言わずに、逃げてしまえばよかった。
でも、足が止まった。
美月は、少しだけ振り返った。
理久はソファに座ったまま、こちらを見ている。
追いかけてくるわけでもない。
からかうわけでもない。
ただ、静かに美月を見ていた。
その視線を受け止めきれなくて、美月はすぐに目を逸らした。
心臓が、またうるさくなる。
声が小さくなった。
「おやすみなさい……りく」
言った。
言ってしまった。
理久の反応を見る勇気はなかった。
美月はそのまま逃げるようにリビングを出た。
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、美月は両手で顔を覆いたくなった。
無理。
本当に無理。
キスをした。
先生って言った。
理久と呼んだ。
一晩に情報量が多すぎる。
明日も勤務なのに。
本当に勤務なのに。
寝られる気がしない。
寝室に入ってドアを閉めた瞬間、美月はその場にしゃがみ込みそうになった。
唇に、そっと指を当てる。
軽く触れただけだった。
でも、確かに初めてだった。
理久のキス。
理久の声。
息して。
今日はここまで。
思い出しただけで、顔が熱くなる。
「……最悪」
小さく呟いた。
けれど、その声には、さっきまでのような困惑だけではないものが混じっていた。
嫌ではなかった。
怖くもなかった。
ただ、分からなかった。
どうしていいか。
どこに気持ちを置けばいいか。
でも、逃げたくなかった。
だから、名前を呼んだ。
おやすみなさい、りく。
もう一度思い出して、美月は布団に顔を伏せた。
無理。
本当に、今日は無理。
* * *
リビングに残された理久は、しばらく動けなかった。
扉が閉まったあとも、視線はそのままだった。
おやすみなさい……りく。
小さな声。
目を逸らしたままの、逃げるような呼び方。
それなのに、確かに聞こえた。
理久。
初めて、美月が名前を呼んだ。
理久はゆっくり片手で口元を覆った。
「……反則だろ」
自分で仕掛けたはずだった。
二人でいる時に先生と呼んだら、キス。
名前で呼ばせるための、少し意地の悪い条件。
どちらを選んでも、自分が嬉しいように作ったはずだった。
それなのに、美月はあえて先生と呼んだ。
キスのあと、息を止めるほど固まって。
今日はここまで、と言えば、本気で不思議そうな顔をして。
最後に、逃げる直前で名前を置いていった。
理久はソファに深く座り直した。
軽いキスだけで止めた自分を、心底褒めたい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
今すぐ確かめたくなる気持ちを、理性で押さえ込む。
駄目だ。
今日はここまで。
自分で言った。
それでいい。
それが正解だった。
分かっている。
分かっているのに。
おやすみなさい、りく。
また、声が頭の中で再生される。
理久は低く笑った。
完全に負けた。
キスをしたのはこちらなのに。
仕掛けたのもこちらなのに。
最後に全部持っていったのは、美月だった。
本当に、敵わない。
しばらく理久は、閉じた扉の向こうに消えた声だけを、何度も思い出していた。
